「百詩篇第6巻87番」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「百詩篇第6巻87番」(2012/03/09 (金) 22:55:10) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
*原文
L' eslection faicte dans&sup(){1} Frankfort&sup(){2},
N' aura nul lieu Milan s' opposera:
Le sien plus proche semblera si grand&sup(){3} fort
Que oultre&sup(){4} le Ryn&sup(){5} es mareschz&sup(){6} chassera&sup(){7}.
**異文
(1) dans : dedans 1650Le 1668
(2) Frankfort 1557U 1557B 1568 1590Ro 1597 1600 1610 1650Ri 1716 1772Ri : Franckfort 1589PV, Francfort &italic(){T.A.Eds.}
(3) grand : grad 1668P
(4) Que oultre : Qu'outre &italic(){A partir de 1597}(&italic(){sauf} : Qu'autre 1611A, Qu'oute 1672)
(5) Ryn / Rhin : Rhiné 1649Xa
(6) es mareschz 1557U 1568A 1568B : és mareschz &italic(){T.A.Eds.}(&italic(){sauf} : es marestz 1557B 1589PV, mareschs 1649Xa, Marais les 1672)
(7) chassera : cassera 1597 1600 1610 1611 1627 1644 1650Ri 1653 1660 1665 1716
**校訂
1行目の dans について、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]は dedans としている。
*日本語訳
フランクフルトで行われた選挙は
なんら効力を持たないだろう。ミラノが反駁するだろう。
彼の一番の近親者があまりにも強大に見えるので、
ライン川を越えて沼地に追いやられるであろう。
**訳について
3、4行目は si... que... (英語の so... that... )の構文である。4行目はクレベールの読みに従い、chasser の目的語が「一番の近親者」と見なし、受動的に訳した。ちなみに mareschz は marais の綴りの揺れである。
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]も[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]もおおむね許容範囲内である。その4行目「ラインの沢地を越えて 他の者が追い出される」(大乗((大乗 [1975] p.197)))、「彼が相手をラインの彼方の沼地に追放するだろう」(山根((山根 [1988] p.236)))にしても、que 以下の節の理解の仕方によっては成立する。
*信奉者側の見解
[[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、フランクフルトの選挙が神聖ローマ皇帝選出に関わるものであることを指摘しただけで、「残りは平易」で片付けた((Garencieres [1672]))。
その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。
[[セルジュ・ユタン]]は、第二次世界大戦末期の連合軍によるドイツ攻略と解釈した((Hutin [1978]))。
[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は1871年の事件と解釈した。
当時普仏戦争を繰り広げていたフランスでは、ナポレオン3世が捕われた後に休戦交渉を行う前提で国民議会の議員選挙が行なわれた。それを踏まえた交渉の結果、フランクフルト講和条約が締結された(フォンブリュヌは「(フランスで)行われた選挙がフランクフルトで受け入れられない」というように、若干強引に読み替えている)。このときに、アルザス・ロレーヌはドイツに割譲された。
ミラノ云々について、フォンブリュヌは同じ年に統一イタリアの首都がローマとされたことへの反発と解釈した((Fontbrune (1980)[1982]))。
*同時代的な視点
[[エドガー・レオニ]]は、カール5世の弟フェルディナント(1世)が1558年にフランクフルトで戴冠し、神聖ローマ皇帝となったものの、ミラノ公領を継承していた甥フェリペ(2世)がそれに反発することを描いた詩と解釈した。4行目はその骨肉の争いの結果、フェルディナントはネーデルラントに追いやられるという見通しを示したものだったが、それについては外れたと見なした((Leoni [1961/1965]))。
[[ピーター・ラメジャラー]]もこの解釈を踏襲し、ノストラダムスの外れた見通しが含まれていると解釈した((Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]))。信奉者の中にも、[[エリカ・チータム]]や[[ジョン・ホーグ]]のように、この外れた要素を含んでいる解釈をそのまま踏襲した者たちもいる((Cheetham [1973], Hogue (1997)[1999]))。
[[ジャン=ポール・クレベール]]は、イタリアにとって好ましからざる神聖ローマ皇帝がフランクフルトで選出されることの予言とし、モデルとしてはマクシミリアン1世やカール5世を挙げた((Clébert [2003]))。
----
#comment
*原文
L' eslection faicte dans&sup(){1} Frankfort&sup(){2},
N' aura nul lieu Milan s' opposera:
Le sien plus proche semblera si grand&sup(){3} fort
Que oultre&sup(){4} le Ryn&sup(){5} es mareschz&sup(){6} chassera&sup(){7}.
