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91 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/09/20(木) 02:12:13 ID:gYbbEYsn
第21話~拒絶~

 無言で廊下を突き進む。
 香織とかなこさん、あの2人からとにかく離れたかった。離れなければならなかった。
 2人を助けず置き去りにしたことの後ろめたさと、自分が何をしでかすかわからない、その2つの理由からだ。
 薄情だが、香織はあのまま放っておいても大丈夫だったろう。うつぶせながらも喋っていたし、腕も動いていた。
 香織以上に心配なのは、俺が殴ってしまったかなこさんだ。
 きっと、窓ガラスの破片で怪我をしているだろう。
 あれだけ強く殴ったのだから、もしかしたら肋骨を骨折しているかもしれない。
 心配だが、今から引き返すわけにもいかない。俺がまた同じ事を繰り返さないとは言えないからだ。
 室田さんが発見してくれるのが一番いい。
 連絡がとれればいいのだが、昨日身につけていた通信機は知らないうちになくなっていた。
 屋敷の中の電話を使おうにもどこに電話をかけたらいいかわからない。
「本当に他人任せだな……」
 こういう場合には、他人や運に頼るよりも自分でなんとかするほうがいい。
 いや、今は自分でなんとかすることができないから他人や運に頼るしかないのか。

 だが、何もしないでいるつもりはない。他にやらなければいけないことがある。
 俺がなぜ、香織やかなこさんを傷つけるようになったのか、その理由を突き止めなければならない。
 そのために、今こうやって廊下を早足で歩きながら、ヒントのありそうなところへ向かっている。
 目指すは、十本松が使用していた部屋。
 あそこに行けばなにかがあるかもしれない。もしかしたら無いかもしれないが、何もしないよりマシだ。

 通路の外側の壁には窓がある。窓からは芝生が見える。
 緑色の芝生の向こうへ視線を移すと花壇があり、そのまた先には背の高い木々が壁をつくっていた。
 屋敷の周囲は木で覆われているようで、長い廊下を歩く間はずっと同じ景色が続いていた。
 廊下の突き当たりは右へと折れていた。
 右に曲がってしばらく歩くと、廊下の突き当たりへとたどり着いた。今度はそこで行き止まりになっている。
 代わりに、ドアがあった。これで見るのは3度目となる、十本松が住んでいた部屋のドアだ。

 ノックなしでドアを開ける。
 無駄に広大な空間に、本棚が倒れていたのが目に入った。
 本棚で隠されていたと思しき壁には扉がある。昨日、華はあのドアから屋敷に侵入していた。
 あのドアは外へと続いている。この屋敷を出るならあのドアを使えばいい。
 だがまだあのドアのノブには手をかけない。この部屋を調べなければならないからだ。

 ベッドの下。何もない。のぞき見た位置の反対側から光が漏れていて、絨毯が続いているだけだ。
 クローゼットの中。高級そうなスーツや礼服、コートが大量に掛かっていた。どれも女物ではない。
 机の上。本が二冊置かれている。それ以外に目につくようなものはなかった。
 本を一冊、手に取る。こっちの本は以前図書館で借りた方の本で、武士と姫の話が綴ってある。
 ぱらぱらとめくってみる。前に読んだ時と全く同じ内容で、どこも書き直してある様子はない。
 そういえば、この本からいろいろ始まったような気がする。
 本を返しに図書館へ行って、かなこさんに初めて会った。
 しばらくして大学で再会した。その次に会ったのはこの屋敷だった。
 パーティの夜、俺はかなこさんの部屋に連れ込まれ、ベッドに縛り付けられた。
 そして、かなこさんに犯された。今でも思い出せるが、興奮よりも恐怖の記憶の方が勝っている。
 翌朝には、首を絞められて殺されそうになった。
 あの時華が来てくれなければ今頃俺はここにはいなかっただろう。



93 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/09/20(木) 02:14:46 ID:gYbbEYsn
 そういえば、華は大丈夫だろうか。昨日この部屋でひどいことを言ってしまったが。
 俺が、二度と会うな、言っただけでかなり落ち込んでいた。
 きっと華にとっては、自分がやった行動は全て俺のためによかれと思ってやったことなのだろう。
 その行動がかえって逆の効果をもたらしたと知ったならば、落ち込むのも無理はない。
「だからって、あの言い方はなかったかもな」
 ひとりごちる。同時に後悔の念を覚える。
 いくら頭に来たとはいえ、もう少し別の言い方があっただろうし、何も言わないで突き放すだけでもよかったのに。
 今さら言ったところでどうにかなるものでもないが。

