『ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言』の伝記

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 このページでは、匿名の著者による文献 &bold(){『[[ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言>La vie et le testament de Michel Nostradamus]]』(1789年)の前半部分(伝記)の全訳}を提供する予定である。完成時期未定。  以下に全訳を示す。節自体は原書のままだが、原書には節ごとの見出しも、節の中での段落分けも一切ない。見出しの作成および段落分けは、当「大事典」の判断で適宜行なった。  また、訳と注記を見比べやすいように、ひとつの節をa, b, c などで区切った場合がある。 *第1節 はじめに  私がその生涯を記すミシェル・ノストラダーム (Michel Nostradame) は、その精神の優れた点を深く知りたいと考えた人々を大いに驚倒させた稀有なる人士の一人であった。それゆえに彼を占い師 (devin) とか予言者 (prophete) と呼ぶ人もいたし、魔術師 (magicien) と呼ぶ人々もいた。魔術師呼ばわりした人々は、高貴な人々を魔術の責めから守ろうと考えるあまり、それらの驚くべき天賦の本質を理解することができずに、ノストラダムスを軽率な馬鹿者 (ignorant téméraire)、ペテン師 (charlatan)、さらには虚妄の怪物 (monstre d'abus) などとして扱った。  私はここで、一人の高名なる人物 〔=ノストラダムス〕 を生み出した国民の名誉のために、可能な限りの正確さを尽くして、彼の生涯について語ることとする。彼についての記憶を汚したいと考えた人々の中傷に対し、その潔白を証明する上で、それ以上の釈明は必要としない。すべてありのままの真実を披露することは、いつだって、虚言や錯誤から来る悪意やいかがわしさを一掃する妙手を講ずるよりも有効なのである。 **第1節注記  伝記の前置きに当たる説明だが、この部分はエーツの『[[ノストラダムスの生涯>La Vie de Nostradamus (Haitze)]]』第1節の丸写しである。  その正当性を高らかに宣言した序言が、すでに他者からの剽窃という時点で、この文献を無批判に信じることがいかに危ういか、よく分かるのではないだろうか。 *第2節a 出自と天賦の才能  ノストラダームはプロヴァンス出身であり、ピトンはそのプロヴァンスの歴史家たちの批評で正反対のことを述べたがっていたが、高貴な家柄であった。その一族は新改宗者であったので、その地方で1512年に家柄に応じて課された有名な税金の対象者に含まれた。彼らは 〔その課税に関する記録の〕 サン=レミ市に住む人々の条項に見出せる。  その一族はイサカル族に連なる。イサカル族は、その特に広く知られている人々については、時に関する知恵を天から授かったことで有名である。  ノストラダームも自らの家柄を知らぬはずはなく、『歴代誌・上』第12章32節にある言葉を誇示しつつ、誇っていた。そこにはこうある。「イサカル族の者たちは、あらゆる時を認識し、識別する能力に長けていた」 **第2節a注記  この部分も引き続きエーツの伝記の丸写しで、わずかな綴りの揺れを除けば、見事に一致する。  「ピトン」は、おそらく17世紀プロヴァンスの歴史家ジャン・スコラスティック・ピトン (Jean Scholastique Pitton) であろうと思われるが、当「大事典」はピトンの評伝を未確認のため、ノストラダムスの一族をどのように位置づけていたのか分からない。  ノストラダムス家が1512年の課税対象だったことは事実である。後年、これを誤読して、ノストラダムス家が1512年に改宗したと勘違いする輩が多く現れたが、実際には15世紀のうちに改宗は終わっている((竹下 [1998] pp.49-51))。  イサカル族(イッサカル族)に先祖を求める説は、おそらくエーツの伝記が初出ではないかと思われる。扉の引用句についてのコメントとも関連するが、ことさらに予言的な才能を受け継いだかのように粉飾する事例の一つだろう。  現代の実証的な伝記において遡れる先祖はせいぜい13世紀までだが((Tronc de Coudoulet / Benazra [2001]))、なんら特殊な一族ではない。また、ノストラダムスがイサカル族の末裔であったと誇っていた事実は、当「大事典」では確認していない。 *第2節b 小さな占星術師  ノストラダームに分別が備わるようになるやいなや、興味を持った小さな疑問の数々に裁断を下してしまっていただろうと考えるだけの理由が、我々にはある。その 〔理由となるエピソードの〕 中でも特に、ある晩、彼が若い仲間たちと散歩していたときのこと。その仲間たちは、賢人たちが彷徨う星々 (astres errans) と呼んでいた、空中で尾を引く火を見たときに、星が空から離れてしまうと考えたが、彼 〔=ノストラダムス〕 はその誤りを正した。彼は仲間たちに、あれは鞴 (ふいご) が石炭を燃やすように、風で燃えた硫黄の臭気であり、火矢のようなものと大差がないのだと教えた。  また彼は仲間たちに、雲は無知な庶民が考えるようにポンプで海水を汲み上げたものではなく、霧のときに見られるような水蒸気の集まりなのだと教えた。さらに彼は、世界が球体のように丸く、太陽が沈んで見えなくなっても、もう一方の半球を照らしているとも、彼らに告げた。彼はとても頻繁に、非常に喜んで大気現象や星々について語ったので、小さな占星術師 (le petit astrologue) と呼ばれるようになった。 **第2節b注記  第2節の中では、この b のみがエーツの丸写しではない。言い換えると、[[ミシェル=クロード・トゥシャール]]による伝記などでも引用され((トゥシャール (1987)[1998] p.45))、日本でも相応に知られていると思われる 「小さな占星術師」 のエピソードは、エーツの丸写しの中に、唐突に、かつ何の裏づけもなしに紛れ込んだものなのである。  現代の実証的な研究でもノストラダムスの少年期については、何の史料も発見されていない。その状況で、この何の裏づけもないエピソードを史実と信ずべき理由は何もない。  なお、「彷徨う星々」は語源的に考えるなら惑星のことだが、文脈からするならば、おそらく彗星を指している。  しかし、彗星が大気の上層で燃える存在という見解は、アリストテレスが提唱したものであり、古くからよく知られたものであった。この定説を覆したのはティコ・ブラーエたちで、ノストラダムスの死から10年ほど経った1577年の大彗星の観測時に、視差を利用して、彗星が惑星群と同等の距離にあることを算定していた((アジモフ『ハレー彗星ガイド』社会思想社、pp.22-26))。  この伝記が書かれた1789年という時期は、1758年から59年にエドモンド・ハレーの予言どおりに彗星が回帰し、その周期性が確実視された30年も後にあたっている。その時期に何故、ノストラダムスの天体知識の正確性の証明として、アリストテレス的な彗星観が持ち出されたのか、不可解というほかはない。  また、SF作家の[[山本弘]]も指摘するように(([[ノストラダムスは地動説を知っていた?>>http://homepage3.nifty.com/hirorin/nostracolumn.htm#chidosetsu]]))、世界球体説と地動説 (太陽中心説) はイコールではない。コロンブスやマゼランの航海から明らかなように、当時の人々にとって地球が球体であるという見解は、決して特異なものではなかったのである。コペルニクスの見解が革命的だったのは、地球が丸いと主張したからではなく、宇宙の中心が地球でなかったと示したことにある((中山茂『西洋占星術』講談社現代新書、p.154-))。 *第2節c 2人の祖父  ノストラダムスの出生地は[[サン=レミ>サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の町で、その誕生は1503年12月14日正午、時の国王はルイ12世、ローマ教皇はユリウス2世であった。  父は[[ジャック・ド・ノストラダーム>ジョーム・ド・ノートルダム]]、母は[[ルネ・ド・サン=レミ>レニエール・ド・サン=レミ]]である。