アントワーヌ・ド・ヴァンドームへの献辞

「アントワーヌ・ド・ヴァンドームへの献辞」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

アントワーヌ・ド・ヴァンドームへの献辞」(2013/03/22 (金) 22:20:50) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

 ノストラダムスは『[[1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言>La Grand' Pronostication novvelle avec Portentevse prediction]]』の冒頭に、ナヴァル王[[アントワーヌ・ド・ヴァンドーム>アントワーヌ・ド・ブルボン]]にあてた献辞を掲載した。 *原文 A TRESEXCELLENT, NOBLE ET PVISSANT Roy de Nauarre, Anthoine de Vandosme, Michel de Nostre Dame son treshumble & obeissant seruiteur, vie longue & felicité. A Bien bonne raison, tresredoubté&sup(){1} Sire, à tousiours esté l’ignorance estimee esté cause de tous maux, & empeschement de tous biens, d’autant qu’il est impossible d’euiter vn mal auquel on ne pense point, ny de iouir d’vn bien qu’on n’entent point. Pource voyans les anciens philosophes que le plus grand don de Dieu estoit le sçauoir, ont addonné leur esprit à la congnoissance des choses pour donner moyen aux hommes pour se gouuerner : les auisans des accidens qui suruiennent parmy les entreprinses humaines. A l’exemple desquelz me suis appliqué à speculer les significations des choses occultes, & les declairer d’an en an, selon que mon petit esprit peut comprendre. Et combien que ie n’aye encor esté si heureux de pouuoir voir vostre maiesté en face, toutesfoys par les numismes&sup(){2} & par la phisionomie de Messieurs voz Tresillustres freres, me suis asseuré au bruit constant de voz Royalles bontés : & ay prins la hardiesse de vous dedier partie de mes labeurs : qui est la calculation de ce que les astres demonstrent pour la presente annee 1557. Combien que plus amplement ie l’aye declaré en l’Almanach auec les predictions que i’ay consacré au plus grand des Roys. Et me confiant&sup(){3} tresdebonnaire Sire, que vous le receurez de vostre naturelle & accoustumee humanité. En priant le grand Roy eternel qu’il vous doint grace de regner en paix longuement, & à moy de voir en brief le souuerain Seigneur de Biarnoys&sup(){4}. De Salon ce 21. de Mars M. D. LVI.  Faciebat Michael Nostradamus Salone petreæ Prouinciæ. 21. Martii. 1556. pro anno 1557. **語注 -(1) redoubté は現代では「恐れられた」の意味だが、中期フランス語では高貴な人への敬意の表現としても使われた((DMF))。日本語の「畏い」(かしこい)は、そのあたりのニュアンスも含めて、かなりよく当てはまるように思える。 -(2) numisme はラテン語 numisma (貨幣や、その刻印) からか。 -(3) me confiant (se confier) は語源に遡って se fier と同等の表現と見なした。 -(4) Biarnoys はおそらく Béarnois (Béarnais) の揺れだろう。 *全訳 いとも卓越し、高貴にして力強きナヴァル王アントワーヌ・ド・ヴァンドームへ、その非常に賤しくも従順なる従僕ミシェル・ド・ノートルダムが、長寿と至福を(お祈りいたします)。  いとも畏き陛下よ、何も考えない者が害悪を避けることはできず、何も理解しない者が幸福を享受することもできないだけに、実にもって正しい理由で、いつの時代も無知は諸悪の根源にしてあらゆる善の障壁と見なされているのです。そのため、古代の哲人たちは知識こそが神の最も偉大な贈り物と考え、自らを律する方途を人々に示す事柄を知ることに、その知性を傾けたのです。  諸事件を予告するものは人々の営みの中に生起するのです。それらに倣い、私は隠された物事の意味を観測しようと努めてまいりましたし、私のつまらぬ知性で認識できる範囲で、年ごとにそれらを表明してまいりました。  そして、私はまだ陛下の御尊顔を拝見できる幸運に恵まれてはおりませんが、貨幣の刻印や陛下の名だたる御兄弟の顔立ち&sup(){1}によって、陛下の王者たる善良さについての絶えざる世評に信頼を置いております。  ですから、非礼を省みず、1557年に向けて星々が示すところを算定した私の仕事の一部を陛下に献上したのです。それについては、より多くを諸王の中で最も偉大な御方&sup(){2}に捧げた諸予言とともに、暦書でも表明していたところではございますが (陛下にもその一部を献上させていただく次第です)。  いとも寛厚なる陛下よ、私は陛下が生まれながらにして備えておられる普段通りの情け深さによって、これを受け取っていただけるであろうことと信じております。永遠なる大王 〔=神〕 に、その恩寵によって陛下が長く平和に君臨できますようにということと、そのベアルン地方&sup(){4}の至高の領主 (であるところの陛下) に私めが一目でも御目通りできますようにとお祈りしつつ。[[サロン>サロン=ド=プロヴァンス]]より、1556年3月21日。  プロヴァンスのサロン・ペトラ&sup(){3}のミカエル・ノストラダムスが、1557年に向けて1556年3月21日に作成しました。 **訳注 -(1) 兄弟は複数形。アントワーヌには何人か弟がおり、誰を指すのかははっきりしない。しかし、少なくともサンス大司教シャルル・ド・ブルボン (ブルボン枢機卿) が含まれているのは確実だろう。ノストラダムスは1555年に王宮に呼ばれた際に、パリではブルボン枢機卿の屋敷に滞在したからである((cf. Leroy [1993] p.80))。 -(2) おそらくフランス王[[アンリ2世]]のこと。ノストラダムスは[[アンリ2世への献辞>アンリ2世への手紙 (1557年)]]を掲載した『[[1557年向けの驚くべき予兆>Les Presages Merveillevx pour lan. 1557.]]』と、[[フランス王妃カトリーヌにあてた献辞>カトリーヌ・ド・メディシスへの献辞 (1556年)]]を掲載した『[[1557年向けの暦>Almanach pour l'An 1557]]』を、同じ年向けに刊行していた。この中で最もページ数が多いのが『1557年向けの驚くべき予兆』である。 -(3) サロン・ペトラは[[サロン・ド・クロー>サロン=ド=プロヴァンス]]と同じ。クロー平野の語源はケルト語の「石の堆積地」で、ノストラダムスはこの町をラテン語で表現するときに石を意味するペトラ (petra) で置き換えることがしばしばあった。この表現がアンリ2世とローマ教皇に対してのみ使われていたという認識のもとに新奇な説を唱えた論者もいるが(([[浅利幸彦]]『[[悪魔的未来人「サタン」の超逆襲!]]』pp.227-233))、自身の調査不足を喧伝するようなものだろう。 -(4) ベアルンはフランス南部の地方名で、ナヴァル王家の所領のひとつだった。 *コメント  アントワーヌ・ド・ヴァンドーム (ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボン) はフランスの筆頭親王家の当主であり、1555年からナヴァル王の地位にあった。文面からすると、アントワーヌには一度も会ったことがなく、前年の[[アンリ2世]]夫妻への謁見に続き、どうにかしてアントワーヌとも接点を持とうとした様子がうかがえる。  ノストラダムスは手稿『[[オルス・アポロ]]』をジャンヌ・ダルブレ(アントワーヌの妻)に捧げたことがあった。その宛て名で 「マダム」(既婚女性の敬称) が使われていたことから、ジャンヌがアントワーヌと結婚した後のことだったと考えられるが、そちらの作品は、実際に献上されていたとしても、アントワーヌ夫妻とのパイプを築く上であまり役に立たなかったのかもしれない。  なお、平和な長期政権を、というノストラダムスの祈りもむなしく、アントワーヌは1562年の戦いで負傷し、その年のうちに歿した。上の献辞が1557年に公刊されてから、わずか5年後のことであった。 ---- #comment
