王太后への書簡

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 『&bold(){王太后への書簡}』は、ノストラダムスが当時の王太后(国王の母)カトリーヌ・ド・メディシスにあてた書簡である。1566年に[[ブノワ・リゴー]]が出版した。 #ref(1566lettre.PNG) 【画像】『王太后への書簡』の扉((画像の出典:[[http://www.propheties.it/]])) *正式名 -LETRE DE MAISTRE MICHEL NOSTRADAMVS, de Salon de Craux en Prouence, A la Royne mere du Roy. --A LYON, Par Benoist Rigaud, 1566. --Auec permission. -プロヴァンス州サロン・ド・クローのミシェル・ノストラダムス師による王太后への書簡 --リヨンにて、ブノワ・リゴーによる。1566年。 --認可済み。  本文の冒頭に掲げられているタイトルに比べると、「医学博士」という肩書きが脱落している。文字の配置などの観点から意図的にしたのか、単なる誤植なのかは分からない。  木版画の王冠に大書された K は、シャルル9世(Karolus)のことだという((Halbronn [2002] p.17))。 *内容  八つ折版で8ページからなる。ただし、うち1ページは扉、2ページ分は白紙、ノンブルのない最終ページは紋章の図版があるだけなので、本文は実質的に4ページ分しかない。しかもそれが大きな活字で綴られているため、内容的にはかなり薄く、暦書類に掲載されていた有力者への献辞と大差がない。  その内容について、詳しくは以下の全訳を見ていただくとして、大まかにまとめておくと2つのテーマに分けることができる。  ひとつは近く開かれる会議についての予言で、休会を挟んだあとに良い方向に転がる見通しが語られている。  もうひとつは国王(シャルル9世)が17歳になる年におこる幸運な出来事の予言のために、星位図を送って欲しいという依頼である。[[ピエール・ブランダムール]]はこれについて1566年6月27日の国王誕生日を見据えたものだとした(シャルルは1550年生まれなので、数え年で考えているものと思われる)。  この手紙に対してカトリーヌがどのように反応したのかは分かっていない。カトリーヌの書簡は19世紀にまとめて出版されているが、その中にもこれへの返書が含まれていないからである((Chomarat [1996], ラメジャラー [1998a] p.68))。  また、ノストラダムスがシャルル9世の誕生日に合わせて何らかの星位図を献上したという話もない。1566年6月17日にはノストラダムスは遺言書を口述している。その時点で自力で執筆することが困難になっていたらしいことがうかがえるため、6月27日にあわせて星位図をまとめられる状態ではなかったのだろう。  さて、ノストラダムスが助言をした会議についてだが、具体的にいつの会議なのかは特定されていない。とはいえ、当時はちょうど第一次ユグノー戦争(1562年 - 1563年)が終わったあとの小康状態に当たっていたので、宗教上の融和を目指した会議の一つだったのだろう。  しかし、1566年に何らかの重要な合意が成立したということはなかった。それどころか、1567年には第二次ユグノー戦争が勃発し、翌年春にはカトリーヌは宰相(大法官)ミシェル・ド・ロピタルを解任し、融和政策を放棄した。こうした史実と対照すれば、ノストラダムスの見通しが当たったというには程遠い。  なお、アンリ2世が死に、長男フランソワ2世が死に、宗教上の対立がくすぶり続けていた1565年末の時点でさえ、これほどまでの希望的観測を伝えていたという事実は、しばしば信奉者が主張するような「ノストラダムスはカトリーヌにヴァロワ家の悲観的な未来を伝えていた」といった類の根拠のない話を否定するのに十分だろう。 *日付  奥付には1565年12月22日とあり、現存する範囲では最後から2番目の書簡にあたる(暦書の献辞を除く)。この直前に当たる書簡は、1565年12月13日のハンス・ロベット宛の私信である。その書簡では、ノストラダムスはリューマチがひどく手から右膝、さらには足への痛みのせいで21日も寝ていないと述べている((Dupèbe [1983] ))。  [[ミシェル・ショマラ]]は、その9日後にカトリーヌ宛の書簡が書かれていることから、若干症状が快方に向かったのだろうと推測している((Chomarat [1996]))。 *出版業者  [[ブノワ・リゴー]]が出版した。  誰が出版したのかどころか実在したのかさえ定かではない[[1558年版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1558年)]]を別にすれば、ブノワ・リゴーが手がけた最古のノストラダムス作品である。  ノストラダムスの生前にブノワ・リゴーとの接点があったことを示す重要な根拠とも見なせることから、『予言集』第二部の真贋論争においても引き合いに出される。例えば、ミシェル・ショマラは、ブノワ・リゴーが速報性を重視する業者であったことをもとに、このときに接点が出来ていたのなら、それから2年もの間出版されなかったのは不自然だと指摘している((Chomarat [2000]))。 *所蔵先  [[ポール・アルボー博物館]]に唯一所蔵されている。  かつて[[アンリ・ボードリエ]]が[[エクトール・リゴー]]からの情報に基づいてこれに言及していたことから、[[ロベール・ブナズラ]]はリゴーの手元にも1部存在していたとした((Benazra [1990] p.78))。