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*原文
Vne nouuele secte&sup(){1} de Philosophes
Mesprisant mort, or&sup(){2}, honneurs&sup(){3} & richesses,
Des monts&sup(){4} [[Germains>Germain]]&sup(){5} ne seront&sup(){6} limitrophes&sup(){7}:
A les ensuiure&sup(){8} auront&sup(){9} apui&sup(){10} & presses.
**異文
(1) secte : Secte 1672 1712Guy
(2) mort, or : or 1611B, mert, or 1620PD
(3) honneurs : honneur 1588-89 1627
(4) monts : moins 1588-89, Monts 1672 1712Guy
(5) Germains : Germanins 1600 1610 1716, germains 1981EB
(6) ne seront : ils seront 1594JF, seront fort 1672
(7) limitrophes : l'imitrophes 1620PD
(8) ensuiure : ensuiures 1627 1644 1649Xa 1653, en suyvre 1650Le
(9) auront : auroit 1620PD
(10) apui : appuis 1594JF
*日本語訳
哲学者たちの新しい一派は、
死、黄金、名誉、富を蔑む
ゲルマニアの山々はその境目にならないだろう。
彼らに付き従うべく支持と人波を得るだろう。
**訳について
3行目の直訳は「ゲルマニアのいくつかの山々は隣接していないだろう」となるが、[[ピエール・ブランダムール]]らの読み方を踏まえて意訳した。
山根訳は余り問題はない。
大乗訳は3行目「かれらはドイツの山々の近くに住み」((大乗 [1975] p.114))が逆の意味になっているが、これは彼女が底本とした[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の原文に従った訳としては誤りではない。ただ、いずれにしてもそのような不正確な原文に基づく訳を採用するわけには行かないだろう。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は、1534年に遡及させ、フランスへのプロテスタントの到来と解釈した((Chavigny [1594] p.38))。
匿名の解釈書『[[百詩篇集に関する小論あるいは注釈>Petit discours ou Commentaire sur les Centuries]]』では、ユグノー戦争末期のカプチン会修道士の動向と関連付けられていた((&italic(){Petit Discour}..., p.9))。
[[テオフィル・ド・ガランシエール]]はライデンのヤン時代のドイツにおける再洗礼派や、解釈当時のイングランドのクエーカー教徒についてとした((Garencieres [1672]))。
ライデンのヤンは、ミュンスターでの再洗礼派による蜂起において、指導的立場にあったライデン出身の仕立屋ヤン・ボッケルソンのことである。
[[バルタザール・ギノー]]は未来のドイツに現れる異端派についての予言とした((Guynaud [1712] pp.226-227))。
その後、20世紀までこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]の著書には載っていない。
[[エミール・リュイール]]はドイツと国境を接しないロシアの共産主義思想についてと解釈した((Ruir [1939] p.49))。
[[ロルフ・ボズウェル]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]はナチスと解釈した ((Boswell [1943] pp.174-175, Lamont [1943] pp.230-231, Fontbrune [1980/1982]))。なお、ボズウェルによれば、ナチス登場以前には、この詩はフリードリヒ・ニーチェやルドルフ・シュタイナーに結び付けられることがあったという。ただし、具体的な解釈者名を挙げていないので、当「大事典」としては検証しようがない。
[[ヘンリー・C・ロバーツ]]はドイツ中部から現れる熱狂的なグループ(fanatical group)についての予言という形で漠然としか解釈していなかったが、のちの改訂版では1960年代のビート・ムーヴメントに関する予言という解釈が付け加えられた((Roberts [1949/1994]. ビート・ムーヴメントについては[[Yahoo!百科事典の「ビート派」の記事>>http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E6%B4%BE/]]などを参照のこと。))。
その日本語版『[[ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]』では、カール・マルクスが科学的社会主義を提唱し、社会主義運動を行ったこととする解釈が、日本語版の編者によって付け加えられていた。
[[中村惠一]]もマルクス主義とする解釈を支持し、詩番号の3巻67番は、『資本論』初巻が1867年の出版であったことと、全3巻であることを示している可能性があるとした((中村 [1991] pp.93-94))。[[池田邦吉]]もマルクス主義の誕生と、それがドイツと国境を接しないロシアでの革命に結びついたことと解釈した((池田『ノストラダムスの預言書解読III』pp.174-175))。
