六行詩18番

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[[六行詩集]]>18番* *原文 Considerant la triste Philomelle&sup(){1} Qu'en pleurs & cris sa peine&sup(){2} renouuelle, Racoursissant&sup(){3} par tel moyen ses&sup(){4} iours, Six cens & cinq&sup(){5}, elle en verra&sup(){6} l'issuë&sup(){7}, De son tourment, ia la&sup(){8} toille tissuë&sup(){9}, Par&sup(){10} son moyen [[senestre]] aura secours. **異文 (1) Philomelle : filomelle 1600Au, philomelle 1627Ma 1627Di 1644Hu (2) sa peine : sa plainte 1672Ga (3) Racoursissant 1605sn 1649Xa : Racourcissant 1600Au 1600Mo 1611 1627Ma 1627Di 1628dR 1649Ca 1672Ga, R'acourcissant 1644Hu (4) ses : ces 1600Mo (5) & cinq : cinq 1600Mo (6) en verra : verra 1600Au (7) l'issuë : l'issue 1600Mo 1611 1627Ma 1628dR, l'yssue 1672Ga (8) ia la : ja sa 1600Au, la 1600Mo (9) tissuë : est tissuë 1600Mo, tissue 1611 1627Ma 1628dR, tissüe 1672Ga (10) Par : Por 1672Ga *日本語訳 悲しき[[ピロメラ]]が その涙と叫びで苦痛を新たにし、 そうした手段で日々を短くしていくことにより、 六百と五、彼女はその出口を見るだろう。 その責め苦から、布はすでに織り上げられた。 その不吉な方法により、彼女は救いを得るだろう。 **訳について  1行目の considerant は「~から、~に鑑みて」などの意味だが、1行目で訳そうとするとかなり不自然になることから、3行目に回して訳した。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、アンリエット・ダントラーグ(Henriette d'Entragues)と解釈した。アンリエットはガブリエル・デストレ亡き後の[[アンリ4世]]の有力な寵妃で、一時は正妃の座を狙いうる位置にさえいた。しかし、アンリ4世がマリー・ド・メディシスと再婚し、世継ぎが生まれたことからその芽が潰え、逆恨みしたアンリエットはスペイン勢に接近したとされる。国家反逆罪に問われたアンリエットはボーモン=レ=トゥールの女子修道院に送られ、そこで7ヶ月間を過ごしたが、アンリ4世の特赦によって無罪放免となった。そのアンリエットは高等法院に出廷することも免除され、彼女不在のなかで謝罪の手紙が登録(register)されたのが1605年9月6日のことだったという((Garencieres [1672]))。 #ref(Henriette de Balzac.jpg) 【画像】アンリエット・ダントラーグの肖像画((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Catherine_Henriette_de_Balzac_d%27Entragues.jpg]])) *同時代的な視点  年号(605年=1605年)が明記されているが、詩の内容はギリシア神話の[[ピロメラ]]のエピソードをほぼそのまま転用したものになっている。あえてプロットを抜き出すなら、女好きの乱暴な男のせいで酷い目に遭う悲運の女性がいて、機転を利かせた方法によって救われるものの、ハッピーエンドにはならないといったところだろう。しかし、あまりにも具体性に欠け、史実との対照は難しい。  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]の解釈は、[[『予言集』1605年版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1605年)]]が本当に1605年のうちに出されていたのだとすれば、時期的に間に合ったか微妙なところだろうが、容疑が持ち上がったのは1604年のことだったので、事後予言の一つの可能性を示すものだろう。  もっとも、六行詩集はブルボン王朝に好意的な視点で書かれているらしい上、アンリ4世への献辞が添えられている。そのような作品のなかで、アンリ4世をテレウス(ピロメラを監禁し陵辱した暴君)に喩える書き方がされるだろうかという点に疑問がないわけでもない。アンリ4世の好色ぶりは有名だったが、必ずしも否定的には捉えられていなかったからである。 *その他  1600Au では15番になっている。 ---- #comment
