255 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 01:52:33 ID:Fe03hxK+
いつからでしょう。
父が母に愚痴を度々こぼすようになったのは―。
父が知らない女の人に怒鳴られているのを見たのは―。
父のやつれた表情を見るようになったのは―。
誕生日、決まって連れて行ってくれたレストランへも行かなくなったのは―。
幼心に偉大なものとして、絶対視していた父の背中を見ることができなくなったのは―。
何もかも取り戻せなくなってしまったのは―。

それ以来、私には父の記憶は一切無い。
父の記憶というと幼い頃の数年しかない。
父は母と娘である私が居ながらも、私たちと同居していなかった。
ただ、私たちの家を訪れるときには決まって、父はケーキを買ってくるのだった。
そのケーキの甘さが妙に鮮烈に残っている。
当時は、父が母と同居するものだという感覚はなく、父が来るたびに、はしゃぎまわっていた。
今からすれば、父の表情は曇っていて、無理に作り出した笑顔が痛々しかったような気がする。
けれど、私はそんな事お構いなしに両親をあちこちへ連れまわした。
そして、日が暮れる頃に帰っていく父を見送って、今度はいつ来るの?などと無邪気に尋ねたものだった。
当時は、それでもまだ良いほうだった。
父と私そして母との決別の日までは―。

父には妻と呼ぶべき人が母のほかにも居たのだ。
そのもう一方の妻が私の母から父を遠ざけのだ。
その妻というのが厄介な人だったらしく、自分の目的の為には夫を怪我させることも厭わなかったのだという。
ふと、目を閉じると陰影のある表情だけでなく、必ずどこかに絆創膏や包帯をしていた父の姿が瞼の裏に映し出される。
その傷を見るたびに母は哀しげな表情をして、自分のところには来ないよう言っていた。
そのことで何度か母に疑問を抱き、それを口にした。
しかし、母は口を真一文字に引き、こみ上げてくる何かをこらえた表情で、こういうものなのだ、と納得させようとした。
寧ろ、それは自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。

父と母の接点が完全にたたれてしまった後、私が小学生になる前だから、二年と経たずに、母は急逝した。
親戚の人間があたりをはばかるようなヒソヒソ声で、自動車事故でショック死だったと話していた。
しかし、私はそれが真実ではない事を知っている。
ある冬の寒い日のもうとっぷりと日が暮れた頃、母は直感的に何かを感じ取った。
そして、私はどこかに隠れているように母に促され、クローゼットの中にしまわれている布団の間に身を潜めさせられた。
何故こんなことをするのか、母に聞いたがそれに答える前に、母はクローゼットの戸を閉めた。
それからすぐだった。
わずかに開いた隙間から漏れこんでくるように見えた居間の光景が屠殺場に変わったのは―。
そこで母を葬った悪魔は包丁を母の右胸に突き立てた後、四肢をずたずたに刺していった。
母の顔が苦痛に歪んでいくのが見えた。
しかし、母は抵抗せず、断末魔の叫びすらあげず、なされるがままにしていた。
それに対して悪魔はそのつややかな黒髪に返り血を浴び、微笑みながら訳のわからないことを呟きながら、母を何度も何度も刺していた。
どんなにその拷問が苦しかったことか、私には想像することもできない。
しかし、母の身に降りかかった悪夢を魂が抜けてしまったようになった私は何もできずに眺め続けていた。
暫くして、満面の笑みを浮かべた母は、五六人の人を私たちの家へ招きいれ、しぶきにしぶいて血痕の染み付いた壁紙やら畳やらを全て変えさせていた。
そして、自身は悪魔とは思えないような真っ白なワンピースに着替え、髪についた血を穢れたものであるかのように丹念に洗い流していた。
それから、そのハゲタカ共は母のまだ温かい骸を持ち去っていった。
恐ろしさのあまり、連中が去った後もクローゼットのなかで私はずっと震えていた。
そして、母が死んだと叔父から知らされたのは次の日の朝のことだった。