 本を机の上に戻し、なんともなしに後ろを振り返る。
 すると、部屋の入り口に人が立っているのが目に入った。
「華」
「……もう起きても大丈夫なんですか?」
「ああ」
 いつもより伏し目がちに見つめてくる華を正面から見据える。
 華に対して後ろめたいものを感じていたから、目を合わせながら喋りたくなってしまう。
「お前こそなんともないのか? どこか体が痛いとか」
「はい。一晩寝たらもう回復しました。それより、昨日はごめんなさい」
 華は俺に向けて頭を下げた。なぜ華が謝る?
「私、昨日おにいさんを怒らせるようなことを言ってしまって……」
「気にするなよ。というより、俺の方が謝りたかった。
 昨日は、悪かった。もう少し落ち着いてお前と話をしていればよかった」
「もう、怒ってないんですか?」
 頷く。
 すると、華は安堵したように微笑んだ。華のこういう表情は久しぶりに見る気がするな。
 少しだけすっきりした。心にかかっていた靄が晴れたような気分だ。

「華は何をしにこの部屋に来たんだ?」
「おにいさんを探してました。おにいさんと一緒にここから出て家に帰るつもりでした。
 なるべく人に見つからないように2階を歩いて部屋を開けて回っていたら、
 いきなり1階の方からガラスの割れる音がしたので下りてきたんです。
 どこで音がしたのかわからなかったから、とりあえず知っているところから廻ってみよう、
 と思ってこの部屋に来てみたらおにいさんがいたんです」
「じゃあ、まだ1階の他のところには行っていないってことだな」
「はい。何か知っているんですか? あのガラスが割れた音のこと」
「……いいや」
 ガラスの割れる音っていうのは、間違いなく俺がかなこさんを殴ったときに立てた音だろう。
 俺がかなこさんを殴った、と華が聞いたらどう思うだろう。
 女に手をあげるだなんて最低だ、と言って俺の頬を張るかもしれない。
 そうであったらいい。今は誰かに殴られたい気分だ。
「なあ、華」
「なんですか?」
「ああ、いや、やっぱりなんでもない」
 俺を殴ってくれなんて、やっぱり言えないな。
 言えばおそらく殴ってくれるんだろうが、どうして殴らなければいけないのかと聞かれたら答えられない。
 俺がかなこさんを殴ったからだ、とでも言えば、どうして殴ったんですかと問い質されかねない。
 どうして殴ったのか、それは俺が一番知りたいところだ。



94 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/09/20(木) 02:16:23 ID:gYbbEYsn
 カッとなってやった、というのとは少し違う感じがした。そもそも十本松が死んで怒る理由というものがない。
 あいつが死んだという事実を思い浮かべても怒りは沸いてこない。
 少しばかりの悲しさはある。そして悲しさより少し多く、寂しさを感じる。
 なんだか、胸の辺りに拳ほどの大きさのボールが入っているような気分だ。
 寂しさでできた膜が、悲しさという感情の周りを覆ってできたボール。
 ボールは現実感のないもので、胸のどの辺にあるのかはっきりとしていない。
 けれど、胸の中に何かがある。拳大のボールの分だけスペースが割かれている。
 じいさんが亡くなったときもこんな感じがした。

「華は、十本松が…………死んだって知っているのか?」
「気絶してましたから、はっきりとこの目で見たわけではないですけど、察してはいました。
 私が気絶する前、十本松あすかは壁にもたれかかってましたから、たぶんその後で殺されたんでしょう」
「お前はなんで気絶してた?」
「地下室に飛び込んだとき、おにいさん十本松あすかに犯されてるのを見て、私が殴りかかったんです。
 それからもみ合いになって、私が先に気絶してしまって」
「そっか。……あいつが死んで、悲しいとか」
 思うのか、と聞こうとしたら先に答えを返された。
「思いません。せいせいしてます。あの女は、おにいさんに危害を加えた人間が受けるべき報いを受けたんですよ。
 だから、おにいさんが十本松あすかが死んだことを悲しむことはないんです」
「別に悲しんじゃいない。ただ……」
「寂しいですか?」
「まあな。この間知り合ったばかりだったけど、それなりに話もしたし」
 ここ最近は色々なことがありすぎたから、印象が強い。
 おまけに十本松の服装や喋りや性格、全部がおかしかったせいで忘れようと思ってもなかなか頭の中から消えてくれない。

