ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1557年)

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 &bold(){1557年に[[リヨン]]で出版された『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』}は、[[ノストラダムス]]の予言集のうち、現在確認されている範囲では、彼の生前に正規の形で出版された唯一にして最後の増補版である。  1557年版は、9月6日付のものと11月3日付のものがある。前者が正規版で後者は海賊版と見なすのが一般的である。 #ref(1557.JPG) 【画像】1557年9月6日版の扉(左)と11月3日版の扉(右)((画像の出典:(左)[[http://www.propheties.it/]]/(右)Carl von Klinckowstroem, “Die ältesten Ausgaben der ,Prophéties‘ des Nostradamus”, &italic(){Zeitschrift für Bücherfreunde}, Mars 1913)) *9月6日版  この版は八つ折版(Octavo)12cmの本で、ページ数は全122ページである。 **タイトルページ  メインタイトルは、[[初版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1555年リヨン)]]と同じ「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」である。その下に、「前述の著者によって新たに加えられた未刊の300篇を含む」(Dont il en y à [&italic(){sic.}] trois cents qui n'ont encores jamais esté imprimées. Adjoustées de nouveau par ledict Autheur.)との文言が加えられている。  その下の木版画には書斎に座って窓から星を眺めるノストラダムスが描かれているが、この木版画は初版と全く同じデザインである。  木版画の下にはリヨンの印刷業者[[アントワーヌ・デュ・ローヌ]]の名前と、印刷した年のローマ数字での表示がある(A Lyon, Chés Antoine du Rosne. M.D.LVII.)。 **構成  タイトルページの後に息子[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]に宛てた書簡の体裁をとった[[序文>予言集第一序文]]が続くが、これは初版に掲載されたものとほぼ同じもので、特段の増補や改稿は行われていない。序文の末尾に添えられた日付も「1555年3月1日」のままである。  その後に本編といえる[[百詩篇集]]が収められている。初版では第4巻53番までしか掲載されていなかったが、この版では289篇が増補され、第7巻42番までが掲載されている(タイトルページの「300篇」は289篇を大まかに示したもの)。各巻は100篇の四行詩から成るが、第6巻のみは99番までしかなく、その後に番号の振られていない[[全文ラテン語の四行詩>百詩篇第6巻ラテン語詩]]が続くという変則的な構成になっている。  第7巻42番の後に「1557年9月6日に印刷を完了した」との言葉が続き、FIN(完)の文字とともに全体が締めくくられている。  なお、詩番号はすべてローマ数字である。初版はアラビア数字であったが、これ以降、1590年[[カオール]]版や1668年[[アムステルダム]]版などの少ない例外を除いて、詩番号にはローマ数字が用いられることが多くなる。 *11月3日版  サイズは16折版で、9.3 x 6.1 cmの小さな本である((Klinckowstroem [1913] p.365-366, Ruzo [1997] p.375))。ページは全160ページ。 **タイトルページ  メインタイトルは、初版と同じ「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」である。その下に、「未刊の300篇を含む」(Dont il en y à [&italic(){sic.}] trois cents qui n'ont encores jamais esté imprimées.)との文言が加えられているが、9月6日版と異なり「前述の著者によって新たに加えられた」が略されている。  その下の木版画には書斎に座って窓から星を眺めるノストラダムスが描かれているが、一見してその粗雑さは明らかであり、構図も初版や9月6日版に比べると鏡写しになっている。  木版画の下にデュ・ローヌの名前と印刷した年があるのは9月6日版と同じだが(A Lyon, Chez Antoine du Rosne. 1557)、細かいつづりや、年数表記がアラビア数字になっている点は異なる。 **構成  タイトルページの後に序文(セザールへの手紙)が続くのは9月6日版と変わらないが、初版や9月6日版と比べたときに内容の一部に省略が見られる。序文の末尾に添えられた日付は「1555年3月1日」である。  