256 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 01:54:33 ID:Fe03hxK+
それからすぐに、死体を焼き場に送り、私の身の回りの整理を母の兄である叔父がすぐさま始めた。
それから、叔父が私を引き取ることになった。
この頃から、私は叔父の姓である「村越」を使い出した。
叔父夫婦には長い間子供が生まれなかったらしく、私は実の娘のように育てられた。
おそらく、おおむね幸せといえるものかもしれない。
けれど、私は気づいていた。
母が死んだのを境に貧乏で借家住まいだったはずの叔父が一戸建てを購入し、金遣いも派手になっていたことに。
中学生ともなれば、少しは世の中の事がわかってくるものです。
私が成長すると共に薄れていくように感じられた叔父夫婦の私への愛情は成長ゆえの事ではなかった。
叔父夫婦に引き取られて五年も超える頃ともなれば、父の残した財産とおそらく、あの黒い悪魔から叔父夫婦に渡った金もそこをつき始める頃だったのでしょう。
それに気づきだして以来、それまで無償の愛として受け入れてきた叔父夫婦の行動一つも禍々しいもののように見えたのです。
父も母も小学生になる前に失うという狂った記憶が不信の感情に転化して心根に根ざしてはいました。
しかし、私は叔父夫婦にはその不信の目を向けることがそれまでには無かった。

それだけに、私は人間そのものを信用しなくなり、と、同時に幼く無力だった私から愛する父を母を、奪い去った女を母と同じように、寧ろそれ以上に苦しめて殺すことを願うようになった。
復讐心と疑心暗鬼とが私の心を違和感無いほどに支配していた頃、私は幼い頃の記憶を頼りに一心不乱に情報をかき集めていた。
その復讐のみが私の生きる理由となりつつあったでしょうか。
去年の冬、私はとうとうその母を殺した犯人と父の現在、そしてその正妻である犯人との間に娘が居ること、といった決定的な情報を手に入れた。
その悪魔が住んでいたのは奇遇にも皮肉にも、私が住んでいる町と同じだったのです。
しかし、彼女は発狂して家から隔離されているということも知りました。
発狂する前に、母に向けた微笑みと同じ悪魔の微笑みを浮かべて、苦痛と哀願に顔を歪ませる敵を何度も何度も、刺してしまいたかった。
なぜなら発狂してしまえば、苦痛も罪悪も、悔恨の念も何もかも起こりえないのだから―。
私はその敵の娘の情報も手に入れていることを思い出した。
幸運にも私の親戚がもともと住んでいた家の近くに住んでいたので、そこへ行くことを考えた。
どうせ、叔父夫婦も私の事を早く厄介払いしたいような様子も見え隠れしていたのでこちらもそれは望むところだった。

敵の娘を殺した後、その母の命も奪う。

そう私は決心しました。
もとより、血塗られた道を歩むことは覚悟していたのでそのときに特別何かの感情が沸きあがることもなく―。
ただ、完璧に、一分の瑕疵なく、復讐を成し遂げなければならないという蒼い炎を心に点しただけだった。

そして、私は今年の春にその敵の娘が通っている学校に首尾よく潜入することができた。
ここでの生活はそれなりに楽しめるほうだった。
親戚からすれば厄介者が家に来たということで、風当たりは厳しく相変わらず家庭では心安らぐことは無かった。
最初は情報収集のために近づいた人々が思った以上に私に好意的に接してくれて―。
兄がそれなりに敵の娘と接触を持っているという情報を得て、松本理沙と私は知り合った。
なぜか、彼女だけは私の心の闇を察したかのように、いろいろと気を遣ってくれた。
必要な事意外、話すことが無かった私に彼女は話してくれて、私もそれにだんだんと引き込まれて、やがていわゆる親友、とでも呼べる間柄になった。
私と理沙はさまざまな事で話し合った。
理沙は幼い時分から重い喘息の持病に苦しんできたという。
だから、それだけに苦しい思いをしてきた人の目がわかる、のだと。
彼女と触れ合っている間、私は当初の目的を忘れている事ができた。



