「詩百篇集」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「詩百篇集」(2020/04/24 (金) 16:07:10) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
&bold(){詩百篇集}ないし&bold(){百詩篇集}(Les [[Centuries>centurie]])は、『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』(以下『予言集』)の主要部分をなす四行詩集である。しばしば『予言集』そのものの通称としても用いられる。
日本では、&bold(){百詩集}、&bold(){百篇詩集}などと訳されることもある。
どれが正解ということはないのかもしれないが、「[[ある占星師の話]]」での[[渡辺一夫]]訳、『十六世紀フランス文学』(V.-L.ソーニエ)での二宮敬・山崎庸一郎・荒木昭太郎訳、『プレイヤード派の詩人たち』(Y.ベランジェ)および『[[ノストラダムス予言集>ノストラダムス予言集 (岩波書店)]]』での[[高田勇]]・[[伊藤進]]訳、さらには22人の仏文学者が参加した『フランス文学小事典』などが、&bold(){全て「詩百篇」を採用している}ことからすれば、学術的にはそれを実質的な「定訳」と見なしてよいと思われる。(もっとも、G. ミノワ『未来の歴史』の訳者、菅野賢治・平野隆文が「詩百&u(){編}」としているように、若干の表記揺れはみられる)
当「大事典」でも原則として「詩百篇」を尊重するが、成り行き上、当初は単数の Centurie を「百詩篇」、複数の Centuries を「百詩篇集」と訳し分けてきた事情があり、&color(red){順次「百詩篇・百詩篇集」を「詩百篇・詩百篇集」に直している最中のため、今のところ2つの表記が混在している}。その点ご了解いただきたい。
なお、&bold(){[[諸世紀]]というよく知られた訳語は不適切な訳}である。
また、日本でノストラダムスの詩集としての「詩百篇」という表記が広まる前、大正時代には武者小路実篤が『詩百篇』という自選詩集を刊行していたことがあるが、当「大事典」でそちらの詩集を扱うことはまずないため、他の項目ではいちいち断らない。
さて、「詩百篇」という名称に示されているように、各巻は原則として100篇の四行詩で成り立っている。
[[ノストラダムス]]が生きている間に確実に出版されたのは第7巻までである。ただし、第7巻は42番で途切れている。70番台以降の補遺篇がいくらか存在するが、それらを正当な第7巻の一部と見なすことは困難である。
第8巻から第10巻については概ね本物と見なされているが、[[ミシェル・ショマラ]]や[[ブリューノ・プテ=ジラール]]のように、正統性に疑いを持つ者もいる。第8巻と第10巻には補遺篇が存在するが、ほぼ間違いなく偽作と考えられる。
第11巻と第12巻の四行詩は断片しか残っていないが、大いに疑わしい。ましてや第11巻と称する六行詩や[[アーサー・クロケット]]が紹介した新発見予言などは論外である。
*全訳集
詩百篇集に付随していた二つの序文([[セザールへの手紙]]、[[アンリ2世への手紙]])は、当「大事典」では当面は概略の説明にとどめる。
全訳と注釈は過去に姉妹サイト(現在は閉鎖)で公開していた。いずれは、当「大事典」で再公開する予定だが、公開時期は未定である。
-[[詩百篇第1巻]]
-[[詩百篇第2巻>百詩篇第2巻]]
-[[詩百篇第3巻>百詩篇第3巻]]
-[[詩百篇第4巻>百詩篇第4巻]]
-[[詩百篇第5巻>百詩篇第5巻]]
-[[詩百篇第6巻>百詩篇第6巻]]
-[[詩百篇第7巻>百詩篇第7巻]]
-[[詩百篇第8巻>百詩篇第8巻]]
-[[詩百篇第9巻]]
-[[詩百篇第10巻]]
-[[詩百篇第11巻]](四行詩)
--[[六行詩による詩百篇第11巻>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]
