ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (ピエール・リゴー、1650年頃)

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 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、1650年頃にも[[リヨン]]の[[ピエール・リゴー]]の名義で出版された。 #ref(1650rigaud a.PNG) 【画像】第一部の扉(左)と第二部の扉(右)((画像の出典:Klinckowstroem [1913] pp.370-371)) *正式名 第一部 -LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS. --Dont il y en a trois cens qui n'ont encores iamais esté imprimées. Adioustees de nouueau par ledict Autheur. --A LYON, Chez PIERRE RIGAVD, ruë Merciere, au coing de ruë Ferrandiere, à l'ensaigne de la Fortune. --AVEC PERMISSION. -ミシェル・ノストラダムス師の予言集 --前述の著者によって新たに加えられた未刊の300篇を含む。 --リヨンにて、メルシエール通りのフェランディエール通りとの角に住み、「運命の女神」の旗印を持つピエール・リゴーによる。 --特認とともに。 第二部 -LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS. --Centuries VIII. IX. X. Qui n'ont encore [&italic(){sic.}] iamais esté imprimees. --A LYON, Chez PIERRE RIGAVD, ruë Merciere, au coing de ruë Ferrandiere, à l'ensaigne de la Fortune. --AVEC PERMISSION. -ミシェル・ノストラダムス師の予言集 --未刊であった百詩篇第八・九・十巻 --リヨンにて、メルシエール通りのフェランディエール通りとの角に住み、「運命の女神」の旗印を持つピエール・リゴーによる。 --特認とともに。  この原題はアールガウ州立図書館の伝本に基づくものだが、[[ミシェル・ショマラ]]の指摘によって、下の画像のような細部の異なる版の存在が知られている。 #ref(1650rigaud b.PNG) 【画像】ロシュ本の第一部の扉(左)と第二部の扉(右)((画像の出典:Chomarat [1976] p.10))  第一部の扉に関しては、Merciere や enseigne の区切り方の違いが読み取れる。第二部に関してはそれに加えて Qui が Qni になる一方、encore は encores と綴られていることを確認できる((cf. Chomarat [1976] p.10, Chomarat [1989] no.200, 201))。 *内容  木版画こそ違うが、[[1644年リヨン版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1644年リヨン)]]などと似ている。  第一部は、第一序文(セザールへの手紙)、百詩篇第1巻から第6巻([[ラテン語詩>愚かな批評家に対する法の警句]]は含むが、補遺篇の[[100番>百詩篇第6巻100番]]は含まない)、第7巻([[43番>百詩篇第7巻43番ter]]、[[44番>百詩篇第7巻44番]]を含む44篇)の順に収められている。  第二部は、第二序文(アンリ2世への手紙)、百詩篇第8巻から第10巻([[101番>Adiousté depuis l'impression de 1568.]]を含む)、第11巻(四行詩2篇と[[六行詩>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]58篇)、第12巻([[56番>百詩篇第12巻56番]]を除く10篇)が収められている。  リヨンで出された年代比較の可能な4つの版(1627年、1644年、[[1650年代頃>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (アントワーヌ・ボードラン)]]、1665年)と比べると、1644年版や1650年代の版に近い印象を受ける。  このことは、当「大事典」の各百詩篇の記事(例えば[[百詩篇第4巻68番]]、[[百詩篇第5巻27番]]、[[百詩篇第6巻49番]]、[[百詩篇第9巻16番]]、[[百詩篇第10巻101番>Adiousté depuis l'impression de 1568.]]など)を御覧いただければ、容易に確認していただけることである。その一方で[[百詩篇第7巻44番]]のように、それらとは系統の異なる異文が存在していることも事実であり、さらに精緻な分析が求められることになるだろう。 *刊行年  扉には刊行年が記載されておらず、推測するしかない。  この版の年代推測を最初に行ったのは[[カール・フォン・クリンコフシュトレム]]である。彼は1649年頃とした((Klinckowstroem [1913] p.372))。  [[エドガー・レオニ]]はピエール・リゴー自身が印刷したのだとすれば1605年から1625年、別人によるものなら1625年から1650年としていた((Leoni [1961] p.82))。  [[ダニエル・ルソ]]は18世紀の偽版の可能性を示していた((Ruzo [1997] no.85, 86))。  [[ミシェル・ショマラ]]は1649年頃とし、[[ロベール・ブナズラ]]は1650年頃としていた((Chomarat [1989] no.200, 201 ; Benazra [1990] pp.217-219))。  [[ジャン=ポール・ラロッシュ]]がまとめたショマラ文庫の目録では1620年頃とされている((Laroche [1999a] ))。  以上、ルソとラロッシュを除けば、おおむね1650年前後で合意されてきたといってよい。しかし、レオニがつとに指摘していたように、[[ピエール・リゴー]]の活動時期とは一致しないのである。  ラロッシュの修正はその辺りを念頭に置いたものだろうが、当「大事典」としてはむしろ伝統的な推定どおり1650年前後と見る方が妥当であろうと考える。それは既に述べたように、収録詩篇の内容や異文の特色が1644年版などと近い時期に出版された可能性が高いことを示しているからである。 *出版業者  1650年前後とする場合、ピエール・リゴーの作品とは見なせない。  しかし、1640年代には甥にあたるピエール・リゴー2世が同じ住所で出版事業を営んでいたので、彼が出版した可能性もある。[[ジャン・ユグタン]]や[[ジャン・ド・トゥルヌ]]などもそうだが、当時の業者はいちいち代数を名乗らないので、世代交代が起こった場合に同名の別人になっていることは起こりうる。  この点は2010年7月時点では海外でも誰も提唱しておらず、単なる奇説にすぎないものかもしれないが、一つの可能性として提唱しておきたい。  なお、扉の木版画はレオニも指摘するように従来のリゴー家の版では使われていなかったものだが、ノストラダムス以外の文献でならいずれも[[ブノワ・リゴー]]による使用例があり、うち一つは(そういう文脈ではなかったが)宮下志朗によって日本でも紹介されている。 #ref(pridige rigaud.PNG) 【画像】宮下論文で紹介された『驚くべき超自然現象』の扉((画像の出典:宮下 [2000] p.142)) *所蔵先 正式名の節で触れた Qui と Qni で分類しておく。 -Qui --[[ポール・アルボー博物館]]、リヨン市立図書館ミシェル・ショマラ文庫、マドリード国立図書館、アールガウ州立図書館(スイス、アーラウ)、アンブロジャーナ図書館(イタリア、ミラノ) --かつて[[ダニエル・ルソ]]も私蔵しており、2007年4月のオークションに出品されたが、落札者は不明である。 -Qni --オルレアン市立図書館、ハーヴァード大学 --1976年頃にリヨンに住んでいたロシュ(Loche)という人物が私蔵しており、ミシェル・ショマラの紹介はその伝本に基づいていた。 ---- #comment
 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、1650年頃にも[[リヨン]]の[[ピエール・リゴー]]の名義で出版された。 #ref(1650rigaud a.PNG) 【画像】第一部の扉(左)と第二部の扉(右)((画像の出典:Klinckowstroem [1913] pp.370-371)) *正式名 第一部 -LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS. --Dont il y en a trois cens qui n'ont encores iamais esté imprimées. Adioustees de nouueau par ledict Autheur. --A LYON, Chez PIERRE RIGAVD, ruë Merciere, au coing de ruë Ferrandiere, à l'ensaigne de la Fortune. --AVEC PERMISSION. -ミシェル・ノストラダムス師の予言集 --前述の著者によって新たに加えられた未刊の300篇を含む。 --リヨンにて、メルシエール通りのフェランディエール通りとの角に住み、「運命の女神」の旗印を持つピエール・リゴーによる。 --特認とともに。 第二部 -LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS. --Centuries VIII. IX. X. Qui n'ont encore [&italic(){sic.}] iamais esté imprimees. --A LYON, Chez PIERRE RIGAVD, ruë Merciere, au coing de ruë Ferrandiere, à l'ensaigne de la Fortune. --AVEC PERMISSION. -ミシェル・ノストラダムス師の予言集 --未刊であった百詩篇第八・九・十巻 --リヨンにて、メルシエール通りのフェランディエール通りとの角に住み、「運命の女神」の旗印を持つピエール・リゴーによる。 --特認とともに。  この原題はアールガウ州立図書館の伝本に基づくものだが、[[ミシェル・ショマラ]]の指摘によって、下の画像のような細部の異なる版の存在が知られている。 #ref(1650rigaud b.PNG) 【画像】ロシュ本の第一部の扉(左)と第二部の扉(右)((画像の出典:Chomarat [1976] p.10))  第一部の扉に関しては、Merciere や enseigne の区切り方の違いが読み取れる。