「詩百篇第12巻56番」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「詩百篇第12巻56番」(2018/11/16 (金) 01:27:08) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
[[詩百篇第12巻]]>56番*
*原文
Roy contre Roy & le Duc contre Prince,
Haine&sup(){1} entre [[iceux>Iceluy]], dissension&sup(){2} horrible.
Rage & fureur sera toute prouince&sup(){3}:
France grand&sup(){4} guerre & changement terrible.
**異文
(1) Haine : Haîne 1689PA 1689Ma
(2) dissension : dissention 1667Wi 1668P 1689PA 1689Ma 1689Ou 1689Be 1720To 1780MN
(3) toute prouince : toute Province 1667Wi 1672Ga 1689PA 1689Ma 1689Ou, en tout Province 1720To
(4) grand : grand’ 1689Be 1691AB
(注記)1611A 1611B 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1697Vi 1698L では省略されている。
*日本語訳
王に対抗する王、親王に対抗する公爵、
彼らの間に憎悪と甚だしい軋轢が。
憤怒や激高は全土に存在するだろう。
フランスには大きな戦争と過酷な変化が。
**訳について
3行目の province は「地方、州」などの意味だが、現代の辞書でも古語として「国、王国」を載せているものがあるように((『ロベール仏和大辞典』『ロワイヤル仏和中辞典』など))、中期フランス語にもその意味はあった((DMF))。tout がついているのだからその全体ということになる。「全土」という日本語には、「国土全体」と「その地域全体」の両方の意味があるので((『精選版 日本国語大辞典』『明鏡国語辞典』ほか))、この場合の訳語には適していると思われる。
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。
1行目 「王と王 公爵と王子のあらそい」((大乗 [1975] p.312。以下、この詩の引用は同じページから。))は、意訳の範囲だろう。ただ、prince は確かに「王子」の意味もあるが、この場合にそこまで限定するのが適切かは判断がつかない。
2行目「かれらのあいだににくしみがあり 恐怖で不和になり」も意訳の範囲かもしれないが、horrible は形容詞なので、それを「恐怖で」と原因のように扱うことには議論の余地があるかもしれない。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]](1594年)は、対立する王と王をフランス王アンリ3世とナヴァル王アンリ(後のフランス王[[アンリ4世]])と解釈し、1585年の予言とした((Chavigny [1594] p.244))。
[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は時期をより広くとり、宗教戦争期のフランスで、カトリック側のフランス王アンリ3世とプロテスタント側のナヴァル王アンリ、カトリック側のギーズ公とプロテスタント側のコンデ親王などが対立していた状況の予言と解釈しており((Garencieres [1672Ga]))、[[ジョン・ホーグ]]もそれを踏襲している((Hogue [1997]))。
[[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)は、「繰り返し予言されているフランスの内戦」とだけ注記した((Roberts (1947)[1949]))。その日本語訳では「フランス革命の市民戦」と訳されているが、フランス革命と限定している理由が分からない。
[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)は、近未来に起こると想定していたフランスの戦乱と解釈した((Fontbrune (1980)[1982]))。
*同時代的な視点
一読してフランスの内乱を描いているらしいことが明らかである。ただし、この描写から、アンリ3世とナヴァル王アンリ([[アンリ4世]])の対立を的中させたと断言するのは無理だろう。
すでに1550年代には[[ナヴァル王アントワーヌ>アントワーヌ・ド・ブルボン]]が公然とプロテスタント支持の姿勢を示し、プロテスタントに不寛容な姿勢を見せていたフランス王アンリ2世とは対照的であったし、王侯貴族たちの間でカトリック・プロテスタント双方の立場からの動きが騒がしくなりはじめていた((柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『フランス史2』山川出版社、1996年。特に第2章))。ゆえに、1550年代の段階でもこのような詩を作ることは十分可能だったと考えるべきだろう。
*その他
1611A 1611B 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1697Vi 1698L では省略されている。多くの版で省かれたのが単なる偶然か、それとも(王族内部や有力諸侯の衝突を思わせる描写が、反王権的と解釈されることを嫌ったなどの)政治的配慮があったのかはよく分からない。
1672Gaでは52, 55, 56, 59, 62番が、なぜか4, 5, 6, 7, 8番という、不適切な通し番号が振られている。これは1685年版でも直っていない。
1720Toでは、この詩を除く第12巻断片が第12巻65番までに配置され、第8巻補遺篇が同66番~71番、第7巻補遺篇が同72番~75番、[[第6巻補遺篇>百詩篇第6巻100番]]が同76番となっており、この詩は第12巻最後の77番と位置付けられている。
----
#comment
[[詩百篇第12巻]]>56番*
*原文
Roy contre Roy & le Duc contre Prince,
Haine&sup(){1} entre [[iceux>Iceluy]], dissension&sup(){2} horrible.
