アンリ2世

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 &bold(){アンリ2世}(Henri II, 1519年 - 1559年)は、フランス国王(在位1547年 - 1559年)。 #ref(Henry_II_of_France..jpg) 【画像】同時代の画家フランソワ・クルーエが描いたアンリ2世((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Henry_II_of_France..jpg]])) *生涯  フランソワ1世と王妃クロードの次男。パヴィアの戦いで大敗を喫しマドリードに幽閉されていた父の身代わりとして、わずか7歳のときに兄であった王太子フランソワともども、人質としてスペインに送られた。1530年にカンブレーの和約が締結された後に彼らは帰還したが、アンリは周囲に影響されないでいるには幼すぎたので、生涯を通じて、その態度物腰はフランス的というよりもスペイン的なものだった。  1533年にはカトリーヌ・ド・メディシスと結婚し、1536年に兄フランソワの死によって王太子となった。そのときから、彼は余生を完全に支配されることになる2人の人物の影響下に入った。一人は愛人のディアーヌ・ド・ポワチエであり、もうひとりはかれの助言者アンヌ・ド・モンモランシーである。  1547年に彼が即位すると、宮廷を一新し、トゥルノン枢機卿、ロングヴァル、エタンプ夫人らをはじめとする先王の知人や関係者を排し、ディアーヌ、モンモランシー、ギーズ公らを重用した。ときにアンリ2世は28歳であった。  即位して間もなく特別異端裁判所、いわゆる「火刑裁判所」(Chambre Ardente)を設置し、プロテスタントには厳しく対応した。また1551年のシャトーブリアン王令では、カルヴァン派との接点を断つべく、ジュネーヴへの連絡や送金を禁止した。  他方、ドイツのプロテスタント諸侯は神聖ローマ皇帝カール5世と対立していたことから、アンリはそれとの同盟を模索した。1552年にはプロテスタント諸侯との間でロッシャウ条約を結び、[[メス]]、トゥール、ヴェルダンの三司教区の占領に成功した。  父王が結んだオスマン帝国との同盟関係も維持し、1553年には連合艦隊によってジェノヴァからコルシカ島を奪った。  1559年4月、カトー=カンブレジ条約を結び、長く続いてきたイタリア戦争を終結に導いた。フランスはコルシカ、サヴォワ、ピエモンテを放棄する代わりに、メスなどの三司教区やカレーの領有が認められた。  この条約では、アンリ2世の妹のマルグリットとサヴォワ公、娘のエリザベートとスペイン王フェリペ2世が結婚することも決められていたが、それを祝った6月末の祝賀行事の際に、馬上槍試合でアンリ2世は目を負傷し、7月10日に歿した((『ブリタニカ百科事典』1911年版の抄訳を土台に、柴田・樺山・福井『フランス史2』の情報を加筆した。))。 *ノストラダムス関連  アンリ2世は1555年8月にノストラダムスを宮廷に呼んで会見した。成功裏に終わったらしいが、その内容は伝わっていない。  翌年1月付けでノストラダムスは[[アンリ2世への献辞>アンリ2世への手紙 (1557年)]]を執筆し、『[[1557年向けの予兆>Les Presages Merveillevx pour lan. 1557.]]』に収録した。  さらに1558年6月付けで作成された別の[[アンリ2世への手紙]]が『[[予言集>ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』も収録されている。  [[百詩篇集]]では、[[百詩篇第1巻35番]]がアンリ2世の死を予言したものとして、信奉者側では17世紀以来定説化してきた。  [[ピエール・ブランダムール]]らはそうした見解に否定的だが、他方で[[Chyren]]をアンリ2世のこととするなど、アンリ2世は輝ける未来を歩む名君として予言されていたと推測している。 ---- #comment
 &bold(){アンリ2世}(Henri II, 1519年 - 1559年)は、フランス国王(在位1547年 - 1559年)。 #ref(Henry_II_of_France..jpg) 【画像】同時代の画家フランソワ・クルーエが描いたアンリ2世((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Henry_II_of_France..jpg]])) *生涯  フランソワ1世と王妃クロードの次男。パヴィアの戦いで大敗を喫しマドリードに幽閉されていた父の身代わりとして、わずか7歳のときに兄であった王太子フランソワともども、人質としてスペインに送られた。1530年にカンブレーの和約が締結された後に彼らは帰還したが、アンリは周囲に影響されないでいるには幼すぎたので、生涯を通じて、その態度物腰はフランス的というよりもスペイン的なものだった。  1533年にはカトリーヌ・ド・メディシスと結婚し、1536年に兄フランソワの死によって王太子となった。そのときから、彼は余生を完全に支配されることになる2人の人物の影響下に入った。一人は愛人のディアーヌ・ド・ポワチエであり、もうひとりはかれの助言者アンヌ・ド・モンモランシーである。  1547年に彼が即位すると、宮廷を一新し、トゥルノン枢機卿、ロングヴァル、エタンプ夫人らをはじめとする先王の知人や関係者を排し、ディアーヌ、モンモランシー、ギーズ公らを重用した。ときにアンリ2世は28歳であった。  即位して間もなく特別異端裁判所、いわゆる「火刑裁判所」(Chambre Ardente)を設置し、プロテスタントには厳しく対応した。また1551年のシャトーブリアン王令では、カルヴァン派との接点を断つべく、ジュネーヴへの連絡や送金を禁止した。  他方、ドイツのプロテスタント諸侯は神聖ローマ皇帝カール5世と対立していたことから、アンリはそれとの同盟を模索した。1552年にはプロテスタント諸侯との間でロッシャウ条約を結び、[[メス]]、トゥール、ヴェルダンの三司教区の占領に成功した。  父王が結んだオスマン帝国との同盟関係も維持し、1553年には連合艦隊によってジェノヴァからコルシカ島を奪った。  1559年4月、カトー=カンブレジ条約を結び、長く続いてきたイタリア戦争を終結に導いた。フランスはコルシカ、サヴォワ、ピエモンテを放棄する代わりに、メスなどの三司教区やカレーの領有が認められた。  この条約では、アンリ2世の妹のマルグリットとサヴォワ公、娘のエリザベートとスペイン王フェリペ2世が結婚することも決められていたが、それを祝った6月末の祝賀行事の際に、馬上槍試合でアンリ2世は目を負傷し、7月10日に歿した((『ブリタニカ百科事典』1911年版の抄訳を土台に、柴田・樺山・福井『フランス史2』の情報を加筆した。))。 *ノストラダムス関連  アンリ2世は1555年8月にノストラダムスを宮廷に呼んで会見した。成功裏に終わったらしいが、その内容は伝わっていない。  翌年1月付けでノストラダムスは[[アンリ2世への献辞>アンリ2世への手紙 (1557年)]]を執筆し、『[[1557年向けの予兆>Les Presages Merveillevx pour lan. 1557.]]』に収録した。  さらに1558年6月付けで作成された別の[[アンリ2世への手紙]]が『[[予言集>ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』も収録されている。  [[詩百篇集]]では、[[詩百篇第1巻35番]]がアンリ2世の死を予言したものとして、信奉者側では17世紀以来定説化してきた。  [[ピエール・ブランダムール]]らはそうした見解に否定的だが、他方で[[Chyren]]をアンリ2世のこととするなど、アンリ2世は輝ける未来を歩む名君として予言されていたと推測している。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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