666

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 &bold(){666}は、新約聖書の『ヨハネの黙示録』に登場する数字である。ノストラダムス解釈本にもよく登場するが、ノストラダムスの作品では、これへの直接的な言及はない。 #amazon(4000081942) 【画像】 『ベアトゥス黙示録註解 ファクンドゥス写本』 岩波書店 *出典  『ヨハネの黙示録』には、こう書かれている。 「そして、卑小な者にも偉大な者にも、金持ちにも貧乏人にも、自由人にも奴隷にも、誰にも皆、その右手か額に刻印を受けさせる。それは、刻印〔のある者〕、つまり、かの獣の名前か、あるいは彼の名前〔を記す文字〕が表す数字のある者のほかは、誰も買ったり売ったりすることができないようにするためである。  ここに、知恵〔を働かせるべき必要〕がある。理性のある者は、かの獣の数字を数え〔て、それにどんな意味があるのかを考え〕なさい。なぜなら、それはある人間の〔名前を表す〕数字だからである。その数字は、六百六十六である」(第13章16 - 18節、小河陽訳)((新約聖書翻訳委員会『ヨハネの黙示録』岩波書店、pp.78, 80)) **解釈  まず、後述するトンデモ解釈とのかかわりで、この数字が「ろく・ろく・ろく」ではなく「ろっぴゃくろくじゅうろく」であることを、確認しておきたい。  上に引用したように、この数字は「ある人間の〔名前を表す〕数字」と明記されている (共同訳は「この数字は人間の名を指している」、新共同訳は「数字は人間を指している」となっている一方、文語訳は単に 「人の数字」、バルバロ訳・田川建三訳では 「人間の数字」((田川訳は田川建三『キリスト教思想への招待』p.300による。))、佐竹明訳では 「人間の数」((佐竹『ヨハネの黙示録』下巻、1989年))で、小河訳も〔 〕部は訳者の補足である。「人間の数字」が何を指すのかについて、名前以外の解釈の余地はあるのかもしれないが、当「大事典」の管理者はギリシア語原典に遡って検証する能力は持たないので、深入りはできない。とりあえず、ジョナサン・カーシュのような外国の学者も人間を指す数字と理解していることを確認しておきたい((ジョナサン・カーシュ『聖なる妄想の歴史』柏書房、2007年、p.105)))。  そして、この数はローマ皇帝[[ネロ]]を指すという説が、ほぼ定説化しているといってよい。  専用の数字(数を表す文字)が存在しなかった古代の言語では、個別の文字を数に対応させることは珍しいことではなかった((『新共同訳 聖書辞典』、田川、前掲書、p.301))。六百六十六はヘブライ文字で「皇帝ネロ」と綴った時の数字の合計と一致している((新約聖書翻訳委員会、前掲書、p.81, 田川、前掲書、p.301))。  写本によってはこの数字を 「616」 としているものがあるが、これもその読み方の傍証とされることがある。ヘブライ式のネロは、その名をネロンと表記するギリシア語の読みに影響されているが、ラテン語ではネロが正しいので、Nに対応する文字を除いて計算した者がいたのだろうという。ヘブライ文字でNに対応する数字は50なので、666からそれを除けば616になるわけだ((田川、前掲書、pp.301-302。佐竹、前掲書、p.236))。  この獣の数字の刻印は、ローマ皇帝の名や肖像を刻んだ貨幣のことと理解される((田川、前掲書、pp.302-306))。実際、「刻印」と訳される原語には、専門用語の用例として「商業文書に捺印する玉璽」や「ローマの貨幣に刻まれた皇帝の肖像」を意味したという((カーシュ、前掲書、p.94))。  なお、右手や額にはさしたる意味がなく、当時のまじない札を貼り付ける場所がたいてい額か右手であったことになぞらえたにすぎないとも言われる((田川、前掲書、pp.306-307))。これについては、古代の商人や職人の組合において、加入の証とされた烙印との関連を示唆する見解もあるが((カーシュ、前掲書、p.94))、いずれにせよ、比喩的な意味であって、それほど深い意味はないのだろう((cf. 田川、前掲書、pp.306-307))。 #amazon(432615375X) 【画像】 田川建三 『キリスト教思想への招待』 *陰謀論  現代のオカルト本や陰謀論に関する文献では、666が「ある人間の〔名前を表す〕数字」とされていることを無視し、バーコードやインターネット(およびそれらを通じた世界支配の陰謀など)と結び付けられることがある。  しかし、懐疑論者の蒲田典弘が『[[検証 予言はどこまで当たるのか]]』で指摘しているように((蒲田「『ヨハネの黙示録』は神の終末計画書だった?」『検証 予言はどこまで当たるのか』))、これらの説は実証主義的な意味での説得力を持たない。  インターネットについては、WWW(World Wide Web)のWに対応するヘブライ文字が6であることから666になると説明されるが、数字を加算していくヘブライ文字の換算だと18にしかならず、六百六十六には程遠い。  バーコードの場合、左右の端と中央にある他より長い二重線が、6に対応する二重線と一致するので、どのバーコードにも「666」が埋め込まれていると主張される。しかし、それはバーコードの仕組みを誤解した奇説に過ぎない。  バーコードで、バーのパターンと数字が対応しているのは確かだが、それは1つのパターンと十進法の数字が一対一で対応することを意味しない。また、黒線だけでなく、空白のラインとの組み合わせにも意味がある。つまり、バーそのものだけでなく、空白のあき方も含めて情報が構成されているのである。そして、6は登場する位置によってパターンが3種類ある。黒線を1、空白を0で表すと、そのパターンは0101111、0000101、1010000のいずれかである((外部リンクの[[piyajk.com>>http://piyajk.com/archives/321]]の説明が視覚的にも分かりやすい))。  これに対し、左右の端の長い線(レフトガードバー、ライトガードバー)は101、中央の長い棒(センターバー)は01010で、6を表すパターンとは一致しない。 *ノストラダムス関連  ノストラダムス本人が、『ヨハネの黙示録』から直接的にモチーフを借用したと思われる箇所は、非常にまれである。当然、666にしても、『予言集』の詩句・章句には直接的には登場しない。  しかし、ノストラダムス予言の信奉者たちが聖書を利用する場合、『ヨハネの黙示録』そのものの人気が高いこともあって、666の数字を解釈に持ち込もうとする論者も少なくなかった。  [[ヘンリー・C・ロバーツ]]は、[[百詩篇第10巻72番]]に登場する1999年という年号について、666を引っくり返すと999になると主張していた((ロバーツ [1975]、Roberts [1982]))。ロバーツは1をどこから導いたのかについてはコメントしていなかった。  [[川尻徹]]はローマ式アルファベットをZ=1, Y=2, ...A=26 と数字に置換していった場合、ヨーゼフ・ゲッベルスの名は合計が216になるとして、6 x 6 x 6 を導けると主張した((川尻『滅亡のシナリオ』祥伝社、pp.128-130))。  しかし、上にも述べたように、666は「六百六十六」である。6を3つ並べた掛け算であると主張することには、説得力がない。川尻は古代ヘブライ語では666のように数字を3つ並べた場合には掛け算になると主張していたが、そもそも古代ヘブライ語には、アラビア数字のようなものがないから、アルファベットに数を当てはめたのである。ありもしなかった「数字」についての主張は、単なる虚構だと判断せざるをえない。  川尻はほかにも[[百詩篇第6巻66番]]をマルセル・ルフェーブル大司教の活動と結びつけた際に、詩番号は666の獣を示しているとしたり((川尻『ノストラダムスメシアの法』pp.85-88))、[[百詩篇第2巻22番]]の解釈の中で、詩番号は実は666を指しているとして、近未来に現れるドイツの独裁者のことだとするなど((川尻『ノストラダムス最後の天啓』pp.180-181))、たびたび解釈を変えていた。  このほか、[[浅利幸彦]]のように、上で述べたバーコード説を採る論者もいた。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