しかし、[[ミシェル・ショマラ]]はアルボーとリゴーの往復書簡の内容からそれを否定し、リゴー自身は持っていなかったはずと指摘した((Chomarat [1996]))。 *復刻と紹介  上で見たように最初の言及はボードリエの書誌である。その後、ショマラの書誌とブナズラの書誌で相次いで取り上げられ、[[ピエール・ブランダムール]]も簡潔に紹介した((Chomarat [1989] no.72, Benazra [1990] pp.78-79, Brind’Amour [1993] p.486))。  1996年にはミシェル・ショマラによって『[[カトリーヌ・ド・メディシスへの書簡>Lettre à Catherine de Médicis]]』として影印版が出版された((この記事の一部の記述の出典となっている Chomarat [1996] は、この復刻版のことである。))。  日本では[[ピーター・ラメジャラー]]『ノストラダムス百科全書』の中で簡潔な紹介を見ることができる。公刊された文献で全訳を載せたものは見当たらないが、インターネット上では「[[ノストラダムスサロン>>http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/n_index]]」が「[[皇太后への書簡>>http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/biogra/royne_mere.htm]]」として公開した。正確な公開日は不明だが最終更新日が2005年1月30日となっていることから((2010年5月23日アクセス時点))、それ以前に公開されたものと思われる。 *原文と翻訳  以下は全文とその翻訳である。この作品に固有の用語や言い回しについては、あとに語注をつけている。便宜上、当「大事典」の判断でいくつかの節に区切ったが、一般的なものでないことをお断りしておく。 **原文 Letre de maistre Michel Nostradamus, docteur en Medecine, de Salon de Craux en Prouence, A La Royne mere du Roy. (1)Madame, ayant entendu que s'approchoyent Comitia&sup(){1} de vostre Royaume, bien que vostre Maiesté par quelques autres en puisse estre aduertie, toutesfois selon le scauoir que Dieu m'a donné, (2)& faisant mon deuoir pour mon Roy, comme seruiteur tresobeissant & suiect, & iouste la charge de mon estat, que votre maiesté me donna, Que si par les Astres se pouuoit scauoir & entendre le futur, i'en aduertisse vostre Maiesté. (3)Et pource, par aucunes figures celestes, erigees en cest endroit, ie treuue quelque briefue prorogation de temps & de lieu, & le tout estre en paix, amour, vnion & concorde, sans dissimulation, ne [[simultés>simulte]] : combien&sup(){2} qu'il y aura de grandes contradictions & differens. Mais à la parfin vn chascun s'en retournera content de bouche & de coeur : ceux mesmes, à qui le retour dependra de [[vuyder>vuider]]. Mais au reste, ceste assemblee sera cause d'vne grande paix, & contentement, par tout vostre Royaume.(4)I'en ay fait vn petit discours, que ie ne&sup(){3} me suis voulu auenturer de l'enuoyer à vostre Maiesté, iusques à ce, que ie aye entendu le vouloir plus ample d'icelle. Ce que vostre Maiesté dira & fera, sera promptement dit, fait & executé.