「ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (アントワーヌ・ボードラン)」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
1644年頃から1665年頃にかけて、リヨンでは様々な出版・印刷業者達が『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』を刊行した。[[アントワーヌ・ボードラン]]は単独出版こそ少ないものの、他の業者たちと組んで多くの版を刊行した。
#ref(Baud.png)
【画像】アンドレによる第一部の扉(左)、ボードランによる第二部の扉(右)((画像の出典:Chomarat [1989] pp.135-136))
*基本的な形式
当「大事典」で直接比較しているのは、アンドレ/ボードラン版、ジャン・ユグタン/ボードラン版、ゲー/ボードラン版の3つだけだが、字の歪みなども共通しているので、ボードランが関わった版は扉を差し替えているだけで、実質的に同じ版木が使われているのではないかと思われる。
以下の点はどの版でも共通している。
**題名
第一部
-LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS,
--Dont il y en a trois cens qui n'ont iamais esté imprimées. Adioustées de nouueau par ledit Autheur.
-ミシェル・ノストラダムス師の予言集。
--前述の著者によって新たに加えられた未刊の300篇を含む。
第二部
-LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS.
--Centuries VIII. IX. X. Qui n'ont encores iamais esté imprimées.
-ミシェル・ノストラダムス師の予言集。
--未刊であった百詩篇第八・九・十巻。
**内容
第一部は、第一序文(セザールへの手紙)、百詩篇第1巻から第6巻([[ラテン語詩>愚かな批評家に対する法の警句]]は含むが、補遺篇の[[百詩篇第6巻100番]]は含まない)、第7巻([[43番>百詩篇第7巻43番ter]]、[[44番>百詩篇第7巻44番]]を含む44篇)の順に収められている。なお、第一序文の日付は年表示を含まない単なる「3月1日」になっている。
第二部は、第二序文(アンリ2世への手紙)、百詩篇第8巻から第10巻([[101番>Adiousté depuis l'impression de 1568.]]を含む)、第11巻(四行詩2篇と[[六行詩>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]58篇)、第12巻([[56番>百詩篇第12巻56番]]を除く10篇)が収められている。
*各版の情報
版ごとに異なっているのは、題名の下に書かれた住所表示である(ボードラン/ボードランだけは題名自体が異なっているが、ここで一括して扱う)。
**ジャン・ユグタン/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez IEAN HVGVETAN, en ruë Merciere.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
この版は、メルランの推測では1653年から1662年の間に刊行されたという((Marie-Anne Merland, &italic(){Répertoire bibliographique des livres imprimés en France au XVIIe siècle ( Lyon)}, Baden-Baden ; Valentin Koerner, 1989-2004+))。
リヨン市立図書館に唯一現存している。
**オラース・ユグタン/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez HORACE HVGVETAN, en ruë Merciere.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
オラースの活動時期は1649年から1665年なので、その間に刊行されたはずである。
ロチェスター大学に唯一現存している。
**ボードラン/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
ロベール・ギーが唯一所蔵している。にわかに信じがたいが、彼によれば第一部のタイトルは、LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMUS. Centuries I, II, III, IV, V, VI, VIIとなっているという((cf. Benazra [1990] p.202))。
**ゲー/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez NICOLAS GAY, en ruë Tupin.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
[[ロベール・ブナズラ]]によると、ruë Tupin の r は逆さまに印字されているという((Benazra [1990] p.203))。[[ニコラ・ゲー]]の活動歴からすれば、チュパン通りに戻ったのは1652年以降のことである。
ウィーン国立図書館に現存しており、かつては[[ダニエル・ルソ]]も私蔵していた。
**アンドレ/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez PIERRE ANDRE' ruë merciere.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
ピエール・アンドレの活動は1648年以降のことである。
リヨン市立図書館とフィレンツェ国立図書館に所蔵されている。
**カルトロン/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez IEAN CARTERON en ruë Tupin.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
ジャン・カルトロンの活動開始時期は1649年と1658年の2説ある。
パドヴァ大学に唯一所蔵されている。
*刊行年
扉には記載されておらず、[[ミシェル・ショマラ]]や[[ロベール・ブナズラ]]は1644年から1665年の間と捉えている。しかし、業者たちの活動歴からもう少し絞り込める可能性がある。
[[アントワーヌ・ボードラン]]は、リヨン活動中に Rue Coucheboef → (En) Rue Confort → En la place (de) Confort と住所を変えているが、『予言集』の版は全て Rue Confort 時代に出されている。その正確な期間は不明だが、メルランに拠れば1653年には既にその表示を使っていたという。他方で、メルランはボードランとジャン・ユグタン版を1653年から1662年の間に位置付けているので、Rue Confort だったのはその時期であろうと思われる((ユグタンの場合、時期の違いは旗印で見分けるしかないが、この版でのユグタンの住所表示はメルシエール通りだけで旗印の記載はない。そのため、メルランの推定は純粋にボードランの住所表示のみを根拠にしていると考えられるのである。))。
このことから、ひとまず1653年から1662年の間の可能性が高いとは言えるだろう。
さらに、共同で印刷を手がけた業者の一人、ジャン・カルトロンの活動開始時期を1658年とする見解が正しく、なおかつボードランの手がけた版が全てほぼ同じ時期に出されていたのなら、これらの版の刊行時期は1658年から1662年の間にまで絞り込めることになる。
*原文の特色
当「大事典」が参照している版に限れば、[[1644年版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1644年リヨン)]]に比べて、より多くの改変箇所が存在している。
----
#comment
1644年頃から1665年頃にかけて、リヨンでは様々な出版・印刷業者達が『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』を刊行した。[[アントワーヌ・ボードラン]]は単独出版こそ少ないものの、他の業者たちと組んで多くの版を刊行した。
#ref(Baud.png)
【画像】アンドレによる第一部の扉(左)、ボードランによる第二部の扉(右)((画像の出典:Chomarat [1989] pp.135-136))
*基本的な形式
当「大事典」で直接比較しているのは、アンドレ/ボードラン版、ジャン・ユグタン/ボードラン版、ゲー/ボードラン版の3つだけだが、字の歪みなども共通しているので、ボードランが関わった版は扉を差し替えているだけで、実質的に同じ印刷版が使われているのではないかと思われる。
以下の点はどの版でも共通している。
**題名
第一部
-LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS,
--Dont il y en a trois cens qui n'ont iamais esté imprimées. Adioustées de nouueau par ledit Autheur.
