詩百篇第9巻23番

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[[詩百篇第9巻]]>23番* *原文 [[Puisnay>puisnay]]&sup(){1} iouant&sup(){2} au fresch&sup(){3} dessouz&sup(){4} la tonne, Le hault du toict du milieu sur la teste, Le pere&sup(){5} roy&sup(){6} au temple&sup(){7} saint&sup(){8} [[Solonne]]&sup(){9}, Sacrifiant sacrera [[fum]] de feste. **異文 (1) Puisnay : Puisné 1590Ro (2) iouant 1568 1590Ro 1603Mo 1650Mo 1653AB 1672Ga : ioüant 1591BR & &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : jovant 1772Ri) (3) fresch : frech 1568C 1627Di (4) dessouz : de souz 1590Ro, desous 1611B 1981EB (5) pere : Pere 1672Ga 1716PR (6) roy 1568X 1568A 1568B 1590Ro : Roy &italic(){T.A.Eds.} (7) temple : Temple 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1672Ga (8) sainct : Sainct 1590Ro 1644Hu 1672Ga (9) Solonne : Salonne 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1627Di 1627Ma 1644Hu 1650Mo 1650Ri 1650Le 1667Wi 1668 1720To 1840, Salone 1716PR *日本語訳 より若い者が冷涼な場所で戯れ、大樽の下に。 (その大樽は)屋根の高み、その中央から頭上へと(落ちたものである)。 父である王はソロンヌの聖なる殿堂で 贖罪のため祭礼の香を聖別するだろう。 **別訳 より若い者が荒野のあずまやの下で戯れていると、 その中央の屋根が頭上へと。 父である王は聖ソロンヌ教会で 儀式をして祭礼の香を聖別するだろう。 **訳について  当「大事典」の訳は、[[ロジェ・プレヴォ]]の読みにある程度引きつけた。ただし、訳の幅が広いことから、別の訳の可能性を『別訳』として提示した。  1行目 fresch は『予言集』ではここにしか出てこない。[[エドガー・レオニ]]や[[ピーター・ラメジャラー]]は frais (清新な、冷涼な)と同一視しており、[[マリニー・ローズ]]もフランク語に遡る語源説明とともに、frais と同一視していた((Leoni [1961], Lemesurier [2003b], Rose [2002c]))。  DMF には項目がないが、frais の文例には freiche という綴りが見られる。他方、DALFでは、fresche は「荒地」(terre en friche)の意味とある((DALF, T.04, p.140))。そちらをとる場合、1行目は「荒野で戯れ」といった意味になるだろう。  tonne は語義どおりなら「大樽」で、それは中期フランス語でも基本的に変わらない((DFE))。ラメジャラーがそのまま訳しているので、ここではそれを採った。  他方、[[ジャン=ポール・クレベール]]は tonnelle と理解している。確かにDALFには tonnelle の意味の tonne が載っている((DALF, T.07, p.742))。この語は「あずまや」の意味のほか、「屋根のアーチ」の意味がある。[[リチャード・シーバース]]がこの語を vault と英訳しているのも、あるいは同じような観点に基づいているのかもしれない。  2行目は前置詞が不足している可能性がある。不足していないならば「屋根の高いところ(=装飾もしくは屋根の一部)が、中央から頭上へと」あるいは「その中央の屋根の高みが頭上へと」とも読める。シーバースの英訳は前者に近いが、彼の訳語では「中央から」(du milieu)がなく、代わりに squarely (まっすぐに、まともに)がある。屋根そのものが頭上に落ちるとは見ていないラメジャラーの英訳にもこの語があり、文脈には確かにうまく当てはまるが、調査の範囲では du milieu にそのようなニュアンスは読み取れない。クレベールは後者の「その中央の屋根の高みが頭上へと」に近い形で釈義している。上に掲げた『別訳』の前半は、クレベールの釈義に近づけて訳出したものである。  後半について、構文把握上の困難はほとんどないが、少々扱いづらいのが [[Solonne]] である。ソローニュないしソレンヌを指すのは確かだろうが([[Solonne]]の記事参照)、ここではそのまま仮名表記した。