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[[百詩篇第8巻]]>86番
*原文
Par Arnani&sup(){1} tholoser&sup(){2} ville franque&sup(){3},
Bande infinie par le mont&sup(){4} Adrian,
Passe riuiere&sup(){5}, Hurin&sup(){6} par pont la planque
Bayonne&sup(){7} entrer tous [[Bihoro]]&sup(){8} criant.
**異文
(1) Arnani : arnani 1605 1649Xa, Harnani 1611B 1981EB
(2) tholoser : Tholoser 1605 1611 1628 1649Ca 1649Xa 1650Le 1653 1665 1668 1772Ri 1840 1981EB, Tholose 1672
(3) ville franque : ville-franque 1590Ro, isle franque 1600 1610 1644 1650Ri 1716, Ville Franque 1605 1611 1628 1649Ca 1649Xa 1650Le 1668 1981EB, ville frenque 1653 1665, & Villefranque 1672
(4) mont : mort 1653, Mont 1672
(5) riuiere : Riviere 1672
(6) Hurin 1568 1590Ro 1653 1665 1772Ri : Hutin &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : hutin 1672)
(7) Bayonne : Bayone 1772Ri
(8) Bihoro 1568 1653 1665 : Bichoro &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : bihoro 1590Ro)
(注記)1627 の1行目で tholoser ville の部分は tholoseriste と綴られている。他の版には見られない区切り方と表記のため、上で統一的には扱えなかったので、ここに別記しておく。
**校訂
特に1行目の地名については、いくつかの誤記の可能性が考えられる。ただし、いずれもスペイン語圏の地名の可能性が高く、転訛の影響や、フランス語圏の地名との区別のためにあえて異なる綴りで示した可能性なども考慮する必要があるだろうから、どう直すべきかは難しい。とりあえず Arnani を Ernani (Hernani) と直すことは問題ないように思われる。
3行目 Hurin は従来、のちの異文にあるように Hutin (古フランス語で「戦い」)の誤記と見なされることが多かったが、[[ジャン=ポール・クレベール]]は文脈からは Irún と見るべきと提案し、[[ピーター・ラメジャラー]]も2010年にはその読み方を採用した。
*日本語訳
エルナニ、トローサ、ビジャフランカを通り、
数えきれない一団がアドリアンの山を越え、
イルンにて板張りの橋で川を渡る。
全員が 「[[ビゴール]]へ」と叫んで[[バイヨンヌ]]に入る。
**訳について
1行目の固有名詞の読み方については、[[エドガー・レオニ]]、[[ロジェ・プレヴォ]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[リチャード・シーバース]]らが一致しているので、それに従った。
2行目 le mont Adrian については、レオニがシエラ・デ・サン・アドリアン (Sierra de San Adrian) と訳し、1行目の近隣の山の名前と位置付けており、ラメジャラー、シーバースもシエラ・サン・アドリアン (Sierra San Adrian)、[[ロジェ・プレヴォ]]はモンテ・サン・アドリアン (Monte San Adrian) としているが、当「大事典」では確認できていない地名であり、クレベールも特定できていなかったようなので、ここではとりあえず直訳した。
3行目は校訂の節で述べた理由によって、Hurin をイルンと見なして訳している。
4行目 [[Bihoro]] についてはいくつかの訳がありうるが、とりあえずラメジャラーの読みに従った。
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。前半は例によって固有名詞の読み方に疑問があるが、構文理解上の問題は見受けられない。
3行目 「川を越え 橋と板材で騒がしく」 ((大乗 [1975] p.251。以下、この詩の引用は同じページから。))は、pont la planque を別々に捉えるのが疑問である。
4行目 「みながベイヨンヌにビューローをさけびながら」 は、entrer (入る) がきちんと訳に反映されていない。[[Bihoro]]はロバーツ本ではBichoro となっているが、「ビューロー」というのは明らかに的外れな表記である。あるいは 「ビコーロー」 とでも表記されるはずだったものの誤植だろうか。