 ノストラダムスは『[[1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言>La Grand' Pronostication novvelle avec Portentevse prediction]]』の冒頭に、ナヴァル王[[アントワーヌ・ド・ヴァンドーム>アントワーヌ・ド・ブルボン]]にあてた献辞を掲載した。 *原文 A TRESEXCELLENT, NOBLE ET PVISSANT Roy de Nauarre, Anthoine de Vandosme, Michel de Nostre Dame son treshumble & obeissant seruiteur, vie longue & felicité. A Bien bonne raison, tresredoubté&sup(){1} Sire, à tousiours esté l’ignorance estimee esté cause de tous maux, & empeschement de tous biens, d’autant qu’il est impossible d’euiter vn mal auquel on ne pense point, ny de iouir d’vn bien qu’on n’entent point. Pource voyans les anciens philosophes que le plus grand don de Dieu estoit le sçauoir, ont addonné leur esprit à la congnoissance des choses pour donner moyen aux hommes pour se gouuerner : les auisans des accidens qui suruiennent parmy les entreprinses humaines. A l’exemple desquelz me suis appliqué à speculer les significations des choses occultes, & les declairer d’an en an, selon que mon petit esprit peut comprendre. Et combien que ie n’aye encor esté si heureux de pouuoir voir vostre maiesté en face, toutesfoys par les numismes&sup(){2} & par la phisionomie de Messieurs voz Tresillustres freres, me suis asseuré au bruit constant de voz Royalles bontés : & ay prins la hardiesse de vous dedier partie de mes labeurs : qui est la calculation de ce que les astres demonstrent pour la presente annee 1557. Combien que plus amplement ie l’aye declaré en l’Almanach auec les predictions que i’ay consacré au plus grand des Roys. Et me confiant&sup(){3} tresdebonnaire Sire, que vous le receurez de vostre naturelle & accoustumee humanité. En priant le grand Roy eternel qu’il vous doint grace de regner en paix longuement, & à moy de voir en brief le souuerain Seigneur de Biarnoys&sup(){4}. De Salon ce 21. de Mars M. D. LVI.  Faciebat Michael Nostradamus Salone petreæ Prouinciæ. 21. Martii. 1556. pro anno 1557. **語注 -(1) redoubté は現代では「恐れられた」の意味だが、中期フランス語では高貴な人への敬意の表現としても使われた((DMF))。日本語の「畏い」(かしこい)は、そのあたりのニュアンスも含めて、かなりよく当てはまるように思える。 -(2) numisme はラテン語 numisma (貨幣や、その刻印) からか。 -(3) me confiant (se confier) は語源に遡って se fier と同等の表現と見なした。 -(4) Biarnoys はおそらく Béarnois (Béarnais) の揺れだろう。 *全訳 いとも卓越し、高貴にして力強きナヴァル王アントワーヌ・ド・ヴァンドームへ、その非常に賤しくも従順なる従僕ミシェル・ド・ノートルダムが、長寿と至福を(お祈りいたします)。  いとも畏き陛下よ、何も考えない者が害悪を避けることはできず、何も理解しない者が幸福を享受することもできないだけに、実にもって正しい理由で、いつの時代も無知は諸悪の根源にしてあらゆる善の障壁と見なされているのです。そのため、古代の哲人たちは知識こそが神の最も偉大な贈り物と考え、自らを律する方途を人々に示す事柄を知ることに、その知性を傾けたのです。  諸事件を予告するものは人々の営みの中に生起するのです。それらに倣い、私は隠された物事の意味を観測しようと努めてまいりましたし、私のつまらぬ知性で認識できる範囲で、年ごとにそれらを表明してまいりました。  そして、私はまだ陛下の御尊顔を拝見できる幸運に恵まれてはおりませんが、貨幣の刻印や陛下の名だたる御兄弟の顔立ち&sup(){1}によって、陛下の王者たる善良さについての絶えざる世評に信頼を置いております。  ですから、非礼を省みず、1557年に向けて星々が示すところを算定した私の仕事の一部を陛下に献上したのです。それについては、より多くを諸王の中で最も偉大な御方&sup(){2}に捧げた諸予言とともに、暦書でも表明していたところではございますが (陛下にもその一部を献上させていただく次第です)。  いとも寛厚なる陛下よ、私は陛下が生まれながらにして備えておられる普段通りの情け深さによって、これを受け取っていただけるであろうことと信じております。永遠なる大王 〔=神〕 に、その恩寵によって陛下が長く平和に君臨できますようにということと、そのベアルン地方&sup(){3}の至高の領主 (であるところの陛下) に私めが一目でも御目通りできますようにとお祈りしつつ。[[サロン>サロン=ド=プロヴァンス]]より、1556年3月21日。  プロヴァンスのサロン・ペトラ&sup(){4}のミカエル・ノストラダムスが、1557年に向けて1556年3月21日に作成しました。 **訳注 -(1) 兄弟は複数形。アントワーヌには何人か弟がおり、誰を指すのかははっきりしない。しかし、少なくともサンス大司教シャルル・ド・ブルボン (ブルボン枢機卿) が含まれているのは確実だろう。ノストラダムスは1555年に王宮に呼ばれた際に、パリではブルボン枢機卿の屋敷に滞在したからである((cf. Leroy [1993] p.80))。 -(2) おそらくフランス王[[アンリ2世]]のこと。ノストラダムスは[[アンリ2世への献辞>アンリ2世への手紙 (1557年)]]を掲載した『[[1557年向けの驚くべき予兆>Les Presages Merveillevx pour lan. 1557.]]』と、[[フランス王妃カトリーヌにあてた献辞>カトリーヌ・ド・メディシスへの献辞 (1556年)]]を掲載した『[[1557年向けの暦>Almanach pour l'An 1557]]』を、同じ年向けに刊行していた。この中で最もページ数が多いのが『1557年向けの驚くべき予兆』である。 -(3) ベアルンはフランス南部の地方名で、ナヴァル王家の所領のひとつだった。 -(4) サロン・ペトラは[[サロン・ド・クロー>サロン=ド=プロヴァンス]]と同じ。クロー平野の語源はケルト語の「石の堆積地」で、ノストラダムスはこの町をラテン語で表現するときに石を意味するペトラ (petra) で置き換えることがしばしばあった。この表現がアンリ2世とローマ教皇に対してのみ使われていたという認識のもとに新奇な説を唱えた論者もいるが(([[浅利幸彦]]『[[悪魔的未来人「サタン」の超逆襲!]]』pp.227-233))、自身の調査不足を喧伝するようなものだろう。 *コメント  アントワーヌ・ド・ヴァンドーム (ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボン) はフランスの筆頭親王家の当主であり、1555年からナヴァル王の地位にあった。文面からすると、アントワーヌには一度も会ったことがなく、前年の[[アンリ2世]]夫妻への謁見に続き、どうにかしてアントワーヌとも接点を持とうとした様子がうかがえる。  ノストラダムスは手稿『[[オルス・アポロ]]』をジャンヌ・ダルブレ(アントワーヌの妻)に捧げたことがあった。その宛て名で 「マダム」(既婚女性の敬称) が使われていたことから、ジャンヌがアントワーヌと結婚した後のことだったと考えられるが、そちらの作品は、実際に献上されていたとしても、アントワーヌ夫妻とのパイプを築く上であまり役に立たなかったのかもしれない。  なお、平和な長期政権を、というノストラダムスの祈りもむなしく、アントワーヌは1562年の戦いで負傷し、その年のうちに歿した。上の献辞が1557年に公刊されてから、わずか5年後のことであった。 ---- #comment

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: