詩百篇第10巻15番

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[[詩百篇第10巻]]>15番* *原文 Pere duc&sup(){1} vieux d'ans&sup(){2} & de soif&sup(){3} chargé, Au iour extreme filz desniant&sup(){4} les guiere&sup(){5} Dedans le puis&sup(){6} vif mort viendra plongé, Senat au fil&sup(){7} la&sup(){8} mort longue & legiere&sup(){9}. **異文 (1) duc : Duc 1611B 1649Ca 1650Le 1656ECL 1665Ba 1667Wi 1668A 1668P 1672Ga 1720To 1772Ri 1840 1981EB (2) d'ans : dans 1568B 1650Le 1653AB 1665Ba 1772Ri (3) soif : soy 1590Ro (4) desniant : desmant 1611B (5) les guiere : l'esguiere 1607PR 1610Po 1611 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1672Ga 1712Guy 1840 1981EB, lesguiere 1591BR 1597Br 1603Mo 1606PR 1650Le 1650Mo 1667Wi 1668A 1668P 1716PR, l'esquiere 1653AB 1665Ba 1720To, l'Esguiere 1656ECL (6) puis : puits 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1611B 1627Di 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1650Mo 1653AB 1656ECLa 1665Ba 1712Guy 1716PR(b c) 1840 1981EB, poits 1716PRb (7) fil : filz 1568C, fils 1650Mo 1656ECL 1672Ga 1712Guy 1716PR (8) la : sa 1656ECL () mort : mol 1720To (9) & legiere 1568 1772Ri : & legere &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : legere 1653AB) (注記)1656ECL では2箇所(pp.151, 455)で登場しているが、その最初の方の異文を 1656ECLa とした。 **校訂  2行目 les guiere は l'esguiere (l'aiguiere) の誤り。3行目 puis は puits の綴りの揺れ。 *日本語訳 渇きに苦しむ老齢の公爵たる父(は)、 その最期の日に水差し(の提供)を拒む息子(によって)、 生きて井戸に沈められ、死ぬことになるだろう。 老翁は索条に。死(への苦しみ)は軽度だが長引く。 **訳について  校訂の節で触れたように、les guiere は l'esguiere の誤植。これは l'aiguière (18世紀頃まで使われていた水差し)の綴りの揺れである。この点、[[エドガー・レオニ]]、[[マリニー・ローズ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]らに異論はない。なお、[[ノストラダムスの遺言書>ノストラダムスの遺言書 原文と語注]]にも(やや変則的な綴りで)登場している。  4行目 senat は通常ならば「元老院」の意味で、ノストラダムスの他の詩篇でもおおむねその意味のはずだが、ここではラテン語の語源 senatus のさらに語源に遡った senex (老人)の意味で使われているらしい(ラメジャラーやクレベールの推測)。ここではそれに従った。「老翁」という堅苦しい語をあえて使ったのは、通常の「老人」(vieux)とは異なる古典語由来の語であることを少しでも示そうとしたため。  4行目後半の直訳は「長く軽い死」だが、longue (長い)とlegere (軽い)が並べられているのは少々奇異に感じられる。これについて、クレベールは16世紀の文人モンテーニュの言葉に「もし苦痛が激しければ、それは短い。もし長ければ、それは軽い」(Si la douleur est violente, elle est courte; si elle est longue, elle est legiere)とあることを引き合いに出し、水死が時間をかけて苦しめられる死であることを示している。なお、この言葉はモンテーニュのオリジナルでなく、もとはキケロの言葉である((原二郎訳『エセー(一)』岩波文庫、pp.101, 121))。当「大事典」ではこの見解を採って意訳した。ラメジャラーは a long, mean death((Lemesurier [2010]))と英訳している。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「父である公爵はとし老いてつつましく」((大乗 [1975] p.288。