神々の予定表

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 『&bold(){神々の予定表}(アジェンダ)』は2016年4月に刊行された山田高明の著書。山田はかつて[[と学会]]に所属し、(と学会加入以前に)『トンデモ予言者大集合』という予言トンデモ本のレビューを刊行したこともあったが、この本は逆に、[[聖書]]や[[ノストラダムス]]の予言から未来のシナリオを読み解こうとするものとなっている。 #amazon(4866250569) 【画像】 カバー表紙 *構成  参考のため、以下に目次を示す。 -第1章 なぜ今“イエスの大予言”なのか? ついに到来した“終わりの始まり”! -第2章 戦慄の近未来シナリオ! 中東戦争とヨーロッパの崩壊、そして世界大戦へ! -第3章 日本の大震災が世界恐慌の引き金に!? 先進国の“大崩壊時代”が到来する! -第4章 予言のメカニズムと生と死の根源的意味がついにわかった! リバース・アクセスが神秘の扉を開く! -第5章 ある日突然やってくる! 究極の超カタストロフィ「大艱難」の正体 -第6章 なぜイエスが選ばれたのか? 世界の終わりと神々の計画の真相! *コメント  他の解釈本についてと同様、当たる、外れるという観点からはコメントせず、方法論的な疑問点などについてコメントしておく。 **ノストラダムス関連  この本ではノストラダムス予言がいくらか取り上げられているが、それが当「大事典」からの引用であることが明記されている。また、伝記的事実などをほとんど取り扱っていないこともあり、ノストラダムス関連での誤りは見当たらない(当「大事典」の訳が誤っている可能性は当然あるが、その場合の責は引用した山田ではなく、当「大事典」が負うべきものであるので、この本のレビューでは対象としない)。  従来の日本のノストラダムス解釈の「99%は、世界的にいえばスタートラインにすら立っていなかった」((p.71))という認識もまったく正しい。もっとも、それに対して当「大事典」が「世界レベルの研究成果」((p.72))と評されているのは光栄なことだが、さすがに過大評価すぎると思われる。  解釈もほとんどその描写を敷衍しただけのものであるので、語学的な誤りなども見当たらない。  ノストラダムス予言に[[イスラーム]]勢力のヨーロッパ侵攻のモチーフが多いという指摘なども、それ自体は何も間違っていない。もちろん、当「大事典」としては、それを現実の国際情勢に当てはめることには強く否定的であり、中世以来の予言的言説から歴史的に捉えるべきと考えていることは記事「[[イスラーム]]」にも明記しているとおりだが、その辺りの価値観の相違については深入りしない。 **聖書関連  むしろノストラダムス以上に事実関係が気になったのはこちらである。山田が示す聖書の理解は、(サブカルチャー系の聖書解釈本のほとんどに当てはまることでもあるのだが)自由主義神学の研究成果がほとんど反映されておらず、保守的な見解の反映も不十分であるように思われる。  山田はキリスト教が護教的観点によって、本来のイエスの教えを歪曲してしまっているという。そのように批判的にキリスト教を捉えているのなら、通説についても、キリスト教徒の保守的な(それもやや極端な)見解だけを検証するのではなく、より広い視点から検討することが必要ではなかっただろうか。  細かい点ではいろいろあるのだが、根幹に関わるポイントを2点指摘しておこう。 ***マタイ福音書の位置づけ  山田は、いわゆる共観福音書の中でマタイ福音書を重視し、マルコ、ルカは「私の精読では(略)後世の者が勝手に『オリーブ山の預言』を改変した形跡が見て取れる」((p.21))とする。マタイを重視する理由として挙げられているのは、「イエスの死後、それこそ十年から数十年の間に、現地パレスチナで記されたと考えられている」「新約聖書全体の中でも、もっとも古い文書」で、「定説では、著者はイエスの弟子の一人で元徴税人、十二使徒のマタイ」だから、ということである((pp.21-22))。  マタイ福音書の著者については確かに保守的な見解では使徒マタイが定説化しているといってよい((新注解、新実用、新エッセンシャル、バルバロ。書名の略記は記事の末尾参照。))。しかし、逆にリベラル派の間では使徒マタイではないということが定説化している((岩波、田川、注解、フランシスコ会))。  これは成立年代とも関わるが、伝承上は使徒マタイがアラム語で福音書を書き、それがギリシア語に訳されたといわれていた。