ピエール・ド・ノートルダム

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 &bold(){ピエール・ド・ノートルダム}(Pierre de Nostredame, 1430年頃 - 1485年頃)は、[[ノストラダムス]]の父方の祖父。アヴィニョンで穀物商と高利貸を営んでいた。&bold(){クレカ・ド・カルカソンヌ}(Crescas de Carcassonne)、&bold(){ギ・ガソネ}(Guy Gassonnet)、&bold(){ギドン・ガソネ}(Guidon Gassonnet)、&bold(){ヴィド・ガソメ}(Vido Gassomet)、&bold(){ペロ・ド・サント=マリー}(Perrot / Peyrot de Sainte-Marie)など、多くの名で公文書に記録されている((Leroy [1941] pp.13-15, Vido のみ Leroy [1963] p.24. なお、各種文献ではガソネとガソメが並存している。当「大事典」ではひとまずガソネで統一する。))。  関連文献において[[カルパントラのピエール・ド・ノートルダム]]や、息子である[[アルルのピエール・ド・ノートルダム>ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)]]と区別するときには、「アヴィニョンのピエール・ド・ノートルダム」と書かれることもある。 *生涯  [[ダヴァン・ド・カルカソンヌ>アルノートン・ド・ヴェロルグ]]の子供の一人として、アヴィニョンで生まれた。生まれたときの名はクレカといった。  1448年に18歳くらいで結婚しているため、1430年頃の生まれと推測できる((Lhez [1961] p.398))。ただし、亡くなったときの年齢とは、若干の齟齬がある。  最初の妻はシストロン(Sisteron)という町に住んでいたクレカ・ド・カステロの孫ステラ・ド・カステロ(Stella de Castello)だった((Lhez [1961] ibid.))。  クレカは小麦やカラス麦を扱う卸売商(courtier)として活動し、高利貸も営んでいた((Leroy [1993] pp.14-15))。  時期は不明だが、モントゥー(Monteux)に住んでいたジェセ・ガソネ(Jessé Gassonet, ジョス Josse とも)の娘ブナストリュジー・ガソネ(Benastrugie Gassonet)と再婚した((Leroy [1993] p.15))。ブナストリュジーは、アストリュグ(Astrugue)とも言ったらしい。ジェセはクレカの親戚だったらしく、キリスト教徒に改宗していた((Leroy [1993] p.15))。  しかし、ブナストリュジー自身は、クレカがキリスト教徒に改宗した後も改宗を拒み、結局1463年6月に正式に離婚が認められた((Leroy [1993] pp.15-16, Lhez [1961] p.401))。  クレカが改宗した時期ははっきりしない。  [[エドガール・ルロワ]]は1454年頃とし、改宗後の名であるピエール・ド・ノートルダム(ペトロ・デ・ノストラ・ドミナ)は、1455年の穀物取引記録ですでに見られるとしている((Leroy [1963] p.24 & Leroy [1993] p.14))。  その一方、ウジェーヌ・レーは、1460年1月24日に先立つ5ヶ月の間に改宗したとしており、1457年の時点で「クレカ・ド・カルカソンヌ」が「アヴィニョンのユダヤ人」とされている記録も挙げている((Lhez [1961] pp.399 & 402 ))。また、改宗の背景として、1459年6月にカルパントラで起きたユダヤ人虐殺事件が、切迫した恐怖を呼び起こした可能性を指摘した((Lhez [1961] p.401))。  いずれにしても、1460年代初頭までにキリスト教に改宗し、そのことがブナストリュジーとの離婚につながったことは確かなようである。  ピエール・ド・ノートルダムは、1464年12月8日にキリスト教徒[[ブランシュ・ド・サント=マリー]]と婚約の式(fiançailles)を執り行い、三度目の結婚をした((Lhez [1961] p.404))。ブランシュとの間には、[[ジョーム>ジョーム・ド・ノートルダム]]、[[フランソワ>フランソワ・ド・ノートルダム]]、[[ピエール>ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)]]、[[カトリーヌ>カトリーヌ・ド・ノートルダム]]、[[バルトロメ>バルトロメ・ド・ノートルダム]]、[[マルグリット>マルグリット・ド・ノートルダム]]という6人の子供をもうけた。  ピエールは生涯、穀物商人として活動し、不動産取引に関心を示した時期もあったようである((Lhez [1961] p.409))。  正確な没年は不明だが、1485年2月の記録を元に、1484年から1485年にかけて、52歳くらいで亡くなったと推測されている((Lhez [1961] p.410))。 ---- #comment