(5)Plaise aussi à vostre Maiesté me faire enuoyer la figure celeste, Astronomique, de l'an xvij. du Roy treschrestien, vostre fils, pour faire l'explication bien au point : pour ce que ie trouue en icelle annee, quelque grande & tresfelice fortune de paix longue, en son Royaume. Mais&sup(){4} qu'elle soit exactement calculee, pour la conferer auec la mienne : & ie me parforceray&sup(){5} de faire ce que ie suis tenu, pour mon Roy, mon souuerain seigneur & maistre :(6)apres que i'auray prié le Createur de tout le monde, vous donner, Madame, vie longue, en santé, & toute constante prosperité, accompagnee de l'entier accomplissement des Royaux desirs de vostre Maiesté. (7)De vostre ville de Salon de Craux, en Prouence, ce xxij. iour de Decembre 1565. Auec la souscription en ces mots : &italic(){Vostre treshumble & tresobeissant seruiteur & suiet, Michel Nostradamus.} Et au dessus d'icelle : &italic(){A la Royne, nostre souueraine dame & maistresse.} ***語注 1. Comitia はラテン語で「民会」を意味する。ここでは、後出の assemblee と同じ意味で使われている((cf. Chomarat [1996]))。 2. combien que は現代フランス語の bien que (~ではあるが)と同じ。 3. [[ミシェル・ショマラ]]の現代語訳を見る限りでは、ここでの ne は虚辞のようである((Chomarat [1996]))。 4. mais que は pourvu que(~しさえすれば)、quand(~のときに)、à condition que (~という条件で)などを意味する中期フランス語の成句((DMF p.394)) 5. se parforcer は『仏和大辞典』、DMF などには見当たらないが、ショマラの現代語訳を見る限りでは、古フランス語の se parforcier (努力する)((LAF p.375))と同じようである。 **対訳 プロヴァンス州サロン・ド・クローの医学博士ミシェル・ノストラダムス師による王太后への書簡 (1)王太后陛下&sup(){1}、御身のしろしめす王国の議会が近く開かれることを知りました。それは陛下なら他のなんぴとかを通じてお聞き及びになられる事柄でしょうが、私は神から与えられた知識に基づいて知ったのです。 (2)そして、非常に忠実な従僕としての、また臣民としての義務を、私は国王に対して負っていますし、陛下から賜った地位&sup(){2}に課せられた仕事でもありますから、星辰によって未来が知覚されれば、私はそれを陛下にお知らせする次第です。 (3)それに関して、私がいる場所で確立されているいくつかの天の表徴を通じて、私は時期的にも空間的にも多少の短い間隔(休会)と、全てが隠し事もわだかまりもなく平和、愛、統一、調和に至ることを見出します。もちろん、大きな異論、反論はあるでしょうが、最後には誰もが言葉の上でも心の内でも満足する方へと帰着するでしょう。それらへと帰着することが、解決することに繋がるのです。いずれにしましても、その会議は御身のしろしめす王国にあまねく行き渡る大きな平和と満足の根源となるでしょう。 (4)以上、陛下に思い切って奏上したいと思った事柄を、陛下ならここまで述べてもお許しくださると思った範囲で&sup(){3}、少しばかり語ってまいりました。陛下がおっしゃるであろうこと、なさるであろうことは、即座に布告され、行われ、執行されることでしょう。 (5)ところで、御身のご令息にして敬虔なキリスト教徒たる国王が17歳になられるときの星位図を、周到に解釈させていただきたいので、私めにお送りいただけないでしょうか。それといいますのは、その年に御身のしろしめす王国で長きにわたる平和のための何か大きな、そして恩寵溢れる幸運があると私には思えるからです。私が作成した星位図と対照できるように、お送りいただく星位図が正確に算定されてさえいれば、私は至高の支配者にして主人たる国王のために義務を果たすことに努めます。 (6)王太后陛下、それはもちろん、長寿、健康、そして陛下がお望みになる王者の欲求の成就を余すところなく伴う恒常的な繁栄そのものが、御身に与えられますようにと、全世界の創造主に祈った後でのことになるでしょう。 (7)1565年12月22日、御身のしろしめすプロヴァンス州サロン・ド・クローの町から。 この署名とともに 「御身の非常に賤しく、非常に忠実な従僕にして臣下、ミシェル・ノストラダムス」 そしてこの結語の上に 「我らが至高の貴婦人にして女主人であらせられる王太后へ」。 ***訳について 1. この訳では royne mere du roy を「王太后」、madame を「王太后陛下」、vostre Majesté を「陛下」、それ以外の vostre... を「御身の・・・」で統一している。 2. ノストラダムスは1564年に「王附常任侍医 兼 顧問」に任命されている。 3. 「陛下ならここまで述べてもお許しくださると思った範囲で」の直訳は「私が陛下のより豊かな善意を理解したところまで」。 ---- #comment