このジャック・ド・ノストラダームは公証人で、それはその権威によって当初からそうであったように、当時の栄誉ある職業であった。現在と違い、それに就くことで貴族の資格を喪失することがなかったので、貴族の家に生まれてさえも、軍職に就いていない次男以下の者が公証人となるのは難しかったのである。  ミシェル・ノストラダームは生を享けた時点で、父方についても母方についても、医学とマテマティカで高名な人物の孫となる恩恵を得ていた。その祖父の一人、[[ピエール・ド・ノストラダムス>ピエール・ド・ノートルダム]] (Pierre de Nostradamus) はプロヴァンス伯ルネ王の侍医に任ぜられており、もう一方の[[ジャン・ド・サン=レミ]]は、ルネ王の息子であるカラブリア公爵の侍医であった。それらの優れた職務に就いていても、彼らが富裕になったわけではないし、彼らは黄金の誘惑にも耐えうる誠実な人々でもあった。彼らはただ、一族に対する幾らかの敬意を勝ち取っただけである。それは物財との対比で言えば、栄誉の面においてであり、それが彼らをサン=レミ市で一番の名士たちと見なさせた。そこに、この2人の賢者は、賢明さを生み出す主への健全なる畏敬に由来する、素行の面での非常な実直さを付け加えたのである。 **第2節c注記  再びエーツの伝記の丸写しに戻っている。  ノストラダムスが12月14日正午の誕生とする説は、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の伝記が最初であろうが、実証的に確実視されているのは日付までで、「正午」 には確たる裏づけがない。  当「大事典」は16世紀フランスにおける公証人の社会的地位について調査ができておらず、この伝記が言うような高い地位だったのかは断言できない。しかし、ノストラダムス家がなんら高貴な家柄ではなく、そのような家柄からジョーム (ジャック) が公証人になれたという事実、そして、彼が貴族の代役を務めただけで貴族を自称するなど、経歴の粉飾をしていた事実からすれば、ジョームのコンプレックスを払拭できるほどの誇らしい職業ではなかったのだろう (以上の考察は、現代の公証人の地位に対する評価を微塵も含まない。誤解のなきよう)。  マテマティカ (mathématiques) は現代ではもちろん 「数学」 の意味だが、かつては 「占星術」 の意味もあった。そして、文脈からすると、後者の意味なのではないかとも思えるので、カタカナで表記した。  [[ピエール・ド・ノートルダム]]は確かに父方の祖父だが、カラブリア公の侍医という話は、[[ジャン・ド・ノートルダム]]が言い出し、[[セザール・ド・ノートルダム]]が引き継いだ粉飾にすぎない((Leroy [1993] pp.7-8))。実際のピエールは商業と貸金業を営んでいた。  [[ジャン・ド・サン=レミ]]は母方の祖父ではなく曽祖父である。祖父とする誤りは[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]もやっていた。ジャン・ド・サン=レミは町の名士だったが、ルネ王の侍医だったわけではない。 *第3節a 祖父との別れ  彼らのうちの一人、母方の祖父は、孫であるミシェル・ノストラダームを可愛がりたいという自然な気持ちから、その教育の面倒を見てやりたいと考えた。そして、孫を育てつつ、天の学問、すなわちマテマティカと天文学の最初の手ほどきをした。その祖父が亡くなると、父親は人文学と修辞学を修めさせるために、彼 〔=ノストラダムス〕 を[[アヴィニョン]]へ送った。 **第3節a注記  この節も基本的にエーツの丸写しで、単語レベルでの些細な表現の違いがごくわずかに見られる程度である。そして、学んだものについて、エーツは 「人文学と哲学」 としていた (後で見るように、1789年の伝記は哲学を別扱いしている)。  母方の[[ジャン・ド・サン=レミ]]が祖父でなく曽祖父というのは前述の通りである。彼は1504年、すなわちノストラダムスの生まれた翌年に死んでいた可能性が非常に高いため((cf. Tronc de Coudoulet / Benazra [2001] tableau 5))、教育を施せたとは考えられない。  アヴィニョン大学で学んだらしいことは実証的な研究でも一応支持されているが、史料があるわけでないので、送られた経緯については不明というほかない。 *第3節b アヴィニョンでの学生生活  彼はその地で目覚しい成長を遂げた。彼は大変に恵まれた記憶力を持ち、暗記課題をたった一度読んだだけで、一語一句違えずに暗唱できた。学んだことは何一つとして決して忘れないと断言されていた。Memoriâ penè divinâ praeditus erat と 『ヤヌス・ガリクス』 には書かれている。彼はまた、あまりにも確固たる判断力と、あまりにも優れた洞察力を備えていたので、物事を理解する上で困難に突き当たることはまったくなかった。同じ 〔『ヤヌス・ガリクス』の〕 著者は、彼 〔=ノストラダムス〕 が、陽気で、冗談や風刺が好きであったことも請け合っている。すなわち、laetus, facetus, estque mordax と。  アヴィニョンで人文学 (les humanités) と修辞学を修めた後、彼はその地で哲学の研究を始めた。すぐさま彼はその学問でもある水準まで抜きん出たので、その教師は、彼への配慮を残しつつも、難しい事柄を生徒たちに説明させる面倒を、しばしば彼に押し付けた。私はあえて言ってしまうが、〔そうして押しつけられた〕 ミシェル・ノストラダームのほうが、教師よりも生徒たちをうまく伸ばしてやれていた。そして、その時においても原則として彼が語るのをやめられなかった事柄は、宇宙の仕組み (le systême[&italic(){sic.}] des cieux) や星々の現象についてであった。 **第3節b注記  この部分はエーツの伝記にはなく、1789年の著者が勝手に挿入したものである。  シャヴィニーの『ヤヌス・ガリクス』 (『ヤヌス・フランソワ第一の顔』) にはこうある (1789年の伝記ではラテン語版から引用されているが、当「大事典」ではフランス語版から訳出する)。 「精神に関しては、活発で良質なものを持っており、彼が望むことは全て軽々と理解できた。判断は緻密で、記憶力には驚くほど恵まれていた。無口な性格のため、熟慮しつつもほとんど口を開かなかったが、時と場合に応じて良く喋った。残りの点としては、彼は用心深く、迅速・性急で、怒りやすかったが、仕事には忍耐強かった。  彼は4、5時間しか眠らなかった。言論の自由を愛して称賛し、陽気な性格で冗談が好きだったので、笑いながら辛辣なことも言った」  さすがに1回見ただけのものを一言一句違わずに暗記できるなどとは書かれておらず、1789年の著者は、明らかに誇張している。しかも、シャヴィニーの証言はあくまでも晩年のノストラダムスについてのものであって、学生時代にそうだったなどとは一言も述べていない。   興味深いのは、[[五島勉]]などが顕著であったように、現代の解釈者にはこの時期に試験問題を予知したなどというような、『予言者的』 なエピソードを述べたがる傾向があるが、かなりの誇張や創作を含むと思われる1789年の伝記でさえ、そのようなエピソードを挿入していないということである。  学生時代に哲学 (天体についても講義したように書かれているので、現代の Ph.D.を必ずしも「哲学博士」とは訳さないように、「高度な学術」「文理学」などと訳す方が分かりやすいかもしれない。むろん、「哲学」は、本来自然学も含む広い学問対象についての訳語ではあるのだが) の教師の代わりを務めたというのも、まったく裏づけがない。繰り返すが、アヴィニョン大学在学を確実に裏付けられる史料は何一つ見つかっていないのだ。 *第3節c モンペリエ大学への二度の入学  その天賦の才が彼を医学の知識へと導いたので、その学問を修めるためにモンペリエへと赴いた。彼はそこでも十分に大きな進歩を遂げたが、その町をペストが突然襲った。ペストはまだアスクレピオスに捧げられていなかった 〔=有効な治療法が確立されていなかった〕 ため、彼は[[トゥールーズ]]や[[ボルドー]]の周辺へ赴くために、町を去った。彼はそれらの街区にあっても、医学、とりわけ植物の効用を知る分野の研究を止めてしまおうなどとは思っていなかったが、病気を扱った知識を、実際の治療に活かすことへと踏み切った。彼はそのとき22歳にしかなっていなかったし、まだ博士号取得者 (docteur) になっていなかった。