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[[百詩篇第5巻]]>4番
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*原文
Le gros mastin&sup(){1} de cité&sup(){2} deschassé&sup(){3},
Sera fasché de l’estrange alliance&sup(){4}.
Apres aux champs&sup(){5} auoir&sup(){6} le cerf&sup(){7} chassé,
Le loup&sup(){8} & l’Ours&sup(){9} se donront&sup(){10} deffiance.
**異文
(1) mastin : Mastin 1672, matins 1588-89, matin 1653 1665 1840
(2) cité : Cité 1672, ciié 1665
(3) deschassé 1557U 1568 1611A : dechassé &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : descassé 1557B, déchassé 1668P)
(4) alliance : Alliance 1672
(5) champs : camps 1557B, champ 1605, Champs 1672
(6) auoir : anoir 1605
(7) cerf : chef 1557B 1589PV 1649Ca, serf 1611B 1981EB, Cerf 1672
(8) loup : Loup 1557B 1649Ca 1981EB 1672, loups 1867LP 1716
(9) Ours : ours 1611 1644 1649Ca 1650Le 1653 1665 1668 1840
(10) donront : douront 1589PV, donneront 1649Ca
*日本語訳
都市から追い払われた大きなマスチフ犬が、
異国の同盟に悩まされるだろう。
野で牡鹿が追われた後に、
狼と熊が互いに不信を抱くだろう。
**訳について
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]は、3行目 「あとで彼は野原で雄鹿をまもり」((大乗 [1975] p.150))以外は、やや強引でも意訳として許容範囲と言えなくもない。
しかし、「雄鹿をまもり」は明らかに誤訳である。[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳でも have hunted があてられており、なぜ 「まもり」 となったのか不明。あるいは 「狩り」 と 「守り」 が編集時や印刷時に取り違えられたのかもしれないが、いずれにせよ支持すべき理由はない。
[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]についても同様で、「大きなマスチフ犬」 を 「巨大な猛犬」((山根 [1988] p.180))と訳すことの是非 (マスチフ犬は番犬や闘犬に用いられるが、一般に性格は穏和とされる) を除けば、意訳として許容範囲内だろう。
*信奉者側の見解
[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、クロムウェル時代のイングランドをめぐる情勢と解釈した。追い出されるマスチフ犬は (処刑された) イングランド王の隠喩で、「狼と熊」はフランスとスイス (またはサヴォワ) を指すとした((Garencieres [1672]))。
[[アンリ・トルネ=シャヴィニー]](1860年)は、マスチフ犬をルイ=フィリップの隠喩として、フランスの七月王政と解釈した。共和派とオルレアニスト (狼と熊) が一致してブルボン朝のシャルル10世 (牡鹿) を追い出したまでは良かったものの、直後から相互に不審を抱いた状況が後半の描写なのだという((Torné-Chavigny [1860] pp.35-36))。
[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)はマスチフ犬をボルドー公 (シャルル10世の孫。いわゆるシャンボール伯アンリ)、牡鹿をシャルル10世、狼をルイ=フィリップ、熊を共和派とするなど、比喩の解釈に違いはあるが、やはり七月革命と解釈した((Le Pelletier [1867a] pp.240-241))。ル・ペルチエの読み方は[[チャールズ・ウォード]](1891年)にも引き継がれた((Ward [1891] pp.328-329))。
[[アンドレ・ラモン]](1943年)はマスチフ犬を英国、牡鹿をポーランド、狼をドイツ、熊をロシアの隠喩と見なし、第二次世界大戦の予言と解釈した((Lamont [1943] p.197))。
*同時代的な視点
[[ロジェ・プレヴォ]]は[[リミニ]]の暴君パンドルフォ・マラテスタ (Pandolfo Malatesta) がモデルではないかと推測した。マラテスタ家は13世紀以来リミニに君臨していたが、16世紀初頭に逐われた。1522年に一度返り咲いたものの、教皇クレメンス7世によって1528年に再追放された。動物への喩えは、当時のマキァヴェッリの著作に見出されるという((Prévost [1999] pp.126-127))。マラテスタとする読み方は、[[ピーター・ラメジャラー]]が支持している((Lemesurier [2010]))。
なお、ラメジャラーはかつて『[[ミラビリス・リベル]]』に収録された聖ビルギッタの予言との関連性を指摘していたが、[[ジャン=ポール・クレベール]]も同様の指摘をしていた((Lemesurier [2003b], Clébert [2003]))。
クレベールのフランス語訳に従って、該当する部分を抜粋すると以下の通りである。
「教会は荒れ果てていた。戦士たちに近づく狼と熊が指揮棒を持ち去った。恐るべき時が近づいていた。熊はケルンの教会を引き裂きに行ったし、別の教会の敵である狼は兵糧を奪うべくトリーアへと上京した」。
なお、クレベールは『ミラビリス・リベル』に収録された節のもととなった長文を、1524年に刊行された聖ビルギッタの予言集からも抜粋しているが、やはりケルンやトリーアが舞台となっている。
もしも直接的に聖ビルギッタがモデルになっているのだとすれば、プレヴォのようにリミニと読むことは妥当ではないかもしれない。逆に言えば、そういう直接的な出典が見付からない限り、固有名詞の登場しない曖昧なシンボルなど、現に信奉者側の解釈が論者によってまちまちなように、どのようにでも解釈できてしまうだろう。
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- 1-2行は国際連盟(大きなマスチフ犬)から脱退した日本を指す。 1933年、日と独が連盟から脱退、1937年に伊も脱退。日本は独と並んで枢軸国の代表だった。 牡鹿は後にシナ大陸から追放された中国国民党軍、3行は国共合作(1937~1945年)の後を表している。狼は伊、熊は露、両国は独に不信感を抱いた。後者は独ソ不可侵条約の破棄で。 -- とある信奉者 (2013-04-17 21:31:14)
#comment
[[百詩篇第5巻]]>4番
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*原文
Le gros mastin&sup(){1} de cité&sup(){2} deschassé&sup(){3},
Sera fasché de l’estrange alliance&sup(){4}.
Apres aux champs&sup(){5} auoir&sup(){6} le cerf&sup(){7} chassé,
Le loup&sup(){8} & l’Ours&sup(){9} se donront&sup(){10} deffiance.
**異文
(1) mastin : Mastin 1672, matins 1588-89, matin 1653 1665 1840
(2) cité : Cité 1672, ciié 1665
(3) deschassé 1557U 1568 1611A : dechassé &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : descassé 1557B, déchassé 1668P)
(4) alliance : Alliance 1672
(5) champs : camps 1557B, champ 1605, Champs 1672
(6) auoir : anoir 1605
(7) cerf : chef 1557B 1589PV 1649Ca, serf 1611B 1981EB, Cerf 1672
(8) loup : Loup 1557B 1649Ca 1981EB 1672, loups 1867LP 1716
(9) Ours : ours 1611 1644 1649Ca 1650Le 1653 1665 1668 1840
(10) donront : douront 1589PV, donneront 1649Ca
*日本語訳
都市から追い払われた大きなマスチフ犬が、
異国の同盟に悩まされるだろう。
野で牡鹿が追われた後に、
狼と熊が互いに不信を抱くだろう。
**訳について
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]は、3行目 「あとで彼は野原で雄鹿をまもり」((大乗 [1975] p.150))以外は、やや強引でも意訳として許容範囲と言えなくもない。