-[[詩百篇第12巻]]
**全訳集の凡例
上記リンク先で提供する翻訳は、先行する翻訳のうち比較的信頼性が高いと思われるもの、具体的には
-[[高田勇]]・[[伊藤進]]による日本語訳((高田・伊藤 [1999]))、
-[[エドガー・レオニ]]、[[エヴリット・ブライラー]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[リチャード・シーバース]]らの英語訳((主に Leoni [1961/1982], LeVert [1979], Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010], Sieburth [2012]))、
-[[ピエール・ブランダムール]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]らの現代フランス語訳((Brind'Amour [1996], Clebert [2003]))
などを参照して、当「大事典」でオリジナルに訳出したものである。訳にあたっては、文学的な格調高さよりも平易に意味を伝えることに重点を置いた。
各詩篇は個別に解説しているものもある(いずれ全詩篇の個別解説を提供したいと考えているが、2020年時点では5割ほどの提供にとどまる)。個別の解説は主に以下のような構成になっている。
-&bold(){原文}
--その詩の原文である。底本は原則としてその詩篇の初出としているが、あえてそれ以外の版を底本としている場合もある。初出を基本とするのは、ノストラダムスの予言詩の原文には、生前の「決定版」のような版が存在しないためである。上記リンク先の各巻の冒頭に、底本は記載してある。
-&bold(){異文}
--さまざまな古版本に見られる異文(ヴァリアント)をまとめたものである。初出にも当然、誤記や誤植の類は存在しており、正しい原文を確定させるためには、校異(原文比較)の作業も欠かせない。全てを網羅しているわけではないが、16世紀から17世紀の入手可能な主要な版はあらかた押さえている。異文採録の原則や、そこで用いている略号については、[[原文比較の凡例]](詩百篇正篇)、[[原文比較の凡例 (六行詩)]]を参照のこと。
-&bold(){校訂}
--詩百篇の正しい原文を確定させる作業である。すべての詩篇にこの節を設けているわけではなく、ささいな綴りの揺れや句読点の打ち方の違いくらいは割愛した場合もあるが、専門家によって初出と異なる読みが提案されている場合には、基本的に解説した。いずれにせよ、ノストラダムス予言の正しい原文などというものはなく、専門家の間ですら読みの統一されていない詩篇が少なくないという事実は、当然の前提として忘れてはならない。
-&bold(){日本語訳}
--その詩篇の訳文である。原則は上述の通りで、詩文としての文学的な香気などを伝えるには稚拙に過ぎる訳文も少なくないかもしれないが、できるだけ誠実に意味を伝えられるように努めている。文学作品としての再評価も始まっているノストラダムスの詩だが、過去の日本に存在した翻訳は、そもそも文学作品として鑑賞する以前の問題が多すぎた(高田・伊藤訳は例外的に優れた翻訳と言えるが、あくまでも200篇ほどの翻訳にとどまり、全訳には程遠い)。当「大事典」の翻訳が、まず何よりも本来の意味を伝えることに意を砕くのは、そもそも原文からかけ離れた翻訳しか提供されてこなかった詩も少なくないからである。
--有名な詩篇のうち、従来知られていた読みと現在の専門家の読みが大きくかけ離れる可能性がある詩については、「別訳」として、複数の訳文を掲げた場合がある([[第1巻87番>詩百篇第1巻87番]]、[[第9巻34番>詩百篇第9巻34番]]、[[第10巻72番>詩百篇第10巻72番]]など)。
-&bold(){訳について}
--訳し方についての補足である。複数に解釈できる単語や、現代語にない単語についての注記のほか、専門家によって読み方が分かれる箇所について、どの論者の読み方を採用したのか、ほかにはどのような読み方がありうるのか等を解説している。
