百詩篇第2巻39番

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[[百詩篇第2巻]]>39番 *原文 Vn an&sup(){1} deuant le conflit Italique, Germain&sup(){2}, Gaulois&sup(){3}, Hespagnols&sup(){4} pour le fort&sup(){5}: Cherra l'escolle&sup(){6} maison de republique&sup(){7}, Ou&sup(){8}, hors mis&sup(){9} peu, seront suffoqués&sup(){10} morts&sup(){11}. **異文 (1) Vn an : Vn en 1557B, Vn 1600 1610 1716 (2) Germain 1555 1589PV 1649Ca 1650Le 1668 1840 : Germains T.A.Eds. (3) Gaulois : gaulois 1557U 1557B 1590Ro (4) Hespagnols 1555 1840 : hespaignolz 1557U 1568A 1590Ro, espaignolz 1557B, Hespaignolz 1568B, Hespaignols 1568C 1568I 1772Ri, Espagnols 1588-89 1589PV 1605 1611A 1628 1644 1649Ca 1649Xa 1650Le 1653 1665 1668 1672 1716 1981EB, Espaignols 1597 1600 1610 1650Ri, Espagnolz 1611B, Espagools 1627 (5) le fort : leffort 1627, le Fort 1672 (6) l’escolle : l’Escole 1672 (7) republique : Republique 1772Ri (8) Ou : Où 1568C 1568I 1597 1600 1610 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Ri 1716 1772Ri, Oú 1605 (9) hors mis : hormis 1653 1665, horsmis 1588Rf 1644 1668 1672 (10) suffoqués : suffoqué 1557B 1568 1588Rf 1589Rg 1590Ro 1597 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1716 1772Ri (11) morts : morrs 1555A, mort 1772Ri **校訂  2行目の Germain は他の名詞との関わりから言っても、Germains と複数になっているべき。なお、[[ピエール・ブランダムール]]の校訂版では1555が Germains で1557Bが Germain となっているが、逆である。 *日本語訳 ゲルマニア人、ガリア人、スペイン人が砦をめぐって繰り広げる イタリアの紛争の一年前、 共和国の建物である学舎が崩れるだろう。 そこではごくわずかな例外を除き、(人々が)窒息死するだろう。 **訳について  [[ピエール・ブランダムール]]は2行目が1行目を修飾していると見ていたので、ここでもその読み方を採用した。上では日本語として自然になるように、1行目と2行目を入れ替えて訳している。なお、pour le fort (直訳は「砦のために/ための」)を「砦をめぐって繰り広げる」とするのは若干意訳しすぎかもしれないが、イタリアの紛争との関係を分かりやすくするために、あえてそのように訳した。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1・2行目 「一年前イタリア人はとりでをかため/ドイツ フランス スペインは強力になり」((大乗 [1975] p.81。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。fort は「とりで」「強力」の両方に対応するため、この語が二重に訳されているらしい一方で、conflit (紛争、衝突)が訳に反映されていない。そもそも2行目の pour le fort (英語に逐語訳すれば for the fort で、大乗訳の元になったと思われる[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳でもそうなっている) を 「強力になる」 と訳すことの妥当性にも疑問がある。また、原文に列挙されているのは民族(国民)名であって、国名ではない。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  2行目 「ドイツ フランス スペインは強いものに味方しよう」((山根 [1988] p.91 。以下、この詩の引用は同じページから。))は、上の指摘と重なるが、国名としているのがまず不適切である。fort は「強者」 とも訳せるので、意訳の範囲としては許容される。  当「大事典」は、[[ピエール・ブランダムール]]に従って 「砦」 とした。なお、[[ピーター・ラメジャラー]]は fort を fortune (の語尾音消失?)と見なしている((Lemesurier [2010]))。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、内容をほとんどそのまま敷衍したような説明をした上で、そのような事件が歴史の中には見つからないと述べた((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]の著書には載っていない。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]]は同時代に当たる1930年代後半についての文脈で取り上げていた((Fontbrune (1938)[1939] pp.159, 287))。  [[ロルフ・ボズウェル]]は1940年5月のヒトラーとムッソリーニの動向と解釈した((Boswell [1943] p.259))。  [[アンドレ・ラモン]]は「共和国の学舎」を国際連盟の隠喩として、第二次世界大戦序盤の動向と解釈した((Lamont [1943] p.154))。  第二次世界大戦序盤とする解釈は[[エリカ・チータム]]、[[ジョン・ホーグ]]らも踏襲した((Cheetham [1973], Hogue (1997)[1999]))。これらの解釈ではイタリアが参戦した1940年の1年前、すなわち1939年について予言されていると解釈される。  [[セルジュ・ユタン]]はブリュメール18日のクーデターと解釈していたが、その補訂を担当した[[ボードワン・ボンセルジャン]]は19世紀末の教育問題の予言とする解釈に差し替えた((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。  [[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は1795年の仏独西の戦争についてと解釈した((Fontbrune [2006] p.125))。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は釈義を示しているだけで、モデルの指摘はしていない。  しかし、詩の意味は明白であろう。当時はイタリア戦争の終盤であり、フランス王アンリ2世とドイツ(神聖ローマ帝国)の皇帝とスペイン王を兼ねていたカール5世の争いは終わっていなかった。  共和国(ヴェネツィアか)で学舎の崩壊事故が起こり、それが、その1年後に再び活発な衝突が起きることの予兆となる、という意味だろう。しかし、このような事件が実際にあったという指摘は見当たらない。  [[ピーター・ラメジャラー]]は学舎を「売春宿」の隠語と解釈し、1494年のフィレンツェ市政の崩壊にモデルを求めた((Lemesurier [2010]))。 ---- #comment