Rage & fureur sera toute prouince&sup(){3}:
France grand&sup(){4} guerre & changement terrible.
**異文
(1) Haine : Haîne 1689PA 1689Ma
(2) dissension : dissention 1667Wi 1668P 1689PA 1689Ma 1689Ou 1689Be 1720To 1780MN
(3) toute prouince : toute Province 1667Wi 1672Ga 1689PA 1689Ma 1689Ou, en tout Province 1720To
(4) grand : grand’ 1689Be 1691AB
(注記)1611A 1611B 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1697Vi 1698L では省略されている。
*日本語訳
王に対抗する王、親王に対抗する公爵、
彼らの間に憎悪と甚だしい軋轢が。
憤怒や激高は全土に存在するだろう。
フランスには大きな戦争と過酷な変化が。
**訳について
3行目の province は「地方、州」などの意味だが、現代の辞書でも古語として「国、王国」を載せているものがあるように((『ロベール仏和大辞典』『ロワイヤル仏和中辞典』など))、中期フランス語にもその意味はあった((DMF))。tout がついているのだからその全体ということになる。「全土」という日本語には、「国土全体」と「その地域全体」の両方の意味があるので((『精選版 日本国語大辞典』『明鏡国語辞典』ほか))、この場合の訳語には適していると思われる。
既存の訳についてコメントしておく。
[[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。
1行目 「王と王 公爵と王子のあらそい」((大乗 [1975] p.312。以下、この詩の引用は同じページから。))は、意訳の範囲だろう。ただ、prince は確かに「王子」の意味もあるが、この場合にそこまで限定するのが適切かは判断がつかない。
2行目「かれらのあいだににくしみがあり 恐怖で不和になり」も意訳の範囲かもしれないが、horrible は形容詞なので、それを「恐怖で」と原因のように扱うことには議論の余地があるかもしれない。
*信奉者側の見解
[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]](1594年)は、対立する王と王をフランス王アンリ3世とナヴァル王アンリ(後のフランス王[[アンリ4世]])と解釈し、1585年の予言とした((Chavigny [1594] p.244))。
[[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は時期をより広くとり、宗教戦争期のフランスで、カトリック側のフランス王アンリ3世とプロテスタント側のナヴァル王アンリ、カトリック側のギーズ公とプロテスタント側のコンデ親王などが対立していた状況の予言と解釈しており((Garencieres [1672Ga]))、[[ジョン・ホーグ]]もそれを踏襲している((Hogue [1997]))。
[[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)は、「繰り返し予言されているフランスの内戦」とだけ注記した((Roberts (1947)[1949]))。その日本語訳では「フランス革命の市民戦」と訳されているが、フランス革命と限定している理由が分からない。
[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)は、近未来に起こると想定していたフランスの戦乱と解釈した((Fontbrune (1980)[1982]))。
*同時代的な視点
一読してフランスの内乱を描いているらしいことが明らかである。ただし、この描写から、アンリ3世とナヴァル王アンリ([[アンリ4世]])の対立を的中させたと断言するのは無理だろう。
すでに1550年代には[[ナヴァル王アントワーヌ>アントワーヌ・ド・ブルボン]]が公然とプロテスタント支持の姿勢を示し、プロテスタントに不寛容な姿勢を見せていたフランス王アンリ2世とは対照的であったし、王侯貴族たちの間でカトリック・プロテスタント双方の立場からの動きが騒がしくなりはじめていた((柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『フランス史2』山川出版社、1996年。特に第2章))。ゆえに、1550年代の段階でもこのような詩を作ることは十分可能だったと考えるべきだろう。
*その他
1611A 1611B 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1697Vi 1698L では省略されている。多くの版で省かれたのが単なる偶然か、それとも(王族内部や有力諸侯の衝突を思わせる描写が、反王権的と解釈されることを嫌ったなどの)政治的配慮があったのかはよく分からない。
1672Gaでは52, 55, 56, 59, 62番が、なぜか4, 5, 6, 7, 8番という、不適切な通し番号が振られている。これは1685年版でも直っていない。
1720Toでは、この詩を除く第12巻断片が第12巻65番までに配置され、第8巻補遺篇が同66番~71番、第7巻補遺篇が同72番~75番、[[第6巻補遺篇>百詩篇第6巻100番]]が同76番となっており、この詩は第12巻最後の77番と位置付けられている。
----
※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。