百詩篇第4巻49番

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[[百詩篇第4巻]]>49番 *原文 Deuant le peuple sang sera respandu&sup(){1} Que du haut ciel&sup(){2} ne viendra eslogner&sup(){3}: Mais d'vn long temps&sup(){4} ne sera entendu L'esprit&sup(){5} d'vn seul le viendra tesmoigner&sup(){6}. **異文 (1) respandu : respand 1649Xa (2) ciel : Ciel 1589PV 1672 (3) eslogner 1555 1840 : esloigner &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : eslongner 1588-89 1589PV 1649Ca 1650Le 1668, eloigner 1716) (4) long temps : lon temps 1627 1630Ma, long-temps 1644 1649Ca 1650Le 1653 1668 1772Ri, longtemps 1665, lo ng temps 1716 (5) L'esprit : L'Esprit 1672 (6) tesmoigner : tesmoigne# 1555A, tesmogner 1630Ma, temoigner 1716 (注記)1555A の tesmoigner は r が逆に印字(#で代用) **校訂  2行目 eslogner は4行目との押韻から言っても esloigner とすべきではないかと思われるが、[[ピエール・ブランダムール]]は特に何も校訂していない(彼は異文自体、一切触れていない)。[[ブリューノ・プテ=ジラール]]は esloigner としているが、彼も異文にはまったく触れていない。  なお、DMFには esloigner の綴りの揺れとして eslongner のみが挙がっている。DFEは esloigner の揺れとして esloingner のみを挙げている。 *日本語訳 民衆の前で血が流されるだろう、 高き天から隔たらなくなるであろう人物の。 しかし、長いあいだ理解されないだろう。 一人だけの精神がそれを証言することになろう。 **訳について  構文理解上、それほど難しい点はない。ただし、4行目の「精神」と訳した語の原語は訳し方の幅が広い esprit であり、気質、魂、才知など、いくつもの訳し方がありうる。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「人のまえで血がこぼれ」((大乗 [1975] p.135。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳とはいえないが、peuple (人々、民衆)の前で、というニュアンスが伝わりづらいように思われる。  2行目「高き天から遠くはなれて くることなく」は誤訳。この場合の venir + 不定法は「~するようになる」の意味で、「はなれる」と「くる」を分けて訳すのは不適切だろう。  3行目「ときにはながいあいだ聞こえず」の「ときには」の出所が不明。Mais はごく一般的な逆接の接続詞である。  4行目「人の霊はそれをいつか目撃するようになるだろう」も不適切。un seul は「ただ一人の人」を意味するので、単に「人」ではそのニュアンスが出ないし、1行目の peuple とこの行の un seul がどちらも「人」で統一されているのでは、意味の違いが伝わらない。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  2行目「それは高い空から遠くへはゆかぬ」((山根 [1988] p.162。以下、この詩の引用は同じページから。))は venir + 不定法のニュアンスが十分に現れていないように思われる。  3行目「しかし永らくそれは耳にとどかない」はentendre に「聞く」「理解する」の意味合いがあることからすれば誤りではない。当「大事典」で「理解する」を採用したのは、[[ピーター・ラメジャラー]]の英訳で understood が使われていることや[[ジャン=ポール・クレベール]]の釈義で comprit が使われていることに従ったものである。なお、[[リチャード・シーバース]]は unheeded (聞かれても顧みられない)を使っている。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]はこの詩の情景について「さる公正な人物が公然と殺され、その血 (His blood, 血族?) が天に叫ぶだろうが、誰かに発見されるまでの相応の期間、それが聞き届けられることはない」ということとしていたが、具体的な事件とは結び付けなかった((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はほとんどいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]](1938年)はフランス革命期のルイ16世の処刑と解釈した((Fontbrune (1938)[1939] p.82, Fontbrune [1975] p.98))。