バルバロのように、その伝承をそのまま受容した保守的見解もあったが、フランシスコ会訳聖書がかつてそれを支持しつつも、最新版ではそれを否定しているように、この伝承自体が疑われ、最初からギリシア語で書かれたものと考えられている。現在リベラル派の定説と化している二資料仮説(とその変形)では、マタイとルカは、マルコ福音書及びQ資料(マタイとルカに共通する伝承が含まれていたと仮定されている資料)に依拠し、それぞれ独自の特殊資料も加えて書かれたと考えられている((岩波、田川、注解、フランシスコ会))。ギリシア語原文だとマタイが非常に流暢なのに対し、マルコはたどたどしいため、マタイの流暢な文の中でたどたどしいマルコをそのまま持ち込んだ箇所はかなり鮮明に分かるのだという((田川))。なお、このあたりの事情は、ギリシア語を読めない者でも、佐藤研『福音書共観表』(岩波書店)を利用するとかなり細かい比較が出来る(共観表は他にも幾らでもあるが、これは原語の一致度に合わせて単語レベルで色分けしており、一致している要素を総覧するのに重宝する。さすがに本文がたどたどしいかまでは、訳文からは読み取りようがないが)。 #amazon(4000246283) 【画像】 福音書共観表  結果、リベラル派の見解では、マタイ福音書の成立はマルコよりも遅く、おおむね80年代((略解、岩波、フランシスコ会、田川))と考えられている。福音派は使徒マタイの著作と考えるためこれよりも遡るが、それでも60年代((新エッセンシャル、新実用))とされ、50年頃と見る見解は有力なものとは見なされていない((新エッセンシャル、実用))。  それが何を意味するかといえば、パウロ書簡よりも遅いということである。若干の異説を除けば、パウロ書簡の中で最も古いとされるのはテサロニケ前書(テサロニケの信徒への手紙一、50年ないし51年頃)であり、この点に保守・リベラルの違いはない((新実用、岩波、フランシスコ会、田川、スタディ))。つまり、マタイを新約最古と位置づけて信頼性の論拠とするのは聖書学の定説からは認められない。  また、山田は選民だけが天に引き揚げられる「携挙」を否定するが、その携挙のイメージの大元の出典となっているのがテサロニケ前書なのである(4章13節から18節)。もしも古さを権威の印と見なすのであれば、新約最古のテサロニケ前書を否定するのは容易ではなくなるように思われる。  なお、それに比べれば瑣末なことだが、マタイ福音書の執筆地がパレスチナというのも疑問視されている。リベラル派で有力なのは[[シリア]](特にアンティオキア)で((岩波、注解、フランシスコ会))、福音派にもアンティオキアを有力視する意見は少なくない((新注解、新実用))。 ***輪廻転生  山田は、イエスの再臨は天から肉体を伴って実現するものではなく、転生体としてこの世に再び生を受け(てい)ると主張している。そして、本来のイエスの教えや聖書では輪廻転生は否定されていなかったにもかかわらず、ローマ帝国の国教となり、帝国が公式に輪廻転生を否定したことから排除されたのであって、聖書そのものは輪廻転生を認めていたと主張している((pp.260-262))。  山田はその根拠の一つとして、旧約からは『サムエル記・上』28章で、サウル王が口寄せによってサムエルの霊を呼び寄せる場面を挙げる((p.262))。しかしながら、それは霊を呼び寄せた場面であって、転生したという場面ではない。聖書を通じて「霊」は頻出する概念だが、それは死後の世界と直接に結びつくものではない。また、旧約も新約も幅広い時代にまたがる様々な著者がまとめた文書の集まりであって、(少なくともリベラル派の見解では)そこに一貫した思想を見出すのは難しく、そのまま読めば矛盾している箇所も少なくないのだから、特定の解釈に都合の良い場面はどの立場からでも導きうる。  たとえば、以下のような記述は死後の世界の否定と解釈できるだろう(以下、訳文はすべて新共同訳)。 -お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。(創世記3章19節) -生きているものは、少なくとも知っている/自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく/彼らの名は忘れられる。(コヘレトの言葉9章5節) -愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。 (同10章14節)  また、生まれ変わりではなく死者の復活を明瞭に述べた箇所もある。 -多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 (ダニエル書12章2節) -キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 (第一コリント書15章12節)  また、山田は新約からは『使徒言行録』1章9節から11節を挙げ、「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」は、全く同じ姿と断言したものではなく、同じような姿による転生体の再来を言ったものだとする((pp.269-270))。確かに、ほかの記述と整合するならば、そのように解釈できる余地はある。  しかし、輪廻転生の否定や肉体を伴う再臨がイエスの死後500年を経て定式化されたというのは全く支持できない。初期キリスト教が霊肉二元論や仮現論(イエスの神性は肉体を伴っておらず、そのように見えただけとする説)に基づく異端と烈しく論争を展開していたというのは、保守・リベラルを問わず常識だからである。それら異端とグノーシス主義との一致の程度については論者によってかなり差があるが、少なくとも霊魂と肉体を完全に切り離し、霊が救われている者はこの世の肉体がどのような放縦な生活を送ろうとも問題ではないとする発想を持っていたと考えられている((注解、略解、新実用))。ゆえに、それに対抗するために、肉体を伴うイエスの復活は新約聖書でもはっきり示されている。 -わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。(ルカ福音書24章39節) -そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 (略)それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 (ヨハネ福音書24章25-27節) -初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――(第一ヨハネ書1章1節) --第一ヨハネ書の「よく見て、手で触れた」記述は、イエスの復活とする説((田川、注解))と受肉したイエスの活動全般とする説((スタディ、新実用))とがある。ここでは前者と見なして引用した。  また山田は、復活のイエスについて、一度復活した後にその肉体は寿命どおりに死んだと主張するが((p.271))、これは聖書からまったく導けない。 -イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(ルカ福音書24章50-51節) -だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマ書8章34節)  山田が復活のイエスが寿命で死んだとするのは、「それが人の肉体」((p.271))だからというが、肉体を伴う復活を主張していたパウロは、そのような認識を示していなかった。 -また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。(第一コリント書15章40節) -最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。(同15章52-53節)  通常の肉体とは異なる肉体へと変質し、死ななくなると明言しているのだから、普通の肉体に転生するような「復活」を想定していないことは明らかだろう。もちろん、こうした思想がイエス自身に遡りうるかは議論のあるところである(聖書学者の田川建三や上村静は、死を極度に恐れたパウロ自身が生み出した観念と見ている)。しかし、これは新約聖書の成立当初からあった思想であり(前述のようにパウロ書簡は現存する福音書よりもほぼ確実に古い)、グノーシス的文書は新約聖書には組み込まれなかった。  となれば、上で引用した「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様」にしても、言葉通り、肉体を伴った昇天を弟子が目撃し、そのままの姿で再び降臨することを述べていると読む方が自然だろう(それが「史実」だったかを論じるつもりはない。聖書的には「真実」とされている、と述べるにとどめる)。  イエスの死後500年を経て死後の世界や輪廻転生が否定された、とする山田の想定は成り立たないのではないだろうか。  なお、最後に強調しておくが、当「大事典」の管理者はクリスチャンではない。ゆえに山田の所説について護教的観点から批判したつもりは全くない(そもそも護教を意図していたら田川の見解など引かないだろう。