その後に百詩篇集が収められているが、9月6日版に比べると3篇少ない。省略されているのは、第6巻末尾のラテン語詩と、第7巻の41番と42番である。よって、この版の第6巻は99篇、第7巻は40編で構成されている。  第7巻40番の後に「11月3日に印刷を完了した」との言葉が続き、FIN(完)の文字とともに全体が締めくくられている。 **特色  タイトルページに限らず、全体の粗雑さは夙に指摘されていた((cf. Brind'Amour [1996] p.544, Gruber [2005] p.25))。単純な誤植の類の多さもさることながら、異体字の s(f の横棒がない、もしくは左半分しかない字体 ( ſ ) で、16世紀や17世紀の印刷本には良く用いられていた)と f をほとんど区別していないことによる綴りの混乱などが見られるのである((ラメジャラー [1998a] pp.259, 338))。 *認識の歴史 **ミュンヘンの蔵書  同時代には1557年に出版されたという言及はなく、[[カール・フォン・クリンコヴシュトレム]]の書誌(1913年)で言及されたことで知られるようになった。もっとも、クリンコヴシュトレム自身は1730年代の6巻本の書誌で言及されていたことを指摘している。彼の場合は、[[ミュンヘン]]の[[バイエルン州立図書館]]に所蔵されていた版について、タイトルページの写真とともに紹介した。これは、11月3日印刷完了と記されている方の版で、以降、「1557年のデュ・ローヌによる版」とはこの11月3日の版に他ならないと認識されることになった。  彼が使ったミュンヘンの蔵書は、1942年以後、行方不明となっている。手書きの貸出票の記録から、アドルフ・ヒトラーの側近が借り出したと考えられるが、返却された形跡はない((Chomarat [2003] p.17))。  戦後、おそくとも1961年までにはソ連(当時)のレーニン図書館(現・ロシア国立図書館)にも11月3日版が存在していることは確認されていたが((Leoni [1982] p.78))、これはもともと旧ソ連軍がドイツから持ち出したものではないかとも推測されている((Chomarat [2003] p.17, Benazra [1990] p.23))。この点について、[[ロベール・ブナズラ]]と[[ミシェル・ショマラ]]が1983年11月にレーニン図書館に書誌の詳細を問い合わせたときには、そっけない対応だったために確認できなかったという((Benazra [1993] p.12))。 **影印本の出版  1983年6月には、ショマラとブナズラの調査のなかで、[[ブダペスト]]の[[ハンガリー国立図書館]]にも1557年11月3日版があることが確認された。彼らは同図書館から取り寄せたマイクロフィルムを元に、1993年に[[影印本]]を出版した((Nostradamus [1993]))。以前にも[[エドガー・レオニ]]や[[エヴリット・ブライラー]]のように断片的なテクストとして1557年版を用いた者はいたが、この影印本によって、一般にも広く知られるようになった。  しかし、この11月3日版は上述の通りつくりが粗雑であり、1568年に出される完全版に比べて7巻までの収録詩篇も3篇少ないため、様々な議論が展開されてきた。[[ダニエル・ルソ]]は1556年[[シクスト・ドニーズ]]版(後述)に基づいた粗悪なコピーと見なしていたし、[[ピエール・ブランダムール]]も、その粗雑さから同時代の海賊版であることを疑った((Ruzo [1997] pp.374-375, Brind'Amour [1996] p.544))。[[ピーター・ラメジャラー]]は、正規の版であることを認めつつも、詩篇の少なさから業者と著者の間で何らかのトラブルがあった可能性を示唆していた((ラメジャラー [1998a] pp.178-338))。 **9月6日版の発見  1996年には、オランダの[[ユトレヒト大学]]図書館にも1557年版が所蔵されていることが確認されたが、それは従来知られているものとは全く異なる特色を備えていることが明らかになった。これによって、1557年版には全く異なる2種類の版が存在している点が認識されるようになったのである。この発見は、1997年1月12日にショマラがリヨン市の広報で、タイトルページの写真とともに報告している((Chomarat [1997]))。  9月6日版と11月3日版の関係については、まだ十分な研究の蓄積があるとはいえない状況であるが、日付どおり前者をコピーしたものが後者であるという見解が一般的である。ただし、これには後者をデュ・ローヌ自身が再版したと見る立場((Petey-Girard [2003] pp.49, 254))と、別人が偽造したとする立場((Lemesurier [2003a] pp.105-106, Gruber [2005] p.25))がある。どちらにしても、2ヶ月という短期間で2つの版が出版されたという事実からは、ノストラダムスの予言集が良く売れていたことが伺える((Chomarat [2003] p.17))。 **異説  専門家のなかで提唱されている全く立場の異なる異説には次のものがある。  