BN ms. Lat. 8592

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 &bold(){BN ms. Lat. 8592} つまりフランス国立図書館の手稿部門に収められたラテン語資料の8592番 (Bibliothèque Nationale. Département des manuscrits, fonds latin, n&sup(){o}8592) は、ノストラダムスの個人的な往復書簡の写本である。転記した人物は特定されていないが、専門家たちから内容の真正性は認められている。  もともとの手紙は息子の[[セザール・ド・ノートルダム]]が保管していたもので、その性質上、ノストラダムスが書いた手紙(10通)よりも、ノストラダムス宛の手紙(41通)の方がずっと多い。ノストラダムス自身の手紙が手許に残っているのは不自然なようだが、彼は秘書に清書させたりしていたので、そうした過程でオリジナルや複写が残ったのだろう。 *内容  扱われている書簡は以下の通りである。丸括弧で手紙に明記されている日付などを示した。亀甲括弧による日付などは[[ジャン・デュペーブ]]などの専門家たちによる推測である。内容の要約にあたっては、[[竹下節子]]などによる日本語訳が存在しているものはそれを参照したが、それ以外は主にデュペーブのフランス語による要約に依拠している(デュペーブ以外の出典が参照可能なものは、脚注で参照箇所を示している)。 1. ガブリエル・シメオーニからノストラダムスへ ([[リヨン]]、1556年2月1日) -シメオーニはノストラダムスの知人で、昨晩[[ジャン・ブロトー]]からノストラダムスの手紙を受け取ったと述べている。自身の近況として、いくつかの文献をイタリア語訳するつもりと述べている。 -ヴォルピアーノの戦いから帰ってきて、ノストラダムスが宮廷で成功したことを聞いたとも述べており、ノストラダムスと[[アンリ2世]]の会見が1555年であったことを示す資料の1つでもある。 2. [[ジャン・ブロトー]]からノストラダムスへ (リヨン、1557年9月20日)〔1554年〕 -ブロトーは暦書を出版していた業者で、原稿のダメ出しと改稿依頼などに関する手紙である。2つ送られてきた原稿のうち、1つしか出版しないので、没にする方から必要な部分を組み込んでほしいと要請している((この部分の訳はランディ [1999] p.75にある。))。また、[[リズロ>アントワーヌ・デュ・ローヌ]]によって印刷された暦書が同封されていたらしい。 -日付はM. D. LVII (1557年) になっているが、実際にはM. D. LIIII (1554年) を写し間違えたものだろうと推測されている。その根拠となっているのが文面である。実はデュペーブの要約では省かれているが、2つの原稿のうち片方にはジョゼフ・ド・パニス宛の献辞があり、もう片方にはタンド伯宛の献辞があることが明記されている。実際にブロトーが出版し、このいずれかに宛てた献辞を含む暦書は『[[1555年向けの新たなる占筮と驚異の予言>Prognostication nouuelle, & prediction portenteuse, pour Lan M. D. LV.]]』しかないのである。となれば、その暦書が1554年秋に出版されたらしいことから言っても、この手紙は1554年9月に書かれたと考える方が筋が通っている。 -なお、パトリス・ギナールは没になったタンド宛の献辞が[[ドイツで出版された瓦版>Ein Erschrecklich und Wunderbarlich zeychen]]の正体と推測している。確かに時期は一致するが、事実だとしてもどのような経緯でドイツに流出したのか、はっきりしない。 3. ピエール・ド・フォルリヴィオからノストラダムスへ 〔1557年11月〕 -フォルリヴィオはアヴィニョンの執政官の息子として1500年11月に生まれた聖職者で、57歳になる自分の寿命や子供たちの未来などについて、短い手紙で尋ねている。 -なお、彼は1557年に自分の司教管区を離れ、1559年にセナンクのシトー会修道院で歿することになる。 4. フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン、1558年3月12日) -ベラールは自身の生年月日に関する情報を添えた上で、「指輪」(anneau) について言及し、今日私に言ったことを覚えていたいと思うのならば、私は約束を果たすと述べている。元の手紙自体が短すぎて、第三者から見るとどういうやり取りだったのか分からない。「今日私に言った」ということは、その日にノストラダムスとアヴィニョンで言葉を交わしたということなのだろうか。 5. フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン)〔1562年?〕 -ベラールは指輪について尋ねたが、その返事が全く分からなかったので、もっと分かりやすく書いて欲しいとの苦情を申し立てている((前半部分の訳が、ランディ [1999] p.79にある。))。日付の記載はないが、41番の手紙に対する返事ではないかと推測されている。 6. ジャン・ブロトーからノストラダムスへ (リヨン) -ブロトーはノストラダムスの暦書を印刷する作業中で、使用する活字体について問い合わせをしている。ブロトーは1561年頃には歿していたため、この手紙はそれよりも前に書かれたはずである。 7.シギスムンドゥス・ウォイイッセルからノストラダムスへ (パドヴァ、1559年3月19日) -差出人 Sigismundus Woiissell は1556年にモンペリエ大学に入学した人物で、ノストラダムスにホロスコープの作成を依頼していたらしく、それが出来上がったか尋ねている。また、過去にしてもらった予言は出生時間を間違って伝えていたせいで、全く当たらなかったと述べている。 8. [[ロレンツ・トゥッベ]]からノストラダムスへ (ブールジュ、1559年11月4日) -トゥッベは実業家ハンス・ローゼンベルガーの仲介役を担った。この手紙ではローゼンベルガーの生年月日などを説明しつつ、鉱山の将来性をはじめとする数点を問い合わせている。 9. S・オスワルドゥスからノストラダムスへ (エクス、1559年11月24日) -差出人 S. Oswaldus の詳細は不明だが、ローゼンベルガーの仲介役をつとめた(ジェイムズ・ランディがこの書簡をトゥッベのものとしているのは誤り((cf.ランディ [1999] p.139)))。ただし、この1通しか確認されていない。 -ノストラダムスが王妃に召喚されてパリに出立することを[[ノストラダムスの弟>ジャン・ド・ノートルダム]]から聞いたとした上で、その前にローゼンベルガーのホロスコープを送って欲しいと要請している。 10. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年1月1日) -(おそらく8番の手紙から)2ヶ月経つのに返事がないので、依頼を引き受けたかどうかだけでも返事が欲しいと述べ、再びローゼンベルガーの生年月日などを記載している。 11. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年3月16日) -ようやく手紙とホロスコープを受け取ったが、フランス人の友人の助けを借りても判読できないため、ラテン語訳された大きな字体の手紙を再送してもらえないかと依頼している。追伸で自身の出生情報を記載して、いくつかの占いを依頼している((cf. ランディ [1999] pp.140-141))。 12. 匿名の聖職者からノストラダムスへ 〔1560年〕 -「この1560年の5月20日」に48歳になるという匿名の聖職者からの相談で、上司から投獄をちらつかされている危機的状況についての助言を求めている((cf. ランディ [1999] pp.99-100))。デュペーブはこういう相談を出来る相手と見なされていた事実から、ノストラダムスがカトリック陣営に属していないと認識されていたと推測している。 13. [[サロン>サロン=ド=プロヴァンス]]出身のS・ポールからノストラダムスへ (エクス)〔1560年頃〕 -ウジェーヌ・レーは、サロンの商人ジャン・ポールの息子サミュエルではないかとしている((Lhez [1961] p.122))。若い女性について相談した返事を催促するとともに、その女性の名前を間違って伝えていたとして訂正している。 -サロンのポール家は1560年4月のプロテスタント狩りで暴徒の略奪対象となり、一族から犠牲者も出た((Dupèbe [1983] p.50))。そうした悲惨さが見られない文面のため、執筆はその事件が起こる前か、エクスにいた差出人にその事件の報告が伝わる前だったのかもしれない。 14. オルリア・ド・カドネからノストラダムスへ (パリ) -オルリア・ド・カドネはサロンの改宗キリスト教徒の一家に生まれた人物で、ノストラダムスの従兄弟だという。ノストラダムスが1557年に刊行した『ガレノスの釈義』について何らかの批評をしたところ、ノストラダムスからひどく責められたらしく、それへの反論を展開している。 15. [[ジャン・ド・シュヴィニー>ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]からノストラダムスへ (エクス、1560年9月1日) -ノストラダムスの秘書となるシュヴィニー(シャヴィニー)の現存最古の書簡。ノストラダムスにホロスコープを作成してもらったらしく、そのことも含めて親切にしてもらったことについて礼を重ねている。その上で、不躾なお願いとして、弟ジェラール(1548年生まれ)のことも占ってもらえないかとお願いしている。自身の近況として、フランスの有名大学を渡り歩いているところで、ドイツの大学にも足を伸ばそうかと考えていることが述べられている。 -シュヴィニーは自身が1536年生まれであることも示しており、従来の伝説的な「1524年生まれで1548年にはボーヌの市長になっていた」という伝記を粉砕する上で重要な手紙である。その一方で、シャヴィニーとシュヴィニーは本当に同一人物かという論争を生み出すことになった手紙でもある。 16. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年9月20日) -4月(11番の手紙なのだとしたら3月の誤り。または4月に同じ趣旨の手紙を再送したか)に大きな字体のラテン語で書いた手紙を送って欲しいと頼んでから6ヶ月になるが、何度も催促しているのに返事がないと述べている。前の手紙の判読できた要素のいくつかをローゼンベルガーに送ったという。謝礼として送るものは金貨と銀杯のどちらがよいかと尋ねている((cf. ランディ [1999] pp.141-142))。 17. ジェローム・ピュルピュラからノストラダムスへ 〔1560年〕 -奥付はないが、文中に「この1560年」とある。[[ジェローム・ピュルピュラ]]が自身と息子のアレクサンドルについて、全般的な運勢(息子の就職先などを含む)と1560年の運勢について尋ねている。 18. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年12月1日) -長文の手紙で、ノストラダムスから送られてきた2通の返事に礼を述べるとともに、ノストラダムスの手許にトゥッベからの一連の手紙がほとんど届いていなかったと言われたことに驚いている。トゥッベの要望にも関わらず、返事はフランス語だったらしく、ラテン語に訳した上でドイツ語に転訳してローゼンベルガーに送ると述べている。 -ノストラダムスは[[レオヴィッツ>キュプリアヌス・レオウィティウス]]の暦書や蝕に関する本に目を通していることも告げたらしい(後者はノストラダムスの『[[1559年9月16日に起こる蝕の意味>Les Significations de l'Eclipse, qui sera le 16. Septembre 1559.]]』の元ネタと推測されている本である)。 -トゥッベは、ローゼンベルガーの鉱業についてと、自身の結婚などについての見通しを新たに尋ねている((cf. ランディ [1999] pp.142-143. 要約自体が長いので、一部省略されている))。 19. ペトルス・マルチュル・カルボからノストラダムスへ 〔1558年〕 -差出人 Petrus Martyr Carbo についてはデュペーブも不明としている。1507年生まれであることなどを示し、次の10月に51歳になる自分の運勢はどうかと尋ねている。奥付はないが、文面から1558年の9月までに書かれたことが明らかである。 20. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年1月20日) -手紙18番で言及したラテン語訳がようやく終わったことを報告し、ローゼンベルガーについてレオヴィッツが算定したデータを同封している((cf. ランディ [1999] pp.143-144))。 21. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年3月11日) -トゥッベを通さないローゼンベルガーからの一連の手紙の中では最古のもの。ノストラダムスからの返事に対して、その仕事ぶりをまず絶賛したあと、その予言に現在、過去、未来が混在しているので、新たに依頼した1561年から1573年までの予言では分かりやすく書いて欲しいと要請している。謝礼として銀杯を送ることになると述べた上で、息子2人の占いを新たに依頼し、参考情報としてその生年月日と、自分の母と妻の名を記載している((cf. ランディ [1999] pp.144-145))。 22. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年4月8日) -謝礼について述べたあと、息子2人の占いを催促している。さらに、長男のカールが1558年から昨年までに大病、事件、事故などに相次いで見舞われたことを挙げ、占いの参考情報にしてほしいと述べた。 23. ヤコブス・セクリウァグスからノストラダムスへ (リヨン、1561年5月1日) -差出人は故人となった[[ジャン・ブロトー]]の文学顧問(conseiller littéraire, 出版物の校正役か)として、ノストラダムスの占筮を組版(composer)したこともあると自己紹介している。その上で、ブロトー家は息子[[ピエール・ブロトー]]が事業を受け継ぎ、[[アントワーヌ・ヴォラン]]と組むことになったと伝えている。セクリウァグスはヴォランの助言に基づいていると前置きし、ノストラダムスにピエールへの口利きをしてもらえないかと依頼している。 24. ヤコブス・セクリウァグスからノストラダムスへ (リヨン、1561年5月29日) -友情に基づく助言として、占星術的予言は有用かもしれないが、この余りにも困難な時代においては慎重になるべきだと述べている。セクリウァグスとのやりとりは、23番とこの手紙の2通しか確認されていない。 25. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年6月7日) -以前から話題になっていた謝礼の銀杯を、プファルツ選帝侯の相談役の息子に当たる知人ルパート・ヴァイデンコプフに届けさせると述べている。また、暦書でブールジュの災いを予言した箇所があったらしく、その詳細を尋ねている((cf. ランディ [1999] p.146に抄訳。))([[この暦書>Almanach, Pour L'an 1561.]]は断片しか現存しないので、該当する箇所は確認できない)。 26. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年6月18日) -謝礼の品を送ったことと、フランス語で書かれた占いの結果を受け取ったことを報告している。そこには今は我慢の時という助言があったらしく、それに従うと述べている。鉛の豊かな鉱脈は見付かったが、不純物が多く精錬に手間が掛かると述べ、自分にとって幸運が巡ってくるのはいつになるのかと尋ねている。ラテン語で書いたものを送って欲しいことと、息子2人の占いの結果を教えて欲しいことという2つの要望が書かれている。 27. ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1561年7月15日) -手紙と銀杯を受け取ったお礼のあと、秘書の多忙を理由に、従来どおりのスタイルの手紙を送ると述べている。占星術的な見通しを述べたあと、サロンでも「教皇主義者」によるプロテスタント迫害が起こり、アヴィニョンに2ヶ月避難していないといけなかったため、返事を書けなかったと釈明している。 -ローゼンベルガーの事業については1年以内に好転するので、決して諦めないようにと励ましている。彼の息子2人については、弟のハンス2世についてのみ言及があり、将来の大きな希望となることを予言している((cf.ドレヴィヨン&ラグランジュ [2004] pp.116-119))。 -アヴィニョンへの避難を示す貴重な言及。なお、「教皇主義者」(パピスト)はプロテスタントがカトリックを批判した時の常用語。ノストラダムスの信仰を表すものか、顧客におもねった結果か、不明である。 28. ノストラダムスからある貴族たちへ (サロン、1561年7月29日) -何らかの問い合わせについてたびたび催促されたらしく、そのことへの釈明として、自分は多忙であり、そんな状況では王族への対応が最優先されると述べている。過去に自分のアセンダントは何かという質問があったらしいが、それについては処女宮と答えている。最後に「あなた方」のうち誰か1人が服毒することになると警告している((ランディ [1999] pp.98-99. 「お二人のうちどちらかが毒を飲む」となっているのは細かい点で誤訳。原文はvous で、二人とは限定されていない。))。 29. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年8月9日) -ノストラダムスが銀杯などを気に入ったことに安堵するとともに、ノストラダムスの手紙と占いを受け取ったことを報告している。ローゼンベルガーとの手紙のやり取りに関する近況を報告した上で、近いうちに博士号を取得し、アウクスブルクに戻ることになるだろうという見通しが語られている((cf. ランディ [1999] pp.149-150))(彼は実際に8月24日に法学博士となる)。 30. ノストラダムスからハンス・ローゼンベルガーへ (サロン、1561年9月9日) -以前の報酬に礼を述べたあと、ローゼンベルガーと息子カールの占いを送付したことを述べ、その算定にはインド式、カルデア式など様々な占術を取り入れ、以前に伝えられたローゼンベルガーの母や妻の名前なども考慮に入れたと主張している。最近雇った若い秘書が清書したと述べており、この人物がシャヴィニーであろうと考えられている。自身の占星術と医学のキャリアを40年と述べているのもこの手紙であり、伝記的事実の検討に当たっては重要な意味を持っている。 -鉛の鉱脈が見付かったという報告を踏まえたものか、銀鉱は鉛の近くにあると述べ、1562年5月までには過去の失敗を挽回できる大発見があるはずだから諦めないようにと励ましている。 -ノストラダムスは、ハンス2世の成功を再び保証する一方、過去に伝えられた相次ぐ不幸を念頭に置いたものか、カールには警告を発している((この手紙は竹下 [1998] pp.259-261とドレヴィヨン&ラグランジュ [2004] pp.119-121で訳されているが、かなりの長文のためいずれも抄訳。その代わり省略箇所は違うので、重ね合わせるとかなりの部分が日本語で読める。))。ハンス(1世)には長寿を約束しているが、実際には4年後の1565年に55歳で亡くなった((Dupèbe [1983] p.89. なお、竹下 [1998] p.262にはハンス2世が1565年に亡くなったとあるが、それとは別の情報。竹下がハンス2世の情報をどの文献から得たのかは未詳。))。 31. ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1561年10月15日) -ハンス・ローゼンベルガー宛の手紙と息子ハンス2世の占いに加え、もう一人の息子のカールの占いも送ったので、確かに本人に届けて欲しいと要請している。アウクスブルクへ帰ることになったトゥッベに対し、今後も便りを送ってくれるように頼んでいる。 -自身の近況として、シャルル9世のホロスコープを完成させてから宮廷に行く予定だが、躊躇いがあるともしている。[[ジャン・ブロトー]]の死を報告するとともに、その息子[[ピエール>ピエール・ブロトー]]への不信感を表明している。これは印刷業者として信用できないということではなく、通信の仲介役として不安があるということらしい((後半の抄訳がランディ [1999] p.151。))。 32. ノストラダムスからハンス・ローゼンベルガーへ (サロン、1561年10月15日) -31番の手紙と同じ日付なので、そちらに出てきたローゼンベルガー宛の手紙というのは、これのことだろう。まず、ローゼンベルガーからの6月17日付の手紙(26番の手紙のことだろう。ラテン語の書簡で日付がカレンダエを基準に表記されているので、計算間違いしたか)が非常に遅れ、わずか数日前に受け取ったと報告している。 -先月に占いを送ったことを報告し、トゥッベやクラフトら信頼できる人物に仲介させたので確実に届いたことと思うと述べている。ローゼンベルガーについて改めて3つの方法で占ってみたが、やはりあらゆる種類の成功と出たので諦めないようにと助言している。家族にも幸運があることに触れつつ、ローゼンベルガーの生誕地(アウクスブルク)や母親の名前を考慮に入れた占いでも新しい鉱脈が発見されると出ていると励ましている。 -自身の近況として、同じ日のトゥッベ宛の手紙だとまだ完成していないかのように書いているシャルル9世のホロスコープをようやく完成させたばかりで非常に疲れたと述べている。また、[[レオヴィッツ>キュプリアヌス・レオウィティウス]]が尋ねてくることがあったら、よろしく言っておいてほしいと添えている。 33. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アントウェルペン、1561年11月15日) -ブールジュにいたときは勉強漬けだったので、アントウェルペンでの滞在はずっと気分がいいと述べている。アウクスブルクには1月に着く予定だが、自分の生徒(家庭教師のような形で見ている子供か?)の義父が宮廷からなかなか帰って来ないので、予定が遅れているとも述べている。アントウェルペンに逗留しているのはその人物の配慮で、宗教対立やペストから逃れるためだという。 -トゥッベはパリに立ち寄ったらしく、そこで見聞きしたこと、たとえばポワシーの会談(1561年9月から10月に開催された宗教融和のための会談)が不首尾に終わったことや、ヴァロワ家(王家)の凋落とブルボン家の成長、イングランド女王エリザベスの結婚を巡る噂などを報告している。[[ジェイムズ・ランディ]]は、こうした報告はノストラダムスが有力者の状況を把握する手段の一つだったと位置づけている。 -最後に、自分のことを占ってくれていることを踏まえ、結婚、子供、仕事などについてどう出ているか訊いている((ランディ [1999] pp.151-152に若干省略された訳がある。))。 34. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年12月15日) -非常に長い手紙である。9月8日付と10月15日付の手紙を受け取ったことを報告し、謝礼として送った銀杯などに満足してもらえて何よりと述べている。それに先んじてトゥッベ経由で1561年から1565年までの周期表5枚も送られてきたが、曖昧すぎて不明点が多いので、翻訳したトゥッベに訊いてみても分からない時は教えてほしいと要請している。また、カールの占いが届いていないので、トゥッベの手許で止まっているのだろうが、待ちきれないとも述べている。他方、ハンス2世の占いは届いており、鉱山経営の成功や王族の覚えがめでたくなることなども予言されていたらしく、21歳と35歳(おそらく厄年)の不幸を避けられますように、と願っている。 -以前の手紙にローゼンベルガーについて占い直したとあったことに大喜びし、かつてバビロン捕囚のユダヤ人に預言者が遣わされたように、神は自分の苦境にノストラダムスを遣わしてくれたと最大級の賛辞を送っている。ローゼンベルガーは自分にとって1560年と1561年が最も困難な時期で、その原因の一つが使用人の一人が数千エキュを持ち逃げしたことにあるとしている(参考までに、かなりの財産とされるノストラダムスの遺産が3444エキュあまりであった)。鉱山で火事があり建物が全焼したので、来年以降にも不安を表明している。 -諦めなければ成功すると助言されたことを引き合いに出し、自分は幼い時から鉱業を農業よりも優れたものだと考えて努力してきたし、最近、銀鉱と銅鉱を発見し、さらに別の有望な銀鉱脈まで見付かったと報告している。ノストラダムスは宗教関係でローゼンベルガーがよからぬ思いをさせられることも予言していたらしいが、それらは全て予言の通りだったと報告している。 -また、ノストラダムスのピウス4世に捧げられた占筮(ピウス4世に捧げられたのは、正しくは『[[1562年向けの新たな暦>Almanach Novveav, Pour l'An. 1562.]]』で、[[その年の占筮>Pronostication Novvelle, Pour l'an mil cinq cents soixante deux. (Lyon)]]は[[ジャン・ド・ヴォゼル]]に捧げられている)を見てみたいとする一方で、偽物が多く出回っているのを知らなかったら、リヨンに注文するだろうにとも述べている。1561年までの偽版は[[バルブ・ルニョー]]などごくわずかな例外を除いてほとんど伝わっていないが、同時代においてはフィーバーブルン(現オーストリア)でも知られているほどに多く存在していたらしいことが読み取れる。 35. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アウクスブルク、1562年1月19日) -冬場で同行者とも険悪だったので辛い旅ではあったが、アウクスブルクに到着したことと、数日前にノストラダムスからの手紙と小包(いずれもローゼンベルガー宛)が届いたことを報告している。他方、ローゼンベルガーからの手紙も届いていて、トゥッベが自分の手許にとどめてあったカールのホロスコープを早く寄越すように催促してきたという。ローゼンベルガーの事業は莫大な借金で苦境にあり、債権者たちとの和解が試みられたといい、トゥッベもローゼンベルガーに会いにチロル地方に行くつもりだと述べている。 -アウクスブルクでは2人の人物の代理人からホロスコープの作成を依頼されたという。1人目は占星術師に理解があるが2年前に破産し、債権者から逃れるためにアウクスブルクの富裕な修道院に匿われていると紹介し、それがローゼンベルガーの弟マルカール(Marquard, ドイツ式の原語は未詳) であると明かされる。彼の生年月日などの情報を添え、今後の運勢や商業面の助言などを示してほしいという依頼をしており、破産したとはいえ、引き受けてもらえればマルカールからの謝礼が払われることも説明している。その後、鋼の国際取引に関する情報が記載され、返信の送り先や自身の近況について説明している。 36. ノストラダムスからドミニク・ド・サン=テチエンヌとジャモー・パトンへ(サロン、1562年1月20日) -スペインの宝探しに関する質問に答えた珍しい手紙である(デュペーブの巻末目次では差出人と宛先が逆転しているが、差出人はノストラダムスである)。Dominique de Saint-Etienne とJammot Pathon はいずれもトゥールーズのブルジョワで、彼らから頼まれた宝探しについて占ってみたところ、タロガナ地方に大量の金銀が眠っていることが分かったと主張している。その場所はかつてカエサルとポンペイウスが争った場所の西側で、古代寺院の遺跡にある四角い石の蓋が被せられた深い井戸に永遠に火を灯すランプと壺があり、その近くにこそ求める宝があると告げている。さらに時期などについても細かく助言したあと、見付かったとしても、自らが死すべき存在であることを忘れぬようにと、神に対し謙虚であることを求めている((抄訳と要約を組み合わせた紹介が竹下 [1999] pp.101-103, 110にある。))。 -ラテン語の手紙の最後にはフランス語を主体に、ギリシア語、ラテン語、スペイン語などの語彙を交えた四行詩6篇が添えられている。百詩篇と見まがうようなスタイルだが、そこに依頼者のジャモーの名前などが織り込まれているなどからすれば、相談内容を踏まえた戯作と見るべきだろう。ただし、その中には「黄金は岩の母である粘土に」という[[百詩篇第1巻21番]]に通じる表現など、興味深い要素も含まれている。 37. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1562年1月24日) -トゥッベ経由で12月19日付けの手紙(34番の12月15日付の誤りか、現存しない別の手紙)が転送されてかなり経つはずとした上で、返事を催促している。近況報告として、放置して5、6年経つ複数の鉱山から新しい発見があり、自身の状況が好転していることと、それがまさにノストラダムスの予言どおりだと報告している(予言といっても、諦めるなという助言通りに見込み無しとして放置していた鉱山を掘りなおしてみた、という程度のものだろう。以前の手紙から判断して、具体的に鉱山の採掘箇所などを指定した予言があったとは考えられない)。 -カールのホロスコープが転送されてきたが、芳しいものでなく、カールは先月も馬ごと橋から転落したと述べている。ノストラダムスに暦書を数部送ってもらえないかとお願いしたあと、スペイン軍の行軍に言及して締めくくっている。 -ローゼンベルガーは最も熱心な顧客の一人といえるが、現在確認されている範囲ではこの手紙が最後である。真筆の暦書を欲しがっているのだから関心が薄れたとは考えづらいが、事業が好転した結果、高額の謝礼を払ってまで直接ノストラダムスに伺いを立てる必要性がなくなったのかもしれない。 38. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アウクスブルク、1562年4月13日) -仲介者クラフト経由で1月に「我らの友人」(以前話に出ていたローゼンベルガーの弟か?)のホロスコープに関する小包を送ったはずなのに、ノストラダムスからの返事がないので、忙しいのかと尋ねている。追加の報酬の必要を訊いたあと、返送にはクラフトではなくリヨンにいるドイツ人商人ガスパル・タウラーかマルティン・ホーライトナーを使ってほしいと要請している。自身の近況として、ノストラダムスの予言を思い出し、アウクスブルクのさる弁護士の下で実務の勉強をすることにしたと述べ、ローゼンベルガーの事業が好転したことも報告している。 -現在確認されている範囲では、トゥッベの手紙はこれが最後である。前述のように、ローゼンベルガーの事業の好転が影響しているのかもしれない。 39. ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1562年5月13日) -トゥッベから送られてきた1月、3月末、4月に書かれた3通の手紙を全て受け取ったと答え、最初の手紙に書かれていたアントウェルペンの状況について、キリスト教徒への何という蛮行かと取り乱している。カトリックとプロテスタントの宗教対立ではないかと思われるが、どちらに肩入れしているのか判然としない。[[竹下節子]]はカトリックを被害者と推測しているが((竹下 [1998] p.262))、手紙ではプロテスタント寄りの姿勢を見せることもあったので、プロテスタントを被害者としているのかもしれない。いずれにしても、ここでいう1月の手紙を前年11月の手紙と同一視しているランディの読み方((ランディ [1999] p.154. 余談だが、日本語版でこの手紙の日付が「1562年11月15日」となっているのは、前の年のトゥッベの手紙と混同した誤り。原書の Randi [1990] p.112 ではきちんと5月13日になっている。))が妥当かどうかは、大いに疑問とせざるをえない。手紙が全て現存しているわけではないので、現存していない1月の手紙に何か書かれていたと考えるべきではなかろうか。 -次に、仕事の進捗状況についてローゼンベルガーやトゥッベのホロスコープを作成したことを報告し、追加の報酬について希望を出している。また、『[[プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史]]』の草稿の存在について言及し、その要約が必要ならば送ると述べている。手紙の後半では2月にエクスで起きた大規模な宗教対立について、かなり詳しく報告しており、『プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史』の要約というのは、この手紙の後半部分のことなのかもしれない。 40. フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン、1562年8月13日) -ノストラダムスの仲間(誰のことか不明。語形からすると男性)に、アヴィニョンでの会談にノストラダムスを呼び戻すようお願いしていたと述べた上で、アストロラーベや錬金術書をその仲間に預けてベラールに届けること、ベラールの生年月日などを訊いて指輪に関する占いをすべきだということ、未来の不幸を避けられる占いをベラールに送ること、ベラールの親についても占うことなどを要請している。 41. ノストラダムスからフランソワ・ベラールへ (サロン、1562年8月27日) -指輪に関する占いについての報告で、魔術的な色彩が強いものになっている。ノストラダムスは9夜連続で、月桂冠をかぶって精霊に伺いを立てたと述べている。また、精霊から拒絶された鵞鳥の羽でなく、白鳥の羽根ペンを使って書いたという詩篇が載っており、ベラールの名前がアクロスティック(各行の頭の文字をつないで読むこと)で織り込まれている。ノストラダムスは錬金術に関しても精霊たちに伺いを立て、ベラールが卑金属から黄金を得るにはどうすべきかを尋ねたという((cf. ランディ [1999] p.133))。 -さらにベラールのホロスコープも作成したところ、1562年7月半ばから8月初旬までがよくない時期であると出ていたが、元気を出すように励ましている。 -この手紙については[[ピエール・ブランダムール]]が『愛星家ノストラダムス』で一章を割いて分析している。 42. ヨハンネス・キボ・ボエリウスからノストラダムスへ (ストゥルラーノ、1557年11月16日) -差出人 Johannes Cibo Boerius はおそらくジェノヴァのチーボ家 (Cibo) の一員だろうと推測されている((Dupèbe [1983] p.145))。内容はノストラダムスの名声がフランス国内にとどまらず自分のいるリグーリア地方にも伝わっていると称えたあと、自分の姉妹の消息、自分の寿命、不動産売却など5項目について質問している((竹下 [1999] pp.97-99))。 43. ジャン・ド・シュヴィニーからノストラダムスへ (サロン、1563年5月7日) -シュヴィニー(シャヴィニー)は当時ノストラダムスの秘書であり、同じ町に住んでいたにもかかわらず、あえて文書の形で返事を出している。内容は、ノストラダムスがシュヴィニーをアヴィニョン総督の秘書に推薦したことに対するもので、この手紙の2日前にノストラダムスはシュヴィニーにそのことで手紙を送っていたらしい。 -シュヴィニーはそれに丁寧に礼を述べるとともに、かつてノストラダムスからある重要人物の秘書になると予言されたことを引き合いに出し、自分はその約束された幸運よりも静かな学究としての生活を大事にしたいと固辞している((竹下 [1999] pp.115-117))。 44. ヨハンネス・ベルギウスからノストラダムスへ (アジャン、1563年10月15日) -差出人 Johannes Bergius のフランス語名は未詳だが、[[ジュール・セザール・スカリジェール]]の弟子に当たる人物らしい。 -ノストラダムスと過去に手紙をやり取りしており、ノストラダムスがアキテーヌ地方(アジャンを含むフランス南西部)に赴く予定があると知らされていた時には、返事の中の分かりづらかった部分について直接教えてもらおうと考えていたらしいが、ノストラダムスのリューマチの悪化で中止になったようである。 -ベルギウスはリューマチの症状がどれほど辛いかは理解しているとして、師にあたるスカリジェールのときもひどいものだったと回顧している。 45. ブノワ・ド・フランドリアからノストラダムスへ (ガップ、1564年5月1日) -差出人 Benoît de Flandria はガップの医師で、アンリ3世がブロワ地方に出した布告をラテン語訳して出版したこともある人物である((Dupèbe [1983] p.151))。短い手紙で、ノストラダムスの名声を聞いて占ってもらうことにしたと述べ、ガップで10月25日に生まれたという自身の情報を知らせている。 46. ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年6月13日) -差出人 Hans Lobbet / Johannes Lobbetius はアウクスブルクからリヨンにやってきた人物で、オルレアンで法学を学んだこともあったという。往復書簡集の残りの手紙は、全てこのロベットとのやりとりである。 -ノストラダムスは以前アウクスブルクの貴族ダニエル・レヘリンガー (Daniel Rechlinger) から、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の2人の皇子ルドルフとエルンストのホロスコープを依頼され、報酬も前払いされていたらしいが、それをまだ届けていなかったらしい。ロベットはこの件がどうなっているのかの返事を早急に寄越すように求めている。 47. ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年7月7日) -エクスから帰ってきて、娘([[マドレーヌ>マドレーヌ・ド・ノートルダム]]か?)がロベットからの手紙を渡してくれたと述べている。レヘリンガーとの約束をきちんと果たす用意があるが、ホロスコープの作成に金貨30エキュ、秘書の清書に金貨6エキュの実費が掛かったことを説明し、皇子たちからは実費以上の報酬をもらえることに期待を示している。レヘリンガーには自分からも返事を出す旨を伝え、旧友のロレンツ・トゥッベにもよろしく言っておいてほしいと頼んでいる。 48. ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年7月23日) -2度も問い合わせたのに一切返事がないことに驚き、今月20日に新しい催促状を書いていたところ、今月7日、14日、15日付のノストラダムスの手紙がまとめて届けられたと報告している。ただし、そこには例のホロスコープはなかったらしく、手紙をレへリンガーに転送するし、その結果ノストラダムスの要求(47番で報酬の上乗せを暗に要求したことか)にも好ましい返事があるだろうから、ホロスコープも早急に送るように指示している。 -トゥッベはストラスブール大学で法学教授になったとのことで、彼にきちんとよろしく言っておいたと報告し、自分(ロベット)あての占いが好ましいものであったことから、結婚について悩んでいるフランドルの友人も占ってもらえないかと頼んでいる。 49. ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、8月16日)〔1565年〕 -数日前にノストラダムスからの小包を受け取り、ルドルフのホロスコープとレヘリンガー宛の手紙、さらに今月7日づけの自分宛の手紙が入っていることを確認したと述べている。ノストラダムスはその手紙で再度、自分の仕事がいかに手間のかかるものであったかを強調したことに対し、ロベットはそれに理解を示し、皇帝とその周辺の信望を勝ち取ることが出来るだろうと評価している。 -ロベットは小包をアウクスブルクとウィーンに至急転送すると述べ、ノストラダムスが要求していた金冠2つは運び屋のフィロルに渡したと報告している。 -ここで言及されている「今月7日づけ」の手紙はデュペーブの『[[ノストラダムス:未公刊書簡集>Nostradamus : Lettres inédites]]』の付録に収められている。 50. ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年11月19日) -8月16日の時点では宮廷に行くつもりだったが、事件のせいでここにとどまり続けていると報告し、レへリンガーの兄弟にホロスコープを送り、きちんとウィーンに届けられたはずなのだが、その後音沙汰がないと釈明している。 -知人ゲオルク・ロリの相談に乗ってほしい旨の依頼と、神聖ローマ帝国で近く議会が召集され、オスマン帝国との講和が議題になる予定であることなど、国際情勢についての報告がいくらか添えられている。 51. ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年12月13日) -手から足にかけてのリューマチがひどく、21日も寝ていないと述べている。今日、レヘリンガーについて書かれたロベットの手紙を受け取ったと報告し、レヘリンガーはルドルフのホロスコープのドイツ語への翻訳で忙しいのかと思っていたと述べている(レヘリンガーの翻訳かは不明だが、ドイツ語訳されたルドルフのホロスコープは、ストックホルムの王立図書館に現存する((Brind’Amour [1993] pp.482-484)))。 -ゲオルク・ロリからの手紙も受け取ったと述べ、ほか何人かのドイツ系の顧客からの依頼も受けていることを説明している。ことに、アントン・ショラーという顧客は、その兄弟の依頼を受けたときに苦情を色々言われたとのことで、同じタイプの顧客である可能性に懸念を示している。 -最後に、[[リヨン]]などで目撃された流星に触れ、それは大きな災いを暗示するもので、自分の1564年の占筮で予言してあったと述べている。 *校訂・翻訳  19世紀には[[フランソワ・ビュジェ]]による断片的な紹介もあったが、本格的な紹介の嚆矢はウジェーヌ・レーによる1961年の論文「[[ミシェル・ド・ノートルダムの往復書簡断片の概要>Aperçu d' un fragment de la correspondance de Michel de Nostredame]]」である。これは全体の概要を示しつつ、いくつかの重要な書簡をフランス語で全訳している。  続く研究はこの分野での記念碑的労作といえる[[ジャン・デュペーブ]]の『[[ノストラダムス:未公刊書簡集>Nostradamus : Lettres inédites]]』(1983年)である。デュペーブはラテン語の全文を紹介しつつ、そこに語注とフランス語による要約をつけた。  1992年にはロベール・アマドゥの『ノストラダムスの占星術』に全ての書簡のフランス語訳が掲載されたようだが、残念ながらこの本は入手自体が難しく、国内の大学図書館などにも所蔵されていない。  [[ジェイムズ・ランディ]]は『[[ノストラダムスの仮面>The Mask of Nostradamus]]』において、デュペーブの要約を英訳(場合によっては抄訳)し、いくらかの書簡の内容を紹介した。  日本では、ランディの著書の日本語版『[[ノストラダムスの大誤解]]』(1999年)において、その転訳という形でいくつかの書簡を読むことができる。  また、[[竹下節子]]の著書『[[ノストラダムスの生涯>ノストラダムスの生涯 (竹下節子)]]』(1998年)と『[[さよならノストラダムス]]』(1999年)には、それぞれ数通ずつだが、アマドゥの著書のフランス語訳から転訳する形で紹介されている。  同じアマドゥの著書からの転訳ということでは、[[エルヴェ・ドレヴィヨン]]らの著書『[[ノストラダムス ― 予言の真実]]』(2004年)でも、2通の手紙の訳を読むことができる。 ---- ページサイズの都合上、コメント欄は設けません。