その場合、「サン=ソロンヌの殿堂(教会)」とも訳せるのだが、後述するようにソローニュ地方のフェリエール大修道院を指す可能性もあるので、あえてサン=ソレンヌ教会に引きつけすぎないように訳した。  4行目 sacrifiant は sacrifier の現在分詞。sacrifier は「生贄を捧げる」の意味で、ラメジャラーは4行目を「生贄を捧げて祭りの煙を聖別するだろう」というように訳しているが、クレベールは16世紀には sacrifier に「聖なる儀式を行う」(faire une cérémonie sacrée) の意味があったとしている。ただし、この意味はDMF や DFE には載っていない。 DALFの場合、sacrifiant は形容詞として「贖罪の」(expiatoire) の意味があったとしているので((DALF, T.07, p.279))、位置関係が少々不自然ではあるが、「祭事」あるいは「香」の修飾語と見なした。 『別訳』の後半ではクレベールの読み方を反映させた。なお、シーバースは「ミサの間に」と英訳しており、かつては[[テオフィル・ド・ガランシエール]]も同様に釈義していた。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「もっとも若い息子が大樽で遊び」((大乗 [1975] p.264。以下、この詩の引用は同じページから。))は、大樽についている前置詞 dessous (~の下で/に)からすると、「大樽で遊ぶ」というのが不適切に思われる。  2行目「家の屋根が彼の頭上に落ち」は「家の」に当たる語がない上、du milieu が訳されていない(milieu を「家」と訳すのは無理がありすぎる)。  4行目「いけにえとして祭の煙をたく」は上述した sacrifiant の意味合いからすると、煙をいけにえとするのは若干、強引に思われる。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  3行目 「神殿の父王はきまじめな顔」((山根 [1988] p.291 。以下、この詩の引用は同じページから。))は、[[Solonne]]を Solemn とした[[エリカ・チータム]]の英訳を転訳したものだが、不適切だろう。  4行目「犠牲になり 祝祭の煙を浄める」も不適切。sacrifiant は「生贄をささげる」意味であって、「生贄になる」意味ではない。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、国王がミサに参加しているのと同じ頃、王家の末っ子が大樽の下で遊んでいて頭を強打されることと解釈した((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]の著書には載っていない。  [[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)は、王家の子供の受難の予言としつつ、それ以上には大した意味のない詩としていた((Roberts (1947)[1949], Roberts (1947)[1994]))。  [[ジェイムズ・レイヴァー]](1942年)は、3行目の temple までを引用しつつ、フランス革命期にタンプル塔に幽閉された王子(いわゆるルイ17世)についてと解釈した((Laver (1942)[1952] p.153))。タンプル塔への国王一家の幽閉とする解釈は、[[エリカ・チータム]]、[[セルジュ・ユタン]]、[[ジョン・ホーグ]]らも踏襲した((Cheetham [1973], id. (1989)[1990], Hutin [1978], id.[1981] p.44, id. (2002)[2003], Hogue (1997)[1999]))。 *同時代的な視点  [[ロジェ・プレヴォ]]は、1546年2月18日の事故がモデルになっていると見なした。  その日は寒く、雪が積もっていたが、王太子アンリ(のちの[[アンリ2世]]、当時26歳)とその友人の貴族たちは模擬戦をして遊んでいた。その際、建物の守備役だった側が、攻め手側だったアンギャン伯フランソワ(le comte d'Enghien ; アンギャン伯はコンデ親王家の長子が代々名乗った)に屋根の上から重い箱を落とした。箱は運悪くアンギャン伯の頭を直撃し、死んでしまった。  事故を聞いて嘆いた国王[[フランソワ1世]]は、その年4月の復活祭はソローニュ地方のフェリエール大修道院で挙行した((Prévost [1999] p.152))。  [[ピーター・ラメジャラー]]や[[リチャード・シーバース]]はこれを踏襲した((Lemesurier [2002b], Lemesurier [2010], Sieburth [2012]))。なお、ラメジャラーは王太子の名をフランソワとしているが、当時の国王は[[フランソワ1世]]で、その息子であったフランソワは1536年に亡くなっているので、誤りだろう。あるいはアンギャン伯の名と取り違えたか。  樽と箱の違いはあるものの、事件と詩の情景はある程度の一致が見られるといえるだろう。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 #comment