[[六行詩集]]>18番* *原文 Considerant la triste Philomelle&sup(){1} Qu'en pleurs & cris sa peine&sup(){2} renouuelle, Racoursissant&sup(){3} par tel moyen ses&sup(){4} iours, Six cens & cinq&sup(){5}, elle en verra&sup(){6} l'issuë&sup(){7}, De son tourment, ia la&sup(){8} toille tissuë&sup(){9}, Par&sup(){10} son moyen [[senestre]] aura secours. **異文 (1) Philomelle : filomelle 1600Au, philomelle 1627Ma 1627Di 1644Hu (2) sa peine : sa plainte 1672Ga (3) Racoursissant 1605sn 1649Xa : Racourcissant 1600Au 1600Mo 1611 1627Ma 1627Di 1628dR 1649Ca 1672Ga, R'acourcissant 1644Hu (4) ses : ces 1600Mo (5) & cinq : cinq 1600Mo (6) en verra : verra 1600Au (7) l'issuë : l'issue 1600Mo 1611 1627Ma 1628dR, l'yssue 1672Ga (8) ia la : ja sa 1600Au, la 1600Mo (9) tissuë : est tissuë 1600Mo, tissue 1611 1627Ma 1628dR, tissüe 1672Ga (10) Par : Por 1672Ga *日本語訳 悲しき[[ピロメラ]]が その涙と叫びで苦痛を新たにし、 そうした手段で日々を短くしていくことにより、 六百と五、彼女はその出口を見るだろう。 その責め苦から、布はすでに織り上げられた。 その不吉な方法により、彼女は救いを得るだろう。 **訳について  1行目の considerant は「~から、~に鑑みて」などの意味だが、1行目で訳そうとするとかなり不自然になることから、3行目に回して訳した。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、アンリエット・ダントラーグ(Henriette d'Entragues)と解釈した。  アンリエットはガブリエル・デストレ亡き後の[[アンリ4世]]の有力な寵妃で、一時は正妃の座を狙いうる位置にさえいた。  しかし、アンリ4世がマリー・ド・メディシスと再婚し、世継ぎが生まれたことからその芽が潰え、逆恨みしたアンリエットはスペイン勢に接近したとされる。  国家反逆罪に問われたアンリエットはボーモン=レ=トゥールの女子修道院に送られ、そこで7ヶ月間を過ごしたが、アンリ4世の特赦によって無罪放免となった。  そのアンリエットは高等法院に出廷することも免除され、彼女不在のなかで謝罪の手紙が登録(register)されたのが1605年9月6日のことだったという((Garencieres [1672]))。 #ref(Henriette de Balzac.jpg) 【画像】アンリエット・ダントラーグの肖像画((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Catherine_Henriette_de_Balzac_d%27Entragues.jpg]])) *同時代的な視点  年号(605年=1605年)が明記されているが、詩の内容はギリシア神話の[[ピロメラ]]のエピソードをほぼそのまま転用したものになっている。  あえてプロットを抜き出すなら、女好きの乱暴な男のせいで酷い目に遭う悲運の女性がいて、機転を利かせた方法によって救われるものの、ハッピーエンドにはならないといったところだろう。  しかし、あまりにも具体性に欠け、史実との対照は難しい。  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]の解釈は、[[『予言集』1605年版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1605年)]]が本当に1605年のうちに出されていたのだとすれば、時期的に間に合ったか微妙なところだろうが、容疑が持ち上がったのは1604年のことだったので、事後予言の一つの可能性を示すものだろう。  もっとも、六行詩集はブルボン王朝に好意的な視点で書かれているらしい上、アンリ4世への献辞が添えられている。  そのような作品のなかで、アンリ4世をテレウス(ピロメラを監禁し陵辱した暴君)に喩える書き方がされるだろうかという点に疑問がないわけでもない。  アンリ4世の好色ぶりは有名だったが、必ずしも否定的には捉えられていなかったからである。 *その他  1600Au では15番になっている。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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