 &bold(){BN ms. Lat. 8592} つまりフランス国立図書館の手稿部門に収められたラテン語資料の8592番 (Bibliothèque Nationale. Département des manuscrits, fonds latin, n&sup(){o}8592) は、ノストラダムスの個人的な往復書簡の写本である。転記した人物は特定されていないが、専門家たちから内容の真正性は認められている。  もともとの手紙は息子の[[セザール・ド・ノートルダム]]が保管していたもので、その性質上、ノストラダムスが書いた手紙(10通)よりも、ノストラダムス宛の手紙(41通)の方がずっと多い。ノストラダムス自身の手紙が手許に残っているのは不自然なようだが、彼は秘書に清書させたりしていたので、そうした過程でオリジナルや複写が残ったのだろう。 *内容  扱われている書簡は以下の通りである。丸括弧で手紙に明記されている日付などを示した。亀甲括弧による日付などは[[ジャン・デュペーブ]]などの専門家たちによる推測である。内容の要約にあたっては、[[竹下節子]]などによる日本語訳が存在しているものはそれを参照したが、それ以外は主にデュペーブのフランス語による要約に依拠している(デュペーブ以外の出典が参照可能なものは、脚注で参照箇所を示している)。 1. ガブリエル・シメオーニからノストラダムスへ ([[リヨン]]、1556年2月1日) -シメオーニはノストラダムスの知人で、昨晩[[ジャン・ブロトー]]からノストラダムスの手紙を受け取ったと述べている。自身の近況として、いくつかの文献をイタリア語訳するつもりと述べている。 -ヴォルピアーノの戦いから帰ってきて、ノストラダムスが宮廷で成功したことを聞いたとも述べており、ノストラダムスと[[アンリ2世]]の会見が1555年であったことを示す資料の1つでもある。 2. [[ジャン・ブロトー]]からノストラダムスへ (リヨン、1557年9月20日)〔1554年〕 -ブロトーは暦書を出版していた業者で、原稿のダメ出しと改稿依頼などに関する手紙である。2つ送られてきた原稿のうち、1つしか出版しないので、没にする方から必要な部分を組み込んでほしいと要請している((この部分の訳はランディ [1999] p.75にある。))。また、[[リズロ>アントワーヌ・デュ・ローヌ]]によって印刷された暦書が同封されていたらしい。 -日付はM. D. LVII (1557年) になっているが、実際にはM. D. LIIII (1554年) を写し間違えたものだろうと推測されている。その根拠となっているのが文面である。実はデュペーブの要約では省かれているが、2つの原稿のうち片方にはジョゼフ・ド・パニス宛の献辞があり、もう片方にはタンド伯宛の献辞があることが明記されている。実際にブロトーが出版し、このいずれかに宛てた献辞を含む暦書は『[[1555年向けの新たなる占筮と驚異の予言>Prognostication nouuelle, & prediction portenteuse, pour Lan M. D. LV.]]』しかないのである。となれば、その暦書が1554年秋に出版されたらしいことから言っても、この手紙は1554年9月に書かれたと考える方が筋が通っている。 -なお、パトリス・ギナールは没になったタンド宛の献辞が[[ドイツで出版された瓦版>Ein Erschrecklich und Wunderbarlich zeychen]]の正体と推測している。確かに時期は一致するが、事実だとしてもどのような経緯でドイツに流出したのか、はっきりしない。 3. ピエール・ド・フォルリヴィオからノストラダムスへ 〔1557年11月〕 -フォルリヴィオはアヴィニョンの執政官の息子として1500年11月に生まれた聖職者で、57歳になる自分の寿命や子供たちの未来などについて、短い手紙で尋ねている。 -なお、彼は1557年に自分の司教管区を離れ、1559年にセナンクのシトー会修道院で歿することになる。 4. フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン、1558年3月12日) -ベラールは自身の生年月日に関する情報を添えた上で、「指輪」(anneau) について言及し、今日私に言ったことを覚えていたいと思うのならば、私は約束を果たすと述べている。元の手紙自体が短すぎて、第三者から見るとどういうやり取りだったのか分からない。「今日私に言った」ということは、その日にノストラダムスとアヴィニョンで言葉を交わしたということなのだろうか。 5. フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン)〔1562年?〕 -ベラールは指輪について尋ねたが、その返事が全く分からなかったので、もっと分かりやすく書いて欲しいとの苦情を申し立てている((前半部分の訳が、ランディ [1999] p.79にある。))。日付の記載はないが、41番の手紙に対する返事ではないかと推測されている。 6. ジャン・ブロトーからノストラダムスへ (リヨン) -ブロトーはノストラダムスの暦書を印刷する作業中で、使用する活字体について問い合わせをしている。ブロトーは1561年頃には歿していたため、この手紙はそれよりも前に書かれたはずである。 7.シギスムンドゥス・ウォイイッセルからノストラダムスへ (パドヴァ、1559年3月19日) -差出人 Sigismundus Woiissell は1556年にモンペリエ大学に入学した人物で、ノストラダムスにホロスコープの作成を依頼していたらしく、それが出来上がったか尋ねている。また、過去にしてもらった予言は出生時間を間違って伝えていたせいで、全く当たらなかったと述べている。 8. [[ロレンツ・トゥッベ]]からノストラダムスへ (ブールジュ、1559年11月4日) -トゥッベは実業家ハンス・ローゼンベルガーの仲介役を担った。この手紙ではローゼンベルガーの生年月日などを説明しつつ、鉱山の将来性をはじめとする数点を問い合わせている。 9. S・オスワルドゥスからノストラダムスへ (エクス、1559年11月24日) -差出人 S. Oswaldus の詳細は不明だが、ローゼンベルガーの仲介役をつとめた(ジェイムズ・ランディがこの書簡をトゥッベのものとしているのは誤り((cf.ランディ [1999] p.139)))。ただし、この1通しか確認されていない。 -ノストラダムスが王妃に召喚されてパリに出立することを[[ノストラダムスの弟>ジャン・ド・ノートルダム]]から聞いたとした上で、その前にローゼンベルガーのホロスコープを送って欲しいと要請している。 10. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年1月1日) -(おそらく8番の手紙から)2ヶ月経つのに返事がないので、依頼を引き受けたかどうかだけでも返事が欲しいと述べ、再びローゼンベルガーの生年月日などを記載している。 11. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年3月16日) -ようやく手紙とホロスコープを受け取ったが、フランス人の友人の助けを借りても判読できないため、ラテン語訳された大きな字体の手紙を再送してもらえないかと依頼している。追伸で自身の出生情報を記載して、いくつかの占いを依頼している((cf. ランディ [1999] pp.140-141))。 12. 匿名の聖職者からノストラダムスへ 〔1560年〕 -「この1560年の5月20日」に48歳になるという匿名の聖職者からの相談で、上司から投獄をちらつかされている危機的状況についての助言を求めている((cf. ランディ [1999] pp.99-100))。デュペーブはこういう相談を出来る相手と見なされていた事実から、ノストラダムスがカトリック陣営に属していないと認識されていたと推測している。 13. [[サロン>サロン=ド=プロヴァンス]]出身のS・ポールからノストラダムスへ (エクス)〔1560年頃〕 -ウジェーヌ・レーは、サロンの商人ジャン・ポールの息子サミュエルではないかとしている((Lhez [1961] p.122))。若い女性について相談した返事を催促するとともに、その女性の名前を間違って伝えていたとして訂正している。 -サロンのポール家は1560年4月のプロテスタント狩りで暴徒の略奪対象となり、一族から犠牲者も出た((Dupèbe [1983] p.50))。そうした悲惨さが見られない文面のため、執筆はその事件が起こる前か、エクスにいた差出人にその事件の報告が伝わる前だったのかもしれない。 14. オルリア・ド・カドネからノストラダムスへ (パリ) -オルリア・ド・カドネはサロンの改宗キリスト教徒の一家に生まれた人物で、ノストラダムスの従兄弟だという。ノストラダムスが1557年に刊行した『ガレノスの釈義』について何らかの批評をしたところ、ノストラダムスからひどく責められたらしく、それへの反論を展開している。 15. [[ジャン・ド・シュヴィニー>ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]からノストラダムスへ (エクス、1560年9月1日) -ノストラダムスの秘書となるシュヴィニー(シャヴィニー)の現存最古の書簡。ノストラダムスにホロスコープを作成してもらったらしく、そのことも含めて親切にしてもらったことについて礼を重ねている。その上で、不躾なお願いとして、弟ジェラール(1548年生まれ)のことも占ってもらえないかとお願いしている。自身の近況として、フランスの有名大学を渡り歩いているところで、ドイツの大学にも足を伸ばそうかと考えていることが述べられている。 -シュヴィニーは自身が1536年生まれであることも示しており、従来の伝説的な「1524年生まれで1548年にはボーヌの市長になっていた」という伝記を粉砕する上で重要な手紙である。その一方で、シャヴィニーとシュヴィニーは本当に同一人物かという論争を生み出すことになった手紙でもある。 16. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年9月20日) -4月(11番の手紙なのだとしたら3月の誤り。または4月に同じ趣旨の手紙を再送したか)に大きな字体のラテン語で書いた手紙を送って欲しいと頼んでから6ヶ月になるが、何度も催促しているのに返事がないと述べている。前の手紙の判読できた要素のいくつかをローゼンベルガーに送ったという。謝礼として送るものは金貨と銀杯のどちらがよいかと尋ねている((cf. ランディ [1999] pp.141-142))。 17. ジェローム・ピュルピュラからノストラダムスへ 〔1560年〕 -奥付はないが、文中に「この1560年」とある。[[ジェローム・ピュルピュラ]]が自身と息子のアレクサンドルについて、全般的な運勢(息子の就職先などを含む)と1560年の運勢について尋ねている。 18. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1560年12月1日) -長文の手紙で、ノストラダムスから送られてきた2通の返事に礼を述べるとともに、ノストラダムスの手許にトゥッベからの一連の手紙がほとんど届いていなかったと言われたことに驚いている。トゥッベの要望にも関わらず、返事はフランス語だったらしく、ラテン語に訳した上でドイツ語に転訳してローゼンベルガーに送ると述べている。 -ノストラダムスは[[レオヴィッツ>キュプリアヌス・レオウィティウス]]の暦書や蝕に関する本に目を通していることも告げたらしい(後者はノストラダムスの『[[1559年9月16日に起こる蝕の意味>Les Significations de l'Eclipse, qui sera le 16. Septembre 1559.]]』の元ネタと推測されている本である)。 -トゥッベは、ローゼンベルガーの鉱業についてと、自身の結婚などについての見通しを新たに尋ねている((cf. ランディ [1999] pp.142-143. 要約自体が長いので、一部省略されている))。 19. ペトルス・マルチュル・カルボからノストラダムスへ 〔1558年〕 -差出人 Petrus Martyr Carbo についてはデュペーブも不明としている。1507年生まれであることなどを示し、次の10月に51歳になる自分の運勢はどうかと尋ねている。奥付はないが、文面から1558年の9月までに書かれたことが明らかである。 20. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年1月20日) -手紙18番で言及したラテン語訳がようやく終わったことを報告し、ローゼンベルガーについてレオヴィッツが算定したデータを同封している((cf. ランディ [1999] pp.143-144))。 21. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年3月11日) -トゥッベを通さないローゼンベルガーからの一連の手紙の中では最古のもの。ノストラダムスからの返事に対して、その仕事ぶりをまず絶賛したあと、その予言に現在、過去、未来が混在しているので、新たに依頼した1561年から1573年までの予言では分かりやすく書いて欲しいと要請している。謝礼として銀杯を送ることになると述べた上で、息子2人の占いを新たに依頼し、参考情報としてその生年月日と、自分の母と妻の名を記載している((cf. ランディ [1999] pp.144-145))。 22. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年4月8日) -謝礼について述べたあと、息子2人の占いを催促している。さらに、長男のカールが1558年から昨年までに大病、事件、事故などに相次いで見舞われたことを挙げ、占いの参考情報にしてほしいと述べた。 23. ヤコブス・セクリウァグスからノストラダムスへ (リヨン、1561年5月1日) -差出人は故人となった[[ジャン・ブロトー]]の文学顧問(conseiller littéraire, 出版物の校正役か)として、ノストラダムスの占筮を組版(composer)したこともあると自己紹介している。その上で、ブロトー家は息子[[ピエール・ブロトー]]が事業を受け継ぎ、[[アントワーヌ・ヴォラン]]と組むことになったと伝えている。セクリウァグスはヴォランの助言に基づいていると前置きし、ノストラダムスにピエールへの口利きをしてもらえないかと依頼している。 24. ヤコブス・セクリウァグスからノストラダムスへ (リヨン、1561年5月29日) -友情に基づく助言として、占星術的予言は有用かもしれないが、この余りにも困難な時代においては慎重になるべきだと述べている。セクリウァグスとのやりとりは、23番とこの手紙の2通しか確認されていない。 25. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年6月7日) -以前から話題になっていた謝礼の銀杯を、プファルツ選帝侯の相談役の息子に当たる知人ルパート・ヴァイデンコプフに届けさせると述べている。また、暦書でブールジュの災いを予言した箇所があったらしく、その詳細を尋ねている((cf. ランディ [1999] p.146に抄訳。))([[この暦書>Almanach, Pour L'an 1561.]]は断片しか現存しないので、該当する箇所は確認できない)。 26. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年6月18日) -謝礼の品を送ったことと、フランス語で書かれた占いの結果を受け取ったことを報告している。そこには今は我慢の時という助言があったらしく、それに従うと述べている。鉛の豊かな鉱脈は見付かったが、不純物が多く精錬に手間が掛かると述べ、自分にとって幸運が巡ってくるのはいつになるのかと尋ねている。ラテン語で書いたものを送って欲しいことと、息子2人の占いの結果を教えて欲しいことという2つの要望が書かれている。 27. ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1561年7月15日) -手紙と銀杯を受け取ったお礼のあと、秘書の多忙を理由に、従来どおりのスタイルの手紙を送ると述べている。占星術的な見通しを述べたあと、サロンでも「教皇主義者」によるプロテスタント迫害が起こり、アヴィニョンに2ヶ月避難していないといけなかったため、返事を書けなかったと釈明している。 -ローゼンベルガーの事業については1年以内に好転するので、決して諦めないようにと励ましている。彼の息子2人については、弟のハンス2世についてのみ言及があり、将来の大きな希望となることを予言している((cf.ドレヴィヨン&ラグランジュ [2004] pp.116-119))。 -アヴィニョンへの避難を示す貴重な言及。なお、「教皇主義者」(パピスト)はプロテスタントがカトリックを批判した時の常用語。ノストラダムスの信仰を表すものか、顧客におもねった結果か、不明である。 28. ノストラダムスからある貴族たちへ (サロン、1561年7月29日) -何らかの問い合わせについてたびたび催促されたらしく、そのことへの釈明として、自分は多忙であり、そんな状況では王族への対応が最優先されると述べている。過去に自分のアセンダントは何かという質問があったらしいが、それについては処女宮と答えている。最後に「あなた方」のうち誰か1人が服毒することになると警告している((ランディ [1999] pp.98-99. 「お二人のうちどちらかが毒を飲む」となっているのは細かい点で誤訳。原文はvous で、二人とは限定されていない。))。 29. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (ブールジュ、1561年8月9日) -ノストラダムスが銀杯などを気に入ったことに安堵するとともに、ノストラダムスの手紙と占いを受け取ったことを報告している。ローゼンベルガーとの手紙のやり取りに関する近況を報告した上で、近いうちに博士号を取得し、アウクスブルクに戻ることになるだろうという見通しが語られている((cf. ランディ [1999] pp.149-150))(彼は実際に8月24日に法学博士となる)。 30. ノストラダムスからハンス・ローゼンベルガーへ (サロン、1561年9月9日) -以前の報酬に礼を述べたあと、ローゼンベルガーと息子カールの占いを送付したことを述べ、その算定にはインド式、カルデア式など様々な占術を取り入れ、以前に伝えられたローゼンベルガーの母や妻の名前なども考慮に入れたと主張している。最近雇った若い秘書が清書したと述べており、この人物がシャヴィニーであろうと考えられている。自身の占星術と医学のキャリアを40年と述べているのもこの手紙であり、伝記的事実の検討に当たっては重要な意味を持っている。 -鉛の鉱脈が見付かったという報告を踏まえたものか、銀鉱は鉛の近くにあると述べ、1562年5月までには過去の失敗を挽回できる大発見があるはずだから諦めないようにと励ましている。 -ノストラダムスは、ハンス2世の成功を再び保証する一方、過去に伝えられた相次ぐ不幸を念頭に置いたものか、カールには警告を発している((この手紙は竹下 [1998] pp.259-261とドレヴィヨン&ラグランジュ [2004] pp.119-121で訳されているが、かなりの長文のためいずれも抄訳。その代わり省略箇所は違うので、重ね合わせるとかなりの部分が日本語で読める。))。ハンス(1世)には長寿を約束しているが、実際には4年後の1565年に55歳で亡くなった((Dupèbe [1983] p.89. なお、竹下 [1998] p.262にはハンス2世が1565年に亡くなったとあるが、それとは別の情報。竹下がハンス2世の情報をどの文献から得たのかは未詳。))。 31. ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1561年10月15日) -ハンス・ローゼンベルガー宛の手紙と息子ハンス2世の占いに加え、もう一人の息子のカールの占いも送ったので、確かに本人に届けて欲しいと要請している。アウクスブルクへ帰ることになったトゥッベに対し、今後も便りを送ってくれるように頼んでいる。 -自身の近況として、シャルル9世のホロスコープを完成させてから宮廷に行く予定だが、躊躇いがあるともしている。[[ジャン・ブロトー]]の死を報告するとともに、その息子[[ピエール>ピエール・ブロトー]]への不信感を表明している。これは印刷業者として信用できないということではなく、通信の仲介役として不安があるということらしい((後半の抄訳がランディ [1999] p.151。))。 32. ノストラダムスからハンス・ローゼンベルガーへ (サロン、1561年10月15日) -31番の手紙と同じ日付なので、そちらに出てきたローゼンベルガー宛の手紙というのは、これのことだろう。まず、ローゼンベルガーからの6月17日付の手紙(26番の手紙のことだろう。ラテン語の書簡で日付がカレンダエを基準に表記されているので、計算間違いしたか)が非常に遅れ、わずか数日前に受け取ったと報告している。 -先月に占いを送ったことを報告し、トゥッベやクラフトら信頼できる人物に仲介させたので確実に届いたことと思うと述べている。ローゼンベルガーについて改めて3つの方法で占ってみたが、やはりあらゆる種類の成功と出たので諦めないようにと助言している。家族にも幸運があることに触れつつ、ローゼンベルガーの生誕地(アウクスブルク)や母親の名前を考慮に入れた占いでも新しい鉱脈が発見されると出ていると励ましている。 -自身の近況として、同じ日のトゥッベ宛の手紙だとまだ完成していないかのように書いているシャルル9世のホロスコープをようやく完成させたばかりで非常に疲れたと述べている。