 &bold(){ピエール・ド・ノートルダム}(Pierre de Nostredame, 1430年頃 - 1485年頃)は、[[ノストラダムス]]の父方の祖父。アヴィニョンで穀物商と高利貸を営んでいた。&bold(){クレカ・ド・カルカソンヌ}(Crescas de Carcassonne)、&bold(){ギ・ガソネ}(Guy Gassonnet)、&bold(){ギドン・ガソネ}(Guidon Gassonnet)、&bold(){ヴィド・ガソメ}(Vido Gassomet)、&bold(){ペロ・ド・サント=マリー}(Perrot / Peyrot de Sainte-Marie)など、多くの名で公文書に記録されている((Leroy [1941] pp.13-15, Vido のみ Leroy [1963] p.24. なお、各種文献ではガソネとガソメが並存している。当「大事典」ではひとまずガソネで統一する。))。  関連文献において[[カルパントラのピエール・ド・ノートルダム]]や、息子である[[アルルのピエール・ド・ノートルダム>ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)]]と区別するときには、「アヴィニョンのピエール・ド・ノートルダム」と書かれることもある。 *生涯  [[ダヴァン・ド・カルカソンヌ>アルノートン・ド・ヴェロルグ]]の子供の一人として、アヴィニョンで生まれた。生まれたときの名はクレカといった。  1448年に18歳くらいで結婚しているため、1430年頃の生まれと推測できる((Lhez [1968] p.398))。ただし、亡くなったときの年齢とは、若干の齟齬がある。  最初の妻はシストロン(Sisteron)という町に住んでいたクレカ・ド・カステロの孫ステラ・ド・カステロ(Stella de Castello)だった((Lhez [1968] ibid.))。  クレカは小麦やカラス麦を扱う卸売商(courtier)として活動し、高利貸も営んでいた((Leroy [1993] pp.14-15))。  時期は不明だが、モントゥー(Monteux)に住んでいたジェセ・ガソネ(Jessé Gassonet, ジョス Josse とも)の娘ブナストリュジー・ガソネ(Benastrugie Gassonet)と再婚した((Leroy [1993] p.15))。ブナストリュジーは、アストリュグ(Astrugue)とも言ったらしい。ジェセはクレカの親戚だったらしく、キリスト教徒に改宗していた((Leroy [1993] p.15))。  しかし、ブナストリュジー自身は、クレカがキリスト教徒に改宗した後も改宗を拒み、結局1463年6月に正式に離婚が認められた((Leroy [1993] pp.15-16, Lhez [1968] p.401))。  クレカが改宗した時期ははっきりしない。  [[エドガール・ルロワ]]は1454年頃とし、改宗後の名であるピエール・ド・ノートルダム(ペトロ・デ・ノストラ・ドミナ)は、1455年の穀物取引記録ですでに見られるとしている((Leroy [1963] p.24 & Leroy [1993] p.14))。  その一方、ウジェーヌ・レーは、1460年1月24日に先立つ5ヶ月の間に改宗したとしており、1457年の時点で「クレカ・ド・カルカソンヌ」が「アヴィニョンのユダヤ人」とされている記録も挙げている((Lhez [1968] pp.399 & 402 ))。また、改宗の背景として、1459年6月にカルパントラで起きたユダヤ人虐殺事件が、切迫した恐怖を呼び起こした可能性を指摘した((Lhez [1968] p.401))。  いずれにしても、1460年代初頭までにキリスト教に改宗し、そのことがブナストリュジーとの離婚につながったことは確かなようである。  ピエール・ド・ノートルダムは、1464年12月8日にキリスト教徒[[ブランシュ・ド・サント=マリー]]と婚約の式(fiançailles)を執り行い、三度目の結婚をした((Lhez [1961] p.404))。ブランシュとの間には、[[ジョーム>ジョーム・ド・ノートルダム]]、[[フランソワ>フランソワ・ド・ノートルダム]]、[[ピエール>ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)]]、[[カトリーヌ>カトリーヌ・ド・ノートルダム]]、[[バルトロメ>バルトロメ・ド・ノートルダム]]、[[マルグリット>マルグリット・ド・ノートルダム]]という6人の子供をもうけた。  ピエールは生涯、穀物商人として活動し、不動産取引に関心を示した時期もあったようである((Lhez [1968] p.409))。  正確な没年は不明だが、1485年2月の記録を元に、1484年から1485年にかけて、52歳くらいで亡くなったと推測されている((Lhez [1968] p.410))。 ---- #comment

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