キャラクターの区別がつかない。
誰が描いた絵なのか区別できない。
絵を「見る」立場で経験したことのある人もいるだろう。
前者は画家の描き分ける能力の不足、
後者は見る側の見分ける能力の不足であるといえる。
後者は見る側の見分ける能力の不足であるといえる。
顔が同じで髪型だけが違っていたり、目の色や服装だけが違っているキャラクターや、
名前を指摘されないと誰なのかわからないキャラクターを描いているようでは、
絵描きとしては致命的であるといわざるを得ない。
名前を指摘されないと誰なのかわからないキャラクターを描いているようでは、
絵描きとしては致命的であるといわざるを得ない。
たとえそれが双子、一卵性双生児であったとしても、描き分けることは重要である。
絵描き自身が「私の個性だ」とアピールしても、見る人がそれに同意していなければ意味がないのだ。
誰が描いた絵なのか区別できないというのは、同人誌ないし同人的な活動をしている集団にみられる傾向である。
もちろん、「そっくりに描くことができる」といえば素晴らしい能力だが、
実際にはそうではないことのほうが多い。
実際にはそうではないことのほうが多い。
「見よう見まね」で絵を描き続けている人にとっては、「ある人の画風」に類似してくるのは仕方がないことだ。
「似ている」だけならともかく、「区別がつかない」場合、それは「贋作」と呼んでもいいだろう。
もちろん、悪意を持って贋作に臨む人はまれであるため、ここでは考慮しないことにする。
「同じような絵」を描く人同士が集まると益をもたらすことがある。
「同じような絵」というのは、それだけ、その集団にとって「受け入れられやすい絵」なのである。
つまり、そうした絵を描き続けていれば心理的に安定するし、拒否される可能性は限りなく低く、
充実した、満足のいく作業をこなすことができるのだ。
充実した、満足のいく作業をこなすことができるのだ。
一方で、「個性」の強い、独創性を追求した絵を描くと、どうなるだろうか?
たいていの場合、どんなに優れた画力を持っていても、すぐには受け入れてもらえない。
「明らかに他人の絵と違う」「一目でそれとわかる」絵としては、すぐには評価されないことが多い。
これは、国による文化や思想の違いが、交流の妨げとなる社会現象によく似ている。
たとえば日本人は家に上がるとき靴を脱ぐが、アメリカ人は土足のままである。
土足で家に上がるアメリカ人を見た日本人が、「なんてお行儀の悪い人だ…」と思うことがあるが、
もともと家がそのように設計されているのであって、行儀の悪さとは関係がないのだ。
もともと家がそのように設計されているのであって、行儀の悪さとは関係がないのだ。
また、アメリカ人から見た日本人は、「どうしてイエス・ノーをはっきり言わないんだ…」と思われている場合がある。
どちらにせよ、文化や風潮や「しきたり」が違うからであって、決して無礼に振舞っているわけではない、
というところが肝心である。
というところが肝心である。
話を絵に戻すと、絵を描く側にとっては「文化」であるが、それを見る側にとっては「異文化」となる場合があるわけだ。
普通、異なる文化はスムーズに受け入れられないものである。
それと同じことが、絵でも起こっていると思えばよい。