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。「つつましく」は[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 thrifty のほぼ直訳であろうが、原語の chargé de soif (渇きを負わされる、渇望に覆われる)からすれば、ロバーツの英訳自体が不適切だろう。  2行目「末端において息子は彼をこばみ」も微妙。ロバーツが jour extreme を extremity としていたことから「末端」としたのだろうが、この場合の extreme は人生の端、すなわち最期ということだろう。実際、ラメジャラーは on his last day と英訳しているし、[[リチャード・シーバース]]は about to die ((Sieburth [2012]))と英訳している。  3行目「手おけは井戸に生きつづけ 彼がおぼれるところで」は誤訳。「手おけ」はロバーツの2行目の英訳で(おそらく l'esguiere の訳語として) pail が出ていたことによるものだろうが、2行目で訳さずに3行目に回したことで全く意味不明になってしまっている。  4行目「上院は息子に死刑を宣言する」はロバーツの英訳のほぼ忠実な転訳ではあるが、英訳自体が誤訳。fil (糸、索条)と fils (息子)は別の語。ロバーツがもとにした[[テオフィル・ド・ガランシエール]]は fil を fils に直していたから「息子」でもおかしくなかったが、ロバーツの場合、それをわざわざ fil に戻しておきながら、訳はガランシエールのものを踏襲したから、おかしなことになっている。大乗訳はそのロバーツを転訳している。また、longue や legere がどうやったら死刑宣告になるのか、根拠が分からない。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  4行目 「元老院は息子に 長くて軽い死」((山根 [1988] p.319。以下、この詩の引用は同じページから。))の場合、大乗訳と同じく fil を fils と同一視しているが、こちらの場合、元になった[[エリカ・チータム]]の英訳ではきちんとそのあたりの注記がある。ただし、その日本語版である山根訳では何の注記もないので、少なくとも不親切なのは確かだろう。 *信奉者側の見解  [[1656年の解釈書>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]では、詩の情景をほとんど敷衍したような解釈が、[[アンリ2世]]の治世に位置づけられているが、「公爵」が誰なのかは明言されていなかった((Eclaircissement..., pp.455-456))。  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)、[[バルタザール・ギノー]](1712年)も似たようなものだが、彼らは時期については一切触れなかった。1656年の解釈書およびガランシエール、ギノーの解釈では、4行目については、元老院ないし高等法院で有罪を宣告された息子が、修道院などに送られて天寿を全うすることで「長く質素な死」を遂げる、と解釈した((Garencieres [1672], Guynaud [1712] pp.301-302))。  その後、ルイ16世と結びつけた[[アンリ・トルネ=シャヴィニー]]のようなわずかな例外を除くと、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようだが、それ以降にしても、基本的には全訳本の類でしか解釈されてこなかった詩である。  [[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)や[[エリカ・チータム]](1973年)はかなり漠然とした解釈しかつけていなかった((Roberts (1947)[1949], Cheetham [1973]))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)は老元帥ペタンによってフランスの第三共和政が終焉を迎えたことと解釈した((Hutin [1978]))。 *同時代的な視点  [[ロジェ・プレヴォ]]は、フィリップ・ド・コミーヌの『回顧録』に見られる、ゲルデルン公爵家に関するエピソードが元になっていると見なした。同公爵家では1470年代に若きアドルフが父アルノルトを幽閉し、公爵位を簒奪する出来事が起こった。アドルフの手法は他の諸侯の反発を招き、父と和解するように圧力が掛かった際にアドルフは、それを選ぶくらいなら父を井戸に投げ捨て、自分もその後を追うほうがマシだと放言したという((Prévost [1999] p.85))。  [[ピーター・ラメジャラー]]はこの見方を支持し、[[リチャード・シーバース]]も疑問符付きでこの説を紹介した。    公爵家の父と子の対立、(実際に井戸に放り込んだわけではないが)「井戸」に絡むエピソードの存在など、確かにいくらかの類似性が見られる。  反面、細部には一致しない点も多いので、仮にゲルデルン公爵家がモデルなのだとしても、それに触発されてある程度自由に想像を働かせた結果とでも見なすべきだろうか。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 #comment