257 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 01:55:17 ID:Fe03hxK+
そのお金で雇った探偵が一月に二回渡してくれる報告書にもまるで目を通さないようになった。
私にもまだこんな人間的な面が残っていたのだと正直驚きました。
だからといって、それを拒絶する気になれなかったのです。
ぬるま湯につかっているような生活が妙に心地よくて。
しかし、五月の終わりごろから理沙は次第におかしくなっていった。
度々うんざりするほどの美化がなされて話されていた兄が例の敵の娘に奪われようとしている、という一件が理由でした。
それまでは、何度かおかしいよね、程度のさほど刺激的でないレベルで話をされていたので、特に気にも留めなかった。
当時はまだ、理沙を情報屋のひとりとしかみなしていなかった節もあったから、さほど親身ではなく、適当に聞き流していた。
けれど、その理沙の変化は私に目を見開かせることを促進したのです。
つまるところ私にとっては敵を討つという良い方向へ向かい始めていました。
そして、私は理沙に協力して、いろいろとあの敵の娘を追い詰める為に奔走しました。
ここで私は雇っていた探偵から来た情報を利用したのはいうまでも無い。
理沙は協力的且つ情報私に始終驚いていたが、あまり深く考えず私を利用することに決めたようでした。
私としてはあの敵の娘を殺した後、その母も殺さなければならない予定であるから、理沙に娘の件は引っかぶってもらい、すぐさま長野へ向かう、という計算があったのでそれはそれで好都合な事。
結果的に利害が一致した私たちは協力して様々な工作を行った。
理沙が兄である弘行と交わっていた、という情報も意図的にあの敵に流した。
かみそりの刃を下駄箱に仕掛けたり、椅子の捻子を緩めておいて、座ると椅子が崩れるようにしたり、そんな感じで。
あの敵のクラスメイトがあの女を苛めるように差し向けたりもした。
もっとも煽動をしていたのは私というより、理沙のほうだったが。
これだけの事をやったのだから、あっさり自殺してくれるのでは、などと淡い期待を抱いていたりもしました。
しかし、そんなこともなく、逆に弘行と敵が結ばれてしまった。
当然、自殺されてしまったら私としては不満足の極みには違いないのでしょうが。
しかし、それもこれも昨日までの話だ。
数分後に、理沙から連絡があれば、私も手はずどおり北方邸に向かい、拷問に参加する。
それで、一件目は終了。二件目へ移行する。

夏の風が私の体をかするように通り過ぎていく。
うっすらと汗ばんだ皮膚に当たる汗が少し冷たい。
人を殺す前の興奮が故なのか、夏の蒸し暑さの故なのか汗ばんでいた。
下着が皮膚につくような感覚が不愉快で嫌になる。
そんな時、右ポケットに入った携帯電話の受話器を耳に当てる。


258 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 01:57:17 ID:Fe03hxK+
その内容に私は耳を疑い、二三、確認してから、夜の漆黒を切り裂いていくように走っていく。
それにしても、衝撃の展開だった。
あの敵を守る為に、自らナイフをもって突っ込んできた妹の前に立ちふさがるとは―。
第一、打ち合わせではクロロホルムを二人に嗅がせ、北方は北方邸の離れにある隠し地下室で拷問死させる。
それが、いきなり襲い掛かることで、崩れてしまった。
理沙は逃げた北方を追っているという。
なんという蛮勇であろうか。兄も、妹もまた然り。
それにしても理解できないのは弘行の行動でしょう。
蛮勇を振りかざす事など決して美徳ではない。
そして、勇敢でもない。
そこまでして、あの生きるに値しない奴を守ろうとする理由がわからない。
まあ、弘行は出血はやや多いようだが、急所に刺さったわけではないから、別にたいしたことは無い。
せいぜい、あの敵を殺す際に利用するだけだ。
愛するものをずたずたにされていく様子を見せた上で、ほどほどに死なないような拷問を加え続ける上で彼は重要なスパイスになることだろう。

