百詩篇第3巻34番

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*原文 Quand le defaut du soleil&sup(){1} lors sera, Sus&sup(){2} le plain iour le [[monstre]]&sup(){3} sera veu: Tout autrement on&sup(){4} l'interpretera&sup(){5}. [[Cherté>cherté]] n'a garde&sup(){6} : nul ny&sup(){7} aura pourueu&sup(){8}. **異文 (1) soleil 1555 1627 1650Ri 1840 : Soleil &italic(){T.A.Eds.} (2) Sus 1555 1594JF 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1840 : Sur &italic(){T.A.Eds.}(&italic(){sauf} : ur 1600) (3) monstre : Monstre 1672 1712Guy (4) on : ou 1716 1772Ri (5) l'interpretera : l'Interpretera 1672 (6) Cherté n'a garde : Garde cherté 1594JF, Cherté na garde 1672 (7) ny 1555 1589PV 1627 1650Ri 1672 : n'y &italic(){T.A.Eds.} (8) pourueu : prouueu 1594JF (注記)1588-89 は I-87 に差し替えられていて不収録 *日本語訳 太陽が欠けるであろう時、 白昼に怪異が目撃されるだろう。 それは全く異なる意味に解釈されるだろう。 騰貴は警戒されず、誰もそれに備えないだろう。 **訳について  山根訳は3行目まで問題はないが、4行目「彼らは高価な犠牲を気にせず なんぴともそれを供給しないだろう」((山根 [1988] p.126))は、[[cherté]] を「高価な犠牲」と訳すことが疑問。  大乗訳は3行目「ほかの道を説明するだろう」((大乗 [1975] p.105))がまず不適切。tout autrement は副詞句で「すっかり違うように」「完全に別の方法で」などの意味であり、目的語として訳すのはおかしい。  4行目「欠乏はまもられず だれも用意しないだろう」は、cherté を「欠乏」と訳すのは可能にしても、garde はこの場合「監視」などの意味に取るべきだろう。この点、[[高田勇]]・[[伊藤進]]訳が参考になる。  この詩については[[五島勉]]訳についても触れておこう。  1行目「日の国の欠陥が現れるとき」((五島『ノストラダムスの大予言スペシャル・日本編』p.116))は、解釈を交えすぎだろう。  2行目「平坦な日の上に怪物が出てくる」は誤訳。sus le plain jour は現代語の en plein jour と同じで「白昼」を意味する((Brind’Amour [1996] p.380, Clebert [2003] etc.))。  4行目「シェルテ・ナギャルド それに対する備えは何もないのだ」も不適切。前半をカタカナで書いているのは演出の一環としても、後半の nul は主語なのだから「誰も」であって、「何も」(rien)とは意味が異なる。これは現代語でも中期フランス語でも同じである((cf. DMF ))。  なお、「シェルテ ナギャルド」というカタカナ書きは[[飛鳥昭雄]]も踏襲しているが、彼は一貫して「ナギャルド」に「防御」という訳をあてている((飛鳥『ノストラダムス最後の警告』p.142、同『ノストラダムスの大真実・完全版』p.195、同『ノストラダムス恐怖のファイナルメッセージ』p.13))。だが、「防御」と訳しうるのは garde の部分だけで、 n'a は「持たない」の意味である。 *信奉者側の見解  [[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は、1567年4月9日正午頃の日蝕のこととした。それはキュプリアヌス・レオウィティウスも日蝕に関する著書の中で触れていたものだという。  シャヴィニーはそのときの「怪物」について具体的には述べていないが、それが騰貴を予告するものだとした((Chavigny [1594] p.162))。  時期をはっきりさせず、ほとんどそのまま敷衍したような解釈は[[テオフィル・ド・ガランシエール]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]らが展開している((Garencieres [1672], Guynaud [1712]p.453, Fontbrune [1939] p.137))。なお、フォンブリュヌは太陽をフランスの政体と解釈している。  [[アンドレ・ラモン]]は、ノストラダムスが聖書に従って世の終わりについて予言したものと推測した((Lamont [1943] p.352))。  [[五島勉]]は、上で見たように「太陽」を「日の国」と読み替え、日本において怪物じみた高度な技術力と産業の空洞化などが両立する時代に、地価や株価などの暴騰と暴落が起こることの予言と解釈した ((五島『ノストラダムスの大予言・日本編』pp.116-126))。  [[加治木義博]]はかなり独特な訳を付けた上で、1990年代初頭の日本において、霊感商法やそれに類似したやり口のカルト宗教が跋扈していることと解釈していた((加治木『真説ノストラダムスの大予言・日本篇』pp.157-158))。なお、教祖に霊が宿ったと自称している、高い本を売りつけるなど、特定の教団を想定しているかのような書き方をしてはいるが、具体的な教団名は挙げていない。  [[飛鳥昭雄]]は、経済大国の座から転落した後の日本に軍国主義が台頭すると解釈したり、1999年頃に日本発の世界大恐慌が起こると解釈したりした((飛鳥『ノストラダムスの大真実・完全版』p.195、同『ノストラダムス最後の警告』pp.141-144))。 *同時代的な視点  詩の情景はほとんど読んだままである。  日蝕が起こるときに驚異も目撃され、本来凶兆であるそれを逆に受け取った結果、騰貴と飢饉に誰も対応できない、といったところであろう。  五島は [[cherté]] を「暴騰」と「暴落」がセットに込められていると解釈していたが、単語の本来的意味からすれば、「騰貴、高騰」とセットになっているのは「欠乏、飢饉」である。[[ピエール・ブランダムール]]、[[高田勇]]・[[伊藤進]]といった現代の学識ある論者達はもとより、17世紀末頃の信奉者[[バルタザール・ギノー]]もそう読んでいた。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は1556年の日蝕のときにフランスで旱魃があり、小麦の高騰に繋がったことを指摘している((Clébert [2003]))。ただし、この詩の初出は1555年である。  [[ピーター・ラメジャラー]]はコンラドゥス・リュコステネスが報告している1540年の事例を引き合いに出している。この年の4月に日蝕があり、双頭の子供の誕生も報告されたという。また、その年の夏は酷暑で、干し草などに不足が生じたという((Lemesurier [2003b]))。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 - 経済ジャーナリストの荻原博子さんが、今は亡き講談社・月刊現代に書いた文、2年まで1.59%、3年目から金利になる住宅ローンの怖さを解説した記事と重なるのですが。 -- サクライ (2015-11-21 09:17:26) #comment
*原文 Quand le defaut du soleil&sup(){1} lors sera, Sus&sup(){2} le plain iour le [[monstre]]&sup(){3} sera veu: Tout autrement on&sup(){4} l'interpretera&sup(){5}. [[Cherté>cherté]] n'a garde&sup(){6} : nul ny&sup(){7} aura pourueu&sup(){8}. **異文 (1) soleil 1555 1627 1650Ri 1840 : Soleil &italic(){T.A.Eds.} (2) Sus 1555 1594JF 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1840 : Sur &italic(){T.A.Eds.}(&italic(){sauf} : ur 1600) (3) monstre : Monstre 1672 1712Guy (4) on : ou 1716 1772Ri (5) l'interpretera : l'Interpretera 1672 (6) Cherté n'a garde : Garde cherté 1594JF, Cherté na garde 1672 (7) ny 1555 1589PV 1627 1650Ri 1672 : n'y &italic(){T.A.Eds.} (8) pourueu : prouueu 1594JF (注記)1588-89 は I-87 に差し替えられていて不収録 *日本語訳 太陽が欠けるであろう時、 白昼に怪異が目撃されるだろう。 それは全く異なる意味に解釈されるだろう。 騰貴は警戒されず、誰もそれに備えないだろう。 **訳について  山根訳は3行目まで問題はないが、4行目「彼らは高価な犠牲を気にせず なんぴともそれを供給しないだろう」((山根 [1988] p.126))は、[[cherté]] を「高価な犠牲」と訳すことが疑問。  大乗訳は3行目「ほかの道を説明するだろう」((大乗 [1975] p.105))がまず不適切。tout autrement は副詞句で「すっかり違うように」「完全に別の方法で」などの意味であり、目的語として訳すのはおかしい。  4行目「欠乏はまもられず だれも用意しないだろう」は、cherté を「欠乏」と訳すのは可能にしても、garde はこの場合「監視」などの意味に取るべきだろう。この点、[[高田勇]]・[[伊藤進]]訳が参考になる。  この詩については[[五島勉]]訳についても触れておこう。  1行目「日の国の欠陥が現れるとき」((五島『ノストラダムスの大予言スペシャル・日本編』p.116))は、解釈を交えすぎだろう。  