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予兆詩第143番(旧132番) 1567年2月について
*原文
Prisons par ennemis occults & manifestes.
Voyage ne tiendra, inimitié mortelle.
L'amour trois, [[simultez>simulte]], secret, publiques festes.
Le rompu ruiné, l'eau&sup(){1} rompra la querelle. ((原文は Chevignard [1999] p.184 による。))
**異文
(1) l'eau : l'eauë 1605 1628 1649Xa 1649Ca, l'eaü 1650Le 1668A, l'eau 1668P
*日本語訳
隠された敵と開示された敵のための監獄。
旅は続かないだろう。死に至る反目。
秘められた愛により公共の祝祭で三者は憎まれる。
壊れたものが崩される。水は喧騒を破砕するだろう。
**訳について
1行目で par を「ために」(pour)と読むのは[[エドガー・レオニ]]の英訳を参照したものである。ノストラダムスはしばしばラテン語の per と同じように、par を pour の意味でも使っている。
3行目の直訳は「愛 三、憎悪、秘密、公共の祝祭」だが、特に最初の部分が意味不明である。単語の性・数に注目して組み合わせれば「秘められた愛、三者が憎まれる(三つの憎悪)、公共の祝祭」もしくは「秘められた愛、憎悪、三つの公共の祝祭」とせざるを得ない。上では前者を採用し、さらに前置詞を補って訳した。[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は手稿で「秘められた愛。三者間の憎悪」と欄外に注記していた((cf. Chevignard [1999]))。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は、サン=バルテルミーの虐殺のあった1572年に当てはめ、1行目と4行目前半はプロテスタントが投獄されたり滅ぼされたりする様子だとした。2行目の旅はフランドルへの旅のことで、4行目後半はセーヌ川の描写だという((Chavigny [1594] p.208))。
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予兆詩第143番(旧132番) 1567年2月について
*原文
Prisons par ennemis occults & manifestes.
Voyage ne tiendra, inimitié mortelle.
L'amour trois, [[simultez>simulte]], secret, publiques festes.
Le rompu ruiné, l'eau&sup(){1} rompra la querelle. ((原文は Chevignard [1999] p.184 による。))
**異文
(1) l'eau : l'eauë 1605 1628 1649Xa 1649Ca, l'eaü 1650Le 1668A, l'eau 1668P
(注記1)この詩の初出である『[[1567年向けの暦>ALMANACH POVR L'AN M.D.LXVII.]]』は現存していないため、底本になっているのは1594JFである。
(注記2)[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の手稿『[[散文予兆集成>Recueil des Presages Prosaiques de M. Michel de Nostredame]]』には、綴り直されたバージョンが収録されている。
*日本語訳
隠された敵と開示された敵のための監獄。
旅は続かないだろう。死に至る反目。
秘められた愛により公共の祝祭で三者は憎まれる。
壊れたものが崩される。水は喧騒を破砕するだろう。
**訳について
1行目で par を「ために」(pour)と読むのは[[エドガー・レオニ]]の英訳を参照したものである。ノストラダムスはしばしばラテン語の per と同じように、par を pour の意味でも使っている。
3行目の直訳は「愛 三、憎悪、秘密、公共の祝祭」だが、特に最初の部分が意味不明である。単語の性・数に注目して組み合わせれば「秘められた愛、三者が憎まれる(三つの憎悪)、公共の祝祭」もしくは「秘められた愛、憎悪、三つの公共の祝祭」とせざるを得ない。上では前者を採用し、さらに前置詞を補って訳した。[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は手稿で「秘められた愛。三者間の憎悪」と欄外に注記していた((cf. Chevignard [1999]))。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は、サン=バルテルミーの虐殺のあった1572年に当てはめ、1行目と4行目前半はプロテスタントが投獄されたり滅ぼされたりする様子だとした。2行目の旅はフランドルへの旅のことで、4行目後半はセーヌ川の描写だという((Chavigny [1594] p.208))。
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