彼はストラスブール大学で博士号をとった聖書学者だが、イエスの声を聞いたというパウロの回心ですら、熱中症による幻と一蹴しているような論者である)。  ただ、聖書あるいはキリスト教について根源的なレベルでの再考を提案するのであれば、(一般向けの著作という性質上、詳細な議論は割愛せざるを得なかったという事情もあったのかもしれないが)すでに200年の厚みを持っているリベラル派の聖書研究にも、もう少し配慮がなされていないと説得力が大いに減じられてしまうのではないかと思い、コメントした次第である。 *参考文献  脚注では出典を略記した。 -『聖書 スタディ版』改訂版 日本聖書協会 -『新共同訳 新約聖書注解』(I, II) 日本基督教団出版局 -『新共同訳 新約聖書略解』 日本基督教団出版局 -『新エッセンシャル聖書辞典』 いのちのことば社 -『新実用聖書注解』 いのちのことば社 -『新聖書注解』(新約全3巻) いのちのことば社 -岩波書店新約聖書翻訳委員会 『新約聖書』(全5巻) 岩波書店 -上村静 『旧約聖書と新約聖書』 新教出版社 -田川建三 『新約聖書 訳と註』(6巻7冊) 作品社 -フランシスコ会聖書研究所 『聖書 原文校訂による口語訳』 サンパウロ -フェデリコ・バルバロ 『聖書』 講談社 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 ---- &bold(){コメントらん} 以下に投稿されたコメントは&u(){書き込んだ方々の個人的見解であり}、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。  なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 - 著者の山田氏からは本書をご献本いただきました。特記して御礼申し上げます。「批判に遠慮は要らない」とするお言葉に甘え、少々気が引けたのも事実ですが、忌憚なくコメントさせていただきました。次回作の御構想もあるとのことですので、仮説をさらに練り上げる上で多少とも参考になる部分があれば幸いです。 -- sumaru (2016-04-18) - ありがとうございます。 -- 山田高明 (2016-04-28 09:02:41)
 『&bold(){神々の予定表}(アジェンダ)』は2016年4月に刊行された山田高明の著書。  山田はかつて[[と学会]]に所属し、(と学会加入以前に)『トンデモ予言者大集合』という予言トンデモ本のレビューを刊行したこともあった。  しかし、この本は逆に、[[聖書]]や[[ノストラダムス]]の予言から未来のシナリオを読み解こうとするものとなっている。 #amazon(4866250569) 【画像】 カバー表紙 *構成  参考のため、以下に目次を示す。 -第1章 なぜ今“イエスの大予言”なのか? ついに到来した“終わりの始まり”! -第2章 戦慄の近未来シナリオ! 中東戦争とヨーロッパの崩壊、そして世界大戦へ! -第3章 日本の大震災が世界恐慌の引き金に!? 先進国の“大崩壊時代”が到来する! -第4章 予言のメカニズムと生と死の根源的意味がついにわかった! リバース・アクセスが神秘の扉を開く! -第5章 ある日突然やってくる! 究極の超カタストロフィ「大艱難」の正体 -第6章 なぜイエスが選ばれたのか? 世界の終わりと神々の計画の真相! *コメント  他の解釈本についてと同様、当たる、外れるという観点からはコメントせず、方法論的な疑問点などについてコメントしておく。 **ノストラダムス関連  この本ではノストラダムス予言がいくらか取り上げられているが、それが当「大事典」からの引用であることが明記されている。  また、伝記的事実などをほとんど取り扱っていないこともあり、ノストラダムス関連での誤りは見当たらない。 (当「大事典」の訳が誤っている可能性は当然あるが、その場合の責は引用した山田ではなく、当「大事典」が負うべきものであるので、この本のレビューでは対象としない)  従来の日本のノストラダムス解釈の「99%は、世界的にいえばスタートラインにすら立っていなかった」((p.71))という認識もまったく正しい。  もっとも、それに対して当「大事典」が「世界レベルの研究成果」((p.72))と評されているのは光栄なことだが、さすがに過大評価すぎると思われる。  解釈もほとんどその描写を敷衍しただけのものであるので、語学的な誤りなども見当たらない。  ノストラダムス予言に[[イスラーム]]勢力のヨーロッパ侵攻のモチーフが多いという指摘なども、それ自体は何も間違っていない。  