百詩篇第4巻1番

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[[百詩篇第4巻]]>1番 *原文 CELA&sup(){1} du reste de sang non&sup(){2} espandu : Venise quiert&sup(){3} secours estre donné : Apres auoir bien&sup(){4} long temps&sup(){5} attendu. Cité liurée au premier [[corn]] sonné&sup(){6}. **異文 (1) CELA : SEra 1672 (2) sang non : son nom 1653 1665 (3) quiert : quiers 1597, quier 1627 (4) bien : rien 1557B (5) long temps : long-temps 1627 1644 1668P, longtemps 1665, lon temps 1672 (6) corn sonné 1555 : cornet sonné &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : cor sonné 1603PL 1627 1981EB, corn. sonné 1644 1650Ri 1653 1665, Cor sonné 1672, cornet sone 1772Ri, cornsonné 1840) *日本語訳 流れ出ていない血の残りであるところの [[ヴェネツィア]]は、助けが与えられることを求める。 あまりにも長いあいだ待たされた後で、 都市は最初に鳴らされた角笛で引き渡される。 **訳について  1行目と2行目は並立と見なす[[ピエール・ブランダムール]]の読み方に従っている。1行目は[[ジャン=ポール・クレベール]]がやったように少し意訳して「まだ血がすべて流れ尽くしていないところの」とでもする方が分かりやすいかもしれない。なお、2行目 quiert は中期フランス語の querre (求める、探す) の活用形((cf. DMF p.518))。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]の1行目「血の残りはこぼれず」((大乗 [1975] p.123))、[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]の1行目「残りの血は流されまい」((山根 [1988] p.148))が少し微妙だが、後の行は意訳の範囲として問題ないだろう。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]はカンディアの攻囲戦と解釈した((Garencieres [1672]))。ギリシアのカンディア (現イラクリオン) は15世紀にヴェネツィアが勝ち取った領土だったが、17世紀の25年にわたる攻囲戦の末に、オスマン帝国に奪われてしまった。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[ロルフ・ボズウェル]]の著書には載っていない。  [[アンドレ・ラモン]](1943年)は近未来に現われるフランスの大王がイタリアを征服することになる予言と解釈した((Lamont [1943] p.302))。  [[ジェイムズ・レイヴァー]]は4行目だけを抜き出して、都市をパリと解釈し、ナポレオン3世の即位とした((Laver [1953] p.203))。  [[エリカ・チータム]]は1560年代以降、ヴェネツィア領だったキプロスをオスマン帝国が脅かし、周辺諸国に救助を求めていたヴェネツィアに、期待していたような援助がなかったことで、1571年にキプロスをオスマン帝国に奪われたことの予言とした((Cheetham [1973], Cheetham [1990]))。  [[セルジュ・ユタン]]は18世紀末のナポレオンの攻略によって、ヴェネツィアの共和政が終焉し、フランス領に組み込まれたこととした((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。 *同時代的な視点  [[ピーター・ラメジャラー]]は1499年から1503年のヴェネツィア共和国とオスマン帝国の戦いと解釈した((Lemesurier [2010]))。  ヴェネツィアとオスマン帝国は15世紀以来、地中海の交易拠点の争奪などを理由として、1463年から1479年、1499年から1503年、1537年から1540年とたびたび争っていた((新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』pp.112-113))。このいずれかをモデルと考えて何の不自然もないだろうし、あるいは逆にそうした過去の実態を踏まえて、未来においてヴェネツィアがオスマン帝国と争って苦境に立たされると推測したのだとしても、別段不思議なこととは思えない。 ---- #comment
[[百詩篇第4巻]]>1番 *原文 CELA&sup(){1} du reste de sang non&sup(){2} espandu : Venise quiert&sup(){3} secours estre donné : Apres auoir bien&sup(){4} long temps&sup(){5} attendu. Cité liurée au premier [[corn]] sonné&sup(){6}. **異文 (1) CELA : SEra 1672 (2) sang non : son nom 1653 1665 (3) quiert : quiers 1597, quier 1627 (4) bien : rien 1557B (5) long temps : long-temps 1627 1644 1668P, longtemps 1665, lon temps 1672 (6) corn sonné 1555 : cornet sonné &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : cor sonné 1603PL 1627 1981EB, corn. sonné 1644 1650Ri 1653 1665, Cor sonné 1672, cornet sone 1772Ri, cornsonné 1840) *日本語訳 流れ出ていない血の残りであるところの [[ヴェネツィア]]は、助けが与えられることを求める。 あまりにも長いあいだ待たされた後で、 都市は最初に鳴らされた角笛で引き渡される。 **訳について  1行目と2行目は並立と見なす[[ピエール・ブランダムール]]の読み方に従っている。1行目は[[ジャン=ポール・クレベール]]がやったように少し意訳して「まだ血がすべて流れ尽くしていないところの」とでもする方が分かりやすいかもしれない。なお、2行目 quiert は中期フランス語の querre (求める、探す) の活用形((cf. DMF p.518))。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]の1行目「血の残りはこぼれず」((大乗 [1975] p.123))、[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]の1行目「残りの血は流されまい」((山根 [1988] p.148))が少し微妙だが、後の行は意訳の範囲として問題ないだろう。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]はカンディアの攻囲戦と解釈した((Garencieres [1672]))。ギリシアのカンディア (現イラクリオン) は15世紀にヴェネツィアが勝ち取った領土だったが、17世紀の25年にわたる攻囲戦の末に、オスマン帝国に奪われてしまった。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[ロルフ・ボズウェル]]の著書には載っていない。  [[アンドレ・ラモン]](1943年)は近未来に現われるフランスの大王がイタリアを征服することになる予言と解釈した((Lamont [1943] p.302))。  [[ジェイムズ・レイヴァー]]は4行目だけを抜き出して、都市をパリと解釈し、ナポレオン3世の即位とした((Laver [1953] p.203))。  [[エリカ・チータム]]は1560年代以降、ヴェネツィア領だったキプロスをオスマン帝国が脅かし、周辺諸国に救助を求めていたヴェネツィアに、期待していたような援助がなかったことで、1571年にキプロスをオスマン帝国に奪われたことの予言とした((Cheetham [1973], Cheetham [1990]))。  [[セルジュ・ユタン]]は18世紀末のナポレオンの攻略によって、ヴェネツィアの共和政が終焉し、フランス領に組み込まれたこととした((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。 *同時代的な視点  [[ピーター・ラメジャラー]]は1499年から1503年のヴェネツィア共和国とオスマン帝国の戦いと解釈した((Lemesurier [2010]))。  ヴェネツィアとオスマン帝国は15世紀以来、地中海の交易拠点の争奪などを理由として、1463年から1479年、1499年から1503年、1537年から1540年とたびたび争っていた((新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』pp.112-113))。このいずれかをモデルと考えて何の不自然もないだろうし、あるいは逆にそうした過去の実態を踏まえて、未来においてヴェネツィアがオスマン帝国と争って苦境に立たされると推測したのだとしても、別段不思議なこととは思えない。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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