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&bold(){ラ・ガルド男爵アントワーヌ・エスカラン・デ・ゼマール} (Antoine Escalin des Aymars, baron de La Garde, 1498年頃 - 1578年) は16世紀フランスの軍人。ノストラダムスの知人であった。
*概要
もともとは農民の子で、若い時にはフランク人と東洋人の混血児を意味するらしい「ポラン」隊長 (le captain Polin) と呼ばれていた。
ギヨーム・デュ・ベレー (ラブレーとも親交のあった軍人・外交官) の推薦を受けて、1541年にはオスマン帝国に大使として派遣され、同盟関係の樹立にも関わった。
1543年にレヴァント海軍大将、1544年にはガレー船団将軍と、順調にキャリアを重ねたが、1545年にリュブロンでの異端派 (ヴァルド派) の掃討の陣頭指揮を執った際に、苛烈な虐殺・破壊行為が行われたことから、3年間投獄されていた時期があった。1552年に釈放されると、ガレー船団将軍の地位に戻ることができた((以上は高田・伊藤 [1999] pp.116-117, 193。生年のみSieburth [2012] p.321))。
*ノストラダムス関連
ノストラダムスは1557年の著書 『ガレノスの釈義』 にラ・ガルド男爵宛の献辞を掲載している。
また、ジャン・モレル宛の手紙(1561年)の中では、ラ・ガルド男爵邸にてモレルの義理の息子と会ったことに触れていたり、1562年8月の別の手紙では男爵からアストロラーベを贈られたことに言及しているなど、ラ・ガルド男爵との親交があったことは明らかとされる((Brind'Amour [1996] p.278, 高田・伊藤 [1999] p.173))。
[[百詩篇集]]では、[[百詩篇第2巻5番]]、[[第2巻59番>百詩篇第2巻59番]]、[[第2巻78番>百詩篇第2巻78番]]、[[第3巻1番>百詩篇第3巻1番]]などに、ラ・ガルド男爵をモデルにした描写が含まれているとされる(第2巻59番では、「守り」と「ラ・ガルド」を掛けて Garde という語が出ている)。
[[予兆詩集]]では[[予兆詩旧2番]]でかなりはっきりと描写されているが、[[ベルナール・シュヴィニャール]]は[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]による偽作であろうと判断している。
ほか、本物かどうか不明だが、[[シャストゥイユが伝えた百詩篇]]の[[断片1>百詩篇断片・1番]]にも、ラ・ガルド男爵が織り込まれている可能性が指摘されている。
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&bold(){ラ・ガルド男爵アントワーヌ・エスカラン・デ・ゼマール} (Antoine Escalin des Aymars, baron de La Garde, 1498年頃 - 1578年) は16世紀フランスの軍人。ノストラダムスの知人であった。
*概要
もともとは農民の子で、若い時にはフランク人と東洋人の混血児を意味するらしい「ポラン」隊長 (le captain Polin) と呼ばれていた。
ギヨーム・デュ・ベレー (ラブレーとも親交のあった軍人・外交官) の推薦を受けて、1541年にはオスマン帝国に大使として派遣され、同盟関係の樹立にも関わった。
1543年にレヴァント海軍大将、1544年にはガレー船団将軍と、順調にキャリアを重ねたが、1545年にリュブロンでの異端派 (ヴァルド派) の掃討の陣頭指揮を執った際に、苛烈な虐殺・破壊行為が行われたことから、3年間投獄されていた時期があった。1552年に釈放されると、ガレー船団将軍の地位に戻ることができた((以上は高田・伊藤 [1999] pp.116-117, 193。生年のみSieburth [2012] p.321))。
*ノストラダムス関連
ノストラダムスは1557年の著書 『ガレノスの釈義』 にラ・ガルド男爵宛の献辞を掲載している。
また、ジャン・モレル宛の手紙(1561年)の中では、ラ・ガルド男爵邸にてモレルの義理の息子と会ったことに触れていたり、1562年8月の別の手紙では男爵からアストロラーベを贈られたことに言及しているなど、ラ・ガルド男爵との親交があったことは明らかとされる((Brind'Amour [1996] p.278, 高田・伊藤 [1999] p.173))。
[[詩百篇集]]では、[[詩百篇第2巻5番>百詩篇第2巻5番]]、[[第2巻59番>百詩篇第2巻59番]]、[[第2巻78番>百詩篇第2巻78番]]、[[第3巻1番>百詩篇第3巻1番]]などに、ラ・ガルド男爵をモデルにした描写が含まれているとされる(第2巻59番では、「守り」と「ラ・ガルド」を掛けて Garde という語が出ている)。
[[予兆詩集]]では[[予兆詩旧2番]]でかなりはっきりと描写されているが、[[ベルナール・シュヴィニャール]]は[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]による偽作であろうと判断している。
ほか、本物かどうか不明だが、[[シャストゥイユが伝えた詩百篇>シャストゥイユが伝えた百詩篇]]の[[断片1>百詩篇断片・1番]]にも、ラ・ガルド男爵が織り込まれている可能性が指摘されている。
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