[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。
1行目 「エマニ トローサ ヴィルフランシュから」 ((山根 [1988] p.279 。以下、この詩の引用は同じページから。))の「エマニ」(Emani) は元になった[[エリカ・チータム]]の英訳に忠実な表記だが、明らかにエルナニ (Ernani) の誤植だろう。ただし、[[チータムの最終版>The Final Prophecies of Nostradamus]]でも直されていない。また、解説部分では1行目に挙げられている地名がすべてスペインのものだと明記されているので、「ヴィルフランシュ」というフランス式表記を採るべき理由もない。
3行目 「川を渡り 橋際の隠れ家で戦う」 は planque の現代語訳としては「隠れ家」で正しい。しかし、[[ジャン=ポール・クレベール]]や[[マリニー・ローズ]]が planche (板) と同一視し、[[ピーター・ラメジャラー]]も pont la planque を wooden bridge と英訳していることから、当「大事典」では 「板張りの橋」とした。
4行目 「鬨の声をあげ 全員バイヨンヌに攻めこむ」 は、[[Bihoro]]の訳し方によっては成立する。
*信奉者側の見解
[[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、1行目の地名はすべてフランスのラングドック地方のものとした上で、喧騒とともに町と山を越えた群集がバイヨンヌに流れ込んでくる予言と解釈した((Garencieres [1672]))。
その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。
[[セルジュ・ユタン]](Serge Hutin) は、1978年の時点ではナポレオンの敗北後にスペイン軍やイギリス軍が南仏に侵攻したことの予言としていたが、1981年には E.T.A. (バスク人の民族主義的運動組織) によるテロ事件が第三次世界大戦につながる可能性を示す解釈に差し替え、Hutin という単語については「ノストラダムスはその解釈者たちの一人の名前を提示したとも考えられるだろう」((Hutin [1981] p.68))などと、暗に自分の名前が予言されていると仄めかしていた。この仄めかしは[[ボードワン・ボンセルジャン]]の補訂でも堅持されたが、解釈内容自体はバスクの民族団体のテロが核戦争を起こす可能性に否定的なものになっている((Hutin (2002)[2003] p.76))。
[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は、第三次世界大戦の一場面として、イタリアからのフランス南西部への侵攻の描写と解釈した((Fontbrune (1980)[1982]))。
*同時代的な視点
[[ロジェ・プレヴォ]]は、[[百詩篇第8巻48番]]とともに、1562年にガスコーニュからの移民がスペインに多く流入したことがモデルになっていると推測した((Prévost [1999] p.108))。
[[ジャン=ポール・クレベール]]は、具体的なモデルは特定していないが、スペインからフランス南西部への行軍の描写と解釈した。2行目のモン・アドリアンについては、位置が特定できないとして、1522年から1574年にバイヨンヌの広場を軍事的に支配していた傭兵がアドリアン・ダプルモン (Adrian d’Aspremont) なる人物であったことを紹介した((Clébert [2003]))。
[[ピーター・ラメジャラー]]は出典未特定としている((Lemesurier [2010]))。
モチーフについては議論の余地があるにせよ、地名がかなり狭い範囲に集中しているのは紛れもない事実であり、16世紀以前のローカルな事件だったとしても不思議はない。
#ref(IRUN.PNG)
【画像】 関連地図。ビゴールは中心都市のタルブで示した。また、ビジャフランカは該当都市が多く存在するが、プレヴォもクレベールもビジャフランカ・デ・オリア (現オルディシア) と推定しているので、ここでもそれに従った。実際、地理的位置関係からすると、その推測は妥当なものだろうと考えられる。
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[[詩百篇第8巻]]>86番*
*原文
Par Arnani&sup(){1} tholoser&sup(){2} ville franque&sup(){3},
Bande infinie par le mont&sup(){4} Adrian,
Passe riuiere&sup(){5}, Hurin&sup(){6} par pont&sup(){7} la planque
Bayonne&sup(){8} entrer tous&sup(){9} [[Bihoro]]&sup(){10} criant.