もちろん、当「大事典」としては、それを現実の国際情勢に当てはめることには強く否定的であり、中世以来の予言的言説から歴史的に捉えるべきと考えていることは記事「[[イスラーム]]」にも明記しているとおりだが、その辺りの価値観の相違については深入りしない。 **聖書関連  むしろノストラダムス以上に事実関係が気になったのはこちらである。  山田が示す聖書の理解は、(サブカルチャー系の聖書解釈本のほとんどに当てはまることでもあるのだが)自由主義神学の研究成果がほとんど反映されておらず、保守的な見解の反映も不十分であるように思われる。  山田はキリスト教が護教的観点によって、本来のイエスの教えを歪曲してしまっているという。そのように批判的にキリスト教を捉えているのなら、通説についても、キリスト教徒の保守的な(それもやや極端な)見解だけを検証するのではなく、より広い視点から検討することが必要ではなかっただろうか。  細かい点ではいろいろあるのだが、根幹に関わるポイントを2点指摘しておこう。 ***マタイ福音書の位置づけ  山田は、いわゆる共観福音書の中でマタイ福音書を重視し、マルコ、ルカは「私の精読では(略)後世の者が勝手に『オリーブ山の預言』を改変した形跡が見て取れる」((p.21))とする。  マタイを重視する理由として挙げられているのは、「イエスの死後、それこそ十年から数十年の間に、現地パレスチナで記されたと考えられている」「新約聖書全体の中でも、もっとも古い文書」で、「定説では、著者はイエスの弟子の一人で元徴税人、十二使徒のマタイ」だから、ということである((pp.21-22))。  マタイ福音書の著者については確かに保守的な見解では使徒マタイが定説化しているといってよい((新注解、新実用、新エッセンシャル、バルバロ。書名の略記は記事の末尾参照。))。  しかし、逆にリベラル派の間では使徒マタイではないということが定説化している((岩波、田川、注解、フランシスコ会))。  これは成立年代とも関わるが、伝承上は使徒マタイがアラム語で福音書を書き、それがギリシア語に訳されたといわれていた。  バルバロのように、その伝承をそのまま受容した保守的見解もあったが、フランシスコ会訳聖書がかつてそれを支持しつつも、最新版ではそれを否定しているように、この伝承自体が疑われ、最初からギリシア語で書かれたものと考えられている。  現在リベラル派の定説と化している二資料仮説(とその変形)では、マタイとルカは、マルコ福音書及びQ資料(マタイとルカに共通する伝承が含まれていたと仮定されている資料)に依拠し、それぞれ独自の特殊資料も加えて書かれたと考えられている((岩波、田川、注解、フランシスコ会))。  ギリシア語原文だとマタイが非常に流暢なのに対し、マルコはたどたどしいため、マタイの流暢な文の中でたどたどしいマルコをそのまま持ち込んだ箇所はかなり鮮明に分かるのだという((田川))。  なお、このあたりの事情は、ギリシア語を読めない者でも、佐藤研『福音書共観表』(岩波書店)を利用するとかなり細かい比較が出来る(共観表は他にも幾らでもあるが、これは原語の一致度に合わせて単語レベルで色分けしており、一致している要素を総覧するのに重宝する。さすがに本文がたどたどしいかまでは、訳文からは読み取りようがないが)。 #amazon(4000246283) 【画像】 福音書共観表  結果、リベラル派の見解では、マタイ福音書の成立はマルコよりも遅く、おおむね80年代((略解、岩波、フランシスコ会、田川))と考えられている。福音派は使徒マタイの著作と考えるためこれよりも遡るが、それでも60年代((新エッセンシャル、新実用))とされ、50年頃と見る見解は有力なものとは見なされていない((新エッセンシャル、実用))。  それが何を意味するかといえば、パウロ書簡よりも遅いということである。  若干の異説を除けば、パウロ書簡の中で最も古いとされるのはテサロニケ前書(テサロニケの信徒への手紙一、50年ないし51年頃)であり、この点に保守・リベラルの違いはない((新実用、岩波、フランシスコ会、田川、スタディ))。  つまり、マタイを新約最古と位置づけて信頼性の論拠とするのは聖書学の定説からは認められない。  また、山田は選民だけが天に引き揚げられる「携挙」を否定するが、その携挙のイメージの大元の出典となっているのがテサロニケ前書なのである(4章13節から18節)。もしも古さを権威の印と見なすのであれば、新約最古のテサロニケ前書を否定するのは容易ではなくなるように思われる。  なお、それに比べれば瑣末なことだが、マタイ福音書の執筆地がパレスチナというのも疑問視されている。  