ベルトラン・ド・ノートルダム

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 &bold(){ベルトラン・ド・ノートルダム}(Bertrand de Nostredame, 1518年 - 1602年以降)は、[[ノストラダムス]]の弟の一人。[[ジョーム・ド・ノートルダム]]と[[レニエール・ド・サン=レミ]]の間に生まれた。[[プロヴァンス州サン=レミ>サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の商人、軍人。  「ベルトラン・ド・ノストラダムス」とも名乗った。ノストラダムスの弟でノストラダムスを名乗ったのは、[[ジャン>ジャン・ド・ノートルダム]]とベルトランだけである。 *生涯  [[プロヴァンス州サン=レミ>サン=レミ=ド=プロヴァンス]]で、1518年の6月4日から7月10日の間に洗礼を受けた((Leroy [1993] p.33, n.2))。日付が曖昧なのは、現存している史料が不完全な形でしか残っていないためだという。名付け親が、代父ベルトラン・ユゴラン(Bertrand Hugolin)、代母ジョルダーヌ・ド・ラ・メール(Jordane de la Mer)ということは分かっている。  1540年頃にラマノンの領主の娘である[[トミーヌ・ルース]]と結婚した。トミーヌとの間には、[[クロード>クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)]]、[[ジャン>ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子)]]、[[ジャンヌ>ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)]]、[[カトリーヌ>カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)]]、[[リュクレース>リュクレース・ド・ノートルダム]]、[[ブランシュ>ブランシュ・ド・ノートルダム]]という二男四女をもうけることになる。  1556年には、サン=レミにおいて「ブルジョワにして商人」と記録されている。この時期には、サン=レミの法廷の書記(greffe)とも記録されている。  1559年から1561年の間には、アニェス・ペレ(Agnès Pellet)という未成年女性の法定代理人を務めていたらしいが、どういうつながりだったのかはよく分からない。  宗教戦争が始まると、プロヴァンス総督のタンド伯クロード・ド・サヴォワに仕え、1568年以降、その「従者・平貴族」(escuyer)、「射手」(archer)、「騎兵」(gendarme)などと記録されている。 Capitaine (隊長ないし大尉)を冠して記録されることもあった。かなりの財を成し、1573年から1574年にはサン=レミの第一執政官にも選出された。  ベルトランの没年は分からない。最後の記録は1602年4月10日付のもので、そのときにはおよそ84歳となっていたため、おそらく遠からぬ時期に歿したのだろう((以上はLeroy [1993] pp.33-35 および家系図による。))。 ---- #comment

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