書誌学者[[ジェラール・モリス]]は、11月3日版の奥付には年号が書かれていないことから、これを「1556年11月3日」とみて、1557年の[[公現祭]]のリヨン大市に合わせて刷られたパイロット版と見る説を提示している。彼によれば、木版画の粗悪さもコスト削減の一環に過ぎず、デュ・ローヌの出版物にはそうした雑なものも見られると指摘している((Morisse [2004] p.22))。  また、仏文学者[[ジャック・アルブロン]]は、『予言集』初版同様、1557年版もノストラダムスの死後に、[[カトリック同盟]]に関連した政治的意図で捏造された偽物に過ぎないと主張している((Halbronn [2002] etc.))。やはり初版本同様、この点についても、当時のタイポグラフィなどの分析などからの反論が出されている。 **影印版と校定版  11月3日版については、既に見たように1993年に影印本が出版されており、ピーター・ラメジャラーは4巻54番から7巻40番までの原文として、忠実に転記の上、校訂したこともあった(1997年)。これは日本語訳も出されている((ラメジャラー [1998b]))。2003年には、ラメジャラーは同じ範囲の原文を9月6日版に差し替えて校訂を加えている((Lemesurier [2003b]))。  同じ2003年には、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]も1557年版を取り込んだ7巻までの校定版を出版しているが、使っているのは11月3日版のみで、9月6日版の原文は反映していない。  9月6日版はユトレヒト大学図書館の公式サイト等で見ることが出来るが、影印本は出版されていない。 **日本での受容  11月3日版を日本で最初に紹介したのは[[麻原彰晃]]である。  その後、1996年に影印本を入手した[[池田邦吉]]が、信頼のできる原典だと全面的に賞賛して解釈に使用した((麻原彰晃『ノストラダムス秘密の大予言』オウム出版、1991年。池田邦吉『ノストラダムスの預言書・解読』全7巻、成星出版、1996年 - 1999年ほか。))。しかし、これらには、1557年版の書誌的特色への言及はなかった。書誌的特色なども詳しく論じたのは、前記ラメジャラーの邦訳書が最初である。  9月6日版については、[[田窪勇人]]がインターネット上でいち早く報じたものの((cf. [[ノストラダムス研究室>>http://www.sam.hi-ho.ne.jp/hayatos/sub1.html]] - 「1557年リヨン版ユトレヒト標本」))、公刊された出版物では2010年に発表された田窪の論文「[[ノストラダムスの学術研究の動向>ノストラダムスの学術研究の動向 (田窪勇人)]]」まで、触れているものがなかった。 ---- #comment
 &bold(){1557年に[[リヨン]]で出版された『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』}は、[[ノストラダムス]]の予言集のうち、現在確認されている範囲では、彼の生前に正規の形で出版された唯一にして最後の増補版である。  1557年版は、9月6日付のものと11月3日付のものがある。前者が正規版で後者は海賊版と見なすのが一般的である。 #ref(1557.JPG) 【画像】1557年9月6日版の扉(左)と11月3日版の扉(右)((画像の出典:(左)[[http://www.propheties.it/]]/(右)Carl von Klinckowstroem, “Die ältesten Ausgaben der ,Prophéties‘ des Nostradamus”, &italic(){Zeitschrift für Bücherfreunde}, Mars 1913)) *9月6日版  この版は八つ折版(Octavo)12cmの本で、ページ数は全122ページである。 **タイトルページ  メインタイトルは、[[初版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1555年リヨン)]]と同じ「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」である。その下に、「前述の著者によって新たに加えられた未刊の300篇を含む」(Dont il en y à [&italic(){sic.}] trois cents qui n'ont encores jamais esté imprimées. Adjoustées de nouveau par ledict Autheur.)との文言が加えられている。  その下の木版画には書斎に座って窓から星を眺めるノストラダムスが描かれているが、この木版画は初版と全く同じデザインである。  木版画の下にはリヨンの印刷業者[[アントワーヌ・デュ・ローヌ]]の名前と、印刷した年のローマ数字での表示がある(A Lyon, Chés Antoine du Rosne. M.D.LVII.)。 **構成  タイトルページの後に息子[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]に宛てた書簡の体裁をとった[[序文>予言集第一序文]]が続くが、これは初版に掲載されたものとほぼ同じもので、特段の増補や改稿は行われていない。