また、[[レオヴィッツ>キュプリアヌス・レオウィティウス]]が尋ねてくることがあったら、よろしく言っておいてほしいと添えている。 33. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アントウェルペン、1561年11月15日) -ブールジュにいたときは勉強漬けだったので、アントウェルペンでの滞在はずっと気分がいいと述べている。アウクスブルクには1月に着く予定だが、自分の生徒(家庭教師のような形で見ている子供か?)の義父が宮廷からなかなか帰って来ないので、予定が遅れているとも述べている。アントウェルペンに逗留しているのはその人物の配慮で、宗教対立やペストから逃れるためだという。 -トゥッベはパリに立ち寄ったらしく、そこで見聞きしたこと、たとえばポワシーの会談(1561年9月から10月に開催された宗教融和のための会談)が不首尾に終わったことや、ヴァロワ家(王家)の凋落とブルボン家の成長、イングランド女王エリザベスの結婚を巡る噂などを報告している。[[ジェイムズ・ランディ]]は、こうした報告はノストラダムスが有力者の状況を把握する手段の一つだったと位置づけている。 -最後に、自分のことを占ってくれていることを踏まえ、結婚、子供、仕事などについてどう出ているか訊いている((ランディ [1999] pp.151-152に若干省略された訳がある。))。 34. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1561年12月15日) -非常に長い手紙である。9月8日付と10月15日付の手紙を受け取ったことを報告し、謝礼として送った銀杯などに満足してもらえて何よりと述べている。それに先んじてトゥッベ経由で1561年から1565年までの周期表5枚も送られてきたが、曖昧すぎて不明点が多いので、翻訳したトゥッベに訊いてみても分からない時は教えてほしいと要請している。また、カールの占いが届いていないので、トゥッベの手許で止まっているのだろうが、待ちきれないとも述べている。他方、ハンス2世の占いは届いており、鉱山経営の成功や王族の覚えがめでたくなることなども予言されていたらしく、21歳と35歳(おそらく厄年)の不幸を避けられますように、と願っている。 -以前の手紙にローゼンベルガーについて占い直したとあったことに大喜びし、かつてバビロン捕囚のユダヤ人に預言者が遣わされたように、神は自分の苦境にノストラダムスを遣わしてくれたと最大級の賛辞を送っている。ローゼンベルガーは自分にとって1560年と1561年が最も困難な時期で、その原因の一つが使用人の一人が数千エキュを持ち逃げしたことにあるとしている(参考までに、かなりの財産とされるノストラダムスの遺産が3444エキュあまりであった)。鉱山で火事があり建物が全焼したので、来年以降にも不安を表明している。 -諦めなければ成功すると助言されたことを引き合いに出し、自分は幼い時から鉱業を農業よりも優れたものだと考えて努力してきたし、最近、銀鉱と銅鉱を発見し、さらに別の有望な銀鉱脈まで見付かったと報告している。ノストラダムスは宗教関係でローゼンベルガーがよからぬ思いをさせられることも予言していたらしいが、それらは全て予言の通りだったと報告している。 -また、ノストラダムスのピウス4世に捧げられた占筮(ピウス4世に捧げられたのは、正しくは『[[1562年向けの新たな暦>Almanach Novveav, Pour l'An. 1562.]]』で、[[その年の占筮>Pronostication Novvelle, Pour l'an mil cinq cents soixante deux. (Lyon)]]は[[ジャン・ド・ヴォゼル]]に捧げられている)を見てみたいとする一方で、偽物が多く出回っているのを知らなかったら、リヨンに注文するだろうにとも述べている。1561年までの偽版は[[バルブ・ルニョー]]などごくわずかな例外を除いてほとんど伝わっていないが、同時代においてはフィーバーブルン(現オーストリア)でも知られているほどに多く存在していたらしいことが読み取れる。 35. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アウクスブルク、1562年1月19日) -冬場で同行者とも険悪だったので辛い旅ではあったが、アウクスブルクに到着したことと、数日前にノストラダムスからの手紙と小包(いずれもローゼンベルガー宛)が届いたことを報告している。他方、ローゼンベルガーからの手紙も届いていて、トゥッベが自分の手許にとどめてあったカールのホロスコープを早く寄越すように催促してきたという。ローゼンベルガーの事業は莫大な借金で苦境にあり、債権者たちとの和解が試みられたといい、トゥッベもローゼンベルガーに会いにチロル地方に行くつもりだと述べている。 -アウクスブルクでは2人の人物の代理人からホロスコープの作成を依頼されたという。1人目は占星術師に理解があるが2年前に破産し、債権者から逃れるためにアウクスブルクの富裕な修道院に匿われていると紹介し、それがローゼンベルガーの弟マルクァルト(Marquard)であると明かされる。彼の生年月日などの情報を添え、今後の運勢や商業面の助言などを示してほしいという依頼をしており、破産したとはいえ、引き受けてもらえればマルカールからの謝礼が払われることも説明している。その後、鋼の国際取引に関する情報が記載され、返信の送り先や自身の近況について説明している。 36. ノストラダムスからドミニク・ド・サン=テチエンヌとジャモー・パトンへ(サロン、1562年1月20日) -スペインの宝探しに関する質問に答えた珍しい手紙である(デュペーブの巻末目次では差出人と宛先が逆転しているが、差出人はノストラダムスである)。Dominique de Saint-Etienne とJammot Pathon はいずれもトゥールーズのブルジョワで、彼らから頼まれた宝探しについて占ってみたところ、タロガナ地方に大量の金銀が眠っていることが分かったと主張している。その場所はかつてカエサルとポンペイウスが争った場所の西側で、古代寺院の遺跡にある四角い石の蓋が被せられた深い井戸に永遠に火を灯すランプと壺があり、その近くにこそ求める宝があると告げている。さらに時期などについても細かく助言したあと、見付かったとしても、自らが死すべき存在であることを忘れぬようにと、神に対し謙虚であることを求めている((抄訳と要約を組み合わせた紹介が竹下 [1999] pp.101-103, 110にある。))。 -ラテン語の手紙の最後にはフランス語を主体に、ギリシア語、ラテン語、スペイン語などの語彙を交えた四行詩6篇が添えられている。百詩篇と見まがうようなスタイルだが、そこに依頼者のジャモーの名前などが織り込まれているなどからすれば、相談内容を踏まえた戯作と見るべきだろう。ただし、その中には「黄金は岩の母である粘土に」という[[百詩篇第1巻21番]]に通じる表現など、興味深い要素も含まれている。 37. ハンス・ローゼンベルガーからノストラダムスへ (フィーバーブルン、1562年1月24日) -トゥッベ経由で12月19日付けの手紙(34番の12月15日付の誤りか、現存しない別の手紙)が転送されてかなり経つはずとした上で、返事を催促している。近況報告として、放置して5、6年経つ複数の鉱山から新しい発見があり、自身の状況が好転していることと、それがまさにノストラダムスの予言どおりだと報告している(予言といっても、諦めるなという助言通りに見込み無しとして放置していた鉱山を掘りなおしてみた、という程度のものだろう。以前の手紙から判断して、具体的に鉱山の採掘箇所などを指定した予言があったとは考えられない)。 -カールのホロスコープが転送されてきたが、芳しいものでなく、カールは先月も馬ごと橋から転落したと述べている。ノストラダムスに暦書を数部送ってもらえないかとお願いしたあと、スペイン軍の行軍に言及して締めくくっている。 -ローゼンベルガーは最も熱心な顧客の一人といえるが、現在確認されている範囲ではこの手紙が最後である。真筆の暦書を欲しがっているのだから関心が薄れたとは考えづらいが、事業が好転した結果、高額の謝礼を払ってまで直接ノストラダムスに伺いを立てる必要性がなくなったのかもしれない。 38. ロレンツ・トゥッベからノストラダムスへ (アウクスブルク、1562年4月13日) -仲介者クラフト経由で1月に「我らの友人」(以前話に出ていたローゼンベルガーの弟か?)のホロスコープに関する小包を送ったはずなのに、ノストラダムスからの返事がないので、忙しいのかと尋ねている。追加の報酬の必要を訊いたあと、返送にはクラフトではなくリヨンにいるドイツ人商人ガスパル・タウラーかマルティン・ホーライトナーを使ってほしいと要請している。自身の近況として、ノストラダムスの予言を思い出し、アウクスブルクのさる弁護士の下で実務の勉強をすることにしたと述べ、ローゼンベルガーの事業が好転したことも報告している。 -現在確認されている範囲では、トゥッベの手紙はこれが最後である。前述のように、ローゼンベルガーの事業の好転が影響しているのかもしれない。 39. ノストラダムスからロレンツ・トゥッベへ (サロン、1562年5月13日) -トゥッベから送られてきた1月、3月末、4月に書かれた3通の手紙を全て受け取ったと答え、最初の手紙に書かれていたアントウェルペンの状況について、キリスト教徒への何という蛮行かと取り乱している。カトリックとプロテスタントの宗教対立ではないかと思われるが、どちらに肩入れしているのか判然としない。[[竹下節子]]はカトリックを被害者と推測しているが((竹下 [1998] p.262))、手紙ではプロテスタント寄りの姿勢を見せることもあったので、プロテスタントを被害者としているのかもしれない。いずれにしても、ここでいう1月の手紙を前年11月の手紙と同一視しているランディの読み方((ランディ [1999] p.154. 余談だが、日本語版でこの手紙の日付が「1562年11月15日」となっているのは、前の年のトゥッベの手紙と混同した誤り。原書の Randi [1990] p.112 ではきちんと5月13日になっている。))が妥当かどうかは、大いに疑問とせざるをえない。手紙が全て現存しているわけではないので、現存していない1月の手紙に何か書かれていたと考えるべきではなかろうか。 -次に、仕事の進捗状況についてローゼンベルガーやトゥッベのホロスコープを作成したことを報告し、追加の報酬について希望を出している。また、『[[プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史]]』の草稿の存在について言及し、その要約が必要ならば送ると述べている。手紙の後半では2月にエクスで起きた大規模な宗教対立について、かなり詳しく報告しており、『プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史』の要約というのは、この手紙の後半部分のことなのかもしれない。 40. フランソワ・ベラールからノストラダムスへ (アヴィニョン、1562年8月13日) -ノストラダムスの仲間(誰のことか不明。