「そうですか……死んだくせに、あの女はまだおにいさんの心の中にいるんですね」
「そんなにおおげさなものではないけどな」
 故人である十本松には失礼かもしれないが、あいつの残滓は風呂場のカビみたいなものだ。
 消そうと思ってもなかなか消えてくれない。
「死ぬ直前におにいさんを好きに扱って、そのうえ記憶の中に居座り続けるなんて……図々しい」
「おい、華……?」
 華の目が俺を見ていない。睨め付けるような目で、床を見下ろしている。
「どうしたら、おにいさんは十本松あすかを忘れてくれますか?
 この部屋が無くなったら? あの女の服を全部燃やしたら? あの女の痕跡を根こそぎ無くせば?」
 華は顔を右へ、左へと向けた。まるで部屋を見回すような動きだった。
「それとも……あの女がしたみたいにおにいさんを犯せばいいんですか?」
「それはやめてくれ」
 現時点で女二人に無理矢理犯されているされているというのに、
さらに従妹までが加わったら男としての自信がなくなってしまう。
 それに華と肉体関係ができてしまったらどうなるかわかったもんじゃない。
 親や親戚からの俺に対するただでさえ弱い信頼が、ゼロになる可能性もある。
 なにより、ここ最近の華のことを考えるとそこから雪崩式に堕ちていってしまう気がする。
 心が堕ちて、二度と逃げられなくなってしまう気がするのだ。
 この話はしない方がいい。話をしているだけで思考が泥沼にはまっていく。



95 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/09/20(木) 02:17:52 ID:gYbbEYsn
「なあ、俺が十本松のことを覚えてたら不都合でもあるのか?」
「私が不愉快なんです。十本松あすかはおにいさんを穢したんですよ?
 それなのにいつまでもしつこくおにいさんの中に存在している。
 私のことなんか、しばらく会わないだけで忘れてしまうくせに」
「いつ俺がお前のこと忘れた?」
「いつ? ……もう忘れちゃったんですか。やっぱり物覚えが悪いですね。
 私がこの町に来て、おにいさんとばったり会ったときにすぐ思い出さなかったじゃないですか」
「あれは……お前も人のこと言えないだろ。俺が名乗るまでわからなかったくせに」
「私はおにいさんの顔を見てませんでしたから。道ばたでいきなり会った男性が優しくしてくれるなんて、
 絶対に裏があると思ってましたので。しかもその相手がおにいさんだなんて露ほどにも思いませんでしたし。
 それに……見知らぬ女性に対してはとっても優しくするとも、思ってませんでした」

 窓から差し込む陽光が華の瞳に反射している。華の瞳が俺をまっすぐに見つめてくる。
 なんだろう、話す度に泥沼に嵌っていくというか、追い詰められているというか、そんな感じがする。
 別に悪いことをした自覚はない。あの時は偶然道ばたで会った人に手を貸しただけなのだから。
 いや……華にとってはそれさえも不機嫌の理由になるのだろう。
 たった今、俺との距離を手を伸ばせば届く位置にまで縮めているのが華が不機嫌であるという証拠だ。

「何を考えているんです?」
「別に」
 今、お前の機嫌をどうやってよくしようかと考えていたよ。
「嘘ですね。おおかた、天野香織か菊川かなこのことでも考えていたんでしょう。
 おにいさんにとっては、私よりあの2人の方が心配ですものね。
 昨日、私を病院に置き去りにしてこの屋敷まで助けにくるぐらいなんですから」
「変に勘ぐって変な勘違いするな」
 普段は鋭いくせに、どうしてこんな時に限って的外れな勘違いをするんだ。
「そんなに私じゃ不満ですか? そんなに私は魅力がないですか?
 おにいさんを助けるためならどんな危険だって冒しても構わないと思ってるのに。
 何もしない、ただおにいさんを振り回すだけしか能がない女の方がいいんですか?」
「だから……」
「そりゃ、私は胸が小さいですよ。風呂場で鏡を見る度にそう思います。
 だけど胸なんて無駄な部品じゃないですか。年を取ったら垂れてくるんですよ。肩がこりやすいんですよ。
 将来のことを考えたら、絶対に私の方がいいに決まってます。間違いありません」
 的外れな勘違いの次は、胸の話かよ。
 ああもう、なんか返事するのが面倒くさくなってきた。
 ただでさえ今はかなこさんをなんで殴ってしまったのかっていう疑問に悩まされているのに。

