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*原文
En Germanie&sup(){1} naistront&sup(){2} diuerses sectes&sup(){3},
S'approchans&sup(){4} fort de l'heureux&sup(){5} paganisme&sup(){6},
Le cueur&sup(){7} captif & petites receptes,
Feront retour à payer&sup(){8} le vray disme&sup(){9}.
**異文
(1) Germanie : germanie 1589PV 1600, Germaine 1611B, Germanies 1653 1665
(2) naistront : naistrant 1668A
(3) sectes : Sectes 1672 1712Guy
(4) S'approchans 1555 1627 1644 1650Ri 1840 : S'approchant &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : Approchans 1594JF, Saprochant 1672)
(5) l'heureux : l'heure 1588-89
(6) paganisme : Paganisme 1672 1712Guy
(7) cueur 1555 1588Rf 1589Me : cœur &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : Cœur 1712Guy)
(8) à payer : a payer payer 1588Rf, a paye 1589Rg
(9) disme : dixme 1649Ca, Dixme 1712Guy
*日本語訳
ゲルマニアに様々な宗派が生まれるだろう、
幸せな異教にはっきりと近づきつつ。
心を手に入れ、受け取るものは少しだけ、
そして本来の十分の一税を払うことに回帰するだろう。
**訳について
[[ピエール・ブランダムール]]は、この場合の「幸せな」を「原初の、素朴な」(primitif)の意味に捉えていた。
3行目の前半の直訳は「心が囚われる」だが、ブランダムールの釈義 satisfaites de gagner les coeurs (心を手に入れることに満足し)、[[ピーター・ラメジャラー]]の英訳 As they gain hearts などを踏まえて、上記のように訳した((cf. Brind’Amour [1996] pp.433-434, Lemesurier [2003b] p.125))
山根訳は特に問題はない。
大乗訳は全体的に疑問点がある。
1行目「ドイツで潜水夫の分派がたちあがり」((大乗 [1975] p.116))は誤訳。[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 In Germany shall divers sects arise ((Roberts [1949] p.102))を直訳したのだろうが、フランス語原文を見れば divers は潜水夫(diver)の複数形でなく「様々な」を意味する形容詞だと気付いたはずである。
2行目「異教を幸せにするために 近くにやってきて」も誤訳。ロバーツの英訳は Coming very near to happy paganism で特に問題はない。happy に「幸せにする」という動詞としての用法などないが、そのような勘違いに基づいて訳されたのかもしれない。
3行目「人の心をとりこにして少し受け入れ」も微妙。この場合の recette (ロバーツの訳では receivings)は受け取るものを指す。
4行目「ほんの少し払うために門をひらくだろう」も誤訳。原文に「門を開く」という表現はないが、これはロバーツの英訳を転訳した結果である。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は[[百詩篇第3巻67番]]と続けて、1534年のドイツにおける異端派についてとした((chavigny [1594] p.38))。
[[バルタザール・ギノー]]も[[百詩篇第3巻67番]]と続けたが、彼は過去に遡及させず、未来のドイツに現れる異端派の予言とした((Guynaud [1712] pp.227-228))。
その後、20世紀までこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]の著書には載っていない。
[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は[[百詩篇第3巻67番]]とともにナチスの出現と解釈した((Lamont [1943] p.230, Boswell [1943] pp.175-177, Fontbrune [1980/1982]))。[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]や[[セルジュ・ユタン]]は第3巻67番と関連付けてはいないが、ナチスとした((Fontbrune [1939] p.169, Hutin [1978]))。
[[エリカ・チータム]]はノストラダムスの時代にヨーロッパの北部でルター派、カルヴァン派、再洗礼派などが次々と出現した状況を踏まえ、それらがカトリックに回帰することを予言したものの、的中したと見るのは難しいとした((Cheetham [1973]))。
*同時代的な視点
[[ルイ・シュロッセ]]は[[百詩篇第3巻67番]]とともにルター派の出現と関連付けた((Schlosser [1986] pp.33-34))。
[[エドガー・レオニ]]は再洗礼派や場合によってはルター派なども含めた改革派の動きを言ったもので、カトリック教会に真の十分の一税を払う、つまりカトリックに回帰するという見通しが述べられているとした((Leoni [1961]))。[[エヴリット・ブライラー]]は再洗礼派の熱狂に関する詩とだけ述べた((LeVert [1979]))。
[[ピエール・ブランダムール]]は、ドイツに現れた改革派の動きがモデルになっているとした。ブランダムールによれば、原初のキリスト教に立ち返ろうと主張する者たちの中には、原初に実践されていた「真の十分の一税」と不当に徴収されている「偽の十分の一税」を対比し、カトリック聖職者たちを偽の十分の一税取立人として非難する言説が存在していたという((Brind’Amour [1996]))。
この視点に立てば、4行目は改革派の姿勢を示したものにすぎず、カトリックへの回帰を織り込んだものとはいえないことになる。[[ピーター・ラメジャラー]]や[[ジャン=ポール・クレベール]]も同じような立場から解釈した((Lemesurier [2003b], Clébert [2003]))。
*その他
カール・グスタフ・ユングの『現在と未来―ユングの文明論』では、章の始まりにこの詩が引用されている。
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【画像】『現在と未来―ユングの文明論』カバー表紙
*外部リンク
-[[Yahoo!百科事典の「十分の一税」の項目>>http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8D%81%E5%88%86%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%A8%8E/]]
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*原文
En Germanie&sup(){1} naistront&sup(){2} diuerses sectes&sup(){3},
S'approchans&sup(){4} fort de l'heureux&sup(){5} paganisme&sup(){6},
Le cueur&sup(){7} captif & petites receptes,
Feront retour à payer&sup(){8} le vray disme&sup(){9}.