第二部に関してはそれに加えて Qui が Qni になる一方、encore は encores と綴られていることを確認できる((cf. Chomarat [1976] p.10, Chomarat [1989] no.200, 201))。 *内容  木版画こそ違うが、[[1644年リヨン版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1644年リヨン)]]などと似ている。  第一部は、第一序文(セザールへの手紙)、百詩篇第1巻から第6巻([[ラテン語詩>愚かな批評家に対する法の警句]]は含むが、補遺篇の[[100番>百詩篇第6巻100番]]は含まない)、第7巻([[43番>百詩篇第7巻43番ter]]、[[44番>百詩篇第7巻44番]]を含む44篇)の順に収められている。  第二部は、第二序文(アンリ2世への手紙)、百詩篇第8巻から第10巻([[101番>Adiousté depuis l'impression de 1568.]]を含む)、第11巻(四行詩2篇と[[六行詩>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]58篇)、第12巻([[56番>百詩篇第12巻56番]]を除く10篇)が収められている。  リヨンで出された年代比較の可能な4つの版(1627年、1644年、[[1650年代頃>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (アントワーヌ・ボードラン)]]、1665年)と比べると、1644年版や1650年代の版に近い印象を受ける。  このことは、当「大事典」の各百詩篇の記事(例えば[[百詩篇第4巻68番]]、[[百詩篇第5巻27番]]、[[百詩篇第6巻49番]]、[[百詩篇第9巻16番]]、[[百詩篇第10巻101番>Adiousté depuis l'impression de 1568.]]など)を御覧いただければ、容易に確認していただけることである。その一方で[[百詩篇第7巻44番]]のように、それらとは系統の異なる異文が存在していることも事実であり、さらに精緻な分析が求められることになるだろう。 *刊行年  扉には刊行年が記載されておらず、推測するしかない。  この版の年代推測を最初に行ったのは[[カール・フォン・クリンコフシュトレム]]である。彼は1649年頃とした((Klinckowstroem [1913] p.372))。  [[エドガー・レオニ]]はピエール・リゴー自身が印刷したのだとすれば1605年から1625年、別人によるものなら1625年から1650年としていた((Leoni [1961] p.82))。  [[ダニエル・ルソ]]は18世紀の偽版の可能性を示していた((Ruzo [1997] no.85, 86))。  [[ミシェル・ショマラ]]は1649年頃とし、[[ロベール・ブナズラ]]は1650年頃としていた((Chomarat [1989] no.200, 201 ; Benazra [1990] pp.217-219))。  [[ジャン=ポール・ラロッシュ]]がまとめたショマラ文庫の目録では1620年頃とされている((Laroche [1999a] ))。  以上、ルソとラロッシュを除けば、おおむね1650年前後で合意されてきたといってよい。しかし、レオニがつとに指摘していたように、[[ピエール・リゴー]]の活動時期とは一致しないのである。  ラロッシュの修正はその辺りを念頭に置いたものだろうが、当「大事典」としてはむしろ伝統的な推定どおり1650年前後と見る方が妥当であろうと考える。それは既に述べたように、収録詩篇の内容や異文の特色が1644年版などと近い時期に出版された可能性が高いことを示しているからである。 *出版業者  1650年前後とする場合、ピエール・リゴーの作品とは見なせない。  しかし、1640年代には甥にあたるピエール・リゴー2世が同じ住所で出版事業を営んでいたので、彼が出版した可能性もある。[[ジャン・ユグタン]]や[[ジャン・ド・トゥルヌ]]などもそうだが、当時の業者はいちいち代数を名乗らないので、世代交代が起こった場合に同名の別人になっていることは起こりうる。  この点は2010年7月時点では海外でも誰も提唱しておらず、単なる奇説にすぎないものかもしれないが、一つの可能性として提唱しておきたい。  なお、扉の木版画はレオニも指摘するように従来のリゴー家の版では使われていなかったものだが、ノストラダムス以外の文献でならいずれも[[ブノワ・リゴー]]による使用例があり、うち一つは(そういう文脈ではなかったが)宮下志朗によって日本でも紹介されている。 #ref(pridige rigaud.PNG) 【画像】宮下論文で紹介された『不思議な驚異』の扉((画像の出典:宮下 [2000] p.142)) *所蔵先 正式名の節で触れた Qui と Qni で分類しておく。 -Qui --[[ポール・アルボー博物館]]、リヨン市立図書館ミシェル・ショマラ文庫、マドリード国立図書館、アールガウ州立図書館(スイス、アーラウ)、アンブロジャーナ図書館(イタリア、ミラノ) --かつて[[ダニエル・ルソ]]も私蔵しており、2007年4月のオークションに出品されたが、落札者は不明である。 -Qni --オルレアン市立図書館、ハーヴァード大学 --1976年頃にリヨンに住んでいたロシュ(Loche)という人物が私蔵しており、ミシェル・ショマラの紹介はその伝本に基づいていた。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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