しかし、「雄鹿をまもり」は明らかに誤訳である。[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳でも have hunted があてられており、なぜ 「まもり」 となったのか不明。あるいは 「狩り」 と 「守り」 が編集時や印刷時に取り違えられたのかもしれないが、いずれにせよ支持すべき理由はない。
[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]についても同様で、「大きなマスチフ犬」 を 「巨大な猛犬」((山根 [1988] p.180))と訳すことの是非 (マスチフ犬は番犬や闘犬に用いられるが、一般に性格は穏和とされる) を除けば、意訳として許容範囲内だろう。
*信奉者側の見解
[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、クロムウェル時代のイングランドをめぐる情勢と解釈した。追い出されるマスチフ犬は (処刑された) イングランド王の隠喩で、「狼と熊」はフランスとスイス (またはサヴォワ) を指すとした((Garencieres [1672]))。
[[アンリ・トルネ=シャヴィニー]](1860年)は、マスチフ犬をルイ=フィリップの隠喩として、フランスの七月王政と解釈した。共和派とオルレアニスト (狼と熊) が一致してブルボン朝のシャルル10世 (牡鹿) を追い出したまでは良かったものの、直後から相互に不審を抱いた状況が後半の描写なのだという((Torné-Chavigny [1860] pp.35-36))。
[[アナトール・ル・ペルチエ]](1867年)はマスチフ犬をボルドー公 (シャルル10世の孫。いわゆるシャンボール伯アンリ)、牡鹿をシャルル10世、狼をルイ=フィリップ、熊を共和派とするなど、比喩の解釈に違いはあるが、やはり七月革命と解釈した((Le Pelletier [1867a] pp.240-241))。ル・ペルチエの読み方は[[チャールズ・ウォード]](1891年)にも引き継がれた((Ward [1891] pp.328-329))。
[[アンドレ・ラモン]](1943年)はマスチフ犬を英国、牡鹿をポーランド、狼をドイツ、熊をロシアの隠喩と見なし、第二次世界大戦の予言と解釈した((Lamont [1943] p.197))。
*同時代的な視点
[[ロジェ・プレヴォ]]は[[リミニ]]の暴君パンドルフォ・マラテスタ (Pandolfo Malatesta) がモデルではないかと推測した。マラテスタ家は13世紀以来リミニに君臨していたが、16世紀初頭に逐われた。1522年に一度返り咲いたものの、教皇クレメンス7世によって1528年に再追放された。動物への喩えは、当時のマキァヴェッリの著作に見出されるという((Prévost [1999] pp.126-127))。マラテスタとする読み方は、[[ピーター・ラメジャラー]]が支持している((Lemesurier [2010]))。
なお、ラメジャラーはかつて『[[ミラビリス・リベル]]』に収録された聖ビルギッタの予言との関連性を指摘していたが、[[ジャン=ポール・クレベール]]も同様の指摘をしていた((Lemesurier [2003b], Clébert [2003]))。
クレベールのフランス語訳に従って、該当する部分を抜粋すると以下の通りである。
「教会は荒れ果てていた。戦士たちに近づく狼と熊が指揮棒を持ち去った。恐るべき時が近づいていた。熊はケルンの教会を引き裂きに行ったし、別の教会の敵である狼は兵糧を奪うべくトリーアへと上京した」。
なお、クレベールは『ミラビリス・リベル』に収録された節のもととなった長文を、1524年に刊行された聖ビルギッタの予言集からも抜粋しているが、やはりケルンやトリーアが舞台となっている。
もしも直接的に聖ビルギッタがモデルになっているのだとすれば、プレヴォのようにリミニと読むことは妥当ではないかもしれない。逆に言えば、そういう直接的な出典が見付からない限り、固有名詞の登場しない曖昧なシンボルなど、現に信奉者側の解釈が論者によってまちまちなように、どのようにでも解釈できてしまうだろう。
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- 1-2行は国際連盟(大きなマスチフ犬)から脱退した日本を指す。 1933年、日と独が連盟から脱退、1937年に伊も脱退。日本は独と並んで枢軸国の代表だった。 牡鹿は後にシナ大陸から追放された中国国民党軍、3行は国共合作(1937~1945年)の後を表している。狼は伊、熊は露、両国は独に不信感を抱いた。後者は独ソ不可侵条約の破棄で。 -- とある信奉者 (2013-04-17 21:31:14)
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