どんなに熟練した画家でも、何の準備もなしに絵を「完成させること」はできない。
普段、「完成された絵」しか見ることのない人も多いかもしれないが、
一つの絵を完成させるまでには多くの段階があるのだ。
一つの絵を完成させるまでには多くの段階があるのだ。
真っ白なキャンヴァスの上に、いきなり作品が描き出される──
超能力者でもない限り、決してこのようなことはないのである。
「家を建てること」を例に考えてみよう。
大工や、家の設計図を書く人、最近ならCADオペレーターや、地盤をならす重機、
材料を運搬するトラック、電気・水道・ガスの整備など、
何もないところに家を建てるためには多くの工程が必要である。
材料を運搬するトラック、電気・水道・ガスの整備など、
何もないところに家を建てるためには多くの工程が必要である。
どんなに優れた腕を持った建築士であっても、現場の「寸法」を知らずに設計することは不可能である。
大工が材木を切るとき、「寸法」を測らずにのこぎりを動かすことはない。
どれほど目が肥えていたとしても、必ず道具を用いて正確な寸法を測る必要がある。
肉眼で長さを測り、目測で材木を切り、そうして建てられた家がどうなるかは………。
また、仮に道具を用いたとしても、設計図が一切ない状態から思い通りの家を建てることはできない。
その設計図は、家を建てる人が「どんな家に住みたいか」という要望を元に
試行錯誤を繰り返した上で作成されるものである。
試行錯誤を繰り返した上で作成されるものである。
そして最終的に「要望にかなった家」を完成させなければならない。
二階建ての家なのに、二階へ上がる階段がない家になってしまってはいけないのである。
二階建ての家なのに、二階へ上がる階段がない家になってしまってはいけないのである。
納得するまで設計図は何度も書き直されることだろう。
絵を描く工程も、これと同じことがいえる。
ある風景をキャンヴァスに収めたいと思っても、カメラで写真を撮るような作業では済まない。
もちろん、画家によってはカメラを道具として活用している場合もある。
しかしカメラはあくまで「道具」であり、カメラそのものが絵を描き上げるわけでは決してない。
キャンヴァスに描く前に、風景を十分に観察し、必要ならば全体の寸法を測る。
寸法を測るといっても、製図のように正確な長さや角度を求めるのではなく、
画家の多くは、描く対象の「相対的な寸法」を読み取っている。
画家の多くは、描く対象の「相対的な寸法」を読み取っている。
伸ばした腕の先に絵筆を持って、縦や横に動かして目をこらしている画家の姿を見たことがあると思うが、
あれは単なる「おまじない」ではなく、実際に物の長さを測定しているのだ。
あれは単なる「おまじない」ではなく、実際に物の長さを測定しているのだ。
そして必要ならばスケッチブックに「ラフ(裸婦ではない)」を描く。
さらに必要ならば場所を移動したり、目の高さや角度などを変えたりもする。
風景の中で何を目立たせたいか、何に焦点を当てたいのかを明らかにするとともに、
その中において全体的なバランスを損なわないように調整する。
その中において全体的なバランスを損なわないように調整する。
このように試行錯誤を繰り返すことによって、理想的な構図を見つけ出すのである。
また、完璧な構図を決めたと思っても、描いているうちに気分が変わることもある。
その絵は捨てられるか、修正や変更を加えられる場合がある。
有名な画家の多くが、このような「習作」をたくさん描いており、
完成作品ではないにもかかわらず、価値のあるものとして保存や展示がされている。
完成作品ではないにもかかわらず、価値のあるものとして保存や展示がされている。
習作というのは、しばしば完成された絵よりも魅力的に見える場合があり、
その画家ならではの見方や、描き方、省略の仕方(デフォルメ)などを学び取れることも多い。
その画家ならではの見方や、描き方、省略の仕方(デフォルメ)などを学び取れることも多い。
一つの絵がどのようにして描かれているのかを知ることもできる。
一発で絵を完成させようとしなくてもよい。
気を楽にして、習作をたくさん描くようにしよう。