原点


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 戦争直後の焼け野原。そこが製作所の原点だった。
 現在の大田区千鳥3にあった北嶋家は畳屋だった。空襲で焼けた街に畳の需要はなかった。今は顧問を務める長男の隆一さん(79)がやむを得ず、親せきの工場でヘラ絞りを習い、47年に家の一部を工場にした。次男で07年に亡くなった一甫(かずとし)さん、四男の実さんも中学卒業と同時に家業を手伝った。初めに作ったのは鍋ややかん。焼け跡に残る鉄板を材料にしたこともあった。
 自慢できる技術はなかった。それでも、右肩上がりの時代。自動車産業の発展に伴い、関連部品の発注が続いた。「すごい量で、いつもどうすれば早くできるか考えながら、仕事をしていた」と実さんは振り返る。
 家族経営の中小企業に営業担当の社員はいなかった。それでも、口コミで評判が広がり、70年代になると海外の航空機や気象衛星の部品など高い精度を求められる注文が相次ぐようになった。
 理由は簡単だ。どんな難しい仕事でも断らないからだった。他の工場が断る複雑な加工も引き受ける。赤字の仕事も多かった。だが、兄弟は「経験こそ最大の財産」と割り切った。手間はかかっても、失敗に終わる仕事はなかった。
 三鷹光器の創業会長、中村義一さん(77)は現役のスーパー技術者だ。社員わずか50人。三鷹市の町工場からロケットに搭載する特殊カメラ、脳外科手術用の顕微鏡といった最先端の製品が世界へ送り出されている。卓越したものづくりの技術にNASA(米航空宇宙局)や独の名門・ライカも一目置く。
 鉄筋コンクリート一部3階建ての工場2階にある会議室に中村さんは現れた。会長室はない。「得意な技術は」と問うと、意外な答えが返ってきた。
 「技術では大手に負けるが、アイデアは負けない。太陽を見ればいろんな光がある。それを取り出して何に使うのか、無数のアイデアがわいてくる」