街灯も薄暗い、町の中でも外れのほうに血濡れのナイフが突き刺さっていた彼は横たわっていた。
理沙が決行するといっていた公園からはいくらか離れている。
そこに居た彼は息も絶え絶えであった。
理沙から多いとは聞いていたが、思った以上に出欠量が多いようである。
開いた傷口に右手を当て、出血を押し止めるような仕草をして、もう片方の左手はアスファルトの上にあった。
苦痛に歪む口元が非常に痛々しい。
そして、怜悧な月光が朱に染まったアスファルトを照らし、赤黒い液体をいやがおうにも引き立てた。
身を張って誰かが助けようとした代償が生々しくも、血だまりでもがき、臓腑を血に溺れさせていることなのだ。
それは凄惨にしてどこか神聖な光景。
少なくとも、先程の蛮勇という言葉は撤回するには十分なものでしょう。
理沙は常々、この兄の事を愛しているといっていたのを覚えている。
しかし、こんな状態の兄を見捨てていくということは、所詮彼女にとってその程度のものであるということです。
発言と行動が裏腹などといくらでもある。
けれども、人を殺してでも守りたい、と思うならあの女を取り逃がしてもこの哀れな兄を救うべきではなかろうか。

260 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02:00:30 ID:Fe03hxK+
「ううう……」
うめき声がする。私の存在に気がついたのだろう。
別段、身を隠すつもりなど無かったので、そしていずれにせよこの兄は北方邸に運ぶことになっている。
だから、敢えてこちらから声をかける。
「松本弘行さん?」
「た、助けてくれ……ごほぉっ」
苦しみ耐える表情で哀願する。
しかし、その言葉も咳と共に血を吐き出した事によって遮られてしまう。
「無理に話さないでください。大丈夫ですよ、助かりますから。」
所詮は他人事である私にとってこんな確証の無い事を言ったとしても良心は痛めることはない。
しかし、こちらとしては北方邸に連れて行くことが目的であるため、ここで出血多量で死なれてしまっては都合が悪い。
だから、話して出血されては困るので警告も発した。けれども、それを聞き入れないようです。
「た、助けて……くれ、しぐれ、をた、す、け、て……ごほっごほっ、し…ぐ……」
だから、すぐにまたしても血が押さえる手の間から染み出てきて、真っ赤に染まった口をさらに血で洗うことになった。
しかし、私はさっきから助けてくれ、という言葉は『自分の命』の命乞いをしているものとばかり思っていた。
けれど、この男は自分の命を捨てるつもりのようだ。
その代償としてあの女を救う為に。

何と状況認識能力に欠ける人なのでしょうか。
何と愚かな人間なのでしょうか。
何とおめでたい人間でしょうか。

あの女が私の母が置かれた状況と同じく、土壇場にありながら、ここまで誰かに守ってもらえているという不公平さや怒りのようなものを感じた。
しかし、その怒りを通り越して、呆れてしまった。
右ポケットの携帯電話を取り出すと、10桁の番号を打ち込んだ。
3桁ではなく、10桁にしたのは、私には時間が限られているからである。
警察を相手にすることで、復讐を完遂できないという間抜けな話を作ってしまうことになるのは嫌ですよね。
「もしもし、誰かに刺されたと思われる人がいるんですが……」


261 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02:01:33 ID:Fe03hxK+
夜の闇の中、私は走った。
むしろ逃げていた。
私の家に無事にたどり着き、そして来るべき反撃の機会に備える為に。
それは、例えるならば、鬼ごっこのようなものだ。
それは、無言の中で繰り広げられる残酷な殺し合い。
青白い月の光があざ笑うように私たちに降り注ぐ。
当然、『待て』と言って私も相手も止まる訳が無い。
そして、後ろからやってくる追っ手は武器を手に私を殺さんと息巻いている。
自分の兄を刺しておきながら、しっかりと敵の私を討とうとしているのだ。
けれども、私とて防戦一方という訳ではない。
虎視眈々と反撃のチャンスを狙っているのだ。
驚いたことに、私の中で眠っていたはずの醜い憎悪という感情が再び目を醒ましてしまったようだ。
それは、至極当然。

目の前で弘行さんが刺されたのだから―。

私の生きる意味を無残にも壊されてしまっては、私とて彼女の事を許すわけにはいかない。
許す、許さないの範疇ではなく、今日までのありとあらゆる攻撃に対する報復として、愛するものを奪われた者の気持ちを解らせる為に、あの雌猫を殺す。
それで、私ごときの身代わりになってしまった哀れな彼へのはなむけになれば、彼を見捨てて逃げてきたことへの贖罪になるというのなら、今の私にはこれに替わる僥倖は無いだろう。
今のうちに、いくらでも追い詰めるものの心地よさを味わっているがいい。
彼女にもすぐに諦念の夜が訪れるのだから。