**異文
(1) Arnani : arnani 1605sn 1649Xa, Harnani 1611B 1981EB
(2) tholoser : Tholoser 1605sn 1611 1628dR 1649Ca 1649Xa 1650Le 1653AB 1665Ba 1667Wi 1668 1720To 1772Ri 1840 1981EB, Tholose 1672Ga
(3) ville franque : ville-franque 1590Ro, isle franque 1606PR 1607PR 1610Po 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1716PR, Ville Franque 1605sn 1611 1628dR 1649Ca 1649Xa 1650Le 1667Wi 1668 1981EB, ville frenque 1653AB 1665Ba, & Villefranque 1672Ga
(4) mont : mort 1653AB, Mont 1650Mo 1672Ga
(5) riuiere : Riviere 1672Ga
(6) Hurin 1568 1590Ro 1653AB 1665Ba 1720To 1772Ri : Hutin 1591BR & &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : hutin 1672Ga)
(7) par pont : par pour 1665Ba 1720To
(8) Bayonne : Bayone 1772Ri
(9) entrer tous : entrerons 1650Mo
(10) Bihoro 1568 1653AB 1665Ba : Bichoro 1591BR & &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : bihoro 1590Ro)
(注記)1627Di の1行目で tholoser ville の部分は tholoseriste と綴られている。他の版には見られない区切り方と表記のため、上で統一的には扱えなかったので、ここに別記しておく。
**校訂
特に1行目の地名については、いくつかの誤記の可能性が考えられる。
ただし、いずれもスペイン語圏の地名の可能性が高く、転訛の影響や、フランス語圏の地名との区別のためにあえて異なる綴りで示した可能性なども考慮する必要があるだろうから、どう直すべきかは難しい。とりあえず Arnani を Ernani (Hernani) と直すことは問題ないように思われる。
3行目 Hurin は従来、のちの異文にあるように Hutin (古フランス語で「戦い」)の誤記と見なされることが多かったが、[[ジャン=ポール・クレベール]]は文脈からは Irún と見るべきと提案し、[[ピーター・ラメジャラー]]も2010年にはその読み方を採用した。
*日本語訳
エルナニ、トローサ、ビジャフランカを通り、
数えきれない一団がアドリアンの山を越え、
イルンにて板張りの橋で川を渡る。
全員が 「[[ビゴール]]へ」と叫んで[[バイヨンヌ]]に入る。
**訳について
1行目の固有名詞の読み方については、[[エドガー・レオニ]]、[[ロジェ・プレヴォ]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[リチャード・シーバース]]らが一致しているので、それに従った。
2行目 le mont Adrian については、レオニがシエラ・デ・サン・アドリアン (Sierra de San Adrian) と訳し、1行目の近隣の山の名前と位置付けており、ラメジャラー、シーバースもシエラ・サン・アドリアン (Sierra San Adrian)、[[ロジェ・プレヴォ]]はモンテ・サン・アドリアン (Monte San Adrian) としているが、当「大事典」では確認できていない地名であり、クレベールも特定できていなかったようなので、ここではとりあえず直訳した。
3行目は校訂の節で述べた理由によって、Hurin をイルンと見なして訳している。
4行目 [[Bihoro]] についてはいくつかの訳がありうるが、とりあえずラメジャラーの読みに従った。
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。前半は例によって固有名詞の読み方に疑問があるが、構文理解上の問題は見受けられない。
3行目 「川を越え 橋と板材で騒がしく」 ((大乗 [1975] p.251。以下、この詩の引用は同じページから。))は、pont la planque を別々に捉えるのが疑問である。