 ――あれ。そういえば、今の俺って。



96 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/09/20(木) 02:19:41 ID:gYbbEYsn
「料理だって、いずれレパートリーが増えますし、上達もします。絶対におにいさんを唸らせて見せます。
 だから、お願いです、私を――」
 そう言って華が手を伸ばしてきた。手に触れないよう一歩後ろへ下がる。
 華に触れられるのが嫌だったわけではない。下がらなければならなかったから下がったのだ。
「そんな……なんで、逃げるんですか……?」
「違う。逃げた訳じゃない。これには深い理由があって」
「どんな理由ですか。そんな深刻な顔して逃げるほどの理由なんですか?」
「ああ。頼むから、今の俺に近づかないでくれ」
「どんな理由ですか? 話してください」
「……話してもいいけど、たぶん信じないと思うぞ」
「いいから、話してください」
 ごまかしは許さない、という感じの目で華が俺を見た。

 かいつまんで華に事情を説明する。
 今朝目を覚ましたとき、会う人を見る度に暴力を振るいたくなるということ。
 なぜそうなったのかがわからないということ。
 かなこさんを殴ってしまった、ということは伏せておいた。口にしたくなかったからだ。

「そういうことだったんですか」
「信じられないだろ、こんな話」
 俺自身、華に説明していて本当かどうか疑わしい気分になったほどだ。
 信じてもらえなくてもいい。今の話を聞いて、しばらくの間近づかないでもらえればいい――って。
「おい、華」
「なんでしょうか」
「今の話、聞いてなかったのか。近づいたら、怪我するかもしれないって言ってるだろ」
 話が終わった途端、華が距離を詰めてきた。
 一歩下がり、距離をとる。また華が近づいてきた。
「いいですよ、私は」
「……なにがいいんだ?」
「おにいさんに殴られるなら、それでもかまいません」
「はああっ?」
「殴られても、蹴られても、投げ飛ばされても構いません。おにいさんに触れるならば」
 そう言うと、華は一気に距離を詰めて、懐に飛び込んできた。
 次の瞬間、足を引っかけられ俺の体は床に押し倒されていた。
 体の上には華が乗っている。華の両手は、俺の両肩に添えられていた。
 体の痛みは無かった。だが腹が立った。なぜいきなり押し倒されなければいけない。
 俺は誰かに、ましてや従妹に押し倒されるようなことはやっていないぞ。

 華を真正面から睨み付ける。文句を言ってやろうとしたのだ。
 しかし、すぐに口を開けなかった。華が不敵にも笑っていたからだ。
「手を出しませんでしたね」
「…………何?」
「私は今、ものすごくおおざっぱな動きで接近したんですよ。それなのに、押し倒すことができた」
 どこがおおざっぱだ。
 華が目の前に来た、と理解したらいきなり倒されていたぞ。
 くそ、情けない。こうもあっさりと年下の女の子に組み伏せられるとは。
「まあ、そこはおにいさんが鈍かったということにするとして。その後ですよ。
 今もそうですけど、攻撃する気配のようなものが感じられないんですよ、おにいさんから」
「攻撃しようとする気配?」
「はい。相手の呼吸とか体の反応とかで大体わかるものなんです。
 ましてや、これだけ接近――密着をしていれば、嫌でも感じられます」
「今の俺からは、感じられないのか?」
「話を聞いていると、勝手に体が反応するように聞こえたんですけど。
 ここまでして反応が見られないということは、どうやら私には攻撃しないみたいですね。ふふっ……よかった」
 華が笑ったときに口から漏れた息が、頬にかかった。
 気づく。華の顔がものすごく近い位置にある。20センチ、いや10センチも離れていない。
 首を華の両腕で抑えられていて、思うように動かせない。



97 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/09/20(木) 02:21:01 ID:gYbbEYsn
「一つ、わかったことがあります」
「……なんだ」
 努めて冷静に言う。これだけ間近に華に接近されたらどうしても落ち着かなくなる。
 華も、香織やかなこさんに負けないくらい綺麗なのだ。
 伊達眼鏡をかけていないせいでよりくっきりした輪郭を見ていると、改めてそう思える。
「おにいさんの無意識の暴力は、向けられる人と向けられない人がいるということです。
 おにいさんが朝に出会った人は暴力を向けられる人。
 対して私は暴力を向けられない人、に該当します。どういう基準で分けられているのかはわかりませんけど」
「なるほど」

