詩百篇第9巻12番

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[[詩百篇第9巻]]>12番* *原文 Le tant d'argent de&sup(){1} Diane & Mercure&sup(){2} Les [[simulachres>simulacre]]&sup(){3} au lac&sup(){4} seront trouuez&sup(){5}, Le figulier&sup(){6} cherchant&sup(){7} argille&sup(){8} neufue&sup(){9} Luy & les siens d'or seront abbreuez&sup(){10}. **異文 (1) de : dist 1611B, du 1653AB 1665Ba (2) Mercure : Marcure 1605sn (3) simulachres/simulacres : simulachre 1611B (4) lac : sac 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri, Lac 1672Ga (5) trouuez : treuués 1627Ma 1627Di (6) figulier : figurier 1606PR 1607PR 1610Po 1716PR, sigulier 1611B, singulier 1644Hu 1650Ri 1650Le, Figulier 1672Ga (7) cherchant : cerchant 1590Ro 1644Hu 1650Ri (8) argille : arguille 1650Mo (9) neufue : veufve 1668A (10) abbreuez 1568A 1568B 1568C 1590Ro 1712Guy 1772Ri : abbreues 1568X, abbreuués 1627Ma, abbreués 1627Di, abbreuuez &italic(){T.A.Eds.} **校訂  [[ピエール・ブランダムール]]は、1行目冒頭の Le tant d'argent を De tant d'argent と校訂している((Brind’Amour [1996] p.371))。 *日本語訳 ディアナと[[メルクリウス]]の潤沢な銀の 偶像が湖で発見されるだろう。 陶工が新しい粘土を探していると、 彼とその身内は黄金にまみれるだろう。 **訳について  1行目はブランダムールの校訂の結果を踏まえ、2行目にかからせた。そのように校訂していない[[ピーター・ラメジャラー]]も、1行目を2行目の simulachres にかかっていると見なしているので、実質的に同じである。  3行目の figulier はラテン語の figulus (陶工) をフランス語化させた造語と推測されている。[[アナトール・ル・ペルチエ]]が指摘して以降、実証的な論者の間でも異論がない。特に語源に触れていない17世紀の[[テオフィル・ド・ガランシエール]]も potter と英訳しており、同じ読み方をしていたことが分かる。  現代語にない単語を含んでいるものの、構文そのものは平易な詩といえる。そのため、既存の[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]や[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]についても、細かな点で少々疑問はあるものの、おおむね問題はない。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、粘土を探して涸れた湖を掘っていた陶工が銀製のディアナやメルクリウスの神像を発見することを描いたもので、過去にはまだ実現していない詩としていた((Garencieres [1672]))。  [[バルタザール・ギノー]]は、ディアナを「石」、メルクリウスを「水銀」として、石や水銀をもとに多くの金銀を生み出す思想について予言されていると解釈した((Guynaud [1712] pp.281-282))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。  [[エリカ・チータム]]は[[第8巻28番>百詩篇第8巻28番]]や[[第8巻30番>百詩篇第8巻30番]]とも関わるトゥールーズの宝探しの詩ではないかとした((Cheetham [1973], Cheetham [1990]))。これは後述のレオニの解釈を踏襲したものである。  [[セルジュ・ユタン]]も宝探しとしたが、その中でもナチスの隠し財産に関するものではないかとしていた((Hutin [1978], Hutin [2003]))。 *同時代的な視点  詩の情景はガランシエールが述べていた通りで、粘土を探していた陶工が莫大な財宝を見つけるというものである。  [[エドガー・レオニ]]は、[[百詩篇第8巻28番]]と結び付けつつ、古代のトゥールーズにおいてカエピオの着服が疑われた財宝の発見を想定したものと解釈した。[[ロジェ・プレヴォ]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]らも同じ解釈である((Prévost [1999] p.164, Clébert [2003]))。  [[ピーター・ラメジャラー]]は1557年6月のガルドン川大洪水で、ニームのディアナ神殿の遺跡から多数の出土品があったことがモデルと解釈した((Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]))。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 - リュミエール兄弟による映画の発明とそれが利益を生むことを予言。 銀の偶像は初期のモノクロ映像、湖はスクリーン、陶工は映画監督、粘土は役者の比喩。元々の聖書では陶工は神、粘土は人間の比喩。 神が人間を作ったように、映画監督が映画を作る事を喩えている。 -- とある信奉者 (2012-03-15 23:35:46) #comment