**異文
(1) dans : dedans 1650Le 1668
(2) Frankfort 1557U 1557B 1568 1590Ro 1597 1600 1610 1650Ri 1716 1772Ri : Franckfort 1589PV, Francfort &italic(){T.A.Eds.}
(3) grand : grad 1668P
(4) Que oultre : Qu'outre &italic(){A partir de 1597}(&italic(){sauf} : Qu'autre 1611A, Qu'oute 1672)
(5) Ryn / Rhin : Rhiné 1649Xa
(6) es mareschz 1557U 1568A 1568B : és mareschz &italic(){T.A.Eds.}(&italic(){sauf} : es marestz 1557B 1589PV, mareschs 1649Xa, Marais les 1672)
(7) chassera : cassera 1597 1600 1610 1611 1627 1644 1650Ri 1653 1660 1665 1716
**校訂
1行目の dans について、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]は dedans としている。
*日本語訳
フランクフルトで行われた選挙は
なんら効力を持たないだろう。ミラノが反駁するだろう。
彼の一番の近親者があまりにも強大に見えるので、
ライン川を越えて沼地に追いやられるであろう。
**訳について
3、4行目は si... que... (英語の so... that... )の構文である。4行目はクレベールの読みに従い、chasser の目的語が「一番の近親者」と見なし、受動的に訳した。ちなみに mareschz は marais の綴りの揺れである。
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]も[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]もおおむね許容範囲内である。その4行目「ラインの沢地を越えて 他の者が追い出される」(大乗((大乗 [1975] p.197)))、「彼が相手をラインの彼方の沼地に追放するだろう」(山根((山根 [1988] p.236)))にしても、que 以下の節の理解の仕方によっては成立する。
*信奉者側の見解
[[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、フランクフルトの選挙が神聖ローマ皇帝選出に関わるものであることを指摘しただけで、「残りは平易」で片付けた((Garencieres [1672]))。
その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。
[[セルジュ・ユタン]]は、第二次世界大戦末期の連合軍によるドイツ攻略と解釈した((Hutin [1978]))。
[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は1871年の事件と解釈した。
当時普仏戦争を繰り広げていたフランスでは、ナポレオン3世が捕われた後に休戦交渉を行う前提で国民議会の議員選挙が行なわれた。それを踏まえた交渉の結果、フランクフルト講和条約が締結された(フォンブリュヌは「(フランスで)行われた選挙がフランクフルトで受け入れられない」というように、若干強引に読み替えている)。このときに、アルザス・ロレーヌはドイツに割譲された。
ミラノ云々について、フォンブリュヌは同じ年に統一イタリアの首都がローマとされたことへの反発と解釈した((Fontbrune (1980)[1982]))。
*同時代的な視点
[[エドガー・レオニ]]は、カール5世の弟フェルディナント(1世)が1558年にフランクフルトで戴冠し、神聖ローマ皇帝となったものの、ミラノ公領を継承していた甥フェリペ(2世)がそれに反発することを描いた詩と解釈した。4行目はその骨肉の争いの結果、フェルディナントはネーデルラントに追いやられるという見通しを示したものだったが、それについては外れたと見なした((Leoni [1961/1965]))。
[[ピーター・ラメジャラー]]もこの解釈を踏襲し、ノストラダムスの外れた見通しが含まれていると解釈した((Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]))。信奉者の中にも、[[エリカ・チータム]]や[[ジョン・ホーグ]]のように、この外れた要素を含んでいる解釈をそのまま踏襲した者たちもいる((Cheetham [1973], Hogue (1997)[1999]))。
[[ジャン=ポール・クレベール]]は、イタリアにとって好ましからざる神聖ローマ皇帝がフランクフルトで選出されることの予言とし、モデルとしてはマクシミリアン1世やカール5世を挙げた((Clébert [2003]))。
----
※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。