 『&bold(){王太后への書簡}』は、ノストラダムスが当時の王太后(国王の母)カトリーヌ・ド・メディシスにあてた書簡である。1566年に[[ブノワ・リゴー]]が出版した。 #ref(1566lettre.PNG) 【画像】『王太后への書簡』の扉((画像の出典:[[http://www.propheties.it/]])) *正式名 -LETRE DE MAISTRE MICHEL NOSTRADAMVS, de Salon de Craux en Prouence, A la Royne mere du Roy. --A LYON, Par Benoist Rigaud, 1566. --Auec permission. -プロヴァンス州サロン・ド・クローのミシェル・ノストラダムス師による王太后への書簡 --リヨンにて、ブノワ・リゴーによる。1566年。 --認可済み。  本文の冒頭に掲げられているタイトルに比べると、「医学博士」という肩書きが脱落している。文字の配置などの観点から意図的にしたのか、単なる誤植なのかは分からない。  木版画の王冠に大書された K は、シャルル9世(Karolus)のことだという((Halbronn [2002] p.17))。 *内容  八つ折版で8ページからなる。ただし、うち1ページは扉、2ページ分は白紙、ノンブルのない最終ページは紋章の図版があるだけなので、本文は実質的に4ページ分しかない。しかもそれが大きな活字で綴られているため、内容的にはかなり薄く、暦書類に掲載されていた有力者への献辞と大差がない。  その内容について、詳しくは以下の全訳を見ていただくとして、大まかにまとめておくと2つのテーマに分けることができる。  ひとつは近く開かれる会議についての予言で、休会を挟んだあとに良い方向に転がる見通しが語られている。  もうひとつは国王(シャルル9世)が17歳になる年におこる幸運な出来事の予言のために、星位図を送って欲しいという依頼である。[[ピエール・ブランダムール]]はこれについて1566年6月27日の国王誕生日を見据えたものだとした(シャルルは1550年生まれなので、数え年で考えているものと思われる)。  この手紙に対してカトリーヌがどのように反応したのかは分かっていない。カトリーヌの書簡は19世紀にまとめて出版されているが、その中にもこれへの返書が含まれていないからである((Chomarat [1996], ラメジャラー [1998a] p.68))。  また、ノストラダムスがシャルル9世の誕生日に合わせて何らかの星位図を献上したという話もない。1566年6月17日にはノストラダムスは遺言書を口述している。その時点で自力で執筆することが困難になっていたらしいことがうかがえるため、6月27日にあわせて星位図をまとめられる状態ではなかったのだろう。  さて、ノストラダムスが助言をした会議についてだが、具体的にいつの会議なのかは特定されていない。とはいえ、当時はちょうど第一次ユグノー戦争(1562年 - 1563年)が終わったあとの小康状態に当たっていたので、宗教上の融和を目指した会議の一つだったのだろう。  しかし、1566年に何らかの重要な合意が成立したということはなかった。それどころか、1567年には第二次ユグノー戦争が勃発し、翌年春にはカトリーヌは宰相(大法官)ミシェル・ド・ロピタルを解任し、融和政策を放棄した。こうした史実と対照すれば、ノストラダムスの見通しが当たったというには程遠い。  なお、アンリ2世が死に、長男フランソワ2世が死に、宗教上の対立がくすぶり続けていた1565年末の時点でさえ、これほどまでの希望的観測を伝えていたという事実は、しばしば信奉者が主張するような「ノストラダムスはカトリーヌにヴァロワ家の悲観的な未来を伝えていた」といった類の根拠のない話を否定するのに十分だろう。 *日付  奥付には1565年12月22日とあり、現存する範囲では最後から2番目の書簡にあたる(暦書の献辞を除く)。この直前に当たる書簡は、1565年12月13日のハンス・ロベット宛の私信である。その書簡では、ノストラダムスはリューマチがひどく手から右膝、さらには足への痛みのせいで21日も寝ていないと述べている((Dupèbe [1983] ))。  [[ミシェル・ショマラ]]は、その9日後にカトリーヌ宛の書簡が書かれていることから、若干症状が快方に向かったのだろうと推測している((Chomarat [1996]))。 *出版業者  [[ブノワ・リゴー]]が出版した。  誰が出版したのかどころか実在したのかさえ定かではない[[1558年版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1558年)]]を別にすれば、ブノワ・リゴーが手がけた最古のノストラダムス作品である。  ノストラダムスの生前にブノワ・リゴーとの接点があったことを示す重要な根拠とも見なせることから、『予言集』第二部の真贋論争においても引き合いに出される。例えば、ミシェル・ショマラは、ブノワ・リゴーが速報性を重視する業者であったことをもとに、このときに接点が出来ていたのなら、それから2年もの間出版されなかったのは不自然だと指摘している((Chomarat [2000]))。 *所蔵先  [[ポール・アルボー博物館]]に唯一所蔵されている。  かつて[[アンリ・ボードリエ]]が[[エクトール・リゴー]]からの情報に基づいてこれに言及していたことから、[[ロベール・ブナズラ]]はリゴーの手元にも1部存在していたとした((Benazra [1990] p.78))。しかし、[[ミシェル・ショマラ]]はアルボーとリゴーの往復書簡の内容からそれを否定し、リゴー自身は持っていなかったはずと指摘した((Chomarat [1996]))。 *復刻と紹介  上で見たように最初の言及はボードリエの書誌である。その後、ショマラの書誌とブナズラの書誌で相次いで取り上げられ、[[ピエール・ブランダムール]]も簡潔に紹介した((Chomarat [1989] no.72, Benazra [1990] pp.78-79, Brind’Amour [1993] p.486))。  1996年にはミシェル・ショマラによって『[[カトリーヌ・ド・メディシスへの書簡>Lettre à Catherine de Médicis]]』として影印版が出版された((この記事の一部の記述の出典となっている Chomarat [1996] は、この復刻版のことである。))。  日本では[[ピーター・ラメジャラー]]『ノストラダムス百科全書』の中で簡潔な紹介を見ることができる。公刊された文献で全訳を載せたものは見当たらないが、インターネット上では「[[ノストラダムスサロン>>http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/n_index]]」が「[[皇太后への書簡>>http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/biogra/royne_mere.htm]]」として公開した。正確な公開日は不明だが最終更新日が2005年1月30日となっていることから((2010年5月23日アクセス時点))、それ以前に公開されたものと思われる。 *原文と翻訳  以下は全文とその翻訳である。この作品に固有の用語や言い回しについては、あとに語注をつけている。便宜上、当「大事典」の判断でいくつかの節に区切ったが、一般的なものでないことをお断りしておく。 **原文 Letre de maistre Michel Nostradamus, docteur en Medecine, de Salon de Craux en Prouence, A La Royne mere du Roy. (1)Madame, ayant entendu que s'approchoyent Comitia&sup(){1} de vostre Royaume, bien que vostre Maiesté par quelques autres en puisse estre aduertie, toutesfois selon le scauoir que Dieu m'a donné, (2)& faisant mon deuoir pour mon Roy, comme seruiteur tresobeissant & suiect, & iouste la charge de mon estat, que votre maiesté me donna, Que si par les Astres se pouuoit scauoir & entendre le futur, i'en aduertisse vostre Maiesté. (3)Et pource, par aucunes figures celestes, erigees en cest endroit, ie treuue quelque briefue prorogation de temps & de lieu, & le tout estre en paix, amour, vnion & concorde, sans dissimulation, ne [[simultés>simulte]] : combien&sup(){2} qu'il y aura de grandes contradictions & differens. Mais à la parfin vn chascun s'en retournera content de bouche & de coeur : ceux mesmes, à qui le retour dependra de [[vuyder>vuider]]. Mais au reste, ceste assemblee sera cause d'vne grande paix, & contentement, par tout vostre Royaume.(4)I'en ay fait vn petit discours, que ie ne&sup(){3} me suis voulu auenturer de l'enuoyer à vostre Maiesté, iusques à ce, que ie aye entendu le vouloir plus ample d'icelle. Ce que vostre Maiesté dira & fera, sera promptement dit, fait & executé.