-ミシェル・ノストラダムス師の予言集。
--前述の著者によって新たに加えられた未刊の300篇を含む。
第二部
-LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS.
--Centuries VIII. IX. X. Qui n'ont encores iamais esté imprimées.
-ミシェル・ノストラダムス師の予言集。
--未刊であった百詩篇第八・九・十巻。
**内容
第一部は、第一序文(セザールへの手紙)、百詩篇第1巻から第6巻([[ラテン語詩>愚かな批評家に対する法の警句]]は含むが、補遺篇の[[百詩篇第6巻100番]]は含まない)、第7巻([[43番>百詩篇第7巻43番ter]]、[[44番>百詩篇第7巻44番]]を含む44篇)の順に収められている。なお、第一序文の日付は年表示を含まない単なる「3月1日」になっている。
第二部は、第二序文(アンリ2世への手紙)、百詩篇第8巻から第10巻([[101番>Adiousté depuis l'impression de 1568.]]を含む)、第11巻(四行詩2篇と[[六行詩>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]58篇)、第12巻([[56番>百詩篇第12巻56番]]を除く10篇)が収められている。
*各版の情報
版ごとに異なっているのは、題名の下に書かれた住所表示である(ボードラン/ボードランだけは題名自体が異なっているが、ここで一括して扱う)。
**ジャン・ユグタン/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez IEAN HVGVETAN, en ruë Merciere.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
この版は、メルランの推測では1653年から1662年の間に刊行されたという((Marie-Anne Merland, &italic(){Répertoire bibliographique des livres imprimés en France au XVIIe siècle ( Lyon)}, Baden-Baden ; Valentin Koerner, 1989-2004+))。
リヨン市立図書館に唯一現存している。
**オラース・ユグタン/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez HORACE HVGVETAN, en ruë Merciere.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
オラースの活動時期は1649年から1665年なので、その間に刊行されたはずである。
ロチェスター大学に唯一現存している。
**ボードラン/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
ロベール・ギーが唯一所蔵している。にわかに信じがたいが、彼によれば第一部のタイトルは、LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMUS. Centuries I, II, III, IV, V, VI, VIIとなっているという((cf. Benazra [1990] p.202))。
**ゲー/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez NICOLAS GAY, en ruë Tupin.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
[[ロベール・ブナズラ]]によると、ruë Tupin の r は逆さまに印字されているという((Benazra [1990] p.203))。[[ニコラ・ゲー]]の活動歴からすれば、チュパン通りに戻ったのは1652年以降のことである。
ウィーン国立図書館に現存しており、かつては[[ダニエル・ルソ]]も私蔵していた。
**アンドレ/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez PIERRE ANDRE' ruë merciere.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
ピエール・アンドレの活動は1648年以降のことである。
リヨン市立図書館とフィレンツェ国立図書館に所蔵されている。
**カルトロン/ボードラン
第一部
-A LYON, Chez IEAN CARTERON en ruë Tupin.
第二部
-A LYON, Chez ANTOINE BAVDRAND, en rue Confort à la Fortune.
ジャン・カルトロンの活動開始時期は1649年と1658年の2説ある。
パドヴァ大学に唯一所蔵されている。
*刊行年
扉には記載されておらず、[[ミシェル・ショマラ]]や[[ロベール・ブナズラ]]は1644年から1665年の間と捉えている。しかし、業者たちの活動歴からもう少し絞り込める可能性がある。
[[アントワーヌ・ボードラン]]は、リヨン活動中に Rue Coucheboef → (En) Rue Confort → En la place (de) Confort と住所を変えているが、『予言集』の版は全て Rue Confort 時代に出されている。その正確な期間は不明だが、メルランに拠れば1653年には既にその表示を使っていたという。他方で、メルランはボードランとジャン・ユグタン版を1653年から1662年の間に位置付けているので、Rue Confort だったのはその時期であろうと思われる((ユグタンの場合、時期の違いは旗印で見分けるしかないが、この版でのユグタンの住所表示はメルシエール通りだけで旗印の記載はない。そのため、メルランの推定は純粋にボードランの住所表示のみを根拠にしていると考えられるのである。))。
このことから、ひとまず1653年から1662年の間の可能性が高いとは言えるだろう。
さらに、共同で印刷を手がけた業者の一人、ジャン・カルトロンの活動開始時期を1658年とする見解が正しく、なおかつボードランの手がけた版が全てほぼ同じ時期に出されていたのなら、これらの版の刊行時期は1658年から1662年の間にまで絞り込めることになる。
*原文の特色
当「大事典」が参照している版に限れば、[[1644年版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1644年リヨン)]]に比べて、より多くの改変箇所が存在している。
----
#comment