ジャン・ド・サン=レミ

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ジャン・ド・サン=レミ」(2011/04/03 (日) 11:51:35) の最新版変更点

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 &bold(){ジャン・ド・サン=レミ}(Jean de Saint-Rémy, 1428年頃 - 1504年?)は、ノストラダムスの母方の曽祖父。[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の医師であった。 *生涯  ジャン・ド・サン=レミの正確な生年は不明である。1478年10月の公文書で50歳と記載されていることなどから、1428年頃の生まれとされる((Leroy [1960] pp.101-102))。  確認されている限りでは、ジャンはキリスト教徒であった。通俗的には、本人ないしその父親が改宗した元ユダヤ教徒だったとされるが、その辺りの事情を証明できる史料は残っていない((Leroy [1993] p.30))。  時期は不明だがシレット(Sillette)という女性と結婚し、息子[[ルネ>ルネ・ド・サン=レミ]]をもうけた。ルネは[[ベアトリス・トゥレル]]と結婚したが、1479年頃に亡くなり、ベアトリスの父ジャックとジャン・ド・サン=レミの間で、ベアトリスの結婚持参金返還をめぐる係争があった((Leroy [1960] p.102))。  ジャンの職業は医師だったが、それとともに1584年から1504年の間はサン=レミ=ド=プロヴァンス市当局の clavaire の地位にあった。clavaire は現代フランス語では「ホウキタケ」(箒茸)のことだが、[[エドガール・ルロワ]]によると、この場合は trésorier (財務官、収入役)の意味だという((Leroy [1960] p.101))。また、サン=レミの法廷の下級代官補佐(vice-baïle de la cour)を務めていた時期が何度もあった((Leroy [1960] p.103))。  ただし、通俗的に非常に有名な「善王ルネの侍医を務めていた」という説は、[[セザール・ド・ノートルダム]]らによって粉飾された経歴に過ぎず、それを裏付けられる史料は存在しない((Leroy [1993] p.30))。  1495年3月14日には、孫娘[[レニエール>レニエール・ド・サン=レミ]]の結婚持参金のために、財産分与を行っている。ジャンは妻シレットとともに孫娘夫妻と同居し、孫娘の夫でアヴィニョンの商人だったジョーム・ド・ノートルダムが、サン=レミの町で公証人としての仕事を始める際にも、いろいろと支援をしたようである((Leroy [1960] pp.103-104))。  ジャンは町の名士であり、様々な公文書にその名が残っている。しかし、1504年を境にその名が全く見られなくなる((Leroy [1960] p.101))。葬儀の記録もない以上、断言は避けるべきだろうが、その頃に亡くなったと見るのが自然だろう。[[ロベール・ブナズラ]]や T.M.W.ファン・ベルケルは1504年没としている((cf. [[http://ramkat.free.fr/ascend.html#3]], [[http://www.nostradamusresearch.org/en/nostr/ascendants.htm]]))。 *ノストラダムス関連  ノストラダムスの母方の曽祖父という血縁上のつながりだけでなく、ノストラダムスが幼い頃に様々な外国語、医学、占星術などの知識を伝えた「老教師」としての側面が強調されてきた。そうした見方を最初に公刊したのは、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]である。  しかし、上で見たように、ジャン・ド・サン=レミが1504年以降も生きていたという記録は全く見出せない。仮に存命だったとしても、ノストラダムスが生まれた時点で75歳前後という年齢を考慮すれば、様々な学問を教えられるような健康状態だったのかどうかも定かではない。  [[ピーター・ラメジャラー]]は曽祖父が教えた可能性に好意的だが、そのラメジャラーにしても、教育を施したのが曽祖父ではなく父親だった可能性にも触れている((Lemesurier [2003a] p.5))。  なお、ノストラダムスは1561年の私信で、ジャン・ド・サン=レミゆずりの平面天体図(planisphere)などの道具を使っていることを明言している((cf. Wilson [2003] p.9))。これはジャンから教育を受けたと見る論者にとって、有利な傍証といえるかもしれない。しかし、そこでも教えを受けたとか知識を受け継いだとは書かれていないことや、ノストラダムス自身の占星術のキャリアが40年間(つまり放浪が始まった1521年から)とされていることなどには、注意が必要だろうと思われる。 ---- #comment