 &bold(){666}は、新約聖書の『ヨハネの黙示録』に登場する数字である。ノストラダムス解釈本にもよく登場するが、ノストラダムスの作品では、これへの直接的な言及はない。 #amazon(4000081942) 【画像】 『ベアトゥス黙示録註解 ファクンドゥス写本』 岩波書店 *出典  『ヨハネの黙示録』には、こう書かれている。 「そして、卑小な者にも偉大な者にも、金持ちにも貧乏人にも、自由人にも奴隷にも、誰にも皆、その右手か額に刻印を受けさせる。それは、刻印〔のある者〕、つまり、かの獣の名前か、あるいは彼の名前〔を記す文字〕が表す数字のある者のほかは、誰も買ったり売ったりすることができないようにするためである。  ここに、知恵〔を働かせるべき必要〕がある。理性のある者は、かの獣の数字を数え〔て、それにどんな意味があるのかを考え〕なさい。なぜなら、それはある人間の〔名前を表す〕数字だからである。その数字は、六百六十六である」(第13章16 - 18節、小河陽訳)((新約聖書翻訳委員会『ヨハネの黙示録』岩波書店、pp.78, 80)) **解釈  まず、後述するトンデモ解釈とのかかわりで、この数字が「ろく・ろく・ろく」ではなく「ろっぴゃくろくじゅうろく」であることを、確認しておきたい。  上に引用したように、この数字は「ある人間の〔名前を表す〕数字」と明記されている (共同訳は「この数字は人間の名を指している」、新共同訳は「数字は人間を指している」となっている一方、文語訳は単に 「人の数字」、バルバロ訳・田川建三訳では 「人間の数字」((田川訳は田川建三『キリスト教思想への招待』p.300による。))、佐竹明訳では 「人間の数」((佐竹『ヨハネの黙示録』下巻、1989年))で、小河訳も〔 〕部は訳者の補足である。「人間の数字」が何を指すのかについて、名前以外の解釈の余地はあるのかもしれないが、当「大事典」の管理者はギリシア語原典に遡って検証する能力は持たないので、深入りはできない。とりあえず、ジョナサン・カーシュのような外国の学者も人間を指す数字と理解していることを確認しておきたい((ジョナサン・カーシュ『聖なる妄想の歴史』柏書房、2007年、p.105)))。  そして、この数はローマ皇帝[[ネロ]]を指すという説が、ほぼ定説化しているといってよい。  専用の数字(数を表す文字)が存在しなかった古代の言語では、個別の文字を数に対応させることは珍しいことではなかった((『新共同訳 聖書辞典』、田川、前掲書、p.301))。六百六十六はヘブライ文字で「皇帝ネロ」と綴った時の数字の合計と一致している((新約聖書翻訳委員会、前掲書、p.81, 田川、前掲書、p.301))。  写本によってはこの数字を 「616」 としているものがあるが、これもその読み方の傍証とされることがある。ヘブライ式のネロは、その名をネロンと表記するギリシア語の読みに影響されているが、ラテン語ではネロが正しいので、Nに対応する文字を除いて計算した者がいたのだろうという。ヘブライ文字でNに対応する数字は50なので、666からそれを除けば616になるわけだ((田川、前掲書、pp.301-302。佐竹、前掲書、p.236))。  この獣の数字の刻印は、ローマ皇帝の名や肖像を刻んだ貨幣のことと理解される((田川、前掲書、pp.302-306))。実際、「刻印」と訳される原語には、専門用語の用例として「商業文書に捺印する玉璽」や「ローマの貨幣に刻まれた皇帝の肖像」を意味したという((カーシュ、前掲書、p.94))。  なお、右手や額にはさしたる意味がなく、当時のまじない札を貼り付ける場所がたいてい額か右手であったことになぞらえたにすぎないとも言われる((田川、前掲書、pp.306-307))。これについては、古代の商人や職人の組合において、加入の証とされた烙印との関連を示唆する見解もあるが((カーシュ、前掲書、p.94))、いずれにせよ、比喩的な意味であって、それほど深い意味はないのだろう((cf. 田川、前掲書、pp.306-307))。 #amazon(432615375X) 【画像】 田川建三 『キリスト教思想への招待』 *陰謀論  現代のオカルト本や陰謀論に関する文献では、666が「ある人間の〔名前を表す〕数字」とされていることを無視し、バーコードやインターネット(およびそれらを通じた世界支配の陰謀など)と結び付けられることがある。  