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*原文
Celuy qu'en [[luite]] &&sup(){1} fer au fait bellique&sup(){2},
Aura porté plus grand que lui le pris,
De nuit au lit six lui feront la pique,
Nud&sup(){3} sans harnois subit sera surpris.
**異文
(1) & : en 1981EB
(2) bellique : Bellique 1672
(3) Nud : Nuds 1653 1665
*日本語訳
戦争に関する出来事にて戦いと鉄器で
自分よりも偉大な者に勝るであろう者、
夜の寝室で六人が彼に槍を向けるだろう。
甲冑をまとわぬ丸裸にて出し抜けに襲われるだろう。
**訳について
1行目がやや冗長だが、直訳した。「戦争の中で(指揮官として他人を動かすのではなく)自分が実際に武器を取った戦いで」といった意味だろうか。[[高田勇]]・[[伊藤進]]訳でも「戦闘行為にて競い合いと鉄で」((高田・伊藤 [1999] p.237))とほぼ直訳されている。
2行目 porter le prix は古語辞典を引き合いに出している[[ピエール・ブランダムール]]によると、「より良い(より上位の)ものと見なされる」(être considéré comme le meilleur) ことを意味する成句だという((Brind’Amour [1996]))。
3行目 feront le pique は直訳だと「槍をするだろう」なので、若干意訳した、高田・伊藤訳だと「突き刺さん」。
4行目後半の直訳は「突然に不意打ちされる」だが、重言であり日本語だと冗長なので、若干意訳した。
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。
1行目「格闘と武勇で好戦的で」((大乗 [1975] p.104。以下、この詩の引用は同じページから。))は、前置詞の位置から言って、言葉のつなぎ方がおかしい。
2行目「受ける栄誉より偉大になり」は、比較級の位置がおかしく、上述の成句がきちんと訳に反映されていない。
3行目「夜間 床で六人が彼を非難し」は、前述の槍を使った表現が「非難する」と意訳できるかが微妙だろう。
4行目「はだかにして 馬具もなく 彼はとつぜん驚かされるだろう」は、harnois (harnais) には「馬具」という意味もあるが、裸と並べられることで丸腰状態を示しているのだろうから、「馬具」と訳すのは不適切だろう。
[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。
1行目「戦いで武器と格闘する者」((山根 [1988] p.125。以下、この詩の引用は同じページから。))は、fer (鉄、鉄器) を「武器」と訳すのは良いとしても、[[luite]] と並列的なのだから、「武器と格闘する」はおかしい。
4行目「丸腰のはだかで彼は不意打ちに仰天する」は、surprendre を驚かされると訳しているのだとすれば、subit を「不意打ち」とするのは若干意訳が過ぎるようにも見える。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]](1594年)は、[[アンリ2世]]が1559年の馬上槍試合でモンゴムリ(モンゴメリー)伯ガブリエル・ド・ロルジュに右目を傷つけられ、死に至ったことと、そのモンゴムリ伯が1574年にノルマンディ地方のドンフロン城で夜に捕らわれたことと解釈した((Chavigny [1594] pp.220, 222))。
当「大事典」で確認できる次の解釈例は[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)だが、ガランシエールの時点で「多くの者が」モンゴムリ伯と解釈していると指摘されている。ガランシエールが話を盛っているのでない限り、解釈例が複数存在していたものと思われる。
[[バルタザール・ギノー]](1712年)はその解釈をさらに発展させ、ドンフロン城の寝室で武器を持たない下着姿だったところを6人に襲われたと指摘した((Guynaud [1712] pp.121-122))。
匿名のパンフレット『暴かれた未来』(1800年)でもモンゴムリ伯とする解釈が採用された((L’Avenir..., pp.112-113))。
[[テオドール・ブーイ]](1806年)はギノーの解釈をほとんどそのまま引き写した((Bouys [1806] pp.104-105))。19世紀の三大解釈者とされる[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アンリ・トルネ=シャヴィニー]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]らもモンゴムリ伯とする解釈を採り、中でもル・ペルチエは脚注でギノーの解釈をそのまま引用した((Bareste [1840] p.490-491, Torné-Chavigny [1860] pp.22,151, Le Pelletier [1867a] pp.73-74))。
英語圏でも[[チャールズ・ウォード]](1891年)がこの解釈を採り、20世紀の[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[エリカ・チータム]]などに引き継がれた((Ward [1891] p.95, Lamont [1943] p.37, Laver [1952] p.59))。
モンゴムリ伯以外とする解釈も少数だが存在する。