262 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02:02:37 ID:Fe03hxK+
もう、私の家まで目と鼻の先だ。
その安心から一刹那の間、油断が生まれた。
後ろから、空を切る音がした。
そして、咄嗟に身をかわす。
振り返りざまに、閃きを発する白刃が見え、戦慄する。
雌猫が所持しているナイフが一本だとは誰も言っていないのだ。
振り下ろされるナイフを間一髪のところでよけきる。
家まであと少しのところだというのにも拘らず、こんなところで捕捉され戦わなければならない自分の運命を呪ったが、
そんな事を考える余裕を雌猫が繰り出してくる第二撃に備えることに費やした。
左右ランダムに振り下ろされ、皆一様にこちらに向けられてくるナイフを全てかわす。
理沙の体が小さく、力も弱いことが幸いしたようだ。
雌猫は振り上げ下ろされたナイフを逆手に持ち替えると、真正面の私に向けた。
そして、ナイフを握る手に力が篭る。
そのまま、私に向かって刺し貫くだけだろう。
相手の手首をすぐさま掴み、虚空に向かって振り上げ、ナイフを奪い取ろうとする。
雌猫も私の目的を理解しているらしく、乱暴に左右にナイフを持つ両腕を振り動かした。
抵抗の激しさはとても病弱な雌猫であるとは決して思えない。
けれど、腕を動かすことに集中していたが、その内面とは不似合いなまでに華奢な脚には意識が十分にいきわたっていなかった。
必死にもがく雌猫の左脛を思い切り蹴りとばす。
途端、雌猫は体勢を崩し、あっけなくも左に背中から傾いてしまう。
即座に私は両の腕に握られていたナイフを荒々しく奪い取る。
そして、雌猫はその場にしりもちをつくような形になってしまった。
芋虫のように雌猫は後ずさりし、顔を恐怖に歪ませた。

完全なる形勢逆転である。

武器を取り、地形効果を十二分に活かせる私の家で死闘を繰り広げる心積もりでいたのだが、王手積みである。
もはや、武器を取りに行く必要すらない。
ここで、止めを刺すことができる。
そう、それで良いのだ。それでこそ、弘行さんの犠牲が意味を持つのだ。
この害物を駆除すること―。
私が一番最初に考えた方法だった。けれども、あの時以来、一度もその方針を採ろうとはしなかった。
この方法が市場手っ取り早かったのにも拘らず、何故しなかったのか今になってみれば疑問である。
私は血に穢れておらず、寒々しいまでの清澄な金属光沢を持つナイフを月の光にかざすように振り上げる。


誰もが、ある一転を除いた、この状況を目にしたならば、完全に北方時雨の圧倒的優勢であると判断するだろう。
時雨は理沙のナイフを奪い取られた後の右腕が右ポケットに入っていることに気づかなかった。
気づいていたとしても、あまりにも無頓着に過ぎたようだ。
唯一ついえることは、松本理沙はこんな絶望的逆境にいたっても、冷静であった、ということであろう。
そして、理沙の中で流れる時間は決して止まることは無かった。
時雨がナイフを理沙の首元につき立て、頚動脈を切断しようとした刹那、完全に理沙は動きを読みきっていたかのように、悠々と身をかわしながら、立ち上がる。
そして、アスファルトの上に座り込んでいたのは理沙ではなく、時雨の方であった。
時雨は首を左腕で押さえて苦しんでいた。