(5)Plaise aussi à vostre Maiesté me faire enuoyer la figure celeste, Astronomique, de l'an xvij. du Roy treschrestien, vostre fils, pour faire l'explication bien au point : pour ce que ie trouue en icelle annee, quelque grande & tresfelice fortune de paix longue, en son Royaume. Mais&sup(){4} qu'elle soit exactement calculee, pour la conferer auec la mienne : & ie me parforceray&sup(){5} de faire ce que ie suis tenu, pour mon Roy, mon souuerain seigneur & maistre :(6)apres que i'auray prié le Createur de tout le monde, vous donner, Madame, vie longue, en santé, & toute constante prosperité, accompagnee de l'entier accomplissement des Royaux desirs de vostre Maiesté. (7)De vostre ville de Salon de Craux, en Prouence, ce xxij. iour de Decembre 1565. Auec la souscription en ces mots : &italic(){Vostre treshumble & tresobeissant seruiteur & suiet, Michel Nostradamus.} Et au dessus d'icelle : &italic(){A la Royne, nostre souueraine dame & maistresse.} ***語注 1. Comitia はラテン語で「民会」を意味する。ここでは、後出の assemblee と同じ意味で使われている((cf. Chomarat [1996]))。 2. combien que は現代フランス語の bien que (~ではあるが)と同じ。 3. [[ミシェル・ショマラ]]の現代語訳を見る限りでは、ここでの ne は虚辞のようである((Chomarat [1996]))。 4. mais que は pourvu que(~しさえすれば)、quand(~のときに)、à condition que (~という条件で)などを意味する中期フランス語の成句((DMF p.394)) 5. se parforcer は『仏和大辞典』、DMF などには見当たらないが、ショマラの現代語訳を見る限りでは、古フランス語の se parforcier (努力する)((LAF p.375))と同じようである。 **対訳 プロヴァンス州サロン・ド・クローの医学博士ミシェル・ノストラダムス師による王太后への書簡 (1)王太后陛下&sup(){1}、御身のしろしめす王国の議会が近く開かれることを知りました。それは陛下なら他のなんぴとかを通じてお聞き及びになられる事柄でしょうが、私は神から与えられた知識に基づいて知ったのです。 (2)そして、非常に忠実な従僕としての、また臣民としての義務を、私は国王に対して負っていますし、陛下から賜った地位&sup(){2}に課せられた仕事でもありますから、星辰によって未来が知覚されれば、私はそれを陛下にお知らせする次第です。 (3)それに関して、私がいる場所で確立されているいくつかの天の表徴を通じて、私は時期的にも空間的にも多少の短い間隔(休会)と、全てが隠し事もわだかまりもなく平和、愛、統一、調和に至ることを見出します。もちろん、大きな異論、反論はあるでしょうが、最後には誰もが言葉の上でも心の内でも満足する方へと帰着するでしょう。それらへと帰着することが、解決することに繋がるのです。いずれにしましても、その会議は御身のしろしめす王国にあまねく行き渡る大きな平和と満足の根源となるでしょう。 (4)以上、陛下に思い切って奏上したいと思った事柄を、陛下ならここまで述べてもお許しくださると思った範囲で&sup(){3}、少しばかり語ってまいりました。陛下がおっしゃるであろうこと、なさるであろうことは、即座に布告され、行われ、執行されることでしょう。 (5)ところで、御身のご令息にして敬虔なキリスト教徒たる国王が17歳になられるときの星位図を、周到に解釈させていただきたいので、私めにお送りいただけないでしょうか。それといいますのは、その年に御身のしろしめす王国で長きにわたる平和のための何か大きな、そして恩寵溢れる幸運があると私には思えるからです。私が作成した星位図と対照できるように、お送りいただく星位図が正確に算定されてさえいれば、私は至高の支配者にして主人たる国王のために義務を果たすことに努めます。 (6)王太后陛下、それはもちろん、長寿、健康、そして陛下がお望みになる王者の欲求の成就を余すところなく伴う恒常的な繁栄そのものが、御身に与えられますようにと、全世界の創造主に祈った後でのことになるでしょう。 (7)1565年12月22日、御身のしろしめすプロヴァンス州サロン・ド・クローの町から。 この署名とともに 「御身の非常に賤しく、非常に忠実な従僕にして臣下、ミシェル・ノストラダムス」 そしてこの結語の上に 「我らが至高の貴婦人にして女主人であらせられる王太后へ」。 ***訳について 1. この訳では royne mere du roy を「王太后」、madame を「王太后陛下」、vostre Majesté を「陛下」、それ以外の vostre... を「御身の・・・」で統一している。 2. ノストラダムスは1564年に「王附常任侍医 兼 顧問」に任命されている。 3. 「陛下ならここまで述べてもお許しくださると思った範囲で」の直訳は「私が陛下のより豊かな善意を理解したところまで」。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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