[[詩百篇第10巻]]>15番* *原文 Pere duc&sup(){1} vieux d'ans&sup(){2} & de soif&sup(){3} chargé, Au iour extreme filz desniant&sup(){4} les guiere&sup(){5} Dedans le puis&sup(){6} vif mort viendra plongé, Senat au fil&sup(){7} la&sup(){8} mort longue & legiere&sup(){9}. **異文 (1) duc : Duc 1611B 1649Ca 1650Le 1656ECL 1665Ba 1667Wi 1668A 1668P 1672Ga 1720To 1772Ri 1840 1981EB (2) d'ans : dans 1568B 1650Le 1653AB 1665Ba 1772Ri (3) soif : soy 1590Ro (4) desniant : desmant 1611B (5) les guiere : l'esguiere 1607PR 1610Po 1611 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1672Ga 1712Guy 1840 1981EB, lesguiere 1591BR 1597Br 1603Mo 1606PR 1650Le 1650Mo 1667Wi 1668A 1668P 1716PR, l'esquiere 1653AB 1665Ba 1720To, l'Esguiere 1656ECL (6) puis : puits 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1611B 1627Di 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1650Mo 1653AB 1656ECLa 1665Ba 1712Guy 1716PR(b c) 1840 1981EB, poits 1716PRb (7) fil : filz 1568C, fils 1650Mo 1656ECL 1672Ga 1712Guy 1716PR (8) la : sa 1656ECL () mort : mol 1720To (9) & legiere 1568 1772Ri : & legere &italic(){T.A.Eds.} (&italic(){sauf} : legere 1653AB) (注記)1656ECL では2箇所(pp.151, 455)で登場しているが、その最初の方の異文を 1656ECLa とした。 **校訂  2行目 les guiere は l'esguiere (l'aiguiere) の誤り。3行目 puis は puits の綴りの揺れ。 *日本語訳 渇きに苦しむ老齢の公爵たる父(は)、 その最期の日に水差し(の提供)を拒む息子(によって)、 生きて井戸に沈められ、死ぬことになるだろう。 老翁は索条に。死(への苦しみ)は軽度だが長引く。 **訳について  校訂の節で触れたように、les guiere は l'esguiere の誤植。これは l'aiguière (18世紀頃まで使われていた水差し)の綴りの揺れである。この点、[[エドガー・レオニ]]、[[マリニー・ローズ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]、[[ジャン=ポール・クレベール]]らに異論はない。なお、[[ノストラダムスの遺言書>ノストラダムスの遺言書 原文と語注]]にも(やや変則的な綴りで)登場している。  4行目 senat は通常ならば「元老院」の意味で、ノストラダムスの他の詩篇でもおおむねその意味のはずだが、ここではラテン語の語源 senatus のさらに語源に遡った senex (老人)の意味で使われているらしい(ラメジャラーやクレベールの推測)。ここではそれに従った。「老翁」という堅苦しい語をあえて使ったのは、通常の「老人」(vieux)とは異なる古典語由来の語であることを少しでも示そうとしたため。  4行目後半の直訳は「長く軽い死」だが、longue (長い)とlegere (軽い)が並べられているのは少々奇異に感じられる。これについて、クレベールは16世紀の文人モンテーニュの言葉に「もし苦痛が激しければ、それは短い。もし長ければ、それは軽い」(Si la douleur est violente, elle est courte; si elle est longue, elle est legiere)とあることを引き合いに出し、水死が時間をかけて苦しめられる死であることを示している。なお、この言葉はモンテーニュのオリジナルでなく、もとはキケロの言葉である((原二郎訳『エセー(一)』岩波文庫、pp.101, 121))。当「大事典」ではこの見解を採って意訳した。ラメジャラーは a long, mean death((Lemesurier [2010]))と英訳している。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「父である公爵はとし老いてつつましく」((大乗 [1975] p.288。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。