263 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02:04:18 ID:Fe03hxK+
そう。理沙は右ポケットに入っていたクロロホルムを時雨にかけたのである。
散布した後に転がった薬瓶の転がる音が空しく虚空に響いた。
時雨はまさか、理沙から渾身の反撃を食らうとは予測しておらず、諸に瀬戸黒の髪と白磁のような肌とにかかってしまった。
理沙は左ポケットから気化したクロロホルムを吸ってしまわないように、化学の実験のときにいつも使っているマスクで口を覆う。
と、同時に双眸を時雨を見下ろすように向ける。
そして、そこまで保たれていた静寂を破った。
「あはははははは、北方先輩。いや、被告人。ここまでですよ。被告人は王手積みなんですよ!」
「私のお兄ちゃんを汚したからこんな事になるんです。」
「さぁ、先輩、最後くらい潔くしたらどうですか!」
しかし、時雨は勧告に従うこともなく僅かではあったが笑ってすらいた。
時雨は右手に未だに持っていたナイフを道路脇の人家に向かって投げた。
時雨は理沙には自分を殺すための武器がもう無い、そう判断していた為、自分が相手を刺し貫くより、逆の場合が高い唯一の武器を投げ捨てたのである。
それは、賢明な判断であっただろう。

しかし、そんな事は灯篭が鎌を振り上げたに過ぎないことだった。
理沙は畳を縫うそれのような大きさの針を手にしていた。
そこには、かつて彼女が生成したアトロピンが塗られていた。
針の反射するギラギラとした光が理沙の殺意の程をあらわしているようだった。
もはや、万事休すであると思われた。

「させません。」
そこで聞こえた声は時雨にとって聞き覚えのあるものだった。
けれど、それと同時に背中に強い衝撃を感じ、意識をどこか遠くに飛ばされたため、それが誰のものであるかを確認することはできなかった。
「うふふふ、スタンガンの電気ショックをまともに食らったら、動けなくなるのは当然、よね。」
そう嗤う声は、時雨にとって救世主だとすら思われたその声の主は、村越智子のものだった。
傍で唖然として突っ立っている理沙に声をかける。
「ねえ、理沙。どうしてお兄さんを路上で刺すことになったり、この女を計画通り、動けなくして北方邸まで連れて行かなかったの?」
「……お兄ちゃんを盾にして逃げたから殺したくなったけど、それが駄目なの?」
憮然とした表情で智子に返答する。
「まあ、気持ちもわからないわけじゃないけれど、ここで殺すより、計画通り苦しめて殺したらどうなの?」
「………。」
「まぁ、いいから理沙は両足を持って。私は両腕を持って運んでいくから。」
そういうと、気絶してぶらりと垂らしている時雨の両腕を持つ。
理沙もしぶしぶ、これに従い乱暴に持ち上げて、もう100メートルと無いであろう北方邸へと運んでいく。



264 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02:05:35 ID:Fe03hxK+
十数分後、彼女らは北方邸の地下の牢獄のような一室にいた。
そして、そこに北方時雨も横たえさせた。
それから、眠ったままの時雨を古ぼけた椅子に座らせ、縄で拘束し、殺害に必要なアイテムを準備する。
しかし、その準備の間、ずっと理沙の表情は怒りの篭った表情だった。
地下室ゆえの湿度の高さやかび臭い匂い、そしてほの暗い負の環境が理沙を不機嫌にしているわけではなかった。
敵に止めを刺そうとするのを智子に止められた事によるものだった。
と、同時に理沙は湧き上がる罪悪感から、何度となく弘行の病院搬送を指示した隣の共犯者にその安否を尋ねた。
智子としては、無計画に兄を刺しておきながら、何の応急処置も施さず、その安否を女々しく聞いてくる理沙を軽蔑し、辟易していたが適当に理沙に相槌をうつことにした。
というのも、智子としては殺さなければならないターゲットはあくまでも二人であったからである。

数分後、やすやすと彼女らの準備は完了した。
けれど、それはナイフで何度も刺すという時雨自身が想定していそうな殺し方ではなく、特殊な殺し方であった。
目に目隠しをして、視界を奪い、拘束することによってからだの自由を奪い、正常な思考が働かないような不快な環境に入れる。
その上で、人間の血液がどの程度失われる事によって、死に至るのか、ということを時雨に話しておく。
そして、時雨の足か腕に適宜、強い衝撃を与え、そこに温水を少しずつかけて、血液が出ているという暗示をかけ、やがて致死量の血液が出きったのだ、と告げることによって狂乱の末、ショック死させることができるという。
いかに物理的苦痛を与えるか、ではなく、精神的苦痛を与え、最後の最後まで怯え、狂乱させることができるか、それを追求したのだ。
と、同時に殺人であることを見極めさせるのを遅くすることができる、という意図から、智子にとって都合が良かった。
それで、時雨は目隠しをされ、身体を芋虫ほどにも動かすことができないように、胴体と四肢を椅子と縛り付けられたのだ。
いまや、お膳立ても完了した。
後は時雨が目を醒ますのを待つばかりであった。