[[詩百篇第9巻]]>23番* *原文 [[Puisnay>puisnay]]&sup(){1} iouant&sup(){2} au fresch&sup(){3} dessouz&sup(){4} la tonne, Le hault du toict du milieu sur la teste, Le pere&sup(){5} roy&sup(){6} au temple&sup(){7} saint&sup(){8} [[Solonne]]&sup(){9}, Sacrifiant sacrera [[fum]] de feste. **異文 (1) Puisnay : Puisné 1590Ro (2) iouant 1568 1590Ro 1603Mo 1650Mo 1653AB 1672Ga : ioüant 1591BR & &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : jovant 1772Ri) (3) fresch : frech 1568C 1627Di (4) dessouz : de souz 1590Ro, desous 1611B 1981EB (5) pere : Pere 1672Ga 1716PR (6) roy 1568X 1568A 1568B 1590Ro : Roy &italic(){T.A.Eds.} (7) temple : Temple 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1672Ga (8) sainct : Sainct 1590Ro 1644Hu 1672Ga (9) Solonne : Salonne 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1627Di 1627Ma 1644Hu 1650Mo 1650Ri 1650Le 1667Wi 1668 1720To 1840, Salone 1716PR *日本語訳 より若い者が冷涼な場所で戯れ、大樽の下に。 (その大樽は)屋根の高み、その中央から頭上へと(落ちたものである)。 父である王はソロンヌの聖なる殿堂で 贖罪のため祭礼の香を聖別するだろう。 **別訳 より若い者が荒野のあずまやの下で戯れていると、 その中央の屋根が頭上へと。 父である王は聖ソロンヌ教会で 儀式をして祭礼の香を聖別するだろう。 **訳について  当「大事典」の訳は、[[ロジェ・プレヴォ]]の読みにある程度引きつけた。ただし、訳の幅が広いことから、別の訳の可能性を『別訳』として提示した。  1行目 fresch は『予言集』ではここにしか出てこない。  [[エドガー・レオニ]]や[[ピーター・ラメジャラー]]は frais (清新な、冷涼な)と同一視しており、[[マリニー・ローズ]]もフランク語に遡る語源説明とともに、frais と同一視していた((Leoni [1961], Lemesurier [2003b], Rose [2002c]))。  DMF には項目がないが、frais の文例には freiche という綴りが見られる。  他方、DALFでは、fresche は「荒地」(terre en friche)の意味とある((DALF, T.04, p.140))。  そちらをとる場合、1行目は「荒野で戯れ」といった意味になるだろう。  tonne は語義どおりなら「大樽」で、それは中期フランス語でも基本的に変わらない((DFE))。ラメジャラーがそのまま訳しているので、ここではそれを採った。  他方、[[ジャン=ポール・クレベール]]は tonnelle と理解している。確かにDALFには tonnelle の意味の tonne が載っている((DALF, T.07, p.742))。  この語は「あずまや」の意味のほか、「屋根のアーチ」の意味がある。  [[リチャード・シーバース]]がこの語を vault と英訳しているのも、あるいは同じような観点に基づいているのかもしれない。  2行目は前置詞が不足している可能性がある。  不足していないならば「屋根の高いところ(=装飾もしくは屋根の一部)が、中央から頭上へと」あるいは「その中央の屋根の高みが頭上へと」とも読める。  シーバースの英訳は前者に近いが、彼の訳語では「中央から」(du milieu)がなく、代わりに squarely (まっすぐに、まともに)がある。  屋根そのものが頭上に落ちるとは見ていないラメジャラーの英訳にもこの語があり、文脈には確かにうまく当てはまるが、調査の範囲では du milieu にそのようなニュアンスは読み取れない。  クレベールは後者の「その中央の屋根の高みが頭上へと」に近い形で釈義している。上に掲げた『別訳』の前半は、クレベールの釈義に近づけて訳出したものである。  後半について、構文把握上の困難はほとんどないが、少々扱いづらいのが [[Solonne]] である。  ソローニュないしソレンヌを指すのは確かだろうが([[Solonne]]の記事参照)、ここではそのまま仮名表記した。  その場合、「サン=ソロンヌの殿堂(教会)」とも訳せるのだが、後述するようにソローニュ地方のフェリエール大修道院を指す可能性もあるので、あえてサン=ソレンヌ教会に引きつけすぎないように訳した。  