百詩篇第6巻15番

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[[百詩篇第6巻]]>15番 *原文 Dessoubz&sup(){1} la tombe&sup(){2} sera trouué&sup(){3} le prince&sup(){4}, Qu’aura le pris&sup(){5} par dessus Nuremberg: L’Espaignol&sup(){6} Roy en Capricorne&sup(){7} mince, Fainct & trahy par le grand Vvitemberg&sup(){8}. **異文 (1) Dessoubz : Dessonbz 1557B (2) tombe : tumbe 1627, Tombe 1672 (3) trouué : treuué 1627, trouue 1644 (4) prince : Prince 1568(&italic(){sauf} A) 1588-89 1597 1600 1605 1610 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Ri 1653 1672 1716 1772Ri 1981EB (5) pris : prix 1644 1649Ca 1650Le 1653 1665 1668 (6) L’Espaignol 1557U 1557B 1568 1597 1611A 1672 1716 1772Ri : L’Espagnol &italic(){T.A.Eds.}(&italic(){sauf} : L’espaignol 1590Ro 1600 1610) (7) Capricorne : capricorne 1600 1610 1650Ri 1665 1716 (8) Vvitemberg : Vitemberg 1557B 1589PV 1649Ca 1668, Vniremberg 1627, Witemberg 1716 1772Ri 1981EB, Vritemberg. 1650Le, Vutitemberg 1672 *日本語訳 墓の下で見付かるだろう、 [[ニュルンベルク]]を凌駕する価値を持つであろう君主が。 か細き磨羯宮にてスペインの王は ヴィッテンベルクの貴人に欺かれ、裏切られる。 **訳について  2行目は1行目の prince (君主) を形容している。そのため、翻訳の際には「君主」を2行目に回した。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  2行目 「ニュールンベルグで犠牲をはらい」((大乗 [1975] p.179。以下、この詩の引用は同じページから。))は、不適切。確かに現代語の prix には 「代償、代価」 の意味があるが、動詞が avoir なので、その意味には取れない。また、par dessus は「(位置として)上に」「~に加えてさらに」「~に逆らって」などの意味なので((DMF))、「~で」 の意味の前置詞句としては不自然である。  3行目「やぎ座でスペインの王は汝のものとなり」 は、底本となった[[ロバーツ>ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳のほぼ忠実な訳だが、mince がなぜ「汝のもの」となるのか不明。  4行目 「ビテンベルグによってだまされうらぎられる」 は、grand が訳に反映されていない。なお、le grand Wittemberg の直訳は 「大ヴィッテンベルク」 だが、the Lord of Wittemberg と英訳した[[ピーター・ラメジャラー]]や[[リチャード・シーバース]]の読み方に従い、de が省略されていると見なした。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  2行目 「その人物が彼をニュルンベルクへ連れ去るだろう」((山根 [1988] p.215))が不適切。le を代名詞、pris を prendre の過去分詞と見たのだろうが、この場合の le pris は le prix のつづりの揺れである (前記ラメジャラー、シーバースおよび[[ジャン=ポール・クレベール]]もそう読んでいる)。当時は prix を pris とも綴ったのである((DMF p.506))。逆に、ノストラダムスは prendre の過去分詞を現代的な pris ではなく、prins としばしば綴っていた。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は前半2行を三十年戦争時のスウェーデン王グスタフ・アドルフに結びつけた((Garencieres [1672]))。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]](1939年)は、ヴィッテンベルクの貴人をヒトラーとし、未来予測の中に組み込んでいた((Fontbrune (1938)[1939] p.200))。  [[ロルフ・ボズウェル]]も第二次世界大戦中の解釈で、ヴィッテンベルクの貴人をヒトラーと解釈した。ヴィッテンベルクはマルティン・ルターと結びつくので、カトリックだったノストラダムスはそれによって、異端の存在としてのヒトラーを象徴的に表したという理由である((Boswell [1943] pp.280-281))。  [[アンドレ・ラモン]]もヴィッテンベルクの貴人をヒトラーとし、スペインとドイツの関わりでスペインが得たものは少ないが、逆にドイツは色々得てゆくことの予言とした((Lamont [1943] p.167))。  [[エリカ・チータム]]は1973年の時点では一言もコメントしておらず、後にはヴィッテンベルクはルター関連だろうとしたものの、ニュルンベルクやスペイン王とのつながりが不明とした((Cheetham [1973] , Cheetham (1989)[1990]))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)は「ナポレオンの征服か」とだけ注記していたが((Hutin [1978]))、その補訂をした[[ボードワン・ボンセルジャン]]は、ルター派やスペイン王フェリペ2世などが挙げられているものの、全体の意味がはっきりしない詩とした((Hutin (2002)[2003]))。  [[ヴライク・イオネスク]]は、1行目の prince は語源に遡って「第一位の者」すなわち「総統」と解すべしとして、ヒトラーの地下壕での死と解釈した。また、磨羯宮は占星術では脚に対応する星座であるため、 脚を患っていたアメリカ大統領F・ルーズベルト (イオネスクはスペインをしばしばアメリカの隠喩として解釈している)を指し、彼がヴィッテンベルクで表されているスターリン (ルターと同じく神学生から始まり、教皇庁に反対する勢力の指導者となったため) に翻弄されることと解釈した((イオネスク [1991] pp.34-38))。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は 「か細き磨羯宮」 はマニリウスの『アストロノミカ』などの認識と同じものと見なしていた((Brind'Amour [1993] p.279))。 -「つぎに来るのが山羊座で、これは狭い場所にうずくまった格好だ」(第一の書((有田忠郎訳『占星術または天の聖なる学』白水社、p.45))) -「縮こまった磨羯宮はウェスタのもの」(第二の書((有田、前掲訳書、p.103)))  この認識に立てば、「か細き」には何の占星術的意味もなく、「か細き磨羯宮」 は単なる磨羯宮の時期を指しているに過ぎないことになる。そこで、ブランダムールは太陽が磨羯宮にある時期、すなわちおおよそ12月10日から1月10日の間と理解しており、[[リチャード・シーバース]]もその読み方を踏襲した。  また、内容上は、ニュルンベルクやアウクスブルクを凌駕する権力者について述べた[[百詩篇第3巻53番]]との関連性に触れていた((Brind'Amour [1996] p.403))。  [[ピーター・ラメジャラー]]は、1521年のヴォルムス国会でマルティン・ルターの追放が決定され、ヴァルトブルク城に匿われたことと結びつく可能性があるとした((Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]))。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は、1532年のニュルンベルクで、カトリックとルター派の共存が密約され、実際にはカトリック優位になったことと、その密約にスペイン王でもあった神聖ローマ皇帝カール5世が関わっていたことを、ひとつの可能性として挙げた。  クレベールはそのほか、4行目の「ヴィッテンベルクの貴人」(大ヴィッテンベルク)がルター自身を指す可能性や、悪政で知られ、一度領土を追われたヴュルテンベルク公ウルリヒ5世(在位1503年 - 1519年および1534年 - 1550年)の可能性を挙げた。後者については、ノストラダムスがヴィッテンベルクとヴュルテンベルクを混同したのではないかとした((Clébert [2003]))。  ノストラダムスの時代のヴィッテンベルクは、1517年にルターがその城の教会の扉に95か条の提題を掲げた都市として知られていた(現在もルター関連施設が世界遺産になっている)。「ヴィッテンベルクの貴人」がルターや関連人物である可能性は確かにあるだろう。 ---- #comment
[[百詩篇第6巻]]>15番 *原文 Dessoubz&sup(){1} la tombe&sup(){2} sera trouué&sup(){3} le prince&sup(){4}, Qu’aura le pris&sup(){5} par dessus Nuremberg: L’Espaignol&sup(){6} Roy en Capricorne&sup(){7} mince, Fainct & trahy par le grand Vvitemberg&sup(){8}. **異文 (1) Dessoubz : Dessonbz 1557B (2) tombe : tumbe 1627, Tombe 1672 (3) trouué : treuué 1627, trouue 1644 (4) prince : Prince 1568(&italic(){sauf} A) 1588-89 1597 1600 1605 1610 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Ri 1653 1672 1716 1772Ri 1981EB (5) pris : prix 1644 1649Ca 1650Le 1653 1665 1668 (6) L’Espaignol 1557U 1557B 1568 1597 1611A 1672 1716 1772Ri : L’Espagnol &italic(){T.A.Eds.}(&italic(){sauf} : L’espaignol 1590Ro 1600 1610) (7) Capricorne : capricorne 1600 1610 1650Ri 1665 1716 (8) Vvitemberg : Vitemberg 1557B 1589PV 1649Ca 1668, Vniremberg 1627, Witemberg 1716 1772Ri 1981EB, Vritemberg. 1650Le, Vutitemberg 1672 *日本語訳 墓の下で見付かるだろう、 [[ニュルンベルク]]を凌駕する価値を持つであろう君主が。 か細き磨羯宮にてスペインの王は ヴィッテンベルクの貴人に欺かれ、裏切られる。 **訳について  2行目は1行目の prince (君主) を形容している。そのため、翻訳の際には「君主」を2行目に回した。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  2行目 「ニュールンベルグで犠牲をはらい」((大乗 [1975] p.179。以下、この詩の引用は同じページから。))は、不適切。確かに現代語の prix には 「代償、代価」 の意味があるが、動詞が avoir なので、その意味には取れない。また、par dessus は「(位置として)上に」「~に加えてさらに」「~に逆らって」などの意味なので((DMF))、「~で」 の意味の前置詞句としては不自然である。  3行目「やぎ座でスペインの王は汝のものとなり」 は、底本となった[[ロバーツ>ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳のほぼ忠実な訳だが、mince がなぜ「汝のもの」となるのか不明。  