[[エリカ・チータム]]はドイツの再洗礼派に関する詩とした((Cheetham [1973]))。
[[セルジュ・ユタン]]は社会主義国となった東ドイツと解釈した((Hutin [1978/2002]))。
*同時代的な視点
[[ルイ・シュロッセ]]はルター派の出現がモデルになっているとした((Schlosser [1986] pp.34-35))。
[[エドガー・レオニ]]は1520年代から1530年代にかけ、ドイツやスイスなどで盛り上がりを見せた再洗礼派について描写したものではないかとした。[[エヴリット・ブライラー]]も、前半2行の描写はルター派、カルヴァン派、ツヴィングリ派には当てはまらないとし、再洗礼派のことではないかとした((Leoni [1961], LeVert [1979]))。
再洗礼派は幼児洗礼を否定する一派で、1520年代からドイツ語圏で急速に広がった。
1525年には、ルターと袂を分かった再洗礼派のトマス・ミュンツァーが貧者のための神の国を目指し、それが当時の貢租や苦役に不満のあった貧農層の社会革命への欲求と結びつくことで、ドイツ農民戦争の拡大につながった。
その後も各所で厳しい弾圧が加えられる中、武力行使も辞さない過激派達がミュンスターに1534年に集まり、共同体を形成した。指導的立場の一人ヤン・ボッケルソンの義父クニッペルドリングが市長となって市政を牛耳り、弾圧に乗り出した軍隊をも退けたが、攻囲戦を強いられた。その中で共同体はさらに独自の方向に進み、共同体内での貨幣の廃止、共有財産制、一夫多妻制などが強行され、聖画の破壊なども行われた。このミュンスターの蜂起は1535年6月に終わり、多くの処刑者を出した。再洗礼派自体は穏健派を中心にその後も伸張していくことになるが、ミュンスターの一件は再洗礼派の名誉を著しく失墜させた出来事として、当時広く知られていた((この節は主に、テュヒレほか『キリスト教史5』平凡社、pp.137-140, 176-180 ; ノーマン・コーン『千年王国の追求』pp.243-293 などによる))。
[[ピエール・ブランダムール]]、[[高田勇]]・[[伊藤進]]、[[ロジェ・プレヴォ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]らも、1525年のドイツ農民戦争に力点をおくか、1534年から1535年のミュンスターの蜂起に力点を置くかの違いはあるにせよ、再洗礼派の動きと結び付ける点では一致している((Brind’Amour [1996], 高田・伊藤 [1999], Prévost [1999] p.140, Lemesurier [2003b], Clébert [2003], Petey-Girard [2003]))。
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*原文
Vne nouuele secte&sup(){1} de Philosophes
Mesprisant mort, or&sup(){2}, honneurs&sup(){3} & richesses,
Des monts&sup(){4} [[Germains>Germain]]&sup(){5} ne seront&sup(){6} limitrophes&sup(){7}:
A les ensuiure&sup(){8} auront&sup(){9} apui&sup(){10} & presses.
**異文
(1) secte : Secte 1672 1712Guy
(2) mort, or : or 1611B, mert, or 1620PD
(3) honneurs : honneur 1588-89 1627
(4) monts : moins 1588-89, Monts 1672 1712Guy
(5) Germains : Germanins 1600 1610 1716, germains 1981EB
(6) ne seront : ils seront 1594JF, seront fort 1672
(7) limitrophes : l'imitrophes 1620PD
(8) ensuiure : ensuiures 1627 1644 1649Xa 1653, en suyvre 1650Le
(9) auront : auroit 1620PD
(10) apui : appuis 1594JF
*日本語訳
哲学者たちの新しい一派は、
死、黄金、名誉、富を蔑む。
ゲルマニアの山々はその境目にならないだろう。
彼らに付き従うべく支持と人波を得るだろう。
**訳について
3行目の直訳は「ゲルマニアのいくつかの山々は隣接していないだろう」となるが、[[ピエール・ブランダムール]]らの読み方を踏まえて意訳した。
山根訳は余り問題はない。
大乗訳は3行目「かれらはドイツの山々の近くに住み」((大乗 [1975] p.114))が逆の意味になっているが、これは彼女が底本とした[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の原文に従った訳としては誤りではない。
ただ、いずれにしてもそのような不正確な原文に基づく訳を採用するわけには行かないだろう。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は、1534年に遡及させ、フランスへのプロテスタントの到来と解釈した((Chavigny [1594] p.38))。
匿名の解釈書『[[百詩篇集に関する小論あるいは注釈>Petit discours ou Commentaire sur les Centuries]]』では、ユグノー戦争末期のカプチン会修道士の動向と関連付けられていた((&italic(){Petit Discour}..., p.9))。
