ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム

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 &bold(){ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム}(Michel-Bertrand de Nostredame, 1578年 - 1637年以前)は、[[ノストラダムスの甥]]である[[クロード>クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)]]の息子。一族で最も有名な大伯父「ミシェル」([[ノストラダムス]])と、プロヴァンス総督の従者を務めた祖父「[[ベルトラン>ベルトラン・ド・ノートルダム]]」の名を与えられた男児だが、ベルトランが築き上げた名家としての地位と財産を潰してしまった不肖の孫である。 *生涯  1578年11月1日に[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]で洗礼を受けた。姉[[トミーヌ>トミーヌ・ド・ノートルダム]]の時と同じく、代父は伯父(または叔父)でもあるピエール・ダルメランがつとめた。代母はクローズ領主(sieur de Crozes)の夫人シルヴィ・ド・ブランケ(Sylvie de Brancquais)である。なお、シルヴィの夫ポール・ミストラル・ド・モンドラゴンの一族の邸宅は、現在、サン=レミのアルピーユ博物館になっている。  1598年10月11日に[[アルル]]の法学博士の娘カトリーヌ・モトンヌ(Catherine Motonne)と結婚した。この時に祖父ベルトランはいくらか財産を分けたようだが、後に、それ以外の財産の半分をミシェル=ベルトランに与えた。  その財産には、ベルトランが多額の私財を投じた邸宅マス・ド・ルーサン(Mas de Roussan)も含まれており、ベルトランは大事にするよう遺言していたらしいが、1608年には義兄メルシオール=ジャック・ド・ジョアニスに売却してしまった(マス・ド・ルーサンは、その後もジョアニス家が何代にもわたって持ち続け、改築された邸宅が現存している((ラメジャラー [1998a] p.336)))。その少し後に、妻カトリーヌと死別したらしい。  子供が何人いたのか不明だが、[[エドガール・ルロワ]]は、子孫を残さず死んだシピオン(Scipion)とピエール、靴職人と結婚したイザボー(Ysabeau)、凡庸なジャックという4人の子供を挙げている。ルロワが強調しているのは、そのいずれもが自分の名前すら署名できない文盲だったという事実である。つまり、代々ノートルダム家は、商人や公証人としての実務に耐えうる程度に読み書きができていたにもかかわらず、ここに至って、それすらできない教養水準に低下したということである。  ベルトラン=ミシェルの再婚相手ジャンヌ・ル・プチ(Jeanne le Petit)も文盲だった。ジャンヌは1637年には未亡人とされているので、それ以前にミシェル=ベルトランは歿していたと見ることができる。  なお、その記録では、ジャンヌは「ジャン=ローランの母」とも書かれているが、ルロワが何も述べていないので、この子供については不明である((以上で特に出典を挙げていない箇所は Leroy [1993] pp.36-37による。))。 ---- #comment
 &bold(){ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム}(Michel-Bertrand de Nostredame, 1578年 - 1637年以前)は、[[ノストラダムスの甥]]である[[クロード>クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)]]の息子。一族で最も有名な大伯父「ミシェル」([[ノストラダムス]])と、プロヴァンス総督の従者を務めた祖父「[[ベルトラン>ベルトラン・ド・ノートルダム]]」の名を与えられた男児だが、ベルトランが築き上げた名家としての地位と財産を潰してしまった不肖の孫である。 *生涯  1578年11月1日に[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]で洗礼を受けた。姉[[トミーヌ>トミーヌ・ド・ノートルダム]]の時と同じく、代父は伯父(または叔父)でもあるピエール・ダルメランがつとめた。代母はクローズ領主(sieur de Crozes)の夫人シルヴィ・ド・ブランケ(Sylvie de Brancquais)である。なお、シルヴィの夫ポール・ミストラル・ド・モンドラゴンの一族の邸宅は、現在、サン=レミのアルピーユ博物館になっている。  1598年10月11日に[[アルル]]の法学博士の娘カトリーヌ・モトンヌ(Catherine Motonne)と結婚した。この時に祖父ベルトランはいくらか財産を分けたようだが、後に、それ以外の財産の半分をミシェル=ベルトランに与えた。  その財産には、ベルトランが多額の私財を投じた邸宅マス・ド・ルーサン(Mas de Roussan)も含まれており、ベルトランは大事にするよう遺言していたらしいが、1608年には義兄メルキオール=ジャック・ド・ジョアニスに売却してしまった(マス・ド・ルーサンは、その後もジョアニス家が何代にもわたって持ち続け、改築された邸宅が現存している((ラメジャラー [1998a] p.336)))。その少し後に、妻カトリーヌと死別したらしい。  子供が何人いたのか不明だが、[[エドガール・ルロワ]]は、子孫を残さず死んだシピオン(Scipion)とピエール、靴職人と結婚したイザボー(Ysabeau)、凡庸なジャックという4人の子供を挙げている。ルロワが強調しているのは、そのいずれもが自分の名前すら署名できない文盲だったという事実である。つまり、代々ノートルダム家は、商人や公証人としての実務に耐えうる程度に読み書きができていたにもかかわらず、ここに至って、それすらできない教養水準に低下したということである。  ベルトラン=ミシェルの再婚相手ジャンヌ・ル・プチ(Jeanne le Petit)も文盲だった。ジャンヌは1637年には未亡人とされているので、それ以前にミシェル=ベルトランは歿していたと見ることができる。  なお、その記録では、ジャンヌは「ジャン=ローランの母」とも書かれているが、ルロワが何も述べていないので、この子供については不明である((以上で特に出典を挙げていない箇所は Leroy [1993] pp.36-37による。))。 ---- #comment

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