リベラル派で有力なのは[[シリア]](特に[[アンティオキア]])で((岩波、注解、フランシスコ会))、福音派にもアンティオキアを有力視する意見は少なくない((新注解、新実用))。 ***輪廻転生  山田は、イエスの再臨は天から肉体を伴って実現するものではなく、転生体としてこの世に再び生を受け(てい)ると主張している。  そして、本来のイエスの教えや聖書では輪廻転生は否定されていなかったにもかかわらず、ローマ帝国の国教となり、帝国が公式に輪廻転生を否定したことから排除されたのであって、聖書そのものは輪廻転生を認めていたと主張している((pp.260-262))。  山田はその根拠の一つとして、旧約からは『サムエル記・上』28章で、サウル王が口寄せによってサムエルの霊を呼び寄せる場面を挙げる((p.262))。  しかしながら、それは霊を呼び寄せた場面であって、転生したという場面ではない。  聖書を通じて「霊」は頻出する概念だが、それは死後の世界と直接に結びつくものではない。  また、旧約も新約も幅広い時代にまたがる様々な著者がまとめた文書の集まりであって、(少なくともリベラル派の見解では)そこに一貫した思想を見出すのは難しく、そのまま読めば矛盾している箇所も少なくないのだから、特定の解釈に都合の良い場面はどの立場からでも導きうる。  たとえば、以下のような記述は死後の世界の否定と解釈できるだろう(以下、訳文はすべて新共同訳)。 -お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。(創世記3章19節) -生きているものは、少なくとも知っている/自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく/彼らの名は忘れられる。(コヘレトの言葉9章5節) -愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。 (同10章14節)  また、生まれ変わりではなく死者の復活を明瞭に述べた箇所もある。 -多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 (ダニエル書12章2節) -キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 (第一コリント書15章12節)  また、山田は新約からは『使徒言行録』1章9節から11節を挙げ、「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」は、全く同じ姿と断言したものではなく、同じような姿による転生体の再来を言ったものだとする((pp.269-270))。  確かに、それがもしもほかの記述と整合するならば、そのように解釈できる余地はある。  しかし、輪廻転生の否定や肉体を伴う再臨がイエスの死後500年を経て定式化されたというのは全く支持できない。  初期キリスト教が霊肉二元論や仮現論(イエスの神性は肉体を伴っておらず、そのように見えただけとする説)に基づく異端と烈しく論争を展開していたというのは、保守・リベラルを問わず常識だからである。  それら異端とグノーシス主義との一致の程度については論者によってかなり差があるが、少なくとも霊魂と肉体を完全に切り離し、霊が救われている者はこの世の肉体がどのような放縦な生活を送ろうとも問題ではないとする発想を持っていたと考えられている((注解、略解、新実用))。  ゆえに、それに対抗するために、肉体を伴うイエスの復活は新約聖書でもはっきり示されている。 -わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。(ルカ福音書24章39節) -そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 (略)それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 (ヨハネ福音書24章25-27節) -初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――(第一ヨハネ書1章1節) --第一ヨハネ書の「よく見て、手で触れた」記述は、イエスの復活とする説((田川、注解))と受肉したイエスの活動全般とする説((スタディ、新実用))とがある。ここでは前者と見なして引用した。  また山田は、復活のイエスについて、一度復活した後にその肉体は寿命どおりに死んだと主張するが((p.271))、これは聖書からまったく導けない。 -イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(ルカ福音書24章50-51節) -だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマ書8章34節)  山田が復活のイエスが寿命で死んだとするのは、「それが人の肉体」((p.271))だからというが、肉体を伴う復活を主張していたパウロは、そのような認識を示していなかった。 -また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。(第一コリント書15章40節) -最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。(同15章52-53節)  このように、通常の肉体とは異なる肉体へと変質し、死ななくなると明言しているのだから、普通の肉体に転生するような「復活」を想定していないことは明らかだろう。  もちろん、こうした思想がイエス自身に遡りうるかは議論のあるところである(聖書学者の田川建三や上村静は、死を極度に恐れたパウロ自身が生み出した観念と見ている)。  しかし、これは新約聖書の成立当初からあった思想であり(前述のようにパウロ書簡は現存する福音書よりもほぼ確実に古い)、グノーシス的文書は新約聖書には組み込まれなかった。  となれば、上で引用した「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様」にしても、言葉通り、肉体を伴った昇天を弟子が目撃し、そのままの姿で再び降臨することを述べていると読む方が自然だろう(それが「史実」だったかを論じるつもりはない。聖書的には「真実」とされている、と述べるにとどめる)。  イエスの死後500年を経て死後の世界や輪廻転生が否定された、とする山田の想定は成り立たないのではないだろうか。  なお、最後に強調しておくが、当「大事典」の管理者はクリスチャンではない。  ゆえに山田の所説について護教的観点から批判したつもりは全くない(そもそも護教を意図していたら田川の見解など引かないだろう。彼はストラスブール大学で博士号をとった聖書学者だが、イエスの声を聞いたというパウロの回心ですら、熱中症による幻と一蹴しているような論者である)。  ただ、聖書あるいはキリスト教について根源的なレベルでの再考を提案するのであれば、(一般向けの著作という性質上、詳細な議論は割愛せざるを得なかったという事情もあったのかもしれないが)すでに200年の厚みを持っているリベラル派の聖書研究にも、もう少し配慮がなされていないと説得力が大いに減じられてしまうのではないかと思い、コメントした次第である。 *参考文献  脚注では出典を略記した。 -『聖書 スタディ版』改訂版 日本聖書協会 -『新共同訳 新約聖書注解』(I, II) 日本基督教団出版局 -『新共同訳 新約聖書略解』 日本基督教団出版局 -『新エッセンシャル聖書辞典』 いのちのことば社 -『新実用聖書注解』 いのちのことば社 -『新聖書注解』(新約全3巻) いのちのことば社 -岩波書店新約聖書翻訳委員会 『新約聖書』(全5巻) 岩波書店 -上村静 『旧約聖書と新約聖書』 新教出版社 -田川建三 『新約聖書 訳と註』(6巻7冊) 作品社 -フランシスコ会聖書研究所 『聖書 原文校訂による口語訳』 サンパウロ -フェデリコ・バルバロ 『聖書』 講談社 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 ---- &bold(){コメントらん} 以下に投稿されたコメントは&u(){書き込んだ方々の個人的見解であり}、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。  なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 - 著者の山田氏からは本書をご献本いただきました。特記して御礼申し上げます。「批判に遠慮は要らない」とするお言葉に甘え、少々気が引けたのも事実ですが、忌憚なくコメントさせていただきました。次回作の御構想もあるとのことですので、仮説をさらに練り上げる上で多少とも参考になる部分があれば幸いです。 -- sumaru (2016-04-18) - ありがとうございます。 -- 山田高明 (2016-04-28 09:02:41)

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