[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]はガスパール・ド・コリニーがサン=バルテルミーの虐殺の犠牲になったことと解釈し、息子の[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]も同じ解釈を採った((Fontbrune [1939] p.75-76, Fontbrune (1980)[1982]))。
[[セルジュ・ユタン]]はナポレオンの最終的な敗北と解釈し、[[ボードワン・ボンセルジャン]]の補訂でもその解釈が堅持された((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。
**懐疑的な見解
[[エドガー・レオニ]]、[[エヴリット・ブライラー]]、[[高田勇]]・[[伊藤進]]らは、後半がモンゴムリ伯の境遇と一致しないと指摘している。
モンゴムリ伯がドンフロン城で捕らわれたのは事実だが、それは攻囲戦を経た交渉の結果、モンゴムリ伯が生命の保証と引き換えに投降したためである。不意打ちで寝込みを襲って捕縛したというような話ではない。
実際、同時代のシャヴィニーはモンゴムリ伯に当てはめつつも、寝込みを襲われたなどというエピソードを紹介していなかった。信奉者たちがそう解釈するルーツは上で見たようにギノーの解釈だが、彼が示した「史実」は捏造された疑いが強い。
*同時代的な視点
詩の情景は分かりやすく、戦場で大きな手柄を立てた人物も、6人の刺客に寝込みを襲われてはどうにもならないという話だろう。
[[ピエール・ブランダムール]]は、この詩が書かれる少し前に起きたパルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼ (Pier Luigi Farnese) が、カール5世の手の者によって自分の居城であるピアチェンツァの城で暗殺された事件(1547年)を、有力候補と見なした((Brind’Amour [1996]))。
[[ロジェ・プレヴォ]]は、ビザンティン帝国の皇帝ニケフォロス2世(在位963年 - 969年)がモデルと推測した((Prévost [1999] p.199))。ニケフォロスは名門の軍事貴族の出身で、皇帝となった後もイスラーム勢力と戦い続け、アンティオキア奪還などの戦果を挙げた。しかし、その徹底した質実剛健さが妻テオファノに疎まれる原因になり、寝室で眠っていたところをテオファノと通じた将軍ヨハネス・ツィミスケスの部下たちに襲われ、殺害された((井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』pp.158-161))。
[[ピーター・ラメジャラー]]や[[リチャード・シーバース]]は、パルマ公殺害とニケフォロス2世殺害の両方をモデルの可能性として挙げている。
武勇に秀でた人物が無防備のところを襲おうとすれば、それは入浴時や就寝時などになる可能性が高いだろうから、おそらく探せば他にも候補は出てくるのではないだろうか。
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#comment
*原文
Celuy qu'en [[luite]] &&sup(){1} fer au fait bellique&sup(){2},
Aura porté plus grand que lui le pris,
De nuit au lit six lui feront la pique,
Nud&sup(){3} sans harnois subit sera surpris.
**異文
(1) & : en 1981EB
(2) bellique : Bellique 1672
(3) Nud : Nuds 1653 1665
*日本語訳
戦争に関する出来事にて戦いと鉄器で
自分よりも偉大な者に勝るであろう者、
夜の寝室で六人が彼に槍を向けるだろう。
甲冑をまとわぬ丸裸にて出し抜けに襲われるだろう。
**訳について
1行目がやや冗長だが、直訳した。「戦争の中で(指揮官として他人を動かすのではなく)自分が実際に武器を取った戦いで」といった意味だろうか。[[高田勇]]・[[伊藤進]]訳でも「戦闘行為にて競い合いと鉄で」((高田・伊藤 [1999] p.237))とほぼ直訳されている。
2行目 porter le prix は古語辞典を引き合いに出している[[ピエール・ブランダムール]]によると、「より良い(より上位の)ものと見なされる」(être considéré comme le meilleur) ことを意味する成句だという((Brind’Amour [1996]))。
3行目 feront le pique は直訳だと「槍をするだろう」なので、若干意訳した、高田・伊藤訳だと「突き刺さん」。
4行目後半の直訳は「突然に不意打ちされる」だが、重言であり日本語だと冗長なので、若干意訳した。
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。
1行目「格闘と武勇で好戦的で」((大乗 [1975] p.104。以下、この詩の引用は同じページから。))は、前置詞の位置から言って、言葉のつなぎ方がおかしい。
2行目「受ける栄誉より偉大になり」は、比較級の位置がおかしく、上述の成句がきちんと訳に反映されていない。
3行目「夜間 床で六人が彼を非難し」は、前述の槍を使った表現が「非難する」と意訳できるかが微妙だろう。
4行目「はだかにして 馬具もなく 彼はとつぜん驚かされるだろう」は、harnois (harnais) には「馬具」という意味もあるが、裸と並べられることで丸腰状態を示しているのだろうから、「馬具」と訳すのは不適切だろう。
[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。
1行目「戦いで武器と格闘する者」((山根 [1988] p.125。以下、この詩の引用は同じページから。))は、fer (鉄、鉄器) を「武器」と訳すのは良いとしても、[[luite]] と並列的なのだから、「武器と格闘する」はおかしい。
