ノストラダムスは知っていた

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 『&bold(){ノストラダムスは知っていた}』は、1999年に徳間書店から刊行された[[浅利幸彦]]の著書。 #amazon(4198609772) 【画像】 カバー表紙 *内容  全7章である。 [[山本弘]]も指摘していたように((山本『トンデモ大予言の後始末』p.185))、基本的なストーリーは『[[セザール・ノストラダムスの超時空最終預言]]』(1992年)と大差がない。 *コメント  基本的なストーリーの問題点は、[[セザール・ノストラダムスの超時空最終預言]]の記事や[[浅利幸彦]]の記事で指摘したことがほぼそのまま当てはまる。  この本だけに出てくる問題点を、とりあえず1点だけ挙げておく。この点は、浅利が『聖書』について、ごく基本的な認識すら持ち合わせていないことを強く疑わせるものである。 **聖書最大の謎  浅利は『聖書』について、こう述べる。 -『聖書』最大の謎は、「真の作者が誰であるのか」ということである。そしてこの問題は長い間議論されてきた。「『聖書』は何十人もの預言者や聖書作家によって、何百年もの長い期間にわたって書き上げられた書物である。しかし、それにもかかわらず、『聖書』はあたかも一人の作者の手によって書かれた書物であるかのように全体が統一されている」((同書、p.34))  浅利は、天使的未来人がテレパシーを送って書かせたからこそ、このような統一性が生まれたと主張している。  反論するまでもない珍説であるが、念のため、神学博士ら、まともな聖書学者の見解をいくつか引いておこう。 -ルカの言葉ないしはその文学的な形体はマルコのそれとは異なっている。パウロはヘブル人への手紙の著者とは異なった文学形体や思考方法をとっている。(略)その事実がわれわれの神学を形づくるものでなければならない。(F.V.フィルソン)((茂泉昭男訳『聖書正典の研究』日本基督教団出版局、1969年、p.38)) -新約聖書は拘束力を持つキリスト教教説の総和のようなものである(略)という、通俗的な意味での教義学的見解を退けておかなければならない。このような錯覚に屈するものは、必然的に、四福音書内部にある(特にいわゆる共観福音書とヨハネとの)著しい相違、使徒行伝とパウロとの著しい相違、パウロとヤコブとの著しい相違等々を無視し、新約聖書の著者たちが皆およそ同じことを述べていると見るまでにテキストを磨滅させてしまうに違いない。(G.ボルンカム)((佐竹明訳『新約聖書』新教出版社、1972年、p.22)) -正典の第三の原理は「統一性」である。しかしこれが一番無理をしている。(略)はじめから統一性に配慮して正典たるために書かれた文書ならともかく、もともと異なる著者たちがそれぞれ異なることを記した、時代的にもかなり広がりのある多くの文書を集めてきて、みんな相互にまったく矛盾なく同じ福音の真理を表現している、などと言い張るのは、いかにも無理というものだ。(田川建三)((田川『書物としての新約聖書』勁草書房、1997年、pp.169-170)) -新約聖書には全体として何が書かれているかを簡単に紹介すべきかもしれない。しかしそのようなことは不可能である。つまり新約聖書の内容には全体として何か統一的な主張があると考えがちだが、じつは新約聖書の各文書では、多くの場合、互いに相容れない立場が主張されているといったほうが適切である。(加藤隆)((加藤『「新約聖書」の誕生』講談社、1999年、p.9))  旧約聖書にしても、その冒頭のモーセ五書からして、いわゆるヤハウェ資料、祭司資料、エロヒム資料という三つの異なる系統の資料が組み合わさっている((関根正雄「解説」『創世記』岩波文庫))。浅利が好んで引用する『イザヤ書』にしても、いわゆる第二イザヤ、第三イザヤの問題 (『イザヤ書』第40章以降が、それ以前の章と大きく異なっていることから、無名の別の預言者の作品が組み込まれていることが確実視されている) が存在している((関根正雄「解説」『イザヤ書・下』岩波文庫))。  要するに、統一性が幻想であることなど聖書学者にとっては自明なのである。もちろん、統一性を支持するキリスト教徒もいるだろうが、それを「『聖書』最大の謎」などと持ち上げるのは的外れも甚だしい。彼がまともに聖書を通読するか、聖書学者による入門書の類でも読んでいれば、ここまで的外れな主張は展開せずに済んだのではないかと思われる。  いずれにせよ、統一性の存在していることが天使的未来人の介在の証拠だというのなら、逆に、一人の人間が書いたなどというには程遠いという事実によって、浅利の説は否定される。 ---- #comment