--なお、従来スタンダードな訳文として信奉者側のみならず懐疑派などにも利用されてきた[[山根和郎]]訳((山根和郎訳『ノストラダムス全予言』二見書房))、[[大乗和子]]訳((大乗和子訳『ノストラダムス大予言原典・諸世紀』たま出版))などを引き合いに出し、その誤訳や不適切な訳を指摘することも行っているが、これはより正確な訳を作り上げる上で明らかにおかしな訳は排除しておくべきと考えるためであり、それぞれの訳者個人を攻撃する意図はない。ノストラダムスの予言は「どうとでも解釈できる」という批判があり、これはある程度その通りなのだが、反面、翻訳や解釈に問題がありすぎて、原文では一通りにしか訳せないのに何種類もの訳が「創作」されてしまっている場合も存在しているのである。
-&bold(){信奉者側の見解}
--ノストラダムス予言を信じる側の論者たちが、過去にどのような解釈を展開してきたかの紹介である。海外の「古典的」な論者の解釈を中心として扱い、日本の泡沫的な論者の解釈は省いた場合も少なくない。当「大事典」ではそうした解釈を支持するものではないが、非信奉者にとっても、ノストラダムス予言の受容のされ方に関する資料にはなると考えている。
-&bold(){懐疑的な見解}
--すべての詩篇に設けている節ではないが、信奉者側の通説的解釈に対し、懐疑論者の側からの反論などが提示されている場合に、そうした見解を紹介している。
-&bold(){同時代的な視点}
--上でも名前を挙げたブランダムールをはじめとする仏文学者、古典学者、歴史学者など、きちんとした学術的アプローチを採っている専門家たちの見解を紹介している。もっとも、すべての詩篇について解明されているわけではなく、この節に書くべきことがほとんどない詩篇も、現時点では残念ながら少なくない。
*写本として残る断片
-[[シャストゥイユが伝えた詩百篇>シャストゥイユが伝えた百詩篇]]
*近現代に追加された偽の詩百篇
-[[フランス革命期のニセの詩百篇>フランス革命期の偽の百詩篇]]
-[[自宅の壁の中から発見されたと称する詩百篇第12巻>クロケットの四行詩]]
-[[アメリカ同時多発テロに関する偽の詩]]
----
※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
&bold(){詩百篇集}ないし&bold(){百詩篇集}(Les [[Centuries>centurie]])は、『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』(以下『予言集』)の主要部分をなす四行詩集である。しばしば『予言集』そのものの通称としても用いられる。
日本では、&bold(){百詩集}、&bold(){百篇詩集}などと訳されることもある。
どれが正解ということはないのかもしれないが、「[[ある占星師の話]]」での[[渡辺一夫]]訳、『十六世紀フランス文学』(V.-L.ソーニエ)での二宮敬・山崎庸一郎・荒木昭太郎訳、『プレイヤード派の詩人たち』(Y.ベランジェ)および『[[ノストラダムス予言集>ノストラダムス予言集 (岩波書店)]]』での[[高田勇]]・[[伊藤進]]訳、さらには22人の仏文学者が参加した『フランス文学小事典』などが、全て「詩百篇」を採用していることからすれば、学術的にはそれを実質的な「定訳」と見なしてよいと思われる。(もっとも、G. ミノワ『未来の歴史』の訳者、菅野賢治・平野隆文が「詩百&u(){編}」としているように、若干の表記揺れはみられる)
当「大事典」でも原則として「詩百篇」を尊重するが、成り行き上、当初は単数の Centurie を「百詩篇」、複数の Centuries を「百詩篇集」と訳し分けてきた事情があり、&color(red){順次「百詩篇・百詩篇集」を「詩百篇・詩百篇集」に直している最中のため、今のところ2つの表記が混在している}。その点ご了解いただきたい。
なお、&bold(){[[諸世紀]]というよく知られた訳語は不適切な訳}である。