4行目 「みながベイヨンヌにビューローをさけびながら」 は、entrer (入る) がきちんと訳に反映されていない。[[Bihoro]]はロバーツ本ではBichoro となっているが、「ビューロー」というのは明らかに的外れな表記である。あるいは 「ビコーロー」 とでも表記されるはずだったものの誤植だろうか。
[[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。
1行目 「エマニ トローサ ヴィルフランシュから」 ((山根 [1988] p.279 。以下、この詩の引用は同じページから。))の「エマニ」(Emani) は元になった[[エリカ・チータム]]の英訳に忠実な表記だが、明らかにエルナニ (Ernani) の誤植だろう。ただし、[[チータムの最終版>The Final Prophecies of Nostradamus]]でも直されていない。また、解説部分では1行目に挙げられている地名がすべてスペインのものだと明記されているので、「ヴィルフランシュ」というフランス式表記を採るべき理由もない。
3行目 「川を渡り 橋際の隠れ家で戦う」 は planque の現代語訳としては「隠れ家」で正しい。しかし、[[ジャン=ポール・クレベール]]や[[マリニー・ローズ]]が planche (板) と同一視し、[[ピーター・ラメジャラー]]も pont la planque を wooden bridge と英訳していることから、当「大事典」では 「板張りの橋」とした。
4行目 「鬨の声をあげ 全員バイヨンヌに攻めこむ」 は、[[Bihoro]]の訳し方によっては成立する。
*信奉者側の見解
[[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、1行目の地名はすべてフランスのラングドック地方のものとした上で、喧騒とともに町と山を越えた群集がバイヨンヌに流れ込んでくる予言と解釈した((Garencieres [1672]))。
その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。
[[セルジュ・ユタン]](Serge Hutin) は、1978年の時点ではナポレオンの敗北後にスペイン軍やイギリス軍が南仏に侵攻したことの予言としていたが、1981年には E.T.A. (バスク人の民族主義的運動組織) によるテロ事件が第三次世界大戦につながる可能性を示す解釈に差し替えた。
なお、Hutin(ユタン) という単語については「ノストラダムスが、その解釈者たちの一人の名前を提示したとも考えられるだろう」((Hutin [1981] p.68))などと、暗に自分の名前が予言されていると仄めかしていた。
この仄めかしは[[ボードワン・ボンセルジャン]]の補訂でも堅持されたが、解釈内容自体はバスクの民族団体のテロが核戦争を起こす可能性に否定的なものになっている((Hutin (2002)[2003] p.76))。
[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は、第三次世界大戦の一場面として、イタリアからのフランス南西部への侵攻の描写と解釈した((Fontbrune (1980)[1982]))。
*同時代的な視点
[[ロジェ・プレヴォ]]は、[[詩百篇第8巻48番]]とともに、1562年にガスコーニュからの移民がスペインに多く流入したことがモデルになっていると推測した((Prévost [1999] p.108))。
[[ジャン=ポール・クレベール]]は、具体的なモデルは特定していないが、スペインからフランス南西部への行軍の描写と解釈した。
2行目のモン・アドリアンについては、位置が特定できないとして、1522年から1574年にバイヨンヌの広場を軍事的に支配していた傭兵がアドリアン・ダプルモン (Adrian d’Aspremont) なる人物であったことを紹介した((Clébert [2003]))。
[[ピーター・ラメジャラー]]は出典未特定としている((Lemesurier [2010]))。
モチーフについては議論の余地があるにせよ、地名がかなり狭い範囲に集中しているのは紛れもない事実であり、16世紀以前のローカルな事件だったとしても不思議はない。
#ref(IRUN.PNG)
【画像】 関連地図。ビゴールは中心都市のタルブで示した。また、ビジャフランカは該当都市が多く存在するが、プレヴォもクレベールもビジャフランカ・デ・オリア (現オルディシア) と推定しているので、ここでもそれに従った。実際、地理的位置関係からすると、その推測は妥当なものだろうと考えられる。
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