百詩篇第6巻17番

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[[百詩篇第6巻]]>17番 *原文 Apres&sup(){1} les limes&sup(){2} bruslez les&sup(){3} asiniers&sup(){4}, Contrainctz seront changer&sup(){5} habitz&sup(){6} diuers: Les Saturnins&sup(){7} bruslez par les meusniers&sup(){8}, Hors la pluspart&sup(){9} qui ne sera&sup(){10} couuers&sup(){11}. **異文 (1) Apres : A pres 1611A (2) limes : livres 1672 &italic(){HCR} (3) les : le 1600 1610 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 1716 (4) asiniers : rasiniers 1600 1610 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1650Le 1653 1668 1716, rafiniers 1665, Asiniers 1672, raffiniers 1840 (5) changer : changez 1653 1665 (6) habitz : d’habits 1605 1649Xa 1672 1772Ri (7) Saturnins : Saturnis 1588-89, Saturins 1650Le, saturnins 1653 1665 1840 (8) meusniers : musniers 1557B 1589PV 1590SJ 1649Ca 1650Le 1668A 1716, meufniers 1628, Musniers 1668P (9) pluspart : plus part 1627 1650Ri &italic(){HCR} (10) sera : seront 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 (11) couuers : conuers 1590SJ 1653 1665 1672 1716, musniers 1649Ca &italic(){HCR} (注記)HCR は[[ヘンリー・C・ロバーツ]]による異文。 **校訂  [[ピエール・ブランダムール]]、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]は特に何も校訂しなかった。  [[ピーター・ラメジャラー]]は2003年の時点では1行目 limes を livres に、asiniers を assignés と校訂したが、2010年には原文どおりの訳を第一義とし、校訂したものはカッコ書きで併記した。livres については[[ジャン=ポール・クレベール]]も(ラメジャラーとは独立に)提案している。  [[ロジェ・プレヴォ]]は4行目 couvers を converts と校訂した。これはラメジャラー、[[リチャード・シーバース]]も支持している(シーバースはプテ=ジラールの校訂をほぼそのまま受け入れているのだが、この詩に関しては couvers を convers と独自に校訂している)。 *日本語訳 シャツを燃やされた後に驢馬引き人たちは 別々の服装に変えることを強いられるだろう。 [[サトゥルヌス主義者]]たちは粉挽き人たちに燃やされる、 覆われるであろう大部分を除いては。 **訳について  1行目 lime は『予言集』ではここにしか出ていない。現代語では「やすり」「蓑貝」「猪の牙」「ライムの実」の意味((『ロベール仏和大辞典』ほか))。DMF には「やすり」の意味のほか、(恐らくそこから転じて)「磨き上げられて完璧な性質」という語義が挙げられている((DMF p.384))。DEF でも「やすり」が第一義で、「蝸牛」(limaçon) も挙げられている。DALF でも「やすりをかけること」、(恐らくそこから転じて)「苦痛」(peine, tourment) の意味が挙げられているが、それとは異なる隠語のようなものとして「シャツ」(chemise)が挙げられている((DALF, T.04, pp.786-787))(フランス語の chemise は日本語の「シュミーズ」の由来だが、女性用下着に限定されない)。  [[ピエール・ブランダムール]]は chemise と釈義しており、実際、2行目以降とも整合するのでそれを採用した。なお、フランス詩の訳語に「シャツ」という英語が通俗的に転訛した語は極力使いたくないのだが、下着、中衣、上衣のいずれの意味にもなりうる丁度良い日本語が「シャツ」以外に思い当たらない。一応、「襯衣」(しんい)という熟語があり、これは「シャツ」とも読む((『デジタル大辞泉』『広辞苑』))。ただ、襯の本来的な語義は「はだぎ」であり((『漢語林』))、分かりづらくした上で意味が限定的に伝わる恐れがあるのでは本末転倒なため、これを使うことは避けた。  ブランダムールは1行目 asiniers を asniers と同一視していた((Brind'Amour [1993] p.279))。この点、ブランダムールは何も説明をつけていないが、asnier (ânier)の語源はラテン語の asinarius なので((『ロベール仏和大辞典』))、その綴りが混ざっていると考えれば、そう不自然なものでもないだろう。実際、DALF にはasnier の学者形 (forme savante) として asinier が載っている((DALF, T.08, p.203))。  4行目はとりあえずブランダムールの読みに従った。