この解釈は息子の[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)も踏襲した((Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] p.141))。  [[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)は当初、ガランシエールの解釈(というか釈義)をほとんどそのまま丸写しにしていただけだったが、後の改訂版ではジョン・F・ケネディやロバート・ケネディの暗殺と関連付ける解釈に差し替えられた((Roberts (1947)[1949], Roberts (1947)[1994]))。ケネディ暗殺と結びつける解釈は[[ジョン・ホーグ]](1997年)も展開した((Hogue (1997)[1999]))。  [[エリカ・チータム]](1973年)は詩の情景を大まかに敷衍しただけで、具体的な史実などとは結び付けていなかった((Cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)は第二次世界大戦中の空爆で多くの犠牲が出たことと解釈した((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。  [[ヴライク・イオネスク]](1993年)は三島由紀夫の自決と解釈し、4行目の人物は、理解されていない三島の最期についての再評価につながる人物としたが、その人物の出現は未来のことだろうと解釈した((イオネスク [1993] pp.218-234))。[[竹本忠雄]](2011年)は、4行目の人物を未来のこととする点も含めて、イオネスクの解釈を踏襲した((竹本 [2011] pp.740-744))。 *同時代的な視点  [[エドガー・レオニ]]は「どうしようもなく曖昧で漠然としている」とコメントしていた((Leoni [1961]))。  [[エヴリット・ブライラー]]は「宮廷でのことか?」と一言コメントしただけだった((LeVert [1979]))。  [[ピエール・ブランダムール]]は、2行目の「高き天から隔たっていない」という表現について「死から遠くない」という意味ではないかと注記しており、詩の情景について、群衆の面前で負傷したにもかかわらず、彼への注意を喚起する人物が現れるまでは死んだものと見なして捨て置かれるといった情景か、さもなくばガランシエールが示したような情景ではないかとしたものの、具体的な歴史モデルなどには触れていなかった((Brind'Amour [1996]))。  [[ロジェ・プレヴォ]]は、1561年のアンボワーズの陰謀がモデルと推測したが((Prévost [1999] p.66))、この詩の初出は1555年なので、その読みは採用できないだろう。  [[ピーター・ラメジャラー]]は、2003年の時点では出典を特定できていなかったが、2010年になると、1478年の復活祭の時期に殺されたジュリアーノ・デ・メディチについて、1553年になってアンジェロ・ポリツィアーノが著書に記したことがモデルになっていると解釈した((Lemesurier [2010]))。  詩の情景はブランダムールらが言うようなものか、さもなくば、公衆の面前で一人の(おそらく正しい)人物が殺されるが、人々からはその死そのものないし死の意味が顧みられることはなく、その死について喚起する人物が後で現れるといった情景であろう。しかし、レオニも指摘するように、この詩の情景はかなり曖昧である。  である以上、それこそ前半は例えばイエスの磔刑などをモデルと想定することもできるかもしれない。その場合、イエスについて証する一人だけの人物とは、福音記者の中の誰か一人か、さもなくば使徒の中でも生前のイエスと面識がなく、復活のイエスの言葉を聴いて回心したというパウロあたりに当てはめられるだろうか (もっとも、イエスの死から福音書の執筆まで数十年の開きがあったと考えられている福音記者はともかく、西暦30年代と推測されているパウロの回心は、「長い間」という間隔には似つかわしくないかもしれない)。なお、「一人だけ」(un seul)は不定冠詞が使われているので、たとえば「一人だけの精神(エスプリ)」を「唯一神の位格である聖霊」などと解することはできない。  現代では、自分こそが『[[聖書]]』の真のメッセージを解読したと主張する輩は後を絶たない。そういう輩に (この詩の前半はイエスがモデルになっているという前提で) この詩の後半についてどう思うかと訊けば、嬉々として自分のことだと主張する者も少なくないかもしれない。しかし、そうした人物の信者でもない限り、そういう妄言に付き合う義理などないだろう。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 #comment