[[テオフィル・ド・ガランシエール]]は「ライデンのヤン時代」(後述)のドイツにおける再洗礼派や、解釈当時のイングランドのクエーカー教徒についてとした((Garencieres [1672]))。
ライデンのヤンは、ミュンスターでの再洗礼派による蜂起において、指導的立場にあったライデン出身の仕立屋ヤン・ボッケルソンのことである。
[[バルタザール・ギノー]]は未来のドイツに現れる異端派についての予言とした((Guynaud [1712] pp.226-227))。
その後、20世紀までこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]の著書には載っていない。
[[エミール・リュイール]]はドイツと国境を接しないロシアの共産主義思想についてと解釈した((Ruir [1939] p.49))。
[[ロルフ・ボズウェル]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]はナチスと解釈した ((Boswell [1943] pp.174-175, Lamont [1943] pp.230-231, Fontbrune [1980/1982]))。
なお、ボズウェルによれば、ナチス登場以前には、この詩はフリードリヒ・ニーチェやルドルフ・シュタイナーに結び付けられることがあったという。ただし、具体的な解釈者名を挙げていないので、当「大事典」としては検証しようがない。
[[ヘンリー・C・ロバーツ]]はドイツ中部から現れる熱狂的なグループ(fanatical group)についての予言という形で漠然としか解釈していなかったが、のちの改訂版では1960年代のビート派に関する予言という解釈が付け加えられた((Roberts [1949/1994]))。
ビート派についてはコトバンクの「[[ビート派>>https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E6%B4%BE-120366]]」などを参照のこと。
ロバーツの日本語版『[[ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]』では、カール・マルクスが科学的社会主義を提唱し、社会主義運動を行ったこととする解釈が、日本語版の編者によって付け加えられていた。
[[中村惠一]]もマルクス主義とする解釈を支持し、詩番号の3巻67番は、『資本論』初巻が1867年の出版であったことと、全3巻であることを示している可能性があるとした((中村 [1991] pp.93-94))。
[[池田邦吉]]もマルクス主義の誕生と、それがドイツと国境を接しないロシアでの革命に結びついたことと解釈した((池田『ノストラダムスの預言書解読III』pp.174-175))。
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[[エリカ・チータム]]は、ドイツの再洗礼派に関する詩とした((Cheetham [1973]))。
[[セルジュ・ユタン]]は、社会主義国となった東ドイツと解釈した((Hutin [1978/2002]))。
*同時代的な視点
[[ルイ・シュロッセ]]はルター派の出現がモデルになっているとした((Schlosser [1986] pp.34-35))。
[[エドガー・レオニ]]は1520年代から1530年代にかけ、ドイツやスイスなどで盛り上がりを見せた再洗礼派について描写したものではないかとした。
[[エヴリット・ブライラー]]も、前半2行の描写はルター派、カルヴァン派、ツヴィングリ派には当てはまらないとし、再洗礼派のことではないかとした((Leoni [1961], LeVert [1979]))。
再洗礼派は幼児洗礼を否定する一派で、1520年代からドイツ語圏で急速に広がった。
1525年には、ルターと袂を分かった再洗礼派のトマス・ミュンツァーが貧者のための神の国を目指し、それが当時の貢租や苦役に不満のあった貧農層の社会革命への欲求と結びつくことで、ドイツ農民戦争の拡大につながった。
その後も各所で厳しい弾圧が加えられる中、武力行使も辞さない過激派達がミュンスターに1534年に集まり、共同体を形成した。
指導的立場の一人ヤン・ボッケルソンの義父クニッペルドリングが市長となって市政を牛耳り、弾圧に乗り出した軍隊をも退けたが、攻囲戦を強いられた。
その中で共同体はさらに独自の方向に進み、共同体内での貨幣の廃止、共有財産制、一夫多妻制などが強行され、聖画の破壊なども行われた。
このミュンスターの蜂起は1535年6月に終わり、多くの処刑者を出した。
再洗礼派自体は穏健派を中心にその後も伸張していくことになるが、ミュンスターの一件は再洗礼派の名誉を著しく失墜させた出来事として、当時広く知られていた((この節は主に、テュヒレほか『キリスト教史5』平凡社、pp.137-140, 176-180 ; ノーマン・コーン『千年王国の追求』pp.243-293 などによる))。
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[[ピエール・ブランダムール]]、[[高田勇]]・[[伊藤進]]、[[ロジェ・プレヴォ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]らも、1525年のドイツ農民戦争に力点をおくか、1534年から1535年のミュンスターの蜂起に力点を置くかの違いはあるにせよ、再洗礼派の動きと結び付ける点では一致している((Brind’Amour [1996], 高田・伊藤 [1999], Prévost [1999] p.140, Lemesurier [2003b], Clébert [2003], Petey-Girard [2003]))。
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