2行目「平坦な日の上に怪物が出てくる」は誤訳。sus le plain jour は現代語の en plein jour と同じで「白昼」を意味する((Brind’Amour [1996] p.380, Clebert [2003] etc.))。  4行目「シェルテ・ナギャルド それに対する備えは何もないのだ」も不適切。前半をカタカナで書いているのは演出の一環としても、後半の nul は主語なのだから「誰も」であって、「何も」(rien)とは意味が異なる。これは現代語でも中期フランス語でも同じである((cf. DMF ))。  なお、「シェルテ ナギャルド」というカタカナ書きは[[飛鳥昭雄]]も踏襲しているが、彼は一貫して「ナギャルド」に「防御」という訳をあてている((飛鳥『ノストラダムス最後の警告』p.142、同『ノストラダムスの大真実・完全版』p.195、同『ノストラダムス恐怖のファイナルメッセージ』p.13))。だが、「防御」と訳しうるのは garde の部分だけで、 n'a は「持たない」の意味である。 *信奉者側の見解  [[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は、1567年4月9日正午頃の日蝕のこととした。それはキュプリアヌス・レオウィティウスも日蝕に関する著書の中で触れていたものだという。  シャヴィニーはそのときの「怪物」について具体的には述べていないが、それが騰貴を予告するものだとした((Chavigny [1594] p.162))。  時期をはっきりさせず、ほとんどそのまま敷衍したような解釈は[[テオフィル・ド・ガランシエール]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]らが展開している((Garencieres [1672], Guynaud [1712]p.453, Fontbrune [1939] p.137))。なお、フォンブリュヌは太陽をフランスの政体と解釈している。  [[アンドレ・ラモン]]は、ノストラダムスが聖書に従って世の終わりについて予言したものと推測した((Lamont [1943] p.352))。  [[五島勉]]は、上で見たように「太陽」を「日の国」と読み替え、日本において怪物じみた高度な技術力と産業の空洞化などが両立する時代に、地価や株価などの暴騰と暴落が起こることの予言と解釈した ((五島『ノストラダムスの大予言・日本編』pp.116-126))。  [[加治木義博]]はかなり独特な訳を付けた上で、1990年代初頭の日本において、霊感商法やそれに類似したやり口のカルト宗教が跋扈していることと解釈していた((加治木『真説ノストラダムスの大予言・日本篇』pp.157-158))。なお、教祖に霊が宿ったと自称している、高い本を売りつけるなど、特定の教団を想定しているかのような書き方をしてはいるが、具体的な教団名は挙げていない。  [[飛鳥昭雄]]は、経済大国の座から転落した後の日本に軍国主義が台頭すると解釈したり、1999年頃に日本発の世界大恐慌が起こると解釈したりした((飛鳥『ノストラダムスの大真実・完全版』p.195、同『ノストラダムス最後の警告』pp.141-144))。 *同時代的な視点  詩の情景はほとんど読んだままである。  日蝕が起こるときに驚異も目撃され、本来凶兆であるそれを逆に受け取った結果、騰貴と飢饉に誰も対応できない、といったところであろう。  五島は [[cherté]] を「暴騰」と「暴落」がセットに込められていると解釈していたが、単語の本来的意味からすれば、「騰貴、高騰」とセットになっているのは「欠乏、飢饉」である。  [[ピエール・ブランダムール]]、[[高田勇]]・[[伊藤進]]といった現代の学識ある論者達はもとより、17世紀末頃の信奉者[[バルタザール・ギノー]]もそう読んでいた。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は1556年の日蝕のときにフランスで旱魃があり、小麦の高騰に繋がったことを指摘している((Clébert [2003]))。ただし、この詩の初出は1555年である。  [[ピーター・ラメジャラー]]はコンラドゥス・リュコステネスが報告している1540年の事例を引き合いに出している。この年の4月に日蝕があり、双頭の子供の誕生も報告されたという。また、その年の夏は酷暑で、干し草などに不足が生じたという((Lemesurier [2003b]))。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 ---- &bold(){コメントらん} 以下に投稿されたコメントは&u(){書き込んだ方々の個人的見解であり}、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません。  なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 - 経済ジャーナリストの荻原博子さんが、今は亡き講談社・月刊現代に書いた文、2年まで1.59%、3年目から金利になる住宅ローンの怖さを解説した記事と重なるのですが。 -- サクライ (2015-11-21 09:17:26)

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