4行目 「ビテンベルグによってだまされうらぎられる」 は、grand が訳に反映されていない。なお、le grand Wittemberg の直訳は 「大ヴィッテンベルク」 だが、the Lord of Wittemberg と英訳した[[ピーター・ラメジャラー]]や[[リチャード・シーバース]]の読み方に従い、de が省略されていると見なした。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  2行目 「その人物が彼をニュルンベルクへ連れ去るだろう」((山根 [1988] p.215))が不適切。le を代名詞、pris を prendre の過去分詞と見たのだろうが、この場合の le pris は le prix のつづりの揺れである (前記ラメジャラー、シーバースおよび[[ジャン=ポール・クレベール]]もそう読んでいる)。当時は prix を pris とも綴ったのである((DMF p.506))。逆に、ノストラダムスは prendre の過去分詞を現代的な pris ではなく、prins としばしば綴っていた。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は前半2行を三十年戦争時のスウェーデン王グスタフ・アドルフに結びつけた((Garencieres [1672]))。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]](1939年)は、ヴィッテンベルクの貴人をヒトラーとし、未来予測の中に組み込んでいた((Fontbrune (1938)[1939] p.200))。  [[ロルフ・ボズウェル]]も第二次世界大戦中の解釈で、ヴィッテンベルクの貴人をヒトラーと解釈した。ヴィッテンベルクはマルティン・ルターと結びつくので、カトリックだったノストラダムスはそれによって、異端の存在としてのヒトラーを象徴的に表したという理由である((Boswell [1943] pp.280-281))。  [[アンドレ・ラモン]]もヴィッテンベルクの貴人をヒトラーとし、スペインとドイツの関わりでスペインが得たものは少ないが、逆にドイツは色々得てゆくことの予言とした((Lamont [1943] p.167))。  [[エリカ・チータム]]は1973年の時点では一言もコメントしておらず、後にはヴィッテンベルクはルター関連だろうとしたものの、ニュルンベルクやスペイン王とのつながりが不明とした((Cheetham [1973] , Cheetham (1989)[1990]))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)は「ナポレオンの征服か」とだけ注記していたが((Hutin [1978]))、その補訂をした[[ボードワン・ボンセルジャン]]は、ルター派やスペイン王フェリペ2世などが挙げられているものの、全体の意味がはっきりしない詩とした((Hutin (2002)[2003]))。  [[ヴライク・イオネスク]]は、1行目の prince は語源に遡って「第一位の者」すなわち「総統」と解すべしとして、ヒトラーの地下壕での死と解釈した。また、磨羯宮は占星術では脚に対応する星座であるため、 脚を患っていたアメリカ大統領F・ルーズベルト (イオネスクはスペインをしばしばアメリカの隠喩として解釈している)を指し、彼がヴィッテンベルクで表されているスターリン (ルターと同じく神学生から始まり、教皇庁に反対する勢力の指導者となったため) に翻弄されることと解釈した((イオネスク [1991] pp.34-38))。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は 「か細き磨羯宮」 はマニリウスの『アストロノミカ』などの認識と同じものと見なしていた((Brind'Amour [1993] p.279))。 -「つぎに来るのが山羊座で、これは狭い場所にうずくまった格好だ」(第一の書((有田忠郎訳『占星術または天の聖なる学』白水社、p.45))) -「縮こまった磨羯宮はウェスタのもの」(第二の書((有田、前掲訳書、p.103)))  この認識に立てば、「か細き」には何の占星術的意味もなく、「か細き磨羯宮」 は単なる磨羯宮の時期を指しているに過ぎないことになる。そこで、ブランダムールは太陽が磨羯宮にある時期、すなわちおおよそ12月10日から1月10日の間と理解しており、[[リチャード・シーバース]]もその読み方を踏襲した。  また、内容上は、ニュルンベルクやアウクスブルクを凌駕する権力者について述べた[[百詩篇第3巻53番]]との関連性に触れていた((Brind'Amour [1996] p.403))。  [[ピーター・ラメジャラー]]は、1521年のヴォルムス国会でマルティン・ルターの追放が決定され、ヴァルトブルク城に匿われたことと結びつく可能性があるとした((Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]))。  [[ジャン=ポール・クレベール]]は、1532年のニュルンベルクで、カトリックとルター派の共存が密約され、実際にはカトリック優位になったことと、その密約にスペイン王でもあった神聖ローマ皇帝カール5世が関わっていたことを、ひとつの可能性として挙げた。  クレベールはそのほか、4行目の「ヴィッテンベルクの貴人」(大ヴィッテンベルク)がルター自身を指す可能性や、悪政で知られ、一度領土を追われたヴュルテンベルク公ウルリヒ5世(在位1503年 - 1519年および1534年 - 1550年)の可能性を挙げた。後者については、ノストラダムスがヴィッテンベルクとヴュルテンベルクを混同したのではないかとした((Clébert [2003]))。  ノストラダムスの時代のヴィッテンベルクは、1517年にルターがその城の教会の扉に95か条の提題を掲げた都市として知られていた(現在もルター関連施設が世界遺産になっている)。「ヴィッテンベルクの貴人」がルターや関連人物である可能性は確かにあるだろう。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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