「六行詩17番」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「六行詩17番」(2019/12/17 (火) 02:17:47) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
[[六行詩集]]>17番*
*原文
Au mesme temps vn grand&sup(){1} endurera,
Ioyeux mal sain&sup(){2}, l'an complet ne verra,
Et&sup(){3} quelques vns&sup(){4} qui seront de la feste,
Feste pour vn seulement, à ce iour,
Mais peu apres sans faire long&sup(){5} seiour,
Deux se donront&sup(){6} l'vn à l'autre&sup(){7} de la teste&sup(){8}.
**異文
(1) vn grand : vn 1627Di, vn Grand 1644Hu
(2) mal sain : mal seing 1600Mo, malsain 1672Ga
(3) Et : Ft 1611A
(4) quelques vns : quelques-vns 1649Ca
(5) long : lon 1627Ma 1627Di
(6) donront : donneront 1600Au 1600Mo
(7) à l'autre : de l'autre 1600Mo, l'autre 1600Au 1611 1627Ma 1627Di 1628dR 1644Hu 1649Ca 1672Ga
(8) de la teste : la teste 1600Mo
*日本語訳
ある偉人が同時に受け入れるだろう、
喜びと不健康を。その年が終わるのを見届けないだろう。
そして何人かの者たちが祝祭に参加するだろう、
その日、ただ一人のための祝祭に。
しかし、長くとどまることなしにその後間もなく、
両者が互いに頭をぶつけ合うだろう。
*信奉者側の見解
[[テオフィル・ド・ガランシエール]]はレオ11世(在位1605年4月1日 - 27日)とした。彼は教皇選出から1ヶ月もせずに歿しており、喜びと不健康を同時に受け入れるというのは、そのことを言い当てたとした。祝祭はもちろん選出を喜ぶ祝宴のことだったという。最後の2行は次に教皇になったパウルス5世のこととした((Garencieres [1672]))。
*同時代的な視点
レオ11世の死は1605年4月のことであり、事後的に偽作された可能性を当然疑うべきであろう。なお、後半2行は、単にコンクラーヴェで合意に達したばかりの枢機卿たちが、またすぐに後継者をめぐって激論する羽目になったことを言っているだけではないだろうか。
*その他
1600Au では14番になっている。
----
#comment
[[六行詩集]]>17番*
*原文
Au mesme temps vn grand&sup(){1} endurera,
Ioyeux mal sain&sup(){2}, l'an complet ne verra,
Et&sup(){3} quelques vns&sup(){4} qui seront de la feste,
Feste pour vn seulement, à ce iour,
Mais peu apres sans faire long&sup(){5} seiour,
Deux se donront&sup(){6} l'vn à l'autre&sup(){7} de la teste&sup(){8}.
**異文
(1) vn grand : vn 1627Di, vn Grand 1644Hu
(2) mal sain : mal seing 1600Mo, malsain 1672Ga
(3) Et : Ft 1611A
(4) quelques vns : quelques-vns 1649Ca
(5) long : lon 1627Ma 1627Di
(6) donront : donneront 1600Au 1600Mo
(7) à l'autre : de l'autre 1600Mo, l'autre 1600Au 1611 1627Ma 1627Di 1628dR 1644Hu 1649Ca 1672Ga
(8) de la teste : la teste 1600Mo
*日本語訳
さる偉人が同時に受け入れるだろう、
喜びと不健康を。その年が終わるのを見届けないだろう。
そして何人かの者たちが祝祭に参加するだろう、
その日、ただ一人のための祝祭に。
しかし、長くとどまることなしにその後間もなく、
両者が互いに頭をぶつけ合うだろう。
*信奉者側の見解
[[テオフィル・ド・ガランシエール]]はレオ11世(在位1605年4月1日 - 27日)とした。
彼は教皇選出から1ヶ月もせずに歿しており、喜びと不健康を同時に受け入れるというのは、そのことを言い当てたとした。祝祭はもちろん選出を喜ぶ祝宴のことだったという。最後の2行は次に教皇になったパウルス5世のこととした((Garencieres [1672]))。
*同時代的な視点
レオ11世の死は1605年4月のことであり、事後的に偽作された可能性を当然疑うべきであろう。
なお、後半2行は、単にコンクラーヴェで合意に達したばかりの枢機卿たちが、またすぐに後継者をめぐって激論する羽目になったことを言っているだけではないだろうか。
*その他
1600Au では14番になっている。
----
※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。