語形からすると男性)に、アヴィニョンでの会談にノストラダムスを呼び戻すようお願いしていたと述べた上で、アストロラーベや錬金術書をその仲間に預けてベラールに届けること、ベラールの生年月日などを訊いて指輪に関する占いをすべきだということ、未来の不幸を避けられる占いをベラールに送ること、ベラールの親についても占うことなどを要請している。 41. ノストラダムスからフランソワ・ベラールへ (サロン、1562年8月27日) -指輪に関する占いについての報告で、魔術的な色彩が強いものになっている。ノストラダムスは9夜連続で、月桂冠をかぶって精霊に伺いを立てたと述べている。また、精霊から拒絶された鵞鳥の羽でなく、白鳥の羽根ペンを使って書いたという詩篇が載っており、ベラールの名前がアクロスティック(各行の頭の文字をつないで読むこと)で織り込まれている。ノストラダムスは錬金術に関しても精霊たちに伺いを立て、ベラールが卑金属から黄金を得るにはどうすべきかを尋ねたという((cf. ランディ [1999] p.133))。 -さらにベラールのホロスコープも作成したところ、1562年7月半ばから8月初旬までがよくない時期であると出ていたが、元気を出すように励ましている。 -この手紙については[[ピエール・ブランダムール]]が『愛星家ノストラダムス』で一章を割いて分析している。 42. ヨハンネス・キボ・ボエリウスからノストラダムスへ (ストゥルラーノ、1557年11月16日) -差出人 Johannes Cibo Boerius はおそらくジェノヴァのチーボ家 (Cibo) の一員だろうと推測されている((Dupèbe [1983] p.145))。内容はノストラダムスの名声がフランス国内にとどまらず自分のいるリグーリア地方にも伝わっていると称えたあと、自分の姉妹の消息、自分の寿命、不動産売却など5項目について質問している((竹下 [1999] pp.97-99))。 43. ジャン・ド・シュヴィニーからノストラダムスへ (サロン、1563年5月7日) -シュヴィニー(シャヴィニー)は当時ノストラダムスの秘書であり、同じ町に住んでいたにもかかわらず、あえて文書の形で返事を出している。内容は、ノストラダムスがシュヴィニーをアヴィニョン総督の秘書に推薦したことに対するもので、この手紙の2日前にノストラダムスはシュヴィニーにそのことで手紙を送っていたらしい。 -シュヴィニーはそれに丁寧に礼を述べるとともに、かつてノストラダムスからある重要人物の秘書になると予言されたことを引き合いに出し、自分はその約束された幸運よりも静かな学究としての生活を大事にしたいと固辞している((竹下 [1999] pp.115-117))。 44. ヨハンネス・ベルギウスからノストラダムスへ (アジャン、1563年10月15日) -差出人 Johannes Bergius のフランス語名は未詳だが、[[ジュール・セザール・スカリジェール]]の弟子に当たる人物らしい。 -ノストラダムスと過去に手紙をやり取りしており、ノストラダムスがアキテーヌ地方(アジャンを含むフランス南西部)に赴く予定があると知らされていた時には、返事の中の分かりづらかった部分について直接教えてもらおうと考えていたらしいが、ノストラダムスのリューマチの悪化で中止になったようである。 -ベルギウスはリューマチの症状がどれほど辛いかは理解しているとして、師にあたるスカリジェールのときもひどいものだったと回顧している。 45. ブノワ・ド・フランドリアからノストラダムスへ (ガップ、1564年5月1日) -差出人 Benoît de Flandria はガップの医師で、アンリ3世がブロワ地方に出した布告をラテン語訳して出版したこともある人物である((Dupèbe [1983] p.151))。短い手紙で、ノストラダムスの名声を聞いて占ってもらうことにしたと述べ、ガップで10月25日に生まれたという自身の情報を知らせている。 46. ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年6月13日) -差出人 Hans Lobbet / Johannes Lobbetius はアウクスブルクからリヨンにやってきた人物で、オルレアンで法学を学んだこともあったという。往復書簡集の残りの手紙は、全てこのロベットとのやりとりである。 -ノストラダムスは以前アウクスブルクの貴族ダニエル・レヘリンガー (Daniel Rechlinger) から、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の2人の皇子ルドルフとエルンストのホロスコープを依頼され、報酬も前払いされていたらしいが、それをまだ届けていなかったらしい。ロベットはこの件がどうなっているのかの返事を早急に寄越すように求めている。 47. ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年7月7日) -エクスから帰ってきて、娘([[マドレーヌ>マドレーヌ・ド・ノートルダム]]か?)がロベットからの手紙を渡してくれたと述べている。レヘリンガーとの約束をきちんと果たす用意があるが、ホロスコープの作成に金貨30エキュ、秘書の清書に金貨6エキュの実費が掛かったことを説明し、皇子たちからは実費以上の報酬をもらえることに期待を示している。レヘリンガーには自分からも返事を出す旨を伝え、旧友のロレンツ・トゥッベにもよろしく言っておいてほしいと頼んでいる。 48. ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年7月23日) -2度も問い合わせたのに一切返事がないことに驚き、今月20日に新しい催促状を書いていたところ、今月7日、14日、15日付のノストラダムスの手紙がまとめて届けられたと報告している。ただし、そこには例のホロスコープはなかったらしく、手紙をレへリンガーに転送するし、その結果ノストラダムスの要求(47番で報酬の上乗せを暗に要求したことか)にも好ましい返事があるだろうから、ホロスコープも早急に送るように指示している。 -トゥッベはストラスブール大学で法学教授になったとのことで、彼にきちんとよろしく言っておいたと報告し、自分(ロベット)あての占いが好ましいものであったことから、結婚について悩んでいるフランドルの友人も占ってもらえないかと頼んでいる。 49. ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、8月16日)〔1565年〕 -数日前にノストラダムスからの小包を受け取り、ルドルフのホロスコープとレヘリンガー宛の手紙、さらに今月7日づけの自分宛の手紙が入っていることを確認したと述べている。ノストラダムスはその手紙で再度、自分の仕事がいかに手間のかかるものであったかを強調したことに対し、ロベットはそれに理解を示し、皇帝とその周辺の信望を勝ち取ることが出来るだろうと評価している。 -ロベットは小包をアウクスブルクとウィーンに至急転送すると述べ、ノストラダムスが要求していた金冠2つは運び屋のフィロルに渡したと報告している。 -ここで言及されている「今月7日づけ」の手紙はデュペーブの『[[ノストラダムス:未公刊書簡集>Nostradamus : Lettres inédites]]』の付録に収められている。 50. ハンス・ロベットからノストラダムスへ (リヨン、1565年11月19日) -8月16日の時点では宮廷に行くつもりだったが、事件のせいでここにとどまり続けていると報告し、レへリンガーの兄弟にホロスコープを送り、きちんとウィーンに届けられたはずなのだが、その後音沙汰がないと釈明している。 -知人ゲオルク・ロリの相談に乗ってほしい旨の依頼と、神聖ローマ帝国で近く議会が召集され、オスマン帝国との講和が議題になる予定であることなど、国際情勢についての報告がいくらか添えられている。 51. ノストラダムスからハンス・ロベットへ (サロン、1565年12月13日) -手から足にかけてのリューマチがひどく、21日も寝ていないと述べている。今日、レヘリンガーについて書かれたロベットの手紙を受け取ったと報告し、レヘリンガーはルドルフのホロスコープのドイツ語への翻訳で忙しいのかと思っていたと述べている(レヘリンガーの翻訳かは不明だが、ドイツ語訳されたルドルフのホロスコープは、ストックホルムの王立図書館に現存する((Brind’Amour [1993] pp.482-484)))。 -ゲオルク・ロリからの手紙も受け取ったと述べ、ほか何人かのドイツ系の顧客からの依頼も受けていることを説明している。ことに、アントン・ショラーという顧客は、その兄弟の依頼を受けたときに苦情を色々言われたとのことで、同じタイプの顧客である可能性に懸念を示している。 -最後に、[[リヨン]]などで目撃された流星に触れ、それは大きな災いを暗示するもので、自分の1564年の占筮で予言してあったと述べている。 *校訂・翻訳  19世紀には[[フランソワ・ビュジェ]]による断片的な紹介もあったが、本格的な紹介の嚆矢はウジェーヌ・レーによる1961年の論文「[[ミシェル・ド・ノートルダムの往復書簡断片の概要>Aperçu d' un fragment de la correspondance de Michel de Nostredame]]」である。これは全体の概要を示しつつ、いくつかの重要な書簡をフランス語で全訳している。  続く研究はこの分野での記念碑的労作といえる[[ジャン・デュペーブ]]の『[[ノストラダムス:未公刊書簡集>Nostradamus : Lettres inédites]]』(1983年)である。デュペーブはラテン語の全文を紹介しつつ、そこに語注とフランス語による要約をつけた。  1992年にはロベール・アマドゥの『ノストラダムスの占星術』に全ての書簡のフランス語訳が掲載されたようだが、残念ながらこの本は入手自体が難しく、国内の大学図書館などにも所蔵されていない。  [[ジェイムズ・ランディ]]は『[[ノストラダムスの仮面>The Mask of Nostradamus]]』において、デュペーブの要約を英訳(場合によっては抄訳)し、いくらかの書簡の内容を紹介した。  日本では、ランディの著書の日本語版『[[ノストラダムスの大誤解]]』(1999年)において、その転訳という形でいくつかの書簡を読むことができる。  また、[[竹下節子]]の著書『[[ノストラダムスの生涯>ノストラダムスの生涯 (竹下節子)]]』(1998年)と『[[さよならノストラダムス]]』(1999年)には、それぞれ数通ずつだが、アマドゥの著書のフランス語訳から転訳する形で紹介されている。  同じアマドゥの著書からの転訳ということでは、[[エルヴェ・ドレヴィヨン]]らの著書『[[ノストラダムス ― 予言の真実]]』(2004年)でも、2通の手紙の訳を読むことができる。 ---- ページサイズの都合上、コメント欄は設けません。

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