「ねえ、智子。いつになったら、こいつ、目を覚ますの?」
「電撃もそんなに大きかったわけじゃないから、もうすぐだと思うけれど。」
そんな会話をして手ぐすね引いて共通の敵である北方時雨が目を醒ますのを待っていたが、
彼女が目を醒ましたのはそのすぐ後だった。




265 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02:06:40 ID:Fe03hxK+

誰か女の子が話す声が聞こえてくる。
頭にもやがかかったような感じがし、視界も真っ暗で本来見えるべき光景も何も見えない。
徐々に体の節々の痛みが温かみを持った生の感覚として感じられてくる。
そして、身体を意のままに動かそうとするけれども、理由がわからないが何故か動けない。
身体を動かすたびに足や腕の部分的箇所に痛みを感じた。
視界が真っ暗のまま、自分を拘束したであろう女の声が聞こえる。
「北方先輩、お目覚めですか?」
その声が紛れもなく、松本理沙のものであることを悟り、それまで僅かながらあった冷静さが霧消した。
無駄だと心のどこかではわかっていながら、抵抗をする。
足や腕に力を込めて動かそうともがいている姿を見て、ことのほか気に召したのか理沙と智子は哄笑した。
「あはははっ!先輩、そんなに怯えちゃって。心配しなくていいですよ。別に先輩を誰かに強姦させるとかしませんから。ただ、死刑を執行するだけですよ。」
「先輩はお兄ちゃんを強姦したけれども、かといって、私はそんなこと恥ずべきことしませんよー。」
続けて言う理沙の声に凶器染みたものを感じる。
と、同時に何も抵抗することができない自分に苛立ちを感じた。
「もっとも、北方さんとしたい、なんて考える物好きはいないと思いますが。」
清澄というよりは怜悧冷徹と形容したほうが正しい突き放すような声が聞こえる。

それが誰のものであるかはわからない。
しかし、すぐに相手も自分の存在を理解させる為に声色を変えた。
そしてそれが、自分が逆スパイとして利用しようとした村越智子のものであることがすぐにわかった。
偽の情報を流したというあたりから、時雨は疑いを抱いていたが、まさにその予想通りとなってしまったのだ。
そして、手順どおり理沙と智子は三回も三分の一の血液が体外に出ることで死に至ることを話して聞かせ、処刑が始まった。

突如足に電撃を受けたような衝撃を感じた。
そして、すぐに感じられる生暖かい血液が独特の粘性を持って、少しずつ肌を伝って落ちていく。
私は一分も勝ち目は残っていないことを十分に理解しながらも、じたばたと四肢を動かそうとする。
「あはははっ、そんなに体をじたばたさせてたら、あっという間に血液が出て死んでしまいますよ?」
心なしか、足を伝う血液の量が多くなってきたように感じられる。
流れ出る血液、そして迫り来る死に私は恐怖感を抱いた。
ここから、逃げだしたい。
死にたくない。

けれど、どうして?
生きていても、ずっと苦しんできただけだった。
これからやっと幸せになれると思っていたのに、弘行さんが死んでしまって、もう先が何も見えないのに。
僅かだったけれど、弘行さんと過ごした日々は楽しかった。
あんなに生きることが楽しい、幸せであるとは思わなかった。
弘行さんは私にもまだ幸運な未来が待っているといっていた。
だから、それを守りたいのだ、と彼は言ってくれた。
だから、私は生きようと努力した。
けれど、それはこうして叶わない夢となってしまった。