序文の末尾に添えられた日付も「1555年3月1日」のままである。  その後に本編といえる[[百詩篇集]]が収められている。初版では第4巻53番までしか掲載されていなかったが、この版では289篇が増補され、第7巻42番までが掲載されている(タイトルページの「300篇」は289篇を大まかに示したもの)。各巻は100篇の四行詩から成るが、第6巻のみは99番までしかなく、その後に番号の振られていない[[全文ラテン語の四行詩>百詩篇第6巻ラテン語詩]]が続くという変則的な構成になっている。  第7巻42番の後に「1557年9月6日に印刷を完了した」との言葉が続き、FIN(完)の文字とともに全体が締めくくられている。  なお、詩番号はすべてローマ数字である。初版はアラビア数字であったが、これ以降、1590年[[カオール]]版や1668年[[アムステルダム]]版などの少ない例外を除いて、詩番号にはローマ数字が用いられることが多くなる。 *11月3日版  サイズは16折版で、9.3 x 6.1 cmの小さな本である((Klinckowstroem [1913] p.365-366, Ruzo [1997] p.375))。ページは全160ページ。 **タイトルページ  メインタイトルは、初版と同じ「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」である。その下に、「未刊の300篇を含む」(Dont il en y à [&italic(){sic.}] trois cents qui n'ont encores jamais esté imprimées.)との文言が加えられているが、9月6日版と異なり「前述の著者によって新たに加えられた」が略されている。  その下の木版画には書斎に座って窓から星を眺めるノストラダムスが描かれているが、一見してその粗雑さは明らかであり、構図も初版や9月6日版に比べると鏡写しになっている。  木版画の下にデュ・ローヌの名前と印刷した年があるのは9月6日版と同じだが(A Lyon, Chez Antoine du Rosne. 1557)、細かいつづりや、年数表記がアラビア数字になっている点は異なる。 **構成  タイトルページの後に序文(セザールへの手紙)が続くのは9月6日版と変わらないが、初版や9月6日版と比べたときに内容の一部に省略が見られる。序文の末尾に添えられた日付は「1555年3月1日」である。  その後に百詩篇集が収められているが、9月6日版に比べると3篇少ない。省略されているのは、第6巻末尾のラテン語詩と、第7巻の41番と42番である。よって、この版の第6巻は99篇、第7巻は40編で構成されている。  第7巻40番の後に「11月3日に印刷を完了した」との言葉が続き、FIN(完)の文字とともに全体が締めくくられている。 **特色  タイトルページに限らず、全体の粗雑さは夙に指摘されていた((cf. Brind'Amour [1996] p.544, Gruber [2005] p.25))。単純な誤植の類の多さもさることながら、異体字の s(f の横棒がない、もしくは左半分しかない字体 ( ſ ) で、16世紀や17世紀の印刷本には良く用いられていた)と f をほとんど区別していないことによる綴りの混乱などが見られるのである((ラメジャラー [1998a] pp.259, 338))。 *認識の歴史 **ミュンヘンの蔵書  同時代には1557年に出版されたという言及はなく、[[カール・フォン・クリンコフシュトレム]]の書誌(1913年)で言及されたことで知られるようになった。もっとも、クリンコフシュトレム自身は1730年代の6巻本の書誌で言及されていたことを指摘している。彼の場合は、[[ミュンヘン]]の[[バイエルン州立図書館]]に所蔵されていた版について、タイトルページの写真とともに紹介した。これは、11月3日印刷完了と記されている方の版で、以降、「1557年のデュ・ローヌによる版」とはこの11月3日の版に他ならないと認識されることになった。  彼が使ったミュンヘンの蔵書は、1942年以後、行方不明となっている。手書きの貸出票の記録から、アドルフ・ヒトラーの側近が借り出したと考えられるが、返却された形跡はない((Chomarat [2003] p.17))。  戦後、おそくとも1961年までにはソ連(当時)のレーニン図書館(現・ロシア国立図書館)にも11月3日版が存在していることは確認されていたが((Leoni [1982] p.78))、これはもともと旧ソ連軍がドイツから持ち出したものではないかとも推測されている((Chomarat [2003] p.17, Benazra [1990] p.23))。この点について、[[ロベール・ブナズラ]]と[[ミシェル・ショマラ]]が1983年11月にレーニン図書館に書誌の詳細を問い合わせたときには、そっけない対応だったために確認できなかったという((Benazra [1993] p.12))。 **影印本の出版  1983年6月には、ショマラとブナズラの調査のなかで、[[ブダペスト]]の[[ハンガリー国立図書館]]にも1557年11月3日版があることが確認された。彼らは同図書館から取り寄せたマイクロフィルムを元に、1993年に[[影印本]]を出版した((Nostradamus [1993]))。