ガロンヌ川沿いを巡り歩いた4年間を経て、彼はその学問 〔=医学〕 に元々魅かれていた気持ちが叶ったことを打ち明けつつ、その研究を一層鍛え上げ、博士号を取得するために、モンペリエへと舞い戻った。そのとき26歳だった彼は、大学中の賞賛と拍手喝采に迎えられた。 **第3節c注記  この部分は再びエーツのほぼ丸写しで、綴りの揺れや文章の区切り方を除けば、全く同じである。  そして、そのエーツの記述自体が、ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの伝記を元に少し膨らませたものであって、基本的な事実関係は一致している。しかし、姉妹サイトのコンテンツ「[[シャヴィニーによるノストラダムスの伝記>>http://www.geocities.jp/nostradamuszakkicho/shougen/discours.htm]]」で指摘したように、ノストラダムスのモンペリエ大学入学は1529年10月23日のことで、それ以前の入学は実証されていない。  また、シャヴィニーの証言以上に大げさになっているのは、再入学の時点で大学中の歓迎を受けたことになっている点である。現実には、生涯最初の入学であった1529年の時点で大学を挙げての大歓迎を受けるような理由が、無名の「薬剤師」 ノストラダムスにあったはずがない。  他方で、シャヴィニーを土台にした結果、17世紀以来現れていた、モンペリエ大学で講義をしたという話は採用されていない。アヴィニョン大学で教師の代わりを務めたという珍しい話を採用しておきながら、モンペリエの方を採用していないというのは面白い。   *第4節a スカリジェとの邂逅  その資格 〔=医学博士号〕 を得て、二度目の旅行で一切の制約なしに 〔医学的な〕 実践をできるようになった時、彼は、かつて結んだ交誼に引き寄せられたものか、医学で得た知見を見せつけることに強い喜びを抱いたものか、医学的実践を始めたときと同じ地域 〔=トゥールーズ、ボルドーやその周辺〕 に戻った。  彼は、詩人・医師・哲学者ジュール=セザール・ド・レスカール (Jules-César de l'Escale) のために[[アジャン]]に逗留し、この偉大な人物と緊密な友情を結んだ。  この人物はイタリアが生み、ドイツが育て、フランスが以下の墓碑に刻まれた四行詩を得る光栄に浴した。そこで私は、至高の天才であり、ノストラダムスが第一級と位置づけ、その友情を求めた人物についての情報を提供するために、その四行詩をぜひとも挿入しておきたい。 スカリジェの墓碑 (Epitaphe de Scaliger) Extulit Italia, eduxit Germania Juli, Ultima Scaligeri funera Gallus habet ; Hinc Phoebi dotes, hinc duri tobora Martis Reddere non potuit nobiliore loco.  ジャン=エーム・シャヴィニ (Jean-Aime Chavigni) がその著書 『フランスのヤヌス』(Janus François) に書いたことを信じなければならないのなら、その 〔ノストラダムスとスカリジェの〕 友情は長続きしなかった。その作家 〔=シャヴィニ〕 は、彼らの友情が敵対的なものに変わり、辛辣なことを書きあうようになり、彼 〔=スカリジェ〕 はつねに仲たがいした知識人たちの間でそうなったと断言している。  私は、ノストラダムスに関してはこう述べておく。彼の著作にはスカリジェ (Scaliger) への苛立ちを示すわずかな兆候も見出すどころではなく、むしろ逆に、彼を高く持ち上げ、古典古代の最も偉大な人々と並べて評価している、非常に有名な証言に出くわすのである。結局のところ、もし、その二人の間に何らかの不和があり、その痕跡が何か残っているのなら、それはノストラダムスにとって、美徳の面だけでなくそれが存する人物の面でも、彼が持つ自制心や配慮を際立たせることになっており、非常に優れた評価につながる、と。 **第4節a注記  この部分はほとんどがエーツの伝記の丸写しだが、ジュール・セザール・ド・レスカールについての説明部分 (イタリアが生み云々から墓碑の引用まで) は、1789年の伝記での加筆である。そもそもエーツの伝記では、上記レスカールの名前の初登場部分の 「詩人・医師・哲学者」 という肩書きすらなく、どういう人物なのか、文章からはまったく読み取れないようになっている。  なお、ジュール・セザール・ド・レスカールは、人文学者ジュール・セザール・スカリジェ (ユリウス・カエサル・スカリゲル) の異名。エーツの伝記でも、レスカールと呼ばれたり、スカリジェと呼ばれたり、呼称に統一性がない。  「ジャン=エーム・シャヴィニ」という綴りはエーツの伝記も同じ。ここで、1789年の著者が前書きに書いていた 「エドム・シャヴィニー」 が記憶違いの類ではなく、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]のほぼ正しい名前を認識した上での表記であったことがはっきりする。  なお、スカリジェとノストラダムスの仲に関するシャヴィニーの証言は以下の通り。 「彼らは非常に親しくなったが、しばらくすると極めて敵対的で辛辣な間柄になった。不和はこの博学者たちの間でしばしば起こったもので、彼らの書きものの中から拾い集めることができる」  しかし、エーツが書き、1789年の著者が引き写したように、ノストラダムスがスカリジェを批判した文書の存在は確認されておらず、それは現代の実証的研究でもそうである (逆に、スカリジェがノストラダムスを痛罵した作品は現存する)。その意味で、この不和がノストラダムスの自制心を際立たせているという評価は、妥当なものといえるだろう。 *第4節b 最初の結婚  アジャンでの滞在は、その町の最も気高い家柄に属するさる令嬢との結婚を、彼にもたらした。その結婚で、彼は二人の子どもをもうけたが、ほどなくして妻子とも亡くなった。結婚による 〔一箇所にとどまるという〕 苦痛から解放されたことから、彼は4年間住んだアジャンを離れ、自身が抱いていた旅をすることへの情熱を満足させる決意を固めた。その 〔放浪した〕 8年間のことは、彼の[[化粧品論>化粧品とジャム論]] (son Opuscule des fards) の序文で語られている。そのとき彼は、30歳にしかなっていなかった。 **第4節b注記  この節も、エーツの伝記で若干冗長だった表現が簡略化されているのを除けば、それのほぼ丸写しである。  この伝記の叙述が正しいと仮定した場合、ノストラダムス30歳ということは、1533年に放浪を始めたことになる。しかし、それまで4年間アジャンに滞在していたというのなら、1529年にモンペリエ大学に入学したノストラダムスにとって、博士号取得のための研究期間が消滅することになる。エーツや1789年の著者は、こうした矛盾を正しく認識できていたのだろうか。  現代の実証的研究でも、この時期の正確な足取りは分かっていない。[[エドガール・ルロワ]]がノストラダムスのアジャン滞在の開始を1533年ごろと位置づけていた一方((Leroy [1993] p.60))、1990年代にアジャンの[[アンリエット・ダンコス]]とノストラダムスの1531年の結婚契約書が発見されるなど((竹下 [1998] p.71))、アジャンの正確な滞在時期も期間も確定していない。  なお、放浪期間に関する 『化粧品とジャム論』 での仄めかしについては、後続の節で検討する。 *第5節 訪問先で出会った医師・薬剤師と彼らへの評価 {{作成中}} *第6節 白豚と黒豚の話  彼は予見する素質を持っていても、それを隠し続けていた。しかし、それは彼の内での火のような存在だった。それに灰をかぶせてはいたものの、時折そこから散る火の粉として現れるのをやめなかったのである。  それで彼は時折予言をすることがあり、それが効力を持った 〔=的中した〕 ために、彼は行く先々で尋常ならざる能力を持った人物であると見なされた。〔その能力とは〕 未来を見通す天賦だという人々もいたし、もっともらしい予言によって巧みに人々を欺く能力に過ぎないという人々もいた。彼は非常に熟達した医師と見なされてはいたが、ロレーヌ地方では[[フロランヴィルの領主]] (le seigneur de Florinville) が、予言の才能は第2の手法 〔=前記の2つの能力のうちの後者、つまり詐欺師の手口〕 に属するものと捉えた。  