百詩篇第5巻92番

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*原文 Apres le&sup(){1} siege&sup(){2} tenu dixsept&sup(){3} ans, Cinq changeront en tel reuolu terme: Puis&sup(){4} sera&sup(){5} l'vn esleu&sup(){6} de mesme temps, Qui des Romains ne sera trop conforme. **異文 (1) le : les 1597 (2) siege : signe 1665 (3) dixsept : dix sept 1588-89 1611A 1649Ca 1650Le 1653 1660 1665, dix-sept 1605 1627 1644 1649Xa 1716 1772Ri, dix & sept 1668, dixscept 1867LP (4) Puis : Plus 1588-89 (5) sera : fera 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1716 (6) l'vn esleu : l'vn esseu 1557B, esleu 1611B (注記)1649Ca 1653 の dix sept は心持ち広く開いている *日本語訳 御座が十七年間保たれた後に、 そういう巡り終えた期間に五人が変わるだろう。 そして、同じ時期に一人が選ばれるだろう。 その者はローマ人たちには余り似つかわしくないだろう。 **訳について  2行目について、[[ジャン=ポール・クレベール]]は「そういう巡り終えた時期に五人が変えるだろう」と読んでいる。  大乗訳1行目「座を七十年間占有して」((大乗 [1975] p.172))は誤訳。解釈部分でも「七十年」と訳しているが、[[ヘンリー・C・ロバーツ]]はどちらも seventeen と書いている。  同2行目「五人がそのときどきに変わり」は、revolu が訳に反映されていないように思える。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]はある教皇が17年在位したあとに、別の5人が17年在位し、そのあとさらにローマで歓迎されない別の人物が選出されるという予言で、過去に成就したものではないかとした((Garencieres [1672]))。  [[アナトール・ル・ペルチエ]]は七月王政と解釈した。ルイ=フィリップの在位は1830年8月から1848年2月の17年間で、彼の治世が終わるとともに5人いた王子たちの扱いも大きく変化し、七月王政の終焉とともにナポレオン3世が人々から選出されたと解釈した((Le Pelletier [1867a] pp.255-256))。  この解釈は[[チャールズ・ウォード]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[スチュワート・ロッブ]]、[[ネッド・ハリー]]らが踏襲した((Ward [1891] pp.335-336, Laver [1952] p.199, Robb [1961] p.74, Halley [1999] p.125))。  [[セルジュ・ユタン]]は17年在位した者はナポレオン3世(在位1852年 - 1870年)ではないかとした((Hutin [1978/2002]))。  しかし、20世紀に入り、ほぼ17年ちょうどといえる教皇ピウス11世(在位1922年2月6日 - 1939年2月10日)が現われると、彼と関連付ける解釈が多く見られるようになった。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]]は、ピウス11世の在位は17年以上18年未満になると予測し、そのときに5つの国の政体が変わると解釈した((Fontbrune [1939] p.284))。当「大事典」で参照しているのは1939年の第4版だが、もしも1938年の初版からこの解釈が載っていたのなら、ピウス11世の在位期間を的中させたといえるだろう。  [[アンドレ・ラモン]]もピウス11世と解釈し、[[聖マラキの予言]]とも符合すると解釈していた((Lamont [1943] p.307))。  [[ロルフ・ボズウェル]]もピウス11世と解釈し、その後継者ピウス12世が五年で歿し、1944年にコンクラーヴェが行われる可能性があると解釈していた((Boswell [1943] pp.178-179))。ちなみにピウス12世は1958年まで在位した。  [[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は、2行目の「5」を5人ではなく5年と解釈し、ピウスの死後1940年から1945年までの大戦がもたらした変化と解釈した((Fontbrune (1980) [1982]))。  [[ヴライク・イオネスク]]はピウス11世のあと5人の教皇が順に選出され、六人目が選出されると同時にローマ教会内で別の教皇選出騒ぎなどが起こると解釈した((イオネスク [1991] pp.158-160))。  [[池田邦吉]]もこの解釈をほぼ踏襲したが、彼は「6番目の教皇」つまりベネディクト16世が実際に選出された後に解釈を修正し、ベズビオ山の噴火によってバチカンが崩壊するとともにベネディクトの在位はごく短命に終わり、臨時の新教皇が誕生する予言とした((池田『21ノストラダムス No4』pp.20-21))。ちなみに、池田はその時点ではベズビオ山の噴火が2007年に起こると想定していた。  [[ジョセフ・サビノ]]は1行目の dix (10)と sept (7)の間にはどの版にも不自然な空白があると主張し、それは2行目の cinq (5)、3行目の un (1)とともに十字形を形成する暗号で、ピウス11世からヨハネ・パウロ1世までの即位が暗示されていたとした。ローマ人から歓迎されない最後の一人はヨハネ・パウロ2世で、彼がポーランド出身だったことを的中させたという((サビノ [1992] pp.32-39))。ただし、空白云々というサビノの主張は、上の「異文」欄からも明らかな通り事実に反する。 *同時代的な視点  [[ピーター・ラメジャラー]]は教会大分裂期の出来事がモデルと推測した。  最初のアヴィニョン対立教皇クレメンス7世の在位は1378年から1394年で、1週間を「8日」(huit jours)といったり2週間を「15日」(quinzaine)といったりする伝統的なフランス式の数え方では、確かに「17年間」になると指摘した(huit jours や quinzaine といった表現は現代語にも残っている)((Lemesurier [2003b/2010]))。  ラメジャラーはそれ以上詳述しなかったが、その直後の同じだけの期間(1394年 - 1410年)に教皇の座にあったのは、アヴィニョンの対立教皇ベネディクト8世(1394年 - 1424年)、ローマの教皇ボニファティウス9世(1389年 - 1404年)、同じくインノケンティウス7世(1404年 - 1406年)、同じくグレゴリウス12世(1406年 - 1415年)、ピサ選出の教皇アレクサンデル5世(1409年 - 1410年)の5人だった。そして、大分裂打開の期待を背負っていたアレクサンデル5世が短命に終わった結果、ほとんど時を置かずして2代目のピサ対立教皇ヨハネス23世(1410年 - 1415年)が選出された。しかし、ヨハネスは同時代人の目から見ても事態打開どころかむしろ混迷を深める存在と見られており、明らかに教皇にふさわしくない人物だったとされている((cf. M. D. ノウルズほか『キリスト教史4』平凡社版、p.465))。 ---- #comment

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