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&bold(){アントワーヌ・クレスパン}(Antoine Crespin、生没年不明)はノストラダムスに便乗して「ノストラダムス」を名乗った占星術師の一人である。
【画像】著書でしばしば使われた肖像画((画像の出典:[[**]]))
*筆名の変遷
-アントワーヌ・クレスパン、通称ノストラダムス(Antoine Crespin dict Nostradamus)
--処女作(1570年)で1度だけ名乗った。
-アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス(Antoine Crespin Nostradamus)
--1571年から1573年に使っていた。この時期が最も刊行点数が多い。
-クレスパン・アルキダムス(Chrespin Archidamus)
--1573年から1578年に使っていた。
-A.C.アルキダムス(A.C.Archidamus)
--1581年に一度だけ使った。
-アントワーヌ・クレスパン・アルキダムス(Anthoine Crespin Archidamus)
--1585年頃以降使うようになった。
*活動
この人物の初登場は、『[[1571年向けの予兆付き占筮>Pronostication avec ses presages pour l'an MDLXXI]]』(1570年頃)である。この後、彼は1580年までほぼ毎年著作を発表してゆく(再版も含め約20冊が確認されている)。その後1585年から1590年頃に3冊出し、1604年に現在確認されている最後の著作『[[太陽の世紀の総予測>Pronostication générale du ciecle du Solaire]]』を出版した。著作の数は多かったが、たいていは薄いパンフレットの類である。また、中には本家ノストラダムスからの剽窃を少なからず含んでいるものもあった。
彼の著作にはたいてい麗々しい肩書きが書かれている。それらの肩書きを信じるならば、彼はマルセイユ出身の占星術師で数学(または占星術)の博士を名乗り、タンド伯、サヴォワ公妃、国王、王弟らの常任侍医や顧問を歴任したらしい。ただし、客観的な裏づけのとれる形での経歴は全く分かっていない。
クレスパンに対する一般的な評価は単なる模倣者・盗作者の域を出るものではない。ただし、ノストラダムス『予言集』は生前に出されたとされるものも含めて全て1570年代以降に捏造されたものである、という仮説を唱えている[[ジャック・アルブロン]]は、同時代の証言としてより積極的な評価がなされるべきだと主張している。
*関連項目
-[[アントワーヌ・クレスパンの著作一覧]]
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#comment
&bold(){アントワーヌ・クレスパン}(Antoine Crespin、生没年不明)はノストラダムスに便乗して「ノストラダムス」を名乗った占星術師の一人である。
#ref(Antoine_Crespin.png)
【画像】著書でしばしば使われた肖像画((画像の出典:[[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Antoine_Crespin.PNG?uselang=ja]]))
*筆名の変遷
-アントワーヌ・クレスパン、通称ノストラダムス(Antoine Crespin dict Nostradamus)
--処女作(1570年)で1度だけ名乗った。
-アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス(Antoine Crespin Nostradamus)
--1571年から1573年に使っていた。この時期が最も刊行点数が多い。
-クレスパン・アルキダムス(Chrespin Archidamus)
--1573年から1578年に使っていた。
-A.C.アルキダムス(A.C.Archidamus)
--1581年に一度だけ使った。
-アントワーヌ・クレスパン・アルキダムス(Anthoine Crespin Archidamus)
--1585年頃以降使うようになった。
*活動
この人物の初登場は、『[[1571年向けの予兆付き占筮>Pronostication avec ses presages pour l'an MDLXXI]]』(1570年頃)である。この後、彼は1580年までほぼ毎年著作を発表してゆく(再版も含め約20冊が確認されている)。その後1585年から1590年頃に3冊出し、1604年に現在確認されている最後の著作『[[太陽の世紀の総予測>Pronostication générale du ciecle du Solaire]]』を出版した。著作の数は多かったが、たいていは薄いパンフレットの類である。また、中には本家ノストラダムスからの剽窃を少なからず含んでいるものもあった。
彼の著作にはたいてい麗々しい肩書きが書かれている。それらの肩書きを信じるならば、彼はマルセイユ出身の占星術師で数学(または占星術)の博士を名乗り、タンド伯、サヴォワ公妃、国王、王弟らの常任侍医や顧問を歴任したらしい。ただし、客観的な裏づけのとれる形での経歴は全く分かっていない。
クレスパンに対する一般的な評価は単なる模倣者・盗作者の域を出るものではない。ただし、ノストラダムス『予言集』は生前に出されたとされるものも含めて全て1570年代以降に捏造されたものである、という仮説を唱えている[[ジャック・アルブロン]]は、同時代の証言としてより積極的な評価がなされるべきだと主張している。
*関連項目
-[[アントワーヌ・クレスパンの著作一覧]]
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