**異文
(1) Germanie : germanie 1589PV 1600, Germaine 1611B, Germanies 1653 1665
(2) naistront : naistrant 1668A
(3) sectes : Sectes 1672 1712Guy
(4) S'approchans 1555 1627 1644 1650Ri 1840 : S'approchant &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : Approchans 1594JF, Saprochant 1672)
(5) l'heureux : l'heure 1588-89
(6) paganisme : Paganisme 1672 1712Guy
(7) cueur 1555 1588Rf 1589Me : cœur &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : Cœur 1712Guy)
(8) à payer : a payer payer 1588Rf, a paye 1589Rg
(9) disme : dixme 1649Ca, Dixme 1712Guy
*日本語訳
ゲルマニアに様々な宗派が生まれるだろう、
幸せな異教にはっきりと近づきつつ。
心を手に入れ、受け取るものは少しだけ、
そして本来の十分の一税を払うことに回帰するだろう。
**訳について
[[ピエール・ブランダムール]]は、この場合の「幸せな」を「原初の、素朴な」(primitif)の意味に捉えていた。
3行目の前半の直訳は「心が囚われる」だが、ブランダムールの釈義 satisfaites de gagner les coeurs (心を手に入れることに満足し)、[[ピーター・ラメジャラー]]の英訳 As they gain hearts などを踏まえて、上記のように訳した((cf. Brind’Amour [1996] pp.433-434, Lemesurier [2003b] p.125))
山根訳は特に問題はない。
大乗訳は全体的に疑問点がある。
1行目「ドイツで潜水夫の分派がたちあがり」((大乗 [1975] p.116))は誤訳。[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 In Germany shall divers sects arise ((Roberts [1949] p.102))を直訳したのだろうが、フランス語原文を見れば divers は潜水夫(diver)の複数形でなく「様々な」を意味する形容詞だと気付いたはずである。
2行目「異教を幸せにするために 近くにやってきて」も誤訳。ロバーツの英訳は Coming very near to happy paganism で特に問題はない。happy に「幸せにする」という動詞としての用法などないが、そのような勘違いに基づいて訳されたのかもしれない。
3行目「人の心をとりこにして少し受け入れ」も微妙。この場合の recette (ロバーツの訳では receivings)は受け取るものを指す。
4行目「ほんの少し払うために門をひらくだろう」も誤訳。原文に「門を開く」という表現はないが、これはロバーツの英訳を転訳した結果である。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は[[百詩篇第3巻67番]]と続けて、1534年のドイツにおける異端派についてとした((chavigny [1594] p.38))。
[[バルタザール・ギノー]]も[[百詩篇第3巻67番]]と続けたが、彼は過去に遡及させず、未来のドイツに現れる異端派の予言とした((Guynaud [1712] pp.227-228))。
その後、20世紀までこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]の著書には載っていない。
[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は[[百詩篇第3巻67番]]とともにナチスの出現と解釈した((Lamont [1943] p.230, Boswell [1943] pp.175-177, Fontbrune [1980/1982]))。[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]や[[セルジュ・ユタン]]は第3巻67番と関連付けてはいないが、ナチスとした((Fontbrune [1939] p.169, Hutin [1978]))。
[[エリカ・チータム]]はノストラダムスの時代にヨーロッパの北部でルター派、カルヴァン派、再洗礼派などが次々と出現した状況を踏まえ、それらがカトリックに回帰することを予言したものの、的中したと見るのは難しいとした((Cheetham [1973]))。
*同時代的な視点
[[ルイ・シュロッセ]]は[[百詩篇第3巻67番]]とともにルター派の出現と関連付けた((Schlosser [1986] pp.33-34))。
[[エドガー・レオニ]]は再洗礼派や場合によってはルター派なども含めた改革派の動きを言ったもので、カトリック教会に真の十分の一税を払う、つまりカトリックに回帰するという見通しが述べられているとした((Leoni [1961]))。[[エヴリット・ブライラー]]は再洗礼派の熱狂に関する詩とだけ述べた((LeVert [1979]))。
[[ピエール・ブランダムール]]は、ドイツに現れた改革派の動きがモデルになっているとした。ブランダムールによれば、原初のキリスト教に立ち返ろうと主張する者たちの中には、原初に実践されていた「真の十分の一税」と不当に徴収されている「偽の十分の一税」を対比し、カトリック聖職者たちを偽の十分の一税取立人として非難する言説が存在していたという((Brind’Amour [1996]))。
この視点に立てば、4行目は改革派の姿勢を示したものにすぎず、カトリックへの回帰を織り込んだものとはいえないことになる。[[ピーター・ラメジャラー]]や[[ジャン=ポール・クレベール]]も同じような立場から解釈した((Lemesurier [2003b], Clébert [2003]))。
*その他
カール・グスタフ・ユングの『現在と未来―ユングの文明論』では、章の始まりにこの詩が引用されている。
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【画像】『現在と未来―ユングの文明論』カバー表紙
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