4行目「丸腰のはだかで彼は不意打ちに仰天する」は、surprendre を驚かされると訳しているのだとすれば、subit を「不意打ち」とするのは若干意訳が過ぎるようにも見える。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]](1594年)は、[[アンリ2世]]が1559年の馬上槍試合でモンゴムリ(モンゴメリー)伯ガブリエル・ド・ロルジュに右目を傷つけられ、死に至ったことと、そのモンゴムリ伯が1574年にノルマンディ地方のドンフロン城で夜に捕らわれたことと解釈した((Chavigny [1594] pp.220, 222))。
当「大事典」で確認できる次の解釈例は[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)だが、ガランシエールの時点で「多くの者が」モンゴムリ伯と解釈していると指摘されている。ガランシエールが話を盛っているのでない限り、解釈例が複数存在していたものと思われる。
[[バルタザール・ギノー]](1712年)はその解釈をさらに発展させ、ドンフロン城の寝室で武器を持たない下着姿だったところを6人に襲われたと指摘した((Guynaud [1712] pp.121-122))。
匿名のパンフレット『暴かれた未来』(1800年)でもモンゴムリ伯とする解釈が採用された((L’Avenir..., pp.112-113))。
[[テオドール・ブーイ]](1806年)はギノーの解釈をほとんどそのまま引き写した((Bouys [1806] pp.104-105))。19世紀の三大解釈者とされる[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アンリ・トルネ=シャヴィニー]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]らもモンゴムリ伯とする解釈を採り、中でもル・ペルチエは脚注でギノーの解釈をそのまま引用した((Bareste [1840] p.490-491, Torné-Chavigny [1860] pp.22,151, Le Pelletier [1867a] pp.73-74))。
英語圏でも[[チャールズ・ウォード]](1891年)がこの解釈を採り、20世紀の[[ジェイムズ・レイヴァー]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[エリカ・チータム]]などに引き継がれた((Ward [1891] p.95, Lamont [1943] p.37, Laver [1952] p.59))。
モンゴムリ伯以外とする解釈も少数だが存在する。
[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]はガスパール・ド・コリニーがサン=バルテルミーの虐殺の犠牲になったことと解釈し、息子の[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]も同じ解釈を採った((Fontbrune [1939] p.75-76, Fontbrune (1980)[1982]))。
[[セルジュ・ユタン]]はナポレオンの最終的な敗北と解釈し、[[ボードワン・ボンセルジャン]]の補訂でもその解釈が堅持された((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。
**懐疑的な見解
[[エドガー・レオニ]]、[[エヴリット・ブライラー]]、[[高田勇]]・[[伊藤進]]らは、後半がモンゴムリ伯の境遇と一致しないと指摘している。
モンゴムリ伯がドンフロン城で捕らわれたのは事実だが、それは攻囲戦を経た交渉の結果、モンゴムリ伯が生命の保証と引き換えに投降したためである。不意打ちで寝込みを襲って捕縛したというような話ではない。
実際、同時代のシャヴィニーはモンゴムリ伯に当てはめつつも、寝込みを襲われたなどというエピソードを紹介していなかった。信奉者たちがそう解釈するルーツは上で見たようにギノーの解釈だが、彼が示した「史実」は捏造された疑いが強い。
*同時代的な視点
詩の情景は分かりやすく、戦場で大きな手柄を立てた人物も、6人の刺客に寝込みを襲われてはどうにもならないという話だろう。
[[ピエール・ブランダムール]]は、この詩が書かれる少し前に起きたパルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼ (Pier Luigi Farnese) が、カール5世の手の者によって自分の居城であるピアチェンツァの城で暗殺された事件(1547年)を、有力候補と見なした((Brind’Amour [1996]))。
[[ロジェ・プレヴォ]]は、ビザンティン帝国の皇帝ニケフォロス2世(在位963年 - 969年)がモデルと推測した((Prévost [1999] p.199))。ニケフォロスは名門の軍事貴族の出身で、皇帝となった後もイスラーム勢力と戦い続け、アンティオキア奪還などの戦果を挙げた。しかし、その徹底した質実剛健さが妻テオファノに疎まれる原因になり、寝室で眠っていたところをテオファノと通じた将軍ヨハネス・ツィミスケスの部下たちに襲われ、殺害された((井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』pp.158-161))。
[[ピーター・ラメジャラー]]や[[リチャード・シーバース]]は、パルマ公殺害とニケフォロス2世殺害の両方をモデルの可能性として挙げている。
武勇に秀でた人物が無防備のところを襲おうとすれば、それは入浴時や就寝時などになる可能性が高いだろうから、おそらく探せば他にも候補は出てくるのではないだろうか。
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