この領主は、妻に何らかの身体上の不具合があり、その発作(古傷)の治療をしてもらうために、自身のファンの城 (son château de Faim) にノストラダームを連れてきた。  ある日、こんなことが起こった。その貴族はその賓客 〔=ノストラダムス〕 とともに、自身の城の家禽飼育場 (basse-cour) を散歩し、予知 (présages) について雑談をしていたとき、彼らの前に、白と黒の2頭の小さな乳飲み豚が現れた。この2頭の動物を見て、フロランヴィルの領主はノストラダームに此奴らの運命はどうなるかと尋ねた。すると彼は、黒を彼 〔=ノストラダムス(原文は il) 〕 が食べ、白を狼が食べると即答した。  フロランヴィルの領主は、その予言者を嘘吐きに仕立てるのは自分の意向一つだと考え、料理人にこっそりと、白豚を殺して、彼の夕食に出すように命じた。その命令に従って、料理人は時間が来ると、白豚を殺し、下ごしらえをし、炙り焼きのために大串を刺した。しかし、厨房の外でしなければならないことをしていると、飼い馴らすために飼われていた仔狼がそこに入り込み、届く範囲に支度 〔のできていた白豚〕 を見つけると、一心不乱に食べた。料理人が戻ったときには、仔狼は後ろ2つ分のカルチエ 〔4分割した枝肉〕 を平らげていた。彼はこの事故に驚き、主人に叱責されることを恐れ、この失敗の穴埋めのために、すぐに黒豚をつかまえて殺し、支度をして、食卓に出した。  賓客たちが着座し、厨房で起こった事故のことなど何も知らないフロランヴィルの領主がノストラダームに勝ったことを確信して席につくと、彼 〔=ノストラダムス〕 に自信ありげに 「白豚はこれから食べられるところですから、狼は指一本触れられませんな」 と述べた。ノストラダームはそれに対し、「私はそうは思いません。食卓にのぼっているのは黒豚です」 と即答した。そのことへの確信が片時も揺らがなかったフロランヴィルの領主は、ノストラダームをやりこめるために、料理人に黒豚を連れてくるように命じた。しかし、料理人がやってきて、予言していたことにとって大いに栄誉となる2頭の仔豚の運命を明らかにすると、彼はたいそう驚いた。  この驚くべき一件は、あまりにも風変わりなものに思われたので、王国全土に広まった。そして、それが語られる町によって、舞台となった場所が変わることが起こったのである。 **第6節注記  この節もエーツの伝記のほぼ丸写しである。違うのはいくつかの細かい表現と、最後の部分が 「この驚くべき一件はファンの城だけにとどまっておらず、それがとても奇妙なものに思われたので、王国全土を駆け抜けた。そして (以下同じ)」 というやや冗長な文章になっていた程度である。  いわゆる 「白豚と黒豚の話」 である。その内容に関する検討は[[フロランヴィルの領主]]参照。    白豚と黒豚の話は[[1656年の伝記]]で初登場したものであり、ノストラダムスの時代に王国全土に広まっていたという事実はない。また、別の地方での固有名詞を変えた異伝の存在も確認されていない。  エーツは話の内容自体はほとんど変えていないが、それでも食卓に臨席した賓客が複数になっていること、黒豚を食べる予定者がノストラダムス一人とされていたことなど、細かい変更はある。前者の変更は、噂が広まっていたという主張の前提として、それを目撃した第三者がいないと辻褄が合わないからだろう。もともとは、1656年の伝記の作者がフロランヴィルの一族から聞いたことになっていたが、それでは事実かどうかわからない。しかし、その場に複数の人間がいて、彼らが広めたとなれば、話の信頼性は上がる。そういう観点からの修正であろうと考えられる。 *第7節a ノストラダムスの結婚  10年ないし12年、2度目に放浪した後、ノストラダームは郷里 〔=プロヴァンス地方〕 に戻り、マルセイユへと赴いたが、そこは常に人が多い都市 〔で、同業者も多くいる場所〕 なので、医師としての働き口が見つかるのだろうかと彼に思わせた。むしろ彼は成り上がろうとは考えていなかったので、プロヴァンスの友人たちは、彼が1544年ごろに赴いた[[サロン>サロン=ド=プロヴァンス]]で、良家の令嬢アンヌ・ポンス・ジュメルないしポンサール・ジュメル (Anne Ponce Jumelle, ou Ponssart Jumelle) との結婚を仲介した。結果、彼は彼女との間に6人の子どもを授かることになる。  この結婚を機に、ノストラダムスはその町に腰を落ち着けた。その立地が、彼をその地方 〔=プロヴァンス〕 の4大都市、エクス、[[アルル]]、マルセイユ、アヴィニョンの住民たちからほぼ等しく求められる範囲に置いたことも後押しとなった。  ある種の名声を得た人々は、政治と無関係ではいられず、〔人々から〕 求められざるをえない。その多くは、継続的に人目につくことを避けつつも、求められる範囲にうまく身を置く。というのは、不在は名声を高めることがないとしても、そのまま残してくれるからだ。何しろ、我々が経験から認識するように、ほぼ同じ価値の2つの物は、手許にないものの方が、常にもう一方よりも欲しくなるものだからである。仮に、評価がしばしば欲望から発し、人々は手許にないものしか求めないということを知らない 〔で、素直にとらえる〕 とすれば、隔離されることは、持たざるものの値打ちを高めると言われてきた。  実際、ノストラダムスは、サロンでの住居を定める間もなく、いくらかの距離を隔てても知られていたその名声のせいで、周辺の住民たちから求められ、そして数年の後にはエクスの人々から町を挙げて、その町を襲った接触感染症の治療に来るように求められたのである。それは1546年のことであった。 **第7節a注記  この節もエーツのほぼ丸写しだが、エーツはアンヌの名前を Anne Ponssart とだけ綴っており、「1544年ごろ」という時期指定もない。  ノストラダムスが[[アンヌ・ポンサルド]]と結婚し、6人の子ども (三男三女) をもうけることになるのは事実である。しかし、現存する結婚契約書は1547年11月11日付けとなっている。つまり、1789年の伝記は、エーツの丸写しの中に、なぜか明らかに誤った1544年という年を挿入しているのである (誤解のないように追記するが、エーツ自身、時系列的に間違っている ― 結婚の「数年後」を1546年としている ― ので、年を明記していなくとも、誤っていることに変わりはない)。  前節で述べたように[[フロランヴィルの領主]]とのエピソードも創作の疑いが極めて強く、1544年ごろのノストラダムスは、医師としても予言者としても名声を確立していたとは思えない。1547年にサロンに腰を落ち着けたのは、単に妻の居住地だったからというだけの話であろう。大都市から来る相談者に配慮をしたというのは、かなり疑わしい主張に思われる。  なお、1546年にエクスで雇われたのは事実だが、町を挙げてノストラダムスが希求されたというものであったかは疑わしい。これについては、次節でも触れる。 {{書きかけ}} ---- #comment
 このページでは、匿名の著者による文献 &bold(){『[[ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言>La vie et le testament de Michel Nostradamus]]』(1789年)の前半部分(伝記)の全訳}を提供する予定である。完成時期未定。  以下に全訳を示す。節自体は原書のままだが、原書には節ごとの見出しも、節の中での段落分けも一切ない。見出しの作成および段落分けは、当「大事典」の判断で適宜行なった。  また、訳と注記を見比べやすいように、ひとつの節をa, b, c などで区切った場合がある。 *第1節 はじめに  私がその生涯を記すミシェル・ノストラダーム (Michel Nostradame) は、その精神の優れた点を深く知りたいと考えた人々を大いに驚倒させた稀有なる人士の一人であった。それゆえに彼を占い師 (devin) とか予言者 (prophete) と呼ぶ人もいたし、魔術師 (magicien) と呼ぶ人々もいた。魔術師呼ばわりした人々は、高貴な人々を魔術の責めから守ろうと考えるあまり、それらの驚くべき天賦の本質を理解することができずに、ノストラダムスを軽率な馬鹿者 (ignorant téméraire)、ペテン師 (charlatan)、さらには虚妄の怪物 (monstre d'abus) などとして扱った。  私はここで、一人の高名なる人物 〔=ノストラダムス〕 を生み出した国民の名誉のために、可能な限りの正確さを尽くして、彼の生涯について語ることとする。