 『&bold(){ノストラダムスは知っていた}』は、1999年に徳間書店から刊行された[[浅利幸彦]]の著書。 #amazon(4198609772) 【画像】 カバー表紙 *内容  全7章である。 [[山本弘]]も指摘していたように((山本『トンデモ大予言の後始末』p.185))、基本的なストーリーは『[[セザール・ノストラダムスの超時空最終預言]]』(1992年)と大差がない。 *コメント  基本的なストーリーの問題点は、[[セザール・ノストラダムスの超時空最終預言]]の記事や[[浅利幸彦]]の記事で指摘したことがほぼそのまま当てはまる。  この本だけに出てくる問題点を、とりあえず1点だけ挙げておく。この点は、浅利が『聖書』について、ごく基本的な認識すら持ち合わせていないことを強く疑わせるものである。 **聖書最大の謎  浅利は『聖書』について、こう述べる。 -『聖書』最大の謎は、「真の作者が誰であるのか」ということである。そしてこの問題は長い間議論されてきた。「『聖書』は何十人もの預言者や聖書作家によって、何百年もの長い期間にわたって書き上げられた書物である。しかし、それにもかかわらず、『聖書』はあたかも一人の作者の手によって書かれた書物であるかのように全体が統一されている」((同書、p.34))  浅利は、天使的未来人がテレパシーを送って書かせたからこそ、このような統一性が生まれたと主張している。  反論するまでもない珍説であるが、念のため、神学博士ら、まともな聖書学者の見解をいくつか引いておこう。 -ルカの言葉ないしはその文学的な形体はマルコのそれとは異なっている。パウロはヘブル人への手紙の著者とは異なった文学形体や思考方法をとっている。(略)その事実がわれわれの神学を形づくるものでなければならない。(F.V.フィルソン)((茂泉昭男訳『聖書正典の研究』日本基督教団出版局、1969年、p.38)) -新約聖書は拘束力を持つキリスト教教説の総和のようなものである(略)という、通俗的な意味での教義学的見解を退けておかなければならない。このような錯覚に屈するものは、必然的に、四福音書内部にある(特にいわゆる共観福音書とヨハネとの)著しい相違、使徒行伝とパウロとの著しい相違、パウロとヤコブとの著しい相違等々を無視し、新約聖書の著者たちが皆およそ同じことを述べていると見るまでにテキストを磨滅させてしまうに違いない。(G.ボルンカム)((佐竹明訳『新約聖書』新教出版社、1972年、p.22)) -正典の第三の原理は「統一性」である。しかしこれが一番無理をしている。(略)はじめから統一性に配慮して正典たるために書かれた文書ならともかく、もともと異なる著者たちがそれぞれ異なることを記した、時代的にもかなり広がりのある多くの文書を集めてきて、みんな相互にまったく矛盾なく同じ福音の真理を表現している、などと言い張るのは、いかにも無理というものだ。(田川建三)((田川『書物としての新約聖書』勁草書房、1997年、pp.169-170)) -新約聖書には全体として何が書かれているかを簡単に紹介すべきかもしれない。しかしそのようなことは不可能である。つまり新約聖書の内容には全体として何か統一的な主張があると考えがちだが、じつは新約聖書の各文書では、多くの場合、互いに相容れない立場が主張されているといったほうが適切である。(加藤隆)((加藤『「新約聖書」の誕生』講談社、1999年、p.9))  旧約聖書にしても、その冒頭のモーセ五書からして、いわゆるヤハウェ資料、祭司資料、エロヒム資料という三つの異なる系統の資料が組み合わさっている((関根正雄「解説」『創世記』岩波文庫))。浅利が好んで引用する『イザヤ書』にしても、いわゆる第二イザヤ、第三イザヤの問題 (『イザヤ書』第40章以降が、それ以前の章と大きく異なっていることから、無名の別の預言者の作品が組み込まれていることが確実視されている) が存在している((関根正雄「解説」『イザヤ書・下』岩波文庫))。  要するに、文体まで含めた統一性を無批判に支持しえないことなど聖書学者にとっては自明なのである。もちろん、宗派によって統一性を支持するキリスト教徒もいるだろうし、そのような信仰を否定するつもりはないが、浅利のように伝統的な聖書無謬説とは全く異なる(ある意味で冒涜的な)立場の論者が、「『聖書』最大の謎」などと持ち上げるのは的外れも甚だしい。彼がまともに聖書を通読するか、聖書学者による入門書の類でも読んでいれば、ここまで的外れな主張は展開せずに済んだのではないかと思われる。  いずれにせよ、統一性の存在していることが天使的未来人の介在の証拠だというのなら、逆に、一人の人間が書いたなどというには程遠いという事実によって、浅利の説は否定される。 ---- #comment

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