[[百詩篇第4巻]]>49番 *原文 Deuant le peuple sang sera respandu&sup(){1} Que du haut ciel&sup(){2} ne viendra eslogner&sup(){3}: Mais d'vn long temps&sup(){4} ne sera entendu L'esprit&sup(){5} d'vn seul le viendra tesmoigner&sup(){6}. **異文 (1) respandu : respand 1649Xa (2) ciel : Ciel 1589PV 1672 (3) eslogner 1555 1840 : esloigner &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : eslongner 1588-89 1589PV 1649Ca 1650Le 1668, eloigner 1716) (4) long temps : lon temps 1627 1630Ma, long-temps 1644 1649Ca 1650Le 1653 1668 1772Ri, longtemps 1665, lo ng temps 1716 (5) L'esprit : L'Esprit 1672 (6) tesmoigner : tesmoigne# 1555A, tesmogner 1630Ma, temoigner 1716 (注記)1555A の tesmoigner は r が逆に印字(#で代用) **校訂  2行目 eslogner は4行目との押韻から言っても esloigner とすべきではないかと思われるが、[[ピエール・ブランダムール]]は特に何も校訂していない(彼は異文自体、一切触れていない)。[[ブリューノ・プテ=ジラール]]は esloigner としているが、彼も異文にはまったく触れていない。  なお、DMFには esloigner の綴りの揺れとして eslongner のみが挙がっている。DFEは esloigner の揺れとして esloingner のみを挙げている。 *日本語訳 民衆の前で血が流されるだろう、 高き天から隔たらなくなるであろう人物の。 しかし、長いあいだ理解されないだろう。 一人だけの精神がそれを証言することになろう。 **訳について  構文理解上、それほど難しい点はない。ただし、4行目の「精神」と訳した語の原語は訳し方の幅が広い esprit であり、気質、魂、才知など、いくつもの訳し方がありうる。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「人のまえで血がこぼれ」((大乗 [1975] p.135。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳とはいえないが、peuple (人々、民衆)の前で、というニュアンスが伝わりづらいように思われる。  2行目「高き天から遠くはなれて くることなく」は誤訳。この場合の venir + 不定法は「~するようになる」の意味で、「はなれる」と「くる」を分けて訳すのは不適切だろう。  3行目「ときにはながいあいだ聞こえず」の「ときには」の出所が不明。Mais はごく一般的な逆接の接続詞である。  4行目「人の霊はそれをいつか目撃するようになるだろう」も不適切。un seul は「ただ一人の人」を意味するので、単に「人」ではそのニュアンスが出ないし、1行目の peuple とこの行の un seul がどちらも「人」で統一されているのでは、意味の違いが伝わらない。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  2行目「それは高い空から遠くへはゆかぬ」((山根 [1988] p.162。以下、この詩の引用は同じページから。))は venir + 不定法のニュアンスが十分に現れていないように思われる。  3行目「しかし永らくそれは耳にとどかない」はentendre に「聞く」「理解する」の意味合いがあることからすれば誤りではない。当「大事典」で「理解する」を採用したのは、[[ピーター・ラメジャラー]]の英訳で understood が使われていることや[[ジャン=ポール・クレベール]]の釈義で comprit が使われていることに従ったものである。なお、[[リチャード・シーバース]]は unheeded (聞かれても顧みられない)を使っている。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]]はこの詩の情景について「さる公正な人物が公然と殺され、その血 (His blood, 血族?) が天に叫ぶだろうが、誰かに発見されるまでの相応の期間、それが聞き届けられることはない」ということとしていたが、具体的な事件とは結び付けなかった((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はほとんどいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。  [[マックス・ド・フォンブリュヌ]](1938年)はフランス革命期のルイ16世の処刑と解釈した((Fontbrune (1938)[1939] p.82, Fontbrune [1975] p.98))。この解釈は息子の[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]](1980年)も踏襲した((Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] p.141))。  [[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)は当初、ガランシエールの解釈(というか釈義)をほとんどそのまま丸写しにしていただけだったが、後の改訂版ではジョン・F・ケネディやロバート・ケネディの暗殺と関連付ける解釈に差し替えられた((Roberts (1947)[1949], Roberts (1947)[1994]))。ケネディ暗殺と結びつける解釈は[[ジョン・ホーグ]](1997年)も展開した((Hogue (1997)[1999]))。  [[エリカ・チータム]](1973年)は詩の情景を大まかに敷衍しただけで、具体的な史実などとは結び付けていなかった((Cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)は第二次世界大戦中の空爆で多くの犠牲が出たことと解釈した((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。  [[ヴライク・イオネスク]](1993年)は三島由紀夫の自決と解釈し、4行目の人物は、理解されていない三島の最期についての再評価につながる人物としたが、その人物の出現は未来のことだろうと解釈した((イオネスク [1993] pp.218-234))。[[竹本忠雄]](2011年)は、4行目の人物を未来のこととする点も含めて、イオネスクの解釈を踏襲した((竹本 [2011] pp.740-744))。 *同時代的な視点  [[エドガー・レオニ]]は「どうしようもなく曖昧で漠然としている」とコメントしていた((Leoni [1961]))。  [[エヴリット・ブライラー]]は「宮廷でのことか?」と一言コメントしただけだった((LeVert [1979]))。  [[ピエール・ブランダムール]]は、2行目の「高き天から隔たっていない」という表現について「死から遠くない」という意味ではないかと注記しており、詩の情景について、群衆の面前で負傷したにもかかわらず、彼への注意を喚起する人物が現れるまでは死んだものと見なして捨て置かれるといった情景か、さもなくばガランシエールが示したような情景ではないかとしたものの、具体的な歴史モデルなどには触れていなかった((Brind'Amour [1996]))。  [[ロジェ・プレヴォ]]は、1561年のアンボワーズの陰謀がモデルと推測したが((Prévost [1999] p.66))、この詩の初出は1555年なので、その読みは採用できないだろう。  [[ピーター・ラメジャラー]]は、2003年の時点では出典を特定できていなかったが、2010年になると、1478年の復活祭の時期に殺されたジュリアーノ・デ・メディチについて、1553年になってアンジェロ・ポリツィアーノが著書に記したことがモデルになっていると解釈した((Lemesurier [2010]))。  詩の情景はブランダムールらが言うようなものか、さもなくば、公衆の面前で一人の(おそらく正しい)人物が殺されるが、人々からはその死そのものないし死の意味が顧みられることはなく、その死について喚起する人物が後で現れるといった情景であろう。しかし、レオニも指摘するように、この詩の情景はかなり曖昧である。  である以上、それこそ前半は例えばイエスの磔刑などをモデルと想定することもできるかもしれない。その場合、イエスについて証する一人だけの人物とは、福音記者の中の誰か一人か、さもなくば使徒の中でも生前のイエスと面識がなく、復活のイエスの言葉を聴いて回心したというパウロあたりに当てはめられるだろうか (もっとも、イエスの死から福音書の執筆まで数十年の開きがあったと考えられている福音記者はともかく、西暦30年代と推測されているパウロの回心は、「長い間」という間隔には似つかわしくないかもしれない)。なお、「一人だけ」(un seul)は不定冠詞が使われているので、たとえば「一人だけの精神(エスプリ)」を「唯一神の位格である聖霊」などと解することはできない。  現代では、自分こそが『[[聖書]]』の真のメッセージを解読したと主張する輩は後を絶たない。そういう輩に (この詩の前半はイエスがモデルになっているという前提で) この詩の後半についてどう思うかと訊けば、嬉々として自分のことだと主張する者も少なくないかもしれない。しかし、そうした人物の信者でもない限り、そういう妄言に付き合う義理などないだろう。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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