彼についての記憶を汚したいと考えた人々の中傷に対し、その潔白を証明する上で、それ以上の釈明は必要としない。すべてありのままの真実を披露することは、いつだって、虚言や錯誤から来る悪意やいかがわしさを一掃する妙手を講ずるよりも有効なのである。 **第1節注記  伝記の前置きに当たる説明だが、この部分はエーツの『[[ノストラダムスの生涯>La Vie de Nostradamus (Haitze)]]』第1節の丸写しである。  その正当性を高らかに宣言した序言が、すでに他者からの剽窃という時点で、この文献を無批判に信じることがいかに危ういか、よく分かるのではないだろうか。 *第2節a 出自と天賦の才能  ノストラダームはプロヴァンス出身であり、ピトンはそのプロヴァンスの歴史家たちの批評で正反対のことを述べたがっていたが、高貴な家柄であった。その一族は新改宗者であったので、その地方で1512年に家柄に応じて課された有名な税金の対象者に含まれた。彼らは 〔その課税に関する記録の〕 サン=レミ市に住む人々の条項に見出せる。  その一族はイサカル族に連なる。イサカル族は、その特に広く知られている人々については、時に関する知恵を天から授かったことで有名である。  ノストラダームも自らの家柄を知らぬはずはなく、『歴代誌・上』第12章32節にある言葉を誇示しつつ、誇っていた。そこにはこうある。「イサカル族の者たちは、あらゆる時を認識し、識別する能力に長けていた」 **第2節a注記  この部分も引き続きエーツの伝記の丸写しで、わずかな綴りの揺れを除けば、見事に一致する。  「ピトン」は、おそらく17世紀プロヴァンスの歴史家ジャン・スコラスティック・ピトン (Jean Scholastique Pitton) であろうと思われるが、当「大事典」はピトンの評伝を未確認のため、ノストラダムスの一族をどのように位置づけていたのか分からない。  ノストラダムス家が1512年の課税対象だったことは事実である。後年、これを誤読して、ノストラダムス家が1512年に改宗したと勘違いする輩が多く現れたが、実際には15世紀のうちに改宗は終わっている((竹下 [1998] pp.49-51))。  イサカル族(イッサカル族)に先祖を求める説は、おそらくエーツの伝記が初出ではないかと思われる。扉の引用句についてのコメントとも関連するが、ことさらに予言的な才能を受け継いだかのように粉飾する事例の一つだろう。  現代の実証的な伝記において遡れる先祖はせいぜい13世紀までだが((Tronc de Coudoulet / Benazra [2001]))、なんら特殊な一族ではない。また、ノストラダムスがイサカル族の末裔であったと誇っていた事実は、当「大事典」では確認していない。 *第2節b 小さな占星術師  ノストラダームに分別が備わるようになるやいなや、興味を持った小さな疑問の数々に裁断を下してしまっていただろうと考えるだけの理由が、我々にはある。その 〔理由となるエピソードの〕 中でも特に、ある晩、彼が若い仲間たちと散歩していたときのこと。その仲間たちは、賢人たちが彷徨う星々 (astres errans) と呼んでいた、空中で尾を引く火を見たときに、星が空から離れてしまうと考えたが、彼 〔=ノストラダムス〕 はその誤りを正した。彼は仲間たちに、あれは鞴 (ふいご) が石炭を燃やすように、風で燃えた硫黄の臭気であり、火矢のようなものと大差がないのだと教えた。  また彼は仲間たちに、雲は無知な庶民が考えるようにポンプで海水を汲み上げたものではなく、霧のときに見られるような水蒸気の集まりなのだと教えた。さらに彼は、世界が球体のように丸く、太陽が沈んで見えなくなっても、もう一方の半球を照らしているとも、彼らに告げた。彼はとても頻繁に、非常に喜んで大気現象や星々について語ったので、小さな占星術師 (le petit astrologue) と呼ばれるようになった。 **第2節b注記  第2節の中では、この b のみがエーツの丸写しではない。言い換えると、[[ミシェル=クロード・トゥシャール]]による伝記などでも引用され((トゥシャール (1987)[1998] p.45))、日本でも相応に知られていると思われる 「小さな占星術師」 のエピソードは、エーツの丸写しの中に、唐突に、かつ何の裏づけもなしに紛れ込んだものなのである。  現代の実証的な研究でもノストラダムスの少年期については、何の史料も発見されていない。その状況で、この何の裏づけもないエピソードを史実と信ずべき理由は何もない。  なお、「彷徨う星々」は語源的に考えるなら惑星のことだが、文脈からするならば、おそらく彗星を指している。  しかし、彗星が大気の上層で燃える存在という見解は、アリストテレスが提唱したものであり、古くからよく知られたものであった。この定説を覆したのはティコ・ブラーエたちで、ノストラダムスの死から10年ほど経った1577年の大彗星の観測時に、視差を利用して、彗星が惑星群と同等の距離にあることを算定していた((アジモフ『ハレー彗星ガイド』社会思想社、pp.22-26))。  この伝記が書かれた1789年という時期は、1758年から59年にエドモンド・ハレーの予言どおりに彗星が回帰し、その周期性が確実視された30年も後にあたっている。その時期に何故、ノストラダムスの天体知識の正確性の証明として、アリストテレス的な彗星観が持ち出されたのか、不可解というほかはない。  また、SF作家の[[山本弘]]も指摘するように(([[ノストラダムスは地動説を知っていた?>>http://homepage3.nifty.com/hirorin/nostracolumn.htm#chidosetsu]]))、世界球体説と地動説 (太陽中心説) はイコールではない。コロンブスやマゼランの航海から明らかなように、当時の人々にとって地球が球体であるという見解は、決して特異なものではなかったのである。コペルニクスの見解が革命的だったのは、地球が丸いと主張したからではなく、宇宙の中心が地球でなかったと示したことにある((中山茂『西洋占星術』講談社現代新書、p.154-))。 *第2節c 2人の祖父  ノストラダムスの出生地は[[サン=レミ>サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の町で、その誕生は1503年12月14日正午、時の国王はルイ12世、ローマ教皇はユリウス2世であった。  父は[[ジャック・ド・ノストラダーム>ジョーム・ド・ノートルダム]]、母は[[ルネ・ド・サン=レミ>レニエール・ド・サン=レミ]]である。このジャック・ド・ノストラダームは公証人で、それはその権威によって当初からそうであったように、当時の栄誉ある職業であった。現在と違い、それに就くことで貴族の資格を喪失することがなかったので、貴族の家に生まれてさえも、軍職に就いていない次男以下の者が公証人となるのは難しかったのである。  ミシェル・ノストラダームは生を享けた時点で、父方についても母方についても、医学とマテマティカで高名な人物の孫となる恩恵を得ていた。その祖父の一人、[[ピエール・ド・ノストラダムス>ピエール・ド・ノートルダム]] (Pierre de Nostradamus) はプロヴァンス伯ルネ王の侍医に任ぜられており、もう一方の[[ジャン・ド・サン=レミ]]は、ルネ王の息子であるカラブリア公爵の侍医であった。それらの優れた職務に就いていても、彼らが富裕になったわけではないし、彼らは黄金の誘惑にも耐えうる誠実な人々でもあった。彼らはただ、一族に対する幾らかの敬意を勝ち取っただけである。それは物財との対比で言えば、栄誉の面においてであり、それが彼らをサン=レミ市で一番の名士たちと見なさせた。そこに、この2人の賢者は、賢明さを生み出す主への健全なる畏敬に由来する、素行の面での非常な実直さを付け加えたのである。 **第2節c注記  再びエーツの伝記の丸写しに戻っている。  ノストラダムスが12月14日正午の誕生とする説は、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]の伝記が最初であろうが、実証的に確実視されているのは日付までで、「正午」 には確たる裏づけがない。  当「大事典」は16世紀フランスにおける公証人の社会的地位について調査ができておらず、この伝記が言うような高い地位だったのかは断言できない。