また、日本でノストラダムスの詩集としての「詩百篇」という表記が広まる前、大正時代には武者小路実篤が『詩百篇』という自選詩集を刊行していたことがあるが、当「大事典」でそちらの詩集を扱うことはまずないため、他の項目ではいちいち断らない。
さて、「詩百篇」という名称に示されているように、各巻は原則として100篇の四行詩で成り立っている。
[[ノストラダムス]]が生きている間に確実に出版されたのは第7巻までである。ただし、第7巻は42番で途切れている。70番台以降の補遺篇がいくらか存在するが、それらを正当な第7巻の一部と見なすことは困難である。
第8巻から第10巻については概ね本物と見なされているが、[[ミシェル・ショマラ]]や[[ブリューノ・プテ=ジラール]]のように、正統性に疑いを持つ者もいる。第8巻と第10巻には補遺篇が存在するが、ほぼ間違いなく偽作と考えられる。
第11巻と第12巻の四行詩は断片しか残っていないが、大いに疑わしい。ましてや第11巻と称する六行詩や[[アーサー・クロケット]]が紹介した新発見予言などは論外である。
🌟&bold(){全訳集}🌟
-第一序文([[セザールへの手紙 全文]])
-[[詩百篇第1巻]]
-[[詩百篇第2巻>百詩篇第2巻]]
-[[詩百篇第3巻>百詩篇第3巻]]
-[[詩百篇第4巻>百詩篇第4巻]]
-[[詩百篇第5巻>百詩篇第5巻]]
-[[詩百篇第6巻>百詩篇第6巻]]
-[[詩百篇第7巻>百詩篇第7巻]]
-第二序文([[アンリ2世への手紙 全文]])
-[[詩百篇第8巻>百詩篇第8巻]]
-[[詩百篇第9巻]]
-[[詩百篇第10巻]]
-[[詩百篇第11巻]](四行詩)
--[[六行詩による詩百篇第11巻>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]
-[[詩百篇第12巻]]
*全訳集の凡例
上記リンク先で提供する翻訳は、先行する翻訳のうち比較的信頼性が高いと思われるもの、具体的には
-[[高田勇]]・[[伊藤進]]による日本語訳((高田・伊藤 [1999]))、
-[[エドガー・レオニ]]、[[エヴリット・ブライラー]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[リチャード・シーバース]]らの英語訳((主に Leoni [1961/1982], LeVert [1979], Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010], Sieburth [2012]))、
-[[ピエール・ブランダムール]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]らの現代フランス語訳((Brind'Amour [1996], Clebert [2003]))
などを参照して、当「大事典」でオリジナルに訳出したものである。訳にあたっては、文学的な格調高さよりも平易に意味を伝えることに重点を置いた。
各詩篇は個別に解説しているものもある(いずれ全詩篇の個別解説を提供したいと考えているが、2020年時点では5割ほどの提供にとどまる)。個別の解説は主に以下のような構成になっている。
-&bold(){原文}
--その詩の原文である。底本は原則としてその詩篇の初出としているが、あえてそれ以外の版を底本としている場合もある。初出を基本とするのは、ノストラダムスの予言詩の原文には、生前の「決定版」のような版が存在しないためである。上記リンク先の各巻の冒頭に、底本は記載してある。
-&bold(){異文}
--さまざまな古版本に見られる異文(ヴァリアント)をまとめたものである。初出にも当然、誤記や誤植の類は存在しており、正しい原文を確定させるためには、校異(原文比較)の作業も欠かせない。全てを網羅しているわけではないが、16世紀から17世紀の入手可能な主要な版はあらかた押さえている。異文採録の原則や、そこで用いている略号については、[[原文比較の凡例]](詩百篇正篇)、[[原文比較の凡例 (六行詩)]]を参照のこと。
-&bold(){校訂}