 &bold(){ジャン・ド・サン=レミ}(Jean de Saint-Rémy, 1428年頃 - 1504年?)は、ノストラダムスの母方の曽祖父。[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の医師であった。 *生涯  ジャン・ド・サン=レミの正確な生年は不明である。1478年10月の公文書で50歳と記載されていることなどから、1428年頃の生まれとされる((Leroy [1960] pp.101-102))。  確認されている限りでは、ジャンはキリスト教徒であった。通俗的には、本人ないしその父親が改宗した元ユダヤ教徒だったとされるが、その辺りの事情を証明できる史料は残っていない((Leroy [1993] p.30))。  時期は不明だがシレット(Sillette)という女性と結婚し、息子[[ルネ>ルネ・ド・サン=レミ]]をもうけた。ルネは[[ベアトリス・トゥレル]]と結婚したが、1479年頃に亡くなり、ベアトリスの父ジャックとジャン・ド・サン=レミの間で、ベアトリスの結婚持参金返還をめぐる係争があった((Leroy [1960] p.102))。  ジャンの職業は医師だったが、それとともに1581年から1504年の間はサン=レミ=ド=プロヴァンス市当局の clavaire の地位にあった。clavaire は現代フランス語では「ホウキタケ」(箒茸)のことだが、[[エドガール・ルロワ]]によると、この場合は trésorier (財務官、収入役)の意味だという((Leroy [1960] p.101))。また、サン=レミの法廷の下級代官補佐(vice-baïle de la cour)を務めていた時期が何度もあった((Leroy [1960] p.103))。  ただし、通俗的に非常に有名な「善王ルネの侍医を務めていた」という説は、[[セザール・ド・ノートルダム]]らによって粉飾された経歴に過ぎず、それを裏付けられる史料は存在しない((Leroy [1993] p.30))。  1495年3月14日には、孫娘[[レニエール>レニエール・ド・サン=レミ]]の結婚持参金のために、財産分与を行っている。ジャンは妻シレットとともに孫娘夫妻と同居し、孫娘の夫でアヴィニョンの商人だったジョーム・ド・ノートルダムが、サン=レミの町で公証人としての仕事を始める際にも、いろいろと支援をしたようである((Leroy [1960] pp.103-104))。  ジャンは町の名士であり、様々な公文書にその名が残っている。しかし、1504年を境にその名が全く見られなくなる((Leroy [1960] p.101))。葬儀の記録もない以上、断言は避けるべきだろうが、その頃に亡くなったと見るのが自然だろう。[[ロベール・ブナズラ]]や T.M.W.ファン・ベルケルは1504年没としている((cf. [[http://ramkat.free.fr/ascend.html#3]], [[http://www.nostradamusresearch.org/en/nostr/ascendants.htm]]))。 *ノストラダムス関連  ノストラダムスの母方の曽祖父という血縁上のつながりだけでなく、ノストラダムスが幼い頃に様々な外国語、医学、占星術などの知識を伝えた「老教師」としての側面が強調されてきた。そうした見方を最初に公刊したのは、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]である。  しかし、上で見たように、ジャン・ド・サン=レミが1504年以降も生きていたという記録は全く見出せない。仮に存命だったとしても、ノストラダムスが生まれた時点で75歳前後という年齢を考慮すれば、様々な学問を教えられるような健康状態だったのかどうかも定かではない。  [[ピーター・ラメジャラー]]は曽祖父が教えた可能性に好意的だが、そのラメジャラーにしても、教育を施したのが曽祖父ではなく父親だった可能性にも触れている((Lemesurier [2003a] p.5))。  なお、ノストラダムスは1561年の私信で、ジャン・ド・サン=レミゆずりの平面天体図(planisphere)などの道具を使っていることを明言している((cf. Wilson [2003] p.9))。これはジャンから教育を受けたと見る論者にとって、有利な傍証といえるかもしれない。しかし、そこでも教えを受けたとか知識を受け継いだとは書かれていないことや、ノストラダムス自身の占星術のキャリアが40年間(つまり放浪が始まった1521年から)とされていることなどには、注意が必要だろうと思われる。 ---- #comment

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