しかし、ノストラダムス家がなんら高貴な家柄ではなく、そのような家柄からジョーム (ジャック) が公証人になれたという事実、そして、彼が貴族の代役を務めただけで貴族を自称するなど、経歴の粉飾をしていた事実からすれば、ジョームのコンプレックスを払拭できるほどの誇らしい職業ではなかったのだろう (以上の考察は、現代の公証人の地位に対する評価を微塵も含まない。誤解のなきよう)。  マテマティカ (mathématiques) は現代ではもちろん 「数学」 の意味だが、かつては 「占星術」 の意味もあった。そして、文脈からすると、後者の意味なのではないかとも思えるので、カタカナで表記した。  [[ピエール・ド・ノートルダム]]は確かに父方の祖父だが、カラブリア公の侍医という話は、[[ジャン・ド・ノートルダム]]が言い出し、[[セザール・ド・ノートルダム]]が引き継いだ粉飾にすぎない((Leroy [1993] pp.7-8))。実際のピエールは商業と貸金業を営んでいた。  [[ジャン・ド・サン=レミ]]は母方の祖父ではなく曽祖父である。祖父とする誤りは[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]もやっていた。ジャン・ド・サン=レミは町の名士だったが、ルネ王の侍医だったわけではない。 *第3節a 祖父との別れ  彼らのうちの一人、母方の祖父は、孫であるミシェル・ノストラダームを可愛がりたいという自然な気持ちから、その教育の面倒を見てやりたいと考えた。そして、孫を育てつつ、天の学問、すなわちマテマティカと天文学の最初の手ほどきをした。その祖父が亡くなると、父親は人文学と修辞学を修めさせるために、彼 〔=ノストラダムス〕 を[[アヴィニョン]]へ送った。 **第3節a注記  この節も基本的にエーツの丸写しで、単語レベルでの些細な表現の違いがごくわずかに見られる程度である。そして、学んだものについて、エーツは 「人文学と哲学」 としていた (後で見るように、1789年の伝記は哲学を別扱いしている)。  母方の[[ジャン・ド・サン=レミ]]が祖父でなく曽祖父というのは前述の通りである。彼は1504年、すなわちノストラダムスの生まれた翌年に死んでいた可能性が非常に高いため((cf. Tronc de Coudoulet / Benazra [2001] tableau 5))、教育を施せたとは考えられない。  アヴィニョン大学で学んだらしいことは実証的な研究でも一応支持されているが、史料があるわけでないので、送られた経緯については不明というほかない。 *第3節b アヴィニョンでの学生生活  彼はその地で目覚しい成長を遂げた。彼は大変に恵まれた記憶力を持ち、暗記課題をたった一度読んだだけで、一語一句違えずに暗唱できた。学んだことは何一つとして決して忘れないと断言されていた。Memoriâ penè divinâ praeditus erat と 『ヤヌス・ガリクス』 には書かれている。彼はまた、あまりにも確固たる判断力と、あまりにも優れた洞察力を備えていたので、物事を理解する上で困難に突き当たることはまったくなかった。同じ 〔『ヤヌス・ガリクス』の〕 著者は、彼 〔=ノストラダムス〕 が、陽気で、冗談や風刺が好きであったことも請け合っている。すなわち、laetus, facetus, estque mordax と。  アヴィニョンで人文学 (les humanités) と修辞学を修めた後、彼はその地で哲学の研究を始めた。すぐさま彼はその学問でもある水準まで抜きん出たので、その教師は、彼への配慮を残しつつも、難しい事柄を生徒たちに説明させる面倒を、しばしば彼に押し付けた。私はあえて言ってしまうが、〔そうして押しつけられた〕 ミシェル・ノストラダームのほうが、教師よりも生徒たちをうまく伸ばしてやれていた。そして、その時においても原則として彼が語るのをやめられなかった事柄は、宇宙の仕組み (le systême[&italic(){sic.}] des cieux) や星々の現象についてであった。 **第3節b注記  この部分はエーツの伝記にはなく、1789年の著者が勝手に挿入したものである。  シャヴィニーの『ヤヌス・ガリクス』 (『ヤヌス・フランソワ第一の顔』) にはこうある (1789年の伝記ではラテン語版から引用されているが、当「大事典」ではフランス語版から訳出する)。 「精神に関しては、活発で良質なものを持っており、彼が望むことは全て軽々と理解できた。判断は緻密で、記憶力には驚くほど恵まれていた。無口な性格のため、熟慮しつつもほとんど口を開かなかったが、時と場合に応じて良く喋った。残りの点としては、彼は用心深く、迅速・性急で、怒りやすかったが、仕事には忍耐強かった。  彼は4、5時間しか眠らなかった。言論の自由を愛して称賛し、陽気な性格で冗談が好きだったので、笑いながら辛辣なことも言った」  さすがに1回見ただけのものを一言一句違わずに暗記できるなどとは書かれておらず、1789年の著者は、明らかに誇張している。しかも、シャヴィニーの証言はあくまでも晩年のノストラダムスについてのものであって、学生時代にそうだったなどとは一言も述べていない。   興味深いのは、[[五島勉]]などが顕著であったように、現代の解釈者にはこの時期に試験問題を予知したなどというような、『予言者的』 なエピソードを述べたがる傾向があるが、かなりの誇張や創作を含むと思われる1789年の伝記でさえ、そのようなエピソードを挿入していないということである。  学生時代に哲学 (天体についても講義したように書かれているので、現代の Ph.D.を必ずしも「哲学博士」とは訳さないように、「高度な学術」「文理学」などと訳す方が分かりやすいかもしれない。むろん、「哲学」は、本来自然学も含む広い学問対象についての訳語ではあるのだが) の教師の代わりを務めたというのも、まったく裏づけがない。繰り返すが、アヴィニョン大学在学を確実に裏付けられる史料は何一つ見つかっていないのだ。 *第3節c モンペリエ大学への二度の入学  その天賦の才が彼を医学の知識へと導いたので、その学問を修めるためにモンペリエへと赴いた。彼はそこでも十分に大きな進歩を遂げたが、その町をペストが突然襲った。ペストはまだアスクレピオスに捧げられていなかった 〔=有効な治療法が確立されていなかった〕 ため、彼は[[トゥールーズ]]や[[ボルドー]]の周辺へ赴くために、町を去った。彼はそれらの街区にあっても、医学、とりわけ植物の効用を知る分野の研究を止めてしまおうなどとは思っていなかったが、病気を扱った知識を、実際の治療に活かすことへと踏み切った。彼はそのとき22歳にしかなっていなかったし、まだ博士号取得者 (docteur) になっていなかった。ガロンヌ川沿いを巡り歩いた4年間を経て、彼はその学問 〔=医学〕 に元々魅かれていた気持ちが叶ったことを打ち明けつつ、その研究を一層鍛え上げ、博士号を取得するために、モンペリエへと舞い戻った。そのとき26歳だった彼は、大学中の賞賛と拍手喝采に迎えられた。 **第3節c注記  この部分は再びエーツのほぼ丸写しで、綴りの揺れや文章の区切り方を除けば、全く同じである。  そして、そのエーツの記述自体が、ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの伝記を元に少し膨らませたものであって、基本的な事実関係は一致している。しかし、姉妹サイトのコンテンツ「[[シャヴィニーによるノストラダムスの伝記>>http://www.geocities.jp/nostradamuszakkicho/shougen/discours.htm]]」で指摘したように、ノストラダムスのモンペリエ大学入学は1529年10月23日のことで、それ以前の入学は実証されていない。  また、シャヴィニーの証言以上に大げさになっているのは、再入学の時点で大学中の歓迎を受けたことになっている点である。現実には、生涯最初の入学であった1529年の時点で大学を挙げての大歓迎を受けるような理由が、無名の「薬剤師」 ノストラダムスにあったはずがない。  他方で、シャヴィニーを土台にした結果、17世紀以来現れていた、モンペリエ大学で講義をしたという話は採用されていない。アヴィニョン大学で教師の代わりを務めたという珍しい話を採用しておきながら、モンペリエの方を採用していないというのは面白い。   *第4節a スカリジェとの邂逅  その資格 〔=医学博士号〕 を得て、二度目の旅行で一切の制約なしに 〔医学的な〕 実践をできるようになった時、彼は、かつて結んだ交誼に引き寄せられたものか、医学で得た知見を見せつけることに強い喜びを抱いたものか、医学的実践を始めたときと同じ地域 〔=トゥールーズ、ボルドーやその周辺〕 に戻った。  