[[詩百篇第9巻]]>12番* *原文 Le tant d'argent de&sup(){1} Diane & Mercure&sup(){2} Les [[simulachres>simulacre]]&sup(){3} au lac&sup(){4} seront trouuez&sup(){5}, Le figulier&sup(){6} cherchant&sup(){7} argille&sup(){8} neufue&sup(){9} Luy & les siens d'or seront abbreuez&sup(){10}. **異文 (1) de : dist 1611B, du 1653AB 1665Ba (2) Mercure : Marcure 1605sn (3) simulachres/simulacres : simulachre 1611B (4) lac : sac 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri, Lac 1672Ga (5) trouuez : treuués 1627Ma 1627Di (6) figulier : figurier 1606PR 1607PR 1610Po 1716PR, sigulier 1611B, singulier 1644Hu 1650Ri 1650Le, Figulier 1672Ga (7) cherchant : cerchant 1590Ro 1644Hu 1650Ri (8) argille : arguille 1650Mo (9) neufue : veufve 1668A (10) abbreuez 1568A 1568B 1568C 1590Ro 1712Guy 1772Ri : abbreues 1568X, abbreuués 1627Ma, abbreués 1627Di, abbreuuez &italic(){T.A.Eds.} **校訂  [[ピエール・ブランダムール]]は、1行目冒頭の Le tant d'argent を De tant d'argent と校訂している((Brind’Amour [1996] p.371))。 *日本語訳 ディアナと[[メルクリウス]]の潤沢な銀の 偶像が湖で発見されるだろう。 陶工が新しい粘土を探していると、 彼とその身内は黄金にまみれるだろう。 **訳について  1行目はブランダムールの校訂の結果を踏まえ、2行目にかからせた。そのように校訂していない[[ピーター・ラメジャラー]]も、1行目を2行目の simulachres にかかっていると見なしているので、実質的に同じである。  3行目の figulier はラテン語の figulus (陶工) をフランス語化させた造語と推測されている。[[アナトール・ル・ペルチエ]]が指摘して以降、実証的な論者の間でも異論がない。特に語源に触れていない17世紀の[[テオフィル・ド・ガランシエール]]も potter と英訳しており、同じ読み方をしていたことが分かる。  現代語にない単語を含んでいるものの、構文そのものは平易な詩といえる。そのため、既存の[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]や[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]についても、細かな点で少々疑問はあるものの、おおむね問題はない。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、粘土を探して涸れた湖を掘っていた陶工が銀製のディアナやメルクリウスの神像を発見することを描いたもので、過去にはまだ実現していない詩としていた((Garencieres [1672]))。  [[バルタザール・ギノー]]は、ディアナを「石」、メルクリウスを「水銀」として、石や水銀をもとに多くの金銀を生み出す思想について予言されていると解釈した((Guynaud [1712] pp.281-282))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。  [[エリカ・チータム]]は[[第8巻28番>百詩篇第8巻28番]]や[[第8巻30番>百詩篇第8巻30番]]とも関わるトゥールーズの宝探しの詩ではないかとした((Cheetham [1973], Cheetham [1990]))。これは後述のレオニの解釈を踏襲したものである。  [[セルジュ・ユタン]]も宝探しとしたが、その中でもナチスの隠し財産に関するものではないかとしていた((Hutin [1978], Hutin [2003]))。 *同時代的な視点  詩の情景はガランシエールが述べていた通りで、粘土を探していた陶工が莫大な財宝を見つけるというものである。  [[エドガー・レオニ]]は、[[百詩篇第8巻28番]]と結び付けつつ、古代のトゥールーズにおいてカエピオの着服が疑われた財宝の発見を想定したものと解釈した。[[ロジェ・プレヴォ]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]らも同じ解釈である((Prévost [1999] p.164, Clébert [2003]))。  [[ピーター・ラメジャラー]]は1557年6月のガルドン川大洪水で、ニームのディアナ神殿の遺跡から多数の出土品があったことがモデルと解釈した((Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]))。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 ---- &bold(){コメントらん} 以下に投稿されたコメントは&u(){書き込んだ方々の個人的見解であり}、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません。  なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 - リュミエール兄弟による映画の発明とそれが利益を生むことを予言。 銀の偶像は初期のモノクロ映像、湖はスクリーン、陶工は映画監督、粘土は役者の比喩。元々の聖書では陶工は神、粘土は人間の比喩。 神が人間を作ったように、映画監督が映画を作る事を喩えている。 -- とある信奉者 (2012-03-15 23:35:46)

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