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&bold(){サロン=ド=プロヴァンス}(Salon-de-Provence)は、南フランス、ブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。ノストラダムスが晩年を過ごした町として、また[[アダン・ド・クラポンヌ]]の出身地として知られている。
*概要
クロー平野に位置し、かつてはサロン・ド・クローとも呼ばれていた。古来、オリーブオイルやマルセイユ石鹸の産地として知られている。現在は空軍士官学校の所在地でもある。
市の中心部近くにアンペリ城がそびえる。かつてはアルル大司教の私邸だったが、現在は博物館に改装されている。
市庁舎の前には[[アダン・ド・クラポンヌ]]の像が飾られている((以上、町の概要については、『地球・街角ガイド プロヴァンス』pp.147, バーバラ・ノウ [2005] pp.134 によった。))。
*ノストラダムス関連
ノストラダムスは1547年にこの町の[[アンヌ・ポンサルド]]と結婚したのを機に、サロンに移り住んだ。彼は[[暦書]]などにラテン語で署名するときには、しばしばこの町を「プロヴァンスのサロン・ペトラ」と呼んだ。当時の呼称サロン・ド・クローのクローは「石の堆積地」を意味するケルト語に由来しており、ラテン語で「石」を意味するペトラに通じるためらしい((Lemesurier [2003b]))。
ノストラダムスはここで6人の子をもうけ、1566年7月2日に亡くなった。彼が晩年を過ごした家は、現在は市営の「ノストラダムス記念館」(Maison de Nostradamus)となっている。この記念館のある通りは「ノストラダムス通り」(rue Nostradamus)と名づけられており、近隣には「百詩篇集広場」(place des Centuries)やノストラダムス・センター(Centre Nostradamus)もある。
オルロージュ門方面に行けば、ノストラダムスの巨大な壁画を見ることもできる。
#ref(Peinture.JPG)
【画像】サロンの壁画((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Peinture_sur_immeuble_de_4_niveaux_%C3%A0_Salon-de-Provence.JPG]], 画像作成者は[[Vi..Cult...>http://commons.wikimedia.org/wiki/User:Vi..Cult...]]))
町外れにはサン=ローラン教会があり、その聖母礼拝堂の壁にノストラダムスの遺骨は納められている。サン=ローランに移設される前には立ったままで埋葬されていたという伝説もあるが、[[シャルル・レノー=プランス]]によれば、現在は骨壷におさめられているようである((Reynaud-Plense [1940]))。
アンペリ城は、かつてサロンに立ち寄った国王シャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスが逗留した場所であり、ノストラダムスもそこで謁見を果たしている。
ノストラダムスの生誕500周年にあたる2003年には、アンペリ城で記念の展覧会「危機の時代のための予言」が開催された。そのときの公式ガイドブックには、サロン市長が祝辞を寄せている((Laroche [2003]))。
市庁舎前にあるのはクラポンヌの像だが、庁舎内の「結婚の間」には[[セザール・ド・ノートルダム]]による[[ノストラダムスの肖像画の一つ>ノストラダムスの肖像画 (サロン市庁舎所蔵)]]が飾られている。
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※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
&bold(){サロン=ド=プロヴァンス}(Salon-de-Provence)は、南フランス、ブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。
ノストラダムスが晩年を過ごした町として、また[[クラポンヌ運河]]を建設した[[アダン・ド・クラポンヌ]]の出身地として知られている。
*概要
クロー平野に位置し、かつては&bold(){サロン・ド・クロー}とも呼ばれていた。
古来、オリーブオイルやマルセイユ石鹸の産地として知られている。現在は空軍士官学校の所在地でもある。
市の中心部近くにアンペリ城がそびえる。
かつては[[アルル]]大司教の私邸だったが、現在は博物館に改装されている。
市庁舎の前には[[アダン・ド・クラポンヌ]]の像が飾られている((以上、町の概要については、『地球・街角ガイド プロヴァンス』pp.147, バーバラ・ノウ [2005] pp.134 によった。))。
*ノストラダムス関連
ノストラダムスは1547年にこの町の[[アンヌ・ポンサルド]]と結婚したのを機に、サロンに移り住んだ。
彼は[[暦書]]などにラテン語で署名するときには、しばしばこの町を「プロヴァンスのサロン・ペトラ」と呼んだ。当時の呼称サロン・ド・クローのクローは「石の堆積地」を意味するケルト語に由来しており、ラテン語で「石」を意味するペトラに通じるためらしい((Lemesurier [2003b]))。
ノストラダムスはここで6人の子をもうけ、1566年7月2日に亡くなった。
彼が晩年を過ごした家は、現在は市営の「ノストラダムス記念館」(Maison de Nostradamus)となっている。
この記念館のある通りは「ノストラダムス通り」(rue Nostradamus)と名づけられており、近隣には「詩百篇集広場」(place des Centuries)やノストラダムス・センター(Centre Nostradamus)もある。
オルロージュ門方面に行けば、ノストラダムスの巨大な壁画を見ることもできる。
#ref(Peinture.JPG)
【画像】サロンの壁画((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Peinture_sur_immeuble_de_4_niveaux_%C3%A0_Salon-de-Provence.JPG]], 画像作成者は[[Vi..Cult...>http://commons.wikimedia.org/wiki/User:Vi..Cult...]]))
町外れにはサン=ローラン教会があり、その聖母礼拝堂の壁にノストラダムスの遺骨は納められている。
立ったままで埋葬されていたという俗説もあるが、[[シャルル・レノー=プランス]]によれば、実際には骨壷におさめられているようである((Reynaud-Plense [1940]))。
アンペリ城は、かつてサロンに立ち寄った国王シャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスが逗留した場所であり、ノストラダムスもそこで謁見を果たしている。
ノストラダムスの生誕500周年にあたる2003年には、アンペリ城で記念の展覧会「危機の時代のための予言」が開催された。
そのときの公式ガイドブックには、サロン市長が祝辞を寄せている((Laroche [2003]))。
市庁舎前にあるのはクラポンヌの像だが、庁舎内の「結婚の間」には[[セザール・ド・ノートルダム]]による[[ノストラダムスの肖像画の一つ>ノストラダムスの肖像画 (サロン市庁舎所蔵)]]が飾られている。
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