彼は、詩人・医師・哲学者ジュール=セザール・ド・レスカール (Jules-César de l'Escale) のために[[アジャン]]に逗留し、この偉大な人物と緊密な友情を結んだ。  この人物はイタリアが生み、ドイツが育て、フランスが以下の墓碑に刻まれた四行詩を得る光栄に浴した。そこで私は、至高の天才であり、ノストラダムスが第一級と位置づけ、その友情を求めた人物についての情報を提供するために、その四行詩をぜひとも挿入しておきたい。 スカリジェの墓碑 (Epitaphe de Scaliger) Extulit Italia, eduxit Germania Juli, Ultima Scaligeri funera Gallus habet ; Hinc Phoebi dotes, hinc duri tobora Martis Reddere non potuit nobiliore loco.  ジャン=エーム・シャヴィニ (Jean-Aime Chavigni) がその著書 『フランスのヤヌス』(Janus François) に書いたことを信じなければならないのなら、その 〔ノストラダムスとスカリジェの〕 友情は長続きしなかった。その作家 〔=シャヴィニ〕 は、彼らの友情が敵対的なものに変わり、辛辣なことを書きあうようになり、彼 〔=スカリジェ〕 はつねに仲たがいした知識人たちの間でそうなったと断言している。  私は、ノストラダムスに関してはこう述べておく。彼の著作にはスカリジェ (Scaliger) への苛立ちを示すわずかな兆候も見出すどころではなく、むしろ逆に、彼を高く持ち上げ、古典古代の最も偉大な人々と並べて評価している、非常に有名な証言に出くわすのである。結局のところ、もし、その二人の間に何らかの不和があり、その痕跡が何か残っているのなら、それはノストラダムスにとって、美徳の面だけでなくそれが存する人物の面でも、彼が持つ自制心や配慮を際立たせることになっており、非常に優れた評価につながる、と。 **第4節a注記  この部分はほとんどがエーツの伝記の丸写しだが、ジュール・セザール・ド・レスカールについての説明部分 (イタリアが生み云々から墓碑の引用まで) は、1789年の伝記での加筆である。そもそもエーツの伝記では、上記レスカールの名前の初登場部分の 「詩人・医師・哲学者」 という肩書きすらなく、どういう人物なのか、文章からはまったく読み取れないようになっている。  なお、ジュール・セザール・ド・レスカールは、人文学者ジュール・セザール・スカリジェ (ユリウス・カエサル・スカリゲル) の異名。エーツの伝記でも、レスカールと呼ばれたり、スカリジェと呼ばれたり、呼称に統一性がない。  「ジャン=エーム・シャヴィニ」という綴りはエーツの伝記も同じ。ここで、1789年の著者が前書きに書いていた 「エドム・シャヴィニー」 が記憶違いの類ではなく、[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]のほぼ正しい名前を認識した上での表記であったことがはっきりする。  なお、スカリジェとノストラダムスの仲に関するシャヴィニーの証言は以下の通り。 「彼らは非常に親しくなったが、しばらくすると極めて敵対的で辛辣な間柄になった。不和はこの博学者たちの間でしばしば起こったもので、彼らの書きものの中から拾い集めることができる」  しかし、エーツが書き、1789年の著者が引き写したように、ノストラダムスがスカリジェを批判した文書の存在は確認されておらず、それは現代の実証的研究でもそうである (逆に、スカリジェがノストラダムスを痛罵した作品は現存する)。その意味で、この不和がノストラダムスの自制心を際立たせているという評価は、妥当なものといえるだろう。 *第4節b 最初の結婚  アジャンでの滞在は、その町の最も気高い家柄に属するさる令嬢との結婚を、彼にもたらした。その結婚で、彼は二人の子どもをもうけたが、ほどなくして妻子とも亡くなった。結婚による 〔一箇所にとどまるという〕 苦痛から解放されたことから、彼は4年間住んだアジャンを離れ、自身が抱いていた旅をすることへの情熱を満足させる決意を固めた。その 〔放浪した〕 8年間のことは、彼の[[化粧品論>化粧品とジャム論]] (son Opuscule des fards) の序文で語られている。そのとき彼は、30歳にしかなっていなかった。 **第4節b注記  この節も、エーツの伝記で若干冗長だった表現が簡略化されているのを除けば、それのほぼ丸写しである。  この伝記の叙述が正しいと仮定した場合、ノストラダムス30歳ということは、1533年に放浪を始めたことになる。しかし、それまで4年間アジャンに滞在していたというのなら、1529年にモンペリエ大学に入学したノストラダムスにとって、博士号取得のための研究期間が消滅することになる。エーツや1789年の著者は、こうした矛盾を正しく認識できていたのだろうか。  現代の実証的研究でも、この時期の正確な足取りは分かっていない。[[エドガール・ルロワ]]がノストラダムスのアジャン滞在の開始を1533年ごろと位置づけていた一方((Leroy [1993] p.60))、1990年代にアジャンの[[アンリエット・ダンコス]]とノストラダムスの1531年の結婚契約書が発見されるなど((竹下 [1998] p.71))、アジャンの正確な滞在時期も期間も確定していない。  なお、放浪期間に関する 『化粧品とジャム論』 での仄めかしについては、後続の節で検討する。 *第5節 訪問先で出会った医師・薬剤師と彼らへの評価 {{作成中}} *第6節 白豚と黒豚の話  彼は予見する素質を持っていても、それを隠し続けていた。しかし、それは彼の内での火のような存在だった。それに灰をかぶせてはいたものの、時折そこから散る火の粉として現れるのをやめなかったのである。  それで彼は時折予言をすることがあり、それが効力を持った 〔=的中した〕 ために、彼は行く先々で尋常ならざる能力を持った人物であると見なされた。〔その能力とは〕 未来を見通す天賦だという人々もいたし、もっともらしい予言によって巧みに人々を欺く能力に過ぎないという人々もいた。彼は非常に熟達した医師と見なされてはいたが、ロレーヌ地方では[[フロランヴィルの領主]] (le seigneur de Florinville) が、予言の才能は第2の手法 〔=前記の2つの能力のうちの後者、つまり詐欺師の手口〕 に属するものと捉えた。  この領主は、妻に何らかの身体上の不具合があり、その発作(古傷)の治療をしてもらうために、自身のファンの城 (son château de Faim) にノストラダームを連れてきた。  ある日、こんなことが起こった。その貴族はその賓客 〔=ノストラダムス〕 とともに、自身の城の家禽飼育場 (basse-cour) を散歩し、予知 (présages) について雑談をしていたとき、彼らの前に、白と黒の2頭の小さな乳飲み豚が現れた。この2頭の動物を見て、フロランヴィルの領主はノストラダームに此奴らの運命はどうなるかと尋ねた。すると彼は、黒を彼 〔=ノストラダムス(原文は il) 〕 が食べ、白を狼が食べると即答した。  フロランヴィルの領主は、その予言者を嘘吐きに仕立てるのは自分の意向一つだと考え、料理人にこっそりと、白豚を殺して、彼の夕食に出すように命じた。その命令に従って、料理人は時間が来ると、白豚を殺し、下ごしらえをし、炙り焼きのために大串を刺した。しかし、厨房の外でしなければならないことをしていると、飼い馴らすために飼われていた仔狼がそこに入り込み、届く範囲に支度 〔のできていた白豚〕 を見つけると、一心不乱に食べた。料理人が戻ったときには、仔狼は後ろ2つ分のカルチエ 〔4分割した枝肉〕 を平らげていた。彼はこの事故に驚き、主人に叱責されることを恐れ、この失敗の穴埋めのために、すぐに黒豚をつかまえて殺し、支度をして、食卓に出した。  賓客たちが着座し、厨房で起こった事故のことなど何も知らないフロランヴィルの領主がノストラダームに勝ったことを確信して席につくと、彼 〔=ノストラダムス〕 に自信ありげに 「白豚はこれから食べられるところですから、狼は指一本触れられませんな」 と述べた。ノストラダームはそれに対し、「私はそうは思いません。食卓にのぼっているのは黒豚です」 と即答した。そのことへの確信が片時も揺らがなかったフロランヴィルの領主は、ノストラダームをやりこめるために、料理人に黒豚を連れてくるように命じた。