[[百詩篇第2巻]]>39番 *原文 Vn an&sup(){1} deuant le conflit Italique, Germain&sup(){2}, Gaulois&sup(){3}, Hespagnols&sup(){4} pour le fort&sup(){5}: Cherra l'escolle&sup(){6} maison de republique&sup(){7}, Ou&sup(){8}, hors mis&sup(){9} peu, seront suffoqués&sup(){10} morts&sup(){11}. **異文 (1) Vn an : Vn en 1557B, Vn 1600 1610 1716 (2) Germain 1555 1589PV 1649Ca 1650Le 1668 1840 : Germains T.A.Eds. (3) Gaulois : gaulois 1557U 1557B 1590Ro (4) Hespagnols 1555 1840 : hespaignolz 1557U 1568A 1590Ro, espaignolz 1557B, Hespaignolz 1568B, Hespaignols 1568C 1568I 1772Ri, Espagnols 1588-89 1589PV 1605 1611A 1628 1644 1649Ca 1649Xa 1650Le 1653 1665 1668 1672 1716 1981EB, Espaignols 1597 1600 1610 1650Ri, Espagnolz 1611B, Espagools 1627 (5) le fort : leffort 1627, le Fort 1672 (6) l’escolle : l’Escole 1672 (7) republique : Republique 1772Ri (8) Ou : Où 1568C 1568I 1597 1600 1610 1611 1627 1628 1644 1649Xa 1650Ri 1716 1772Ri, Oú 1605 (9) hors mis : hormis 1653 1665, horsmis 1588Rf 1644 1668 1672 (10) suffoqués : suffoqué 1557B 1568 1588Rf 1589Rg 1590Ro 1597 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1716 1772Ri (11) morts : morrs 1555A, mort 1772Ri **校訂  2行目の Germain は他の名詞との関わりから言っても、Germains と複数になっているべき。なお、[[ピエール・ブランダムール]]の校訂版では1555が Germains で1557Bが Germain となっているが、逆である。 *日本語訳 ゲルマニア人、ガリア人、スペイン人が砦をめぐって繰り広げる イタリアの紛争の一年前、 共和国の建物である学舎が崩れるだろう。 そこではごくわずかな例外を除き、(人々が)窒息死するだろう。 **訳について  [[ピエール・ブランダムール]]は2行目が1行目を修飾していると見ていたので、ここでもその読み方を採用した。上では日本語として自然になるように、1行目と2行目を入れ替えて訳している。なお、pour le fort (直訳は「砦のために/ための」)を「砦をめぐって繰り広げる」とするのは若干意訳しすぎかもしれないが、イタリアの紛争との関係を分かりやすくするために、あえてそのように訳した。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1・2行目 「一年前イタリア人はとりでをかため/ドイツ フランス スペインは強力になり」((大乗 [1975] p.81。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。fort は「とりで」「強力」の両方に対応するため、この語が二重に訳されているらしい一方で、conflit (紛争、衝突)が訳に反映されていない。そもそも2行目の pour le fort (英語に逐語訳すれば for the fort で、大乗訳の元になったと思われる[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳でもそうなっている) を 「強力になる」 と訳すことの妥当性にも疑問がある。また、原文に列挙されているのは民族(国民)名であって、国名ではない。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  2行目 「ドイツ フランス スペインは強いものに味方しよう」((山根 [1988] p.91 。以下、この詩の引用は同じページから。))は、上の指摘と重なるが、国名としているのがまず不適切である。fort は「強者」 とも訳せるので、意訳の範囲としては許容される。  当「大事典」は、[[ピエール・ブランダムール]]に従って 「砦」 とした。なお、[[ピーター・ラメジャラー]]は fort を fortune (の語尾音消失?)と見なしている((Lemesurier [2010]))。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]は、内容をほとんどそのまま敷衍したような説明をした上で、そのような事件が歴史の中には見つからないと述べた((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]の著書には載っていない。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]]は同時代に当たる1930年代後半についての文脈で取り上げていた((Fontbrune (1938)[1939] pp.159, 287))。  [[ロルフ・ボズウェル]]は1940年5月のヒトラーとムッソリーニの動向と解釈した((Boswell [1943] p.259))。  [[アンドレ・ラモン]]は「共和国の学舎」を国際連盟の隠喩として、第二次世界大戦序盤の動向と解釈した((Lamont [1943] p.154))。  第二次世界大戦序盤とする解釈は[[エリカ・チータム]]、[[ジョン・ホーグ]]らも踏襲した((Cheetham [1973], Hogue (1997)[1999]))。これらの解釈ではイタリアが参戦した1940年の1年前、すなわち1939年について予言されていると解釈される。  [[セルジュ・ユタン]]はブリュメール18日のクーデターと解釈していたが、その補訂を担当した[[ボードワン・ボンセルジャン]]は19世紀末の教育問題の予言とする解釈に差し替えた((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。  [[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は1795年の仏独西の戦争についてと解釈した((Fontbrune [2006] p.125))。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は釈義を示しているだけで、モデルの指摘はしていない。  しかし、詩の意味は明白であろう。当時はイタリア戦争の終盤であり、フランス王アンリ2世とドイツ(神聖ローマ帝国)の皇帝とスペイン王を兼ねていたカール5世の争いは終わっていなかった。  共和国(ヴェネツィアか)で学舎の崩壊事故が起こり、それが、その1年後に再び活発な衝突が起きることの予兆となる、という意味だろう。しかし、このような事件が実際にあったという指摘は見当たらない。  [[ピーター・ラメジャラー]]は学舎を「売春宿」の隠語と解釈し、1494年のフィレンツェ市政の崩壊にモデルを求めた((Lemesurier [2010]))。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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