もはやどもることなく、ナイフのような鋭利さをその言葉に含ませて村越智子は私に告げる。
「松本弘行は死んだ」と。
これほどまでに私の事を思ってくれた彼の最後の願いを私は聞くこともできなかったのだ。
「弘行さん…ごめんなさい。」
涙が流れる血液の勢いなど比にならないほどに流れ出る。
余裕を見せていた理沙が泣く声が狭い部屋に響き、何かを拾い上げる音がした。
「お前のせいで!お兄ちゃんがッ!」
「どんなときも私を大切にしてくれた、お兄ちゃんがッ!」
「それから、お兄ちゃんの名前を呼ぶな!お兄ちゃんをまだ穢すつもりなのか!雌猫がッ!」
理沙はそう言いながら私を四回ほど部屋にあった角材で殴った。
別のところからも出血を感じる。その分だけ、死期が近くなることだろう。
痛みは確かに感覚として感じるが、弘行さんを見殺しにした私には丁度良い罰だったのかもしれない。
けれど、弘行さんとの事はたとえ死んだとしても絶対に忘れたくない。
それに、弘行さんに迷惑はかけてしまったけれど、謝るよりも感謝したいと思う。


266 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02:08:42 ID:Fe03hxK+
「もう、四分の一位、血液が出ちゃったみたいだよ。」
そういう理沙の声が聞こえる。
「……。」
何も反応しない私に怒りを感じたのか、理沙は罵声を浴びせながら、先程の角材で後頭部を殴ってきた。
精一杯、冷静に振舞おうとしているが、結局は流れ出る血液と同じように湧き上がり続ける恐怖は拭い去ることができない。
現に私はこれまでに無いくらい、震えている。
さっきから震え続けていることを罵倒する二人の声も聞こえてくる。
確かに怖いけれど、信じていれば、きっとどこかで弘行さんと会えるかもしれない。
そして、もっと、幸せな出会い方で―。
後頭部を殴られたショックか、血液が喪失していく為か薄れゆく意識の中でそんな事を願った。

「あーあ、もう、三分の一、血液が出ちゃったみたいだよ。」
理沙は言った。
すると、今まで震えて恐怖に襲われていることが誰の目にも明らかであった彼女の動きが止まった。
生暖かい大量の液体をゆっくりと流し続けていた智子は液体の入った容器をその場に置き、心臓の鼓動を確かめる。
確かに止まった事を確認すると、理沙に目で合図する。
智子は殺害の原因がわかりにくくできたことに満足した表情で、いろいろな殺害の器具を片付け始める。
理沙も片づけを始める。
兄が死んだことを受けて、とめどなく流れ出る涙を押し止めることすらせずに。
たいした量も無い器具を二人で片付けるのはあっという間だった。

これで全てが終わりであったはずだった。
しかし、理沙は不愉快であった。
精神的苦痛を与えて死なせたはずの時雨が殺害した自分よりはるかに落ち着いており、あまつさえどこか笑みを浮かべている表情が気に障ったのだ。
理沙はその部屋にあった刃渡りが長く肉厚のナイフを何度も何度も事切れた時雨の骸に突き立てた。
「あはははは、何でお前は笑っているんだ。苦しんで死んだはずなのに!あの世でお兄ちゃんに会えないようにずたずたにしてやるッ!」
「私、お兄ちゃんが好きだったのに!こんな雌猫ごときに掠め取られて!許せない!許せない!」

智子はそれにすぐに気がついた。と、同時に計画を何度となく狂わせた理沙への怒りが抑えられなくなっていた。
第一、智子にとって復讐はまだすんだわけではなかったのだ。
自分の母を殺した本命が残っているのに、時間稼ぎの工作を台無しにされてしまったのだ。
そこで、智子は咄嗟に理沙に罪を全て着せることにした。
智子は後ろから理沙の腕を掴むと、そのナイフを理沙の心の臓に向かって突き立てた。
多量の血が渋き、地下室の薄汚れた壁にかかる。
智子は返り血を浴びて朱に染まった上着を脱ぎ、殺害器具の入っていた大袋の中に一緒に入れる。
そして、村越智子は北方邸を後にした。
最終更新:2007年10月17日 00:57