しかし、料理人がやってきて、予言していたことにとって大いに栄誉となる2頭の仔豚の運命を明らかにすると、彼はたいそう驚いた。  この驚くべき一件は、あまりにも風変わりなものに思われたので、王国全土に広まった。そして、それが語られる町によって、舞台となった場所が変わることが起こったのである。 **第6節注記  この節もエーツの伝記のほぼ丸写しである。違うのはいくつかの細かい表現と、最後の部分が 「この驚くべき一件はファンの城だけにとどまっておらず、それがとても奇妙なものに思われたので、王国全土を駆け抜けた。そして (以下同じ)」 というやや冗長な文章になっていた程度である。  いわゆる 「白豚と黒豚の話」 である。その内容に関する検討は[[フロランヴィルの領主]]参照。    白豚と黒豚の話は[[1656年の伝記]]で初登場したものであり、ノストラダムスの時代に王国全土に広まっていたという事実はない。また、別の地方での固有名詞を変えた異伝の存在も確認されていない。  エーツは話の内容自体はほとんど変えていないが、それでも食卓に臨席した賓客が複数になっていること、黒豚を食べる予定者がノストラダムス一人とされていたことなど、細かい変更はある。前者の変更は、噂が広まっていたという主張の前提として、それを目撃した第三者がいないと辻褄が合わないからだろう。もともとは、1656年の伝記の作者がフロランヴィルの一族から聞いたことになっていたが、それでは事実かどうかわからない。しかし、その場に複数の人間がいて、彼らが広めたとなれば、話の信頼性は上がる。そういう観点からの修正であろうと考えられる。 *第7節a ノストラダムスの結婚  10年ないし12年、2度目に放浪した後、ノストラダームは郷里 〔=プロヴァンス地方〕 に戻り、マルセイユへと赴いたが、そこは常に人が多い都市 〔で、同業者も多くいる場所〕 なので、医師としての働き口が見つかるのだろうかと彼に思わせた。むしろ彼は成り上がろうとは考えていなかったので、プロヴァンスの友人たちは、彼が1544年ごろに赴いた[[サロン>サロン=ド=プロヴァンス]]で、良家の令嬢アンヌ・ポンス・ジュメルないしポンサール・ジュメル (Anne Ponce Jumelle, ou Ponssart Jumelle) との結婚を仲介した。結果、彼は彼女との間に6人の子どもを授かることになる。  この結婚を機に、ノストラダムスはその町に腰を落ち着けた。その立地が、彼をその地方 〔=プロヴァンス〕 の4大都市、エクス、[[アルル]]、マルセイユ、アヴィニョンの住民たちからほぼ等しく求められる範囲に置いたことも後押しとなった。  ある種の名声を得た人々は、政治と無関係ではいられず、〔人々から〕 求められざるをえない。その多くは、継続的に人目につくことを避けつつも、求められる範囲にうまく身を置く。というのは、不在は名声を高めることがないとしても、そのまま残してくれるからだ。何しろ、我々が経験から認識するように、ほぼ同じ価値の2つの物は、手許にないものの方が、常にもう一方よりも欲しくなるものだからである。仮に、評価がしばしば欲望から発し、人々は手許にないものしか求めないということを知らない 〔で、素直にとらえる〕 とすれば、隔離されることは、持たざるものの値打ちを高めると言われてきた。  実際、ノストラダムスは、サロンでの住居を定める間もなく、いくらかの距離を隔てても知られていたその名声のせいで、周辺の住民たちから求められ、そして数年の後にはエクスの人々から町を挙げて、その町を襲った接触感染症の治療に来るように求められたのである。それは1546年のことであった。 **第7節a注記  この節もエーツのほぼ丸写しだが、エーツはアンヌの名前を Anne Ponssart とだけ綴っており、「1544年ごろ」という時期指定もない。  ノストラダムスが[[アンヌ・ポンサルド]]と結婚し、6人の子ども (三男三女) をもうけることになるのは事実である。しかし、現存する結婚契約書は1547年11月11日付けとなっている。つまり、1789年の伝記は、エーツの丸写しの中に、なぜか明らかに誤った1544年という年を挿入しているのである (誤解のないように追記するが、エーツ自身、時系列的に間違っている ― 結婚の「数年後」を1546年としている ― ので、年を明記していなくとも、誤っていることに変わりはない)。  前節で述べたように[[フロランヴィルの領主]]とのエピソードも創作の疑いが極めて強く、1544年ごろのノストラダムスは、医師としても予言者としても名声を確立していたとは思えない。1547年にサロンに腰を落ち着けたのは、単に妻の居住地だったからというだけの話であろう。大都市から来る相談者に配慮をしたというのは、かなり疑わしい主張に思われる。  なお、1546年にエクスで雇われたのは、エクスに残る出納簿や契約書によって裏付けられた事実だが、町を挙げてノストラダムスに要請したというものであったかは疑わしい。[[ピーター・ラメジャラー]]などは、そもそも 「医師として」 の契約だったのかにさえ疑問を呈している。 *第7節b エクスでのペスト治療  その仕事はつらく危険なものではあったが、彼は、医学について知っていることを、その地方の主都 〔=エクス〕 の厄介な時期に示せることを非常に喜び、引き受けた。  〔エクスに〕 到着すると、彼は非常に悪質な症状を伴う疾病を目にした。それに罹った人々の多くは、2日目には狂気に陥り、残りの者たちは、飲み食いしながら突然に死ぬという形で、侵されるや直ちに命を奪われた。それゆえ、病気が伝染した者たちはまず、すぐさま死を覚悟し、非常に恐るべき憂鬱にとらわれることが起こった。そして、その衰弱が、その病気を過去比較にならないほど多くの人命を奪う病魔へと変えたのである。  それに関して、この偉大な人物 〔=ノストラダムス〕 は、その町の女性たちが大変な慎み深さを備えていることを見て取り、彼女たちが死後も生前そうあった姿でいたいと望んでいるという、彼女たちにとって非常に名誉ある指摘をした。彼女たちが伝染病に罹ったと気づくと、死んだ後に誰からも裸体を見られないようにと、自ら屍衣に包まり縫い付けていたのは、それが理由であった。  その悲しむべき状況の中にあって、彼のように大変に博識で、天文学の知識の面でも大いに名を成した医師は、その町の人々に何らかの安心感を与えるためには、何よりも求められるものであった。それは誰もが彼に懇願してくるさまを彼自身が目撃したとおりで、そのことが、万民に献身することができるようにと、彼を見事なまでに駆り立てたのである。  彼が命じた治療法のうち、彼が作った、人々が蒙った悪疫を感染させる臭気を追い払う極上の粉薬については、その処方が 『化粧品論』 第8章に記されている。病気が終息したことで、人々は大いに満足したので、彼はなおも数年の間、大功のあった人物として公金が支出された。そのつらく危険な仕事をなした分だけ、彼は華々しく町を出立したので、似たような境遇から 〔助けを〕 求められることには事欠かなかったのである。そして彼はそうされることを先送りにはしなかった。だから、翌1547年、[[リヨン]]に伝染病が忍び込んだときに、この大都市の人々はすぐさま彼に助けを求め、その信頼が、彼に援助を断れないようにしたのである。 **第7章b注記  この節もまた、わずかな用字・用語の揺れを除けば、エーツの伝記の丸写しである。  前半に書かれている治療中の様子は、『化粧品とジャム論』の第1部第8章に記載されていることにおおむね対応している。ペスト治療薬があくまでも伝染病の原因になる 「悪臭」 に対するものであったという点もそのとおりであり、後の時代に医学知識の進歩に呼応してどんどん大袈裟になっていくペスト治療のエピソード群に比べれば、はるかに穏当な記述といえる。  しかし、おさまった後に公的な恩給のようなものがエクスから支給されたことが事実かどうか、事実だったとしてどのくらいの期間・いくらぐらいが支給されたのかは史料から裏付けることはできない。  リヨンに1547年に赴いたことは、ジャン・アストリュックのモンペリエ大学に関する著作 (1767年) にも出ているが((Leroy [1993] p.69, Benazra [1990] p.317))、これがエーツよりもずっと後の刊行である事を考えるなら、無批判に信じてよいのかに疑問も残る。 {{書きかけ}} ---- #comment

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