しかし、懐疑論者の蒲田典弘が『[[検証 予言はどこまで当たるのか]]』で指摘しているように((蒲田「『ヨハネの黙示録』は神の終末計画書だった?」『検証 予言はどこまで当たるのか』))、これらの説は実証主義的な意味での説得力を持たない。  インターネットについては、WWW(World Wide Web)のWに対応するヘブライ文字が6であることから666になると説明されるが、数字を加算していくヘブライ文字の換算だと18にしかならず、六百六十六には程遠い。  バーコードの場合、左右の端と中央にある他より長い二重線が、6に対応する二重線と一致するので、どのバーコードにも「666」が埋め込まれていると主張される。しかし、それはバーコードの仕組みを誤解した奇説に過ぎない。  バーコードで、バーのパターンと数字が対応しているのは確かだが、それは1つのパターンと十進法の数字が一対一で対応することを意味しない。また、黒線だけでなく、空白のラインとの組み合わせにも意味がある。つまり、バーそのものだけでなく、空白のあき方も含めて情報が構成されているのである。そして、6は登場する位置によってパターンが3種類ある。黒線を1、空白を0で表すと、そのパターンは0101111、0000101、1010000のいずれかである((外部リンクの[[piyajk.com>>http://piyajk.com/archives/321]]の説明が視覚的にも分かりやすい))。  これに対し、左右の端の長い線(レフトガードバー、ライトガードバー)は101、中央の長い棒(センターバー)は01010で、6を表すパターンとは一致しない。 *ノストラダムス関連  ノストラダムス本人が、『ヨハネの黙示録』から直接的にモチーフを借用したと思われる箇所は、非常にまれである。当然、666にしても、『予言集』の詩句・章句には直接的には登場しない。  しかし、ノストラダムス予言の信奉者たちが聖書を利用する場合、『ヨハネの黙示録』そのものの人気が高いこともあって、666の数字を解釈に持ち込もうとする論者も少なくなかった。  [[ヘンリー・C・ロバーツ]]は、[[詩百篇第10巻72番]]に登場する1999年という年号について、666を引っくり返すと999になると主張していた((ロバーツ [1975]、Roberts [1982]))。ロバーツは1をどこから導いたのかについてはコメントしていなかった。  [[川尻徹]]はローマ式アルファベットをZ=1, Y=2, ...A=26 と数字に置換していった場合、ヨーゼフ・ゲッベルスの名は合計が216になるとして、6 x 6 x 6 を導けると主張した((川尻『滅亡のシナリオ』祥伝社、pp.128-130))。  しかし、上にも述べたように、666は「六百六十六」である。6を3つ並べた掛け算であると主張することには、説得力がない。川尻は古代ヘブライ語では666のように数字を3つ並べた場合には掛け算になると主張していたが、そもそも古代ヘブライ語には、アラビア数字のようなものがないから、アルファベットに数を当てはめたのである。ありもしなかった「数字」についての主張は、単なる虚構だと判断せざるをえない。  川尻はほかにも[[詩百篇第6巻66番>百詩篇第6巻66番]]をマルセル・ルフェーブル大司教の活動と結びつけた際に、詩番号は666の獣を示しているとしたり((川尻『ノストラダムスメシアの法』pp.85-88))、[[詩百篇第2巻22番>百詩篇第2巻22番]]の解釈の中で、詩番号は実は666を指しているとして、近未来に現れるドイツの独裁者のことだとするなど((川尻『ノストラダムス最後の天啓』pp.180-181))、たびたび解釈を変えていた。  このほか、[[浅利幸彦]]のように、上で述べたバーコード説を採る論者もいた。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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