「つつましく」は[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳 thrifty のほぼ直訳であろうが、原語の chargé de soif (渇きを負わされる、渇望に覆われる)からすれば、ロバーツの英訳自体が不適切だろう。  2行目「末端において息子は彼をこばみ」も微妙。ロバーツが jour extreme を extremity としていたことから「末端」としたのだろうが、この場合の extreme は人生の端、すなわち最期ということだろう。実際、ラメジャラーは on his last day と英訳しているし、[[リチャード・シーバース]]は about to die ((Sieburth [2012]))と英訳している。  3行目「手おけは井戸に生きつづけ 彼がおぼれるところで」は誤訳。「手おけ」はロバーツの2行目の英訳で(おそらく l'esguiere の訳語として) pail が出ていたことによるものだろうが、2行目で訳さずに3行目に回したことで全く意味不明になってしまっている。  4行目「上院は息子に死刑を宣言する」はロバーツの英訳のほぼ忠実な転訳ではあるが、英訳自体が誤訳。fil (糸、索条)と fils (息子)は別の語。ロバーツがもとにした[[テオフィル・ド・ガランシエール]]は fil を fils に直していたから「息子」でもおかしくなかったが、ロバーツの場合、それをわざわざ fil に戻しておきながら、訳はガランシエールのものを踏襲したから、おかしなことになっている。大乗訳はそのロバーツを転訳している。また、longue や legere がどうやったら死刑宣告になるのか、根拠が分からない。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  4行目 「元老院は息子に 長くて軽い死」((山根 [1988] p.319。以下、この詩の引用は同じページから。))の場合、大乗訳と同じく fil を fils と同一視しているが、こちらの場合、元になった[[エリカ・チータム]]の英訳ではきちんとそのあたりの注記がある。ただし、その日本語版である山根訳では何の注記もないので、少なくとも不親切なのは確かだろう。 *信奉者側の見解  [[1656年の解釈書>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]では、詩の情景をほとんど敷衍したような解釈が、[[アンリ2世]]の治世に位置づけられているが、「公爵」が誰なのかは明言されていなかった((Eclaircissement..., pp.455-456))。  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)、[[バルタザール・ギノー]](1712年)も似たようなものだが、彼らは時期については一切触れなかった。1656年の解釈書およびガランシエール、ギノーの解釈では、4行目については、元老院ないし高等法院で有罪を宣告された息子が、修道院などに送られて天寿を全うすることで「長く質素な死」を遂げる、と解釈した((Garencieres [1672], Guynaud [1712] pp.301-302))。  その後、ルイ16世と結びつけた[[アンリ・トルネ=シャヴィニー]]のようなわずかな例外を除くと、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようだが、それ以降にしても、基本的には全訳本の類でしか解釈されてこなかった詩である。  [[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)や[[エリカ・チータム]](1973年)はかなり漠然とした解釈しかつけていなかった((Roberts (1947)[1949], Cheetham [1973]))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)は老元帥ペタンによってフランスの第三共和政が終焉を迎えたことと解釈した((Hutin [1978]))。 *同時代的な視点  [[ロジェ・プレヴォ]]は、フィリップ・ド・コミーヌの『回顧録』に見られる、ゲルデルン公爵家に関するエピソードが元になっていると見なした。同公爵家では1470年代に若きアドルフが父アルノルトを幽閉し、公爵位を簒奪する出来事が起こった。アドルフの手法は他の諸侯の反発を招き、父と和解するように圧力が掛かった際にアドルフは、それを選ぶくらいなら父を井戸に投げ捨て、自分もその後を追うほうがマシだと放言したという((Prévost [1999] p.85))。  [[ピーター・ラメジャラー]]はこの見方を支持し、[[リチャード・シーバース]]も疑問符付きでこの説を紹介した。    公爵家の父と子の対立、(実際に井戸に放り込んだわけではないが)「井戸」に絡むエピソードの存在など、確かにいくらかの類似性が見られる。  反面、細部には一致しない点も多いので、仮にゲルデルン公爵家がモデルなのだとしても、それに触発されてある程度自由に想像を働かせた結果とでも見なすべきだろうか。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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