--詩百篇の正しい原文を確定させる作業である。すべての詩篇にこの節を設けているわけではなく、ささいな綴りの揺れや句読点の打ち方の違いくらいは割愛した場合もあるが、専門家によって初出と異なる読みが提案されている場合には、基本的に解説した。いずれにせよ、ノストラダムス予言の正しい原文などというものはなく、専門家の間ですら読みの統一されていない詩篇が少なくないという事実は、当然の前提として忘れてはならない。
-&bold(){日本語訳}
--その詩篇の訳文である。原則は上述の通りで、詩文としての文学的な香気などを伝えるには稚拙に過ぎる訳文も少なくないかもしれないが、できるだけ誠実に意味を伝えられるように努めている。文学作品としての再評価も始まっているノストラダムスの詩だが、過去の日本に存在した翻訳は、そもそも文学作品として鑑賞する以前の問題が多すぎた(高田・伊藤訳は例外的に優れた翻訳と言えるが、あくまでも200篇ほどの翻訳にとどまり、全訳には程遠い)。当「大事典」の翻訳が、まず何よりも本来の意味を伝えることに意を砕くのは、そもそも原文からかけ離れた翻訳しか提供されてこなかった詩も少なくないからである。
--有名な詩篇のうち、従来知られていた読みと現在の専門家の読みが大きくかけ離れる可能性がある詩については、「別訳」として、複数の訳文を掲げた場合がある([[第1巻87番>詩百篇第1巻87番]]、[[第9巻34番>詩百篇第9巻34番]]、[[第10巻72番>詩百篇第10巻72番]]など)。
-&bold(){訳について}
--訳し方についての補足である。複数に解釈できる単語や、現代語にない単語についての注記のほか、専門家によって読み方が分かれる箇所について、どの論者の読み方を採用したのか、ほかにはどのような読み方がありうるのか等を解説している。
--なお、従来スタンダードな訳文として信奉者側のみならず懐疑派などにも利用されてきた[[山根和郎]]訳((山根和郎訳『ノストラダムス全予言』二見書房))、[[大乗和子]]訳((大乗和子訳『ノストラダムス大予言原典・諸世紀』たま出版))などを引き合いに出し、その誤訳や不適切な訳を指摘することも行っているが、これはより正確な訳を作り上げる上で明らかにおかしな訳は排除しておくべきと考えるためであり、それぞれの訳者個人を攻撃する意図はない。ノストラダムスの予言は「どうとでも解釈できる」という批判があり、これはある程度その通りなのだが、反面、翻訳や解釈に問題がありすぎて、原文では一通りにしか訳せないのに何種類もの訳が「創作」されてしまっている場合も存在しているのである。
-&bold(){信奉者側の見解}
--ノストラダムス予言を信じる側の論者たちが、過去にどのような解釈を展開してきたかの紹介である。海外の「古典的」な論者の解釈を中心として扱い、日本の泡沫的な論者の解釈は省いた場合も少なくない。当「大事典」ではそうした解釈を支持するものではないが、非信奉者にとっても、ノストラダムス予言の受容のされ方に関する資料にはなると考えている。
-&bold(){懐疑的な見解}
--すべての詩篇に設けている節ではないが、信奉者側の通説的解釈に対し、懐疑論者の側からの反論などが提示されている場合に、そうした見解を紹介している。
-&bold(){同時代的な視点}
--上でも名前を挙げたブランダムールをはじめとする仏文学者、古典学者、歴史学者など、きちんとした学術的アプローチを採っている専門家たちの見解を紹介している。もっとも、すべての詩篇について解明されているわけではなく、この節に書くべきことがほとんどない詩篇も、現時点では残念ながら少なくない。
*詩百篇の断片とされるもの
写本として残る断片
-[[シャストゥイユが伝えた詩百篇>シャストゥイユが伝えた百詩篇]]
近現代に追加された偽の詩百篇
-[[フランス革命期のニセの詩百篇>フランス革命期の偽の百詩篇]]
-[[自宅の壁の中から発見されたと称する詩百篇第12巻>クロケットの四行詩]]
-[[アメリカ同時多発テロに関する偽の詩]]
----
※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。