 つまり、香織とかなこさんには近づけない、華には問題なく近づける、ということだ。
 一体どこでそんな区別がされているのだろう。
 華と、香織とかなこさんの2人を比べてどこか違う点があるか?
 年か、付き合いの長さか、それとも俺との関係か?
 俺との関係の違い、ということで考えると、ただ1人違うのは彼女になった香織だ。しかしそれだと腑に落ちない。
 香織1人だけが特別だとしよう。しかし、それではなぜ俺はかなこさんに対して香織と同じ反応をしたのか説明できない。
 たぶん、何か別の理由があるはずだ。

「私は嬉しかったり残念だったりしてますけどね」
「何が?」
 いきなりそう言われても何のことを言っているのかわからん。
 俺の異状のことを言っているのか?
 残念という言い方にも引っかかるし、それに嬉しがる要因がどこにあるというんだ。
「おにいさんが私を傷つけようとしないっていうのが嬉しいんです。
 だって、知らないうちに私を傷つけてしまうとわかっていたら、離れていってしまうでしょう?」
「当たり前だ。俺はわけのわからない理由で傷つけたり……したくない」

 今までにもいろいろな人を傷つけてきた。また反対に傷つけられることもあった。
 肉体的に、精神的に。忘れようと思っても忘れられないことだってある。
 けれど、それは感情や自分の意志があってやったことだ。
 どの人だったらやる、あの人だったらやらないという条件反射的にやったことなど一度もない。
 もし、自分が誰にでも暴力を振るうようになっていたのだとしたら、俺は誰にも会わない。
 一人で誰も知らない場所に隠れ、いつ治るともしれない症状と向き合いながら過ごすだろう。
 しかし、治ったかどうかを確認するためには人に会わなければいけない。
 その時に治っていなければ、またしても望まない行動をとる。
 そして、いずれ人に会うことすらしなくなる。それはさすがにまずい。
 再就職どころか、ひきこもる方向へ一直線だ。
 しかし、まだ望みはある。
 俺は華に対して異常反応を示さなかった。他の人間に対して普通に接触できる可能性がある。
 どんな基準で俺が妙な反応をするかわからないから、誰にでも、というわけにはいかないが。



98 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/09/20(木) 02:22:25 ID:gYbbEYsn
「ところでさっき、残念だって言ったよな」
「はい」
「あれはどういう意味だ?」
 こういう時は、ショックだ、とかいう台詞の出番だろう。
 なにを残念に思っているんだ。

「例えば、おにいさんがヤマアラシだとします。自分が人間サイズのヤマアラシだと思ってください」
「……ああ」
 とりあえず、タヌキと同じ大きさのヤマアラシを想像してみる。
 人間サイズのヤマアラシなんか想像できるか。
「街を歩いたら、誰にもぶつかることはできません。お店に入ることもできないから、買い物ができません。
 働こうにも、職種は限られてきます。客商売は無理、誰かと組んで仕事をすることはできない。
 あと残っているのは人を直接相手にしない職種しかないです」
「……だな。それで?」
「もしそうなった場合、おにいさんはどうやって生活しますか?」
「どうやって……? 人に会えない、働けない、外に出ることがなくなる。
 もしそうなったら自動的に家に引きこもることになるな」
「誰かがお世話しないとおにいさんは、野垂れ死にしちゃいますね?」
「だろうな、多分。で、結局なにが言いたい」
「つまり、そんな時は私がおにいさんのお世話役を買って出てあげますよ、ってことです。
 社会の底辺を生きるおにいさんを、私無しでは生きていけないようにできるじゃないですか。
 そうならなくて惜しいな、という意味で残念と言ったんです」
「……ほう」

 体の上に乗っている華の肩を掴んで引きはがし、横にどける。
 即座に立ち上がり、華との距離をとる。
「……逃げないでくださいよ。なんで逃げるんですか」
 立ち上がった華が不満そうな顔つきで言った。
 なんでもなにもあるか。華の奴、とんでもないことを考えてやがった。
 最近の華がおかしいとは思っていたが、まさか俺を目の前にしてこんなことを言うとは。
「本気にしてないですよね? 今のは冗談ですよ」
 ……本当かよ。
「もし本気でやるつもりだったら私は口にしたりしませんよ?」
「そりゃそうだろうが……冗談でもあんなこと言うな」
「ごめんなさい。おにいさんを和ませようと思って、つい」
 あんな会話で和むわけないだろうが。