4行目 sacrifiant は sacrifier の現在分詞。sacrifier は「生贄を捧げる」の意味で、ラメジャラーは4行目を「生贄を捧げて祭りの煙を聖別するだろう」というように訳しているが、クレベールは16世紀には sacrifier に「聖なる儀式を行う」(faire une cérémonie sacrée) の意味があったとしている。  ただし、この意味はDMF や DFE には載っていない。 DALFの場合、sacrifiant は形容詞として「贖罪の」(expiatoire) の意味があったとしているので((DALF, T.07, p.279))、位置関係が少々不自然ではあるが、「祭事」あるいは「香」の修飾語と見なした。  『別訳』の後半ではクレベールの読み方を反映させた。なお、シーバースは「ミサの間に」と英訳しており、かつては[[テオフィル・ド・ガランシエール]]も同様に釈義していた。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「もっとも若い息子が大樽で遊び」((大乗 [1975] p.264。以下、この詩の引用は同じページから。))は、大樽についている前置詞 dessous (~の下で/に)からすると、「大樽で遊ぶ」というのが不適切に思われる。  2行目「家の屋根が彼の頭上に落ち」は「家の」に当たる語がない上、du milieu が訳されていない(milieu を「家」と訳すのは無理がありすぎる)。  4行目「いけにえとして祭の煙をたく」は上述した sacrifiant の意味合いからすると、煙をいけにえとするのは若干、強引に思われる。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  3行目 「神殿の父王はきまじめな顔」((山根 [1988] p.291 。以下、この詩の引用は同じページから。))は、[[Solonne]]を Solemn とした[[エリカ・チータム]]の英訳を転訳したものだが、不適切だろう。  4行目「犠牲になり 祝祭の煙を浄める」も不適切。sacrifiant は「生贄をささげる」意味であって、「生贄になる」意味ではない。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、国王がミサに参加しているのと同じ頃、王家の末っ子が大樽の下で遊んでいて頭を強打されることと解釈した((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]の著書には載っていない。  [[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)は、王家の子供の受難の予言としつつ、それ以上には大した意味のない詩としていた((Roberts (1947)[1949], Roberts (1947)[1994]))。  [[ジェイムズ・レイヴァー]](1942年)は、3行目の temple までを引用しつつ、フランス革命期にタンプル塔に幽閉された王子(いわゆるルイ17世)についてと解釈した((Laver (1942)[1952] p.153))。  タンプル塔への国王一家の幽閉とする解釈は、[[エリカ・チータム]]、[[セルジュ・ユタン]]、[[ジョン・ホーグ]]らも踏襲した((Cheetham [1973], id. (1989)[1990], Hutin [1978], id.[1981] p.44, id. (2002)[2003], Hogue (1997)[1999]))。 *同時代的な視点  [[ロジェ・プレヴォ]]は、1546年2月18日の事故がモデルになっていると見なした。  その日は寒く、雪が積もっていたが、王太子アンリ(のちの[[アンリ2世]]、当時26歳)とその友人の貴族たちは模擬戦をして遊んでいた。  その際、建物の守備役だった側が、攻め手側だったアンギャン伯フランソワ(le comte d'Enghien ; アンギャン伯はコンデ親王家の長子が代々名乗った)に屋根の上から重い箱を落とした。  箱は運悪くアンギャン伯の頭を直撃し、死んでしまった。  事故を聞いて嘆いた国王[[フランソワ1世]]は、その年4月の復活祭はソローニュ地方のフェリエール大修道院で挙行した((Prévost [1999] p.152))。  [[ピーター・ラメジャラー]]や[[リチャード・シーバース]]はこれを踏襲した((Lemesurier [2002b], Lemesurier [2010], Sieburth [2012]))。  なお、ラメジャラーは王太子の名をフランソワとしているが、当時の国王は[[フランソワ1世]]で、その息子であったフランソワは1536年に亡くなっているので、誤りだろう。あるいはアンギャン伯の名と取り違えたか。  樽と箱の違いはあるものの、事件と詩の情景はある程度の一致が見られるといえるだろう。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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