以前にも[[エドガー・レオニ]]や[[エヴリット・ブライラー]]のように断片的なテクストとして1557年版を用いた者はいたが、この影印本によって、一般にも広く知られるようになった。  しかし、この11月3日版は上述の通りつくりが粗雑であり、1568年に出される完全版に比べて7巻までの収録詩篇も3篇少ないため、様々な議論が展開されてきた。[[ダニエル・ルソ]]は1556年[[シクスト・ドニーズ]]版(後述)に基づいた粗悪なコピーと見なしていたし、[[ピエール・ブランダムール]]も、その粗雑さから同時代の海賊版であることを疑った((Ruzo [1997] pp.374-375, Brind'Amour [1996] p.544))。[[ピーター・ラメジャラー]]は、正規の版であることを認めつつも、詩篇の少なさから業者と著者の間で何らかのトラブルがあった可能性を示唆していた((ラメジャラー [1998a] pp.178-338))。 **9月6日版の発見  1996年には、オランダの[[ユトレヒト大学]]図書館にも1557年版が所蔵されていることが確認されたが、それは従来知られているものとは全く異なる特色を備えていることが明らかになった。これによって、1557年版には全く異なる2種類の版が存在している点が認識されるようになったのである。この発見は、1997年1月12日にショマラがリヨン市の広報で、タイトルページの写真とともに報告している((Chomarat [1997]))。  9月6日版と11月3日版の関係については、まだ十分な研究の蓄積があるとはいえない状況であるが、日付どおり前者をコピーしたものが後者であるという見解が一般的である。ただし、これには後者をデュ・ローヌ自身が再版したと見る立場((Petey-Girard [2003] pp.49, 254))と、別人が偽造したとする立場((Lemesurier [2003a] pp.105-106, Gruber [2005] p.25))がある。どちらにしても、2ヶ月という短期間で2つの版が出版されたという事実からは、ノストラダムスの予言集が良く売れていたことが伺える((Chomarat [2003] p.17))。 **異説  専門家のなかで提唱されている全く立場の異なる異説には次のものがある。  書誌学者[[ジェラール・モリス]]は、11月3日版の奥付には年号が書かれていないことから、これを「1556年11月3日」とみて、1557年の[[公現祭]]のリヨン大市に合わせて刷られたパイロット版と見る説を提示している。彼によれば、木版画の粗悪さもコスト削減の一環に過ぎず、デュ・ローヌの出版物にはそうした雑なものも見られると指摘している((Morisse [2004] p.22))。  また、仏文学者[[ジャック・アルブロン]]は、『予言集』初版同様、1557年版もノストラダムスの死後に、[[カトリック同盟]]に関連した政治的意図で捏造された偽物に過ぎないと主張している((Halbronn [2002] etc.))。やはり初版本同様、この点についても、当時のタイポグラフィなどの分析などからの反論が出されている。 **影印版と校定版  11月3日版については、既に見たように1993年に影印本が出版されており、ピーター・ラメジャラーは4巻54番から7巻40番までの原文として、忠実に転記の上、校訂したこともあった(1997年)。これは日本語訳も出されている((ラメジャラー [1998b]))。2003年には、ラメジャラーは同じ範囲の原文を9月6日版に差し替えて校訂を加えている((Lemesurier [2003b]))。  同じ2003年には、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]も1557年版を取り込んだ7巻までの校定版を出版しているが、使っているのは11月3日版のみで、9月6日版の原文は反映していない。  9月6日版はユトレヒト大学図書館の公式サイト等で見ることが出来るが、影印本は出版されていない。 **日本での受容  11月3日版を日本で最初に紹介したのは[[麻原彰晃]]である。  その後、1996年に影印本を入手した[[池田邦吉]]が、信頼のできる原典だと全面的に賞賛して解釈に使用した((麻原彰晃『ノストラダムス秘密の大予言』オウム出版、1991年。池田邦吉『ノストラダムスの預言書・解読』全7巻、成星出版、1996年 - 1999年ほか。))。しかし、これらには、1557年版の書誌的特色への言及はなかった。書誌的特色なども詳しく論じたのは、前記ラメジャラーの邦訳書が最初である。  9月6日版については、[[田窪勇人]]がインターネット上でいち早く報じたものの((cf. [[ノストラダムス研究室>>http://www.sam.hi-ho.ne.jp/hayatos/sub1.html]] - 「1557年リヨン版ユトレヒト標本」))、公刊された出版物では2010年に発表された田窪の論文「[[ノストラダムスの学術研究の動向>ノストラダムスの学術研究の動向 (田窪勇人)]]」まで、触れているものがなかった。 ---- #comment

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