ALMANACH POVR L'AN M.D.LXVII.

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 『&bold(){故ミシェル・ド・ノートルダム師により構成された1567年向けの暦}』(Almanach pour L'An M. D. LXVII. Composé par feu Maistre Michel de Nostredame)は、[[リヨン]]の[[ブノワ・オド]]によって1566年に出版された[[ノストラダムス]]の[[暦書]]。題名に「故」(feu)とある通り、死後に出版された最後の暦書である。 【画像】『1567年向けの暦』の扉((画像の出典:Jacques Halbronn, [[EVOLUTION DU STATUT DU QUATRAIN DANS LES ALMANACHS DE NOSTRADAMUS>>http://www.grande-conjonction.org/contenu@/Nostradamus/28/Evolution%20du%20statut.htm]]. アルブロンがどこから画像を手に入れたのかは不明だが、1937年に扉写真を掲載した文献はあったので、そこから得たのかもしれない。)) *正式名 -ALMANACH POVR L'AN M.D.LXVII. Composé par feu Maistre Michel de Nostredame Docteur en medecine, Conseiller & medicin ordinaire du Roy. --Auec ses ample significations, ensemble les explications de l'Eclypse merueilleux & du tout formidable qui sera le IX. d'Auril proche de l'heure de Midy. --A LYON. Par Benoist Odo, Auec priuilege. -王附常任侍医兼顧問であった医学博士の故ミシェル・ド・ノートルダム師により構成された1567年向けの暦 --数多くの(前兆の)意味づけと、4月9日正午近くに起きる全く恐るべき驚異の日蝕の説明を付記。 --リヨンにて、ブノワ・オドによる。特認とともに。 *内容  56葉(112ページ相当)からなる。  最初に予兆詩つきのカレンダーが掲載されている。散文体の予兆は[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の手稿『[[散文予兆集成>Recueil des Presages Prosaiques de M. Michel de Nostredame]]』の第12巻(最終巻)の全体(第1番~第544番)に対応する。  予兆詩は全般向けと各月の計13篇に加え、「この年の終わり」と題する例外的な詩篇が収録されている((Ruzo [1982] p.271))。  献辞は2つあり、掲載されている順序と日付が逆転している。最初のものは1566年6月15日付の「ビラーグ殿」(Monseigneur de Birague)宛のもので、次のものは1566年4月22日付の「エマヌエル・フィリベルト」(Principi Emanuel Philiberto)宛となっている((宛名は Ruzo [1997] に拠った。ルソの仏語版では後者が Principi Amanuel Philiberto と書かれているが、誤植だろう。))。  最初の献辞の日付はノストラダムスが遺言状を口述する2日前、亡くなる17日前にあたっている。そのためか、この暦書には著者の死によって未完成の部分がある旨の断り書きがあるという((Chomarat [1989] no.70))。 *所蔵先  現存しない。  [[アンリ・ボードリエ]]の書誌では、[[エクトール・リゴー]]の蔵書に基づく言及があった。1904年には、リゴーの蔵書に基づいて[[影印による復刻版>ALMANACH POVR L'AN M.D.LXVII. (1904)]]も出された。しかし、リゴーの蔵書だったものの所在は不明である。1931年のオークションにも登場していなかった。 *他言語版  [[イタリア語訳版>ALMANACH PER L'ANNO D.M.LXVII]]が1567年に出版された。 ---- #comment
 『&bold(){故ミシェル・ド・ノートルダム師により構成された1567年向けの暦}』(Almanach pour L'An M. D. LXVII. Composé par feu Maistre Michel de Nostredame)は、[[リヨン]]の[[ブノワ・オド]]によって1566年に出版された[[ノストラダムス]]の[[暦書]]。題名に「故」(feu)とある通り、死後に出版された最後の暦書である。 #ref(1567almanach.PNG) 【画像】『1567年向けの暦』の扉((画像の出典:Jacques Halbronn, [[EVOLUTION DU STATUT DU QUATRAIN DANS LES ALMANACHS DE NOSTRADAMUS>>http://www.grande-conjonction.org/contenu@/Nostradamus/28/Evolution%20du%20statut.htm]]. アルブロンがどこから画像を手に入れたのかは不明だが、1937年に扉写真を掲載した文献はあったので、そこから得たのかもしれない。)) *正式名 -ALMANACH POVR L'AN M.D.LXVII. Composé par feu Maistre Michel de Nostredame Docteur en medecine, Conseiller & medicin ordinaire du Roy. --Auec ses ample significations, ensemble les explications de l'Eclypse merueilleux & du tout formidable qui sera le IX. d'Auril proche de l'heure de Midy. --A LYON. Par Benoist Odo, Auec priuilege. -王附常任侍医兼顧問であった医学博士の故ミシェル・ド・ノートルダム師により構成された1567年向けの暦 --数多くの(前兆の)意味づけと、4月9日正午近くに起きる全く恐るべき驚異の日蝕の説明を付記。 --リヨンにて、ブノワ・オドによる。特認とともに。 *内容  56葉(112ページ相当)からなる。  最初に予兆詩つきのカレンダーが掲載されている。散文体の予兆は[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の手稿『[[散文予兆集成>Recueil des Presages Prosaiques de M. Michel de Nostredame]]』の第12巻(最終巻)の全体(第1番~第544番)に対応する。  予兆詩は全般向けと各月の計13篇に加え、「この年の終わり」と題する例外的な詩篇が収録されている((Ruzo [1982] p.271))。  献辞は2つあり、掲載されている順序と日付が逆転している。最初のものは1566年6月15日付の「ビラーグ殿」(Monseigneur de Birague)宛のもので、次のものは1566年4月22日付の「エマヌエル・フィリベルト」(Principi Emanuel Philiberto)宛となっている((宛名は Ruzo [1997] に拠った。ルソの仏語版では後者が Principi Amanuel Philiberto と書かれているが、誤植だろう。))。  最初の献辞の日付はノストラダムスが遺言状を口述する2日前、亡くなる17日前にあたっている。そのためか、この暦書には著者の死によって未完成の部分がある旨の断り書きがあるという((Chomarat [1989] no.70))。 *所蔵先  現存しない。  [[アンリ・ボードリエ]]の書誌では、[[エクトール・リゴー]]の蔵書に基づく言及があった。1904年には、リゴーの蔵書に基づいて[[影印による復刻版>ALMANACH POVR L'AN M.D.LXVII. (1904)]]も出された。しかし、リゴーの蔵書だったものの所在は不明である。1931年のオークションにも登場していなかった。 *他言語版  [[イタリア語訳版>ALMANACH PER L'ANNO D.M.LXVII]]が1567年に出版された。 ---- #comment

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