「あら? この本」
 華は机の上に置かれたままの本に目を留めると、二冊とも左右それぞれの手で持ち上げた。
「この部屋にあった本ですか、これ」
「ああ」
「タイトルが無いですけど、どんなことが書いてあるんですか?」
「簡単に言えば、ハッピーエンドで終わらない話」
「面白かったですか?」
 数日前なら面白かったと俺は答えただろう。しかし、今ならこう言える。
「……いいや、実に不愉快で面白くない内容の本だった。読むだけ時間の無駄だった。
 その本を手に取るだけで不幸が訪れるから触らない方がいいぞ」
「珍しく、ずいぶんな言い様ですね」
「それだけひどい本だってことだ。だからその本を読むのはやめとけ」
「へえ……」
 本を裏返して背表紙まで眺めてから、華はこう言った。
「でもおにいさんが読んだ本なら私も読んでみたいです」



99 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/09/20(木) 02:24:57 ID:gYbbEYsn
 華は手近にあった椅子を引くと、腰掛けて本を広げた。
 青い背表紙。以前十本松から渡された方の本だ。
 二冊の本が上下巻に分かれるとするなら、下巻の方になる。
 俺がその事実を教えようか、それとも読ませないようにしようか、と考えていると。
「……ん?」
 ふと、この場にいない人間の声が聞こえた。小さな声だった。
 耳をすませていないと聞こえないような声量だったというのに、俺がその声を聞き取れたのは不思議でもある。
 だが、時折こういうことはある。自分が望まない事態の場合、自分の聴覚が鋭くなることがある。理由はわからない。
 そして、望まない事態というのは連鎖するようだ。華までが声の主に気づいた。

「天野香織の声ですね」
 ああ、その通りだ。
 よりによって今一番会いたくない相手が来た。ついでに言うとこの場に来て欲しくない相手だ。
 俺が香織を目にした瞬間に襲いかかったりすることはないだろう。
 だが、この場には華がいるのだ。
 もし、俺が何かの間違いで香織に対して拳を振るおうするところを、華に見られたら。
 いや、それよりもこの場で香織と華が顔を合わせたら。
 そこから一体どんな展開になるのか、まったく予想がつかない。
 ただでさえ最近は予想外の事態ばかり起こっているというのに。もう、これ以上は御免だ。

「華」
「はい?」
「今すぐにこの屋敷から出るぞ。家に帰る」
「え、でも……」
 華は部屋のドアへと顔を向けた。
 香織と顔を合わせたときの台詞を決めていたのかもしれない。
 どんな台詞を口にするのかは想像できないが、それはこの場で破棄してもらおう。
「この部屋から外に出られる。前にも通ったことがあるだろ」
「そうですけど、私はあの女に話が」
「いいから、来い」
 華の右手首を掴み、強引に立たせる。右手には青い背表紙の本が握られたままになっている。
 もう一冊の本を手に取り、華の左手に渡す。
「その本を読みたいんなら家に帰ってから読め。香織が部屋に入ってくる前に出る」
「……あの、なんでそこまであの女から逃げようとしているんですか? 
 もしかして、おにいさんが拒否反応を示す人って……」
 気づかれたか。これだけ頑なに香織と会うことを避けようとすれば、聡い華は気づくに決まっている。
 しかし、今はそんなことの後悔をしている場合でも、自分のうかつさを呪っている場合でもない。
 香織の声は少しずつ大きくなってきている。この部屋にたどり着くのは時間の問題だ。
「あとでちゃんと話してやる。だから、今は言うことを聞いてくれ」
「……わかりました。そこまで言うんなら、言うことを聞きます」

 部屋の裏口から、華と一緒に屋敷裏の空き地へ出る。
 季節はまだ冬で、扉を開けた瞬間に冷たい空気が肌に触れた。
 一瞬部屋に戻りたい気分になったが、意識して首を振り、家に帰るという本来の目的を思い出す。
 裏口のドアを閉める。すると、さっきまで聞こえていた香織の声がかき消えた。
 扉の存在が、俺が香織を拒絶した、という事実を証明しているような気分にさせてくれた。