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タイトル:9月17日のディスカッションについて 日時:9/17 18:00-19:30 テーマ:赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を読んで 参加者:熊谷さん、近藤さん、宮田さん、斎藤  今回新たに参加された方は一名であり、私立T大学経済学部4年の宮田さんである。専攻はゲーム理論であり、知識を深めたいとのこと。  全体的に見ると、ディスカッションは割と盛り上がったように感じられた。その理由としては 1.割と読みやすい一本の文献の存在により、各人の散逸した専攻が文献の縦軸に沿った形で横の軸を広げる役割を果たしたこと 2.ディスカッションの冒頭にて一人一人がある程度の意見表明を行ったこと が挙げられる。概観して熊谷さんおよび斎藤は現代思想的観点から、近藤さんは文化人類学的観点から、宮田さんは経済学的な観点からそれぞれ意見を述べられているように感じられた。    近藤さんからは、赤木のいう「戦争」とは、戦争経験者が語るような凄惨なものではなく、「信長の野望」的なチャンスとしての戦争であり、このような考えを多くの若者が抱いているのであればそれは「若者の集合的記憶」ではないかとの指摘があった。  熊谷さんからは、著者の赤木と、秋葉原無差別殺傷事件の容疑者である加藤智大容疑者には共通点があるという指摘がなされた。この比較は大変興味深く、年齢、経歴、居住地やルサンチマンの度合いなどから、論文を投稿するかトラックで街に突っ込むかという「結果」に至るまで全員での議論がなされた。ただ注意点として熊谷さんが述べたのは、加藤容疑者は個人情報を自ら公開したわけではなく、我々はメディアを通じて彼を知っているので、そこには少なからずメディアによるバイアスがかかっているという点である。  斎藤は「平和と格差固定は親和性が高い」という赤木の主張を取り上げ、そのラディカルな言説が彼を「現実的なもの」としての戦争に結び付けていると指摘した。文献の題名でもある「戦争」に関しては、それをメタファー的なものと捉えるか現実的なものと捉えるかで議論があった。前者は、赤木のいう「戦争は唯一の手段ではない」という言葉を取り上げ、赤木にとっての戦争は「俺はこんなこともしてやるぞ」という一種の意見表明なのではないかという分析であった。それに対して後者は、「上流ではなく中流」や「本気で戦争を希望しています」のような赤木の言葉を受け取り、戦争は最良の手段ではないにせよ、この格差固定社会における社会的弱者の、現実的な帰結の一つではないかとの分析であった。    その他様々な有益と思われる議論が展開されたが、斎藤がノートを取ることを忘れ夢中になって唾液を飛ばしていたこと、そしてひどい忘れ癖のためにここに書くことができなかった。この点を反省するとともに、次回からはきちんと記録に残せるよう何らかの策を講じるつもりである。    文責 斎藤悠士 ----
タイトル:9月17日のディスカッションについて 日時:9/17 18:00-19:30 テーマ:赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を読んで 参加者:熊谷さん、近藤さん、宮田さん、斎藤  今回新たに参加された方は一名であり、私立T大学経済学部4年の宮田さんである。専攻はゲーム理論であり、知識を深めたいとのこと。  全体的に見ると、ディスカッションは割と盛り上がったように感じられた。その理由としては 1.割と読みやすい一本の文献の存在により、各人の散逸した専攻が文献の縦軸に沿った形で横の軸を広げる役割を果たしたこと 2.ディスカッションの冒頭にて一人一人がある程度の意見表明を行ったこと が挙げられる。概観して熊谷さんおよび斎藤は現代思想的観点から、近藤さんは文化人類学的観点から、宮田さんは経済学的な観点からそれぞれ意見を述べられているように感じられた。    近藤さんからは、赤木のいう「戦争」とは、戦争経験者が語るような凄惨なものではなく、「信長の野望」的なチャンスとしての戦争であり、このような考えを多くの若者が抱いているのであればそれは「若者の集合的記憶」ではないかとの指摘があった。  熊谷さんからは、著者の赤木と、秋葉原無差別殺傷事件の容疑者である加藤智大容疑者には共通点があるという指摘がなされた。この比較は大変興味深く、年齢、経歴、居住地やルサンチマンの度合いなどから、論文を投稿するかトラックで街に突っ込むかという「結果」に至るまで全員での議論がなされた。ただ注意点として熊谷さんが述べたのは、加藤容疑者は個人情報を自ら公開したわけではなく、我々はメディアを通じて彼を知っているので、そこには少なからずメディアによるバイアスがかかっているという点である。  斎藤は「平和と格差固定は親和性が高い」という赤木の主張を取り上げ、そのラディカルな言説が彼を「現実的なもの」としての戦争に結び付けていると指摘した。文献の題名でもある「戦争」に関しては、それをメタファー的なものと捉えるか現実的なものと捉えるかで議論があった。前者は、赤木のいう「戦争は唯一の手段ではない」という言葉を取り上げ、赤木にとっての戦争は「俺はこんなこともしてやるぞ」という一種の意見表明なのではないかという分析であった。それに対して後者は、「上流ではなく中流」や「本気で戦争を希望しています」のような赤木の言葉を受け取り、戦争は最良の手段ではないにせよ、この格差固定社会における社会的弱者の、現実的な帰結の一つではないかとの分析であった。    その他様々な有益と思われる議論が展開されたが、斎藤がノートを取ることを忘れ夢中になって唾液を飛ばしていたこと、そしてひどい忘れ癖のためにここに書くことができなかった。この点を反省するとともに、次回からはきちんと記録に残せるよう何らかの策を講じるつもりである。    文責 斎藤 ----

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