[[ロジェ・プレヴォ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]らの読みに従えば -改宗させられた大部分を除いては となる。ただ、どちらの読みを採用するにせよ、ne が虚辞である(心理的な否定を示すだけで文意そのものは肯定文)という点はほぼ一致している(ラメジャラーのみは2003年には虚辞と見ていたが、2010年には否定文で訳している)。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「本が焼けて そのうちロバが」((大乗 [1975] p.179。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。「本」は底本に基づく訳としては誤りではないし、上述のラメジャラーのように、あえてこの読みを採る者もいる。しかし、驢馬引き人と驢馬(asne / âne) を同一視するのは妥当とはいえない。これは元になった[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳で安易に asses とされていたのを転訳したものだろう。  2行目「いく度もかれらの着物を着替えることを強制し」も不適切。動詞の活用形から「かれら」を補ったこと自体は妥当だが、それが1行目の驢馬引き人と同一であることが伝わらない。また、受動態になっているものを能動態で訳すのも不適切(ロバーツ訳ではきちんと受動態になっている)。  4行目「一部分は発見されないだろう」は、いろいろな意味で不適切。まず、底本ではロバーツが上の異文欄にあるように、4行目の最後の単語を明らかな誤植でしかない1649Ca の異文に差し替えるという意味不明なことをやっており、「粉挽き人(ではない)であろう大部分を除いては」としか訳せない状態になっていた。ところが、ロバーツは[[テオフィル・ド・ガランシエール]]の英訳をそのまま引っ張っているので、チグハグなことになっている。  さらに、そのロバーツの英訳には確かに discovered とあるが、原文は couverts (覆われた)であって、descouverts (découverts, 発見された)ではない。さらに、pluspart (plupart) は「大部分」の意味であって(ロバーツも the greater part と英訳している)、「一部分」ではニュアンスがまったく違ってしまう。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  1行目 「罪の償いが焼かれて ラバ追いどもが」((山根 [1988] p. 215。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳を含む。まず、ロバとラバ (mulet) は別である。「罪の償い」は[[エリカ・チータム]]が lime を懺悔(penitence) の意味としていたことによる。当「大事典」では古語辞典などでの裏づけを確認できていないが、この語義はもともと[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[エドガー・レオニ]]が古フランス語からとして紹介しており、[[ロジェ・プレヴォ]]も採用しているので、おそらくそういう意味を持つ語はあったのだろう。  ただ、それを採用する場合には、(プレヴォらのように) -懺悔の後で驢馬引き人たちが焼かれ というように訳すべきだろう。  4行目「覆われることのない より大いなる部分は別に」は、ne を虚辞と見ない訳し方としてはおおむね正しいが、「より大いなる部分」は英訳の the greater part を直訳したものだろうが、 plupart の訳としてはぎこちない印象を受ける。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、前半と後半で対にしつつ、いずれも無学な者たちによる学識者に対する迫害を予言したもののようだとした((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[シャルル・ニクロー]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。  全訳本の類でも、[[エリカ・チータム]](1973年)は若干の語註を除けば、文字通り一言もコメントをつけていなかった。後の決定版(1989年)でも「解釈不能」とだけ書かれている((cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]))。ただし、その[[日本語版>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]では、南太平洋などでのキリスト教宣教師による先住民文化の破壊とする(日本語版スタッフによる)解釈が付けられている((チータム [1988]))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)も一言もコメントしておらず、[[ボードワン・ボンセルジャン]]の補訂(2002年)でも一言もないままだった((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。  他方、[[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)は上記のガランシエールの解釈を踏襲しつつ、ナチスによる迫害や焚書によって成就したと位置づけた((Roberts (1947)[1949/1982/1994]))。  [[ヴライク・イオネスク]](1976年)もナチスの迫害や焚書としたが、ロバーツよりも細かい解釈を展開し、サトゥルヌス主義者はユダヤ人を指し、そこから除かれる大部分が「覆われていない」とは、財産を捨て着の身着のままで逃げおおせた人々を指すとした。また、ナチスを驢馬引き人と呼ぶのは、その語幹の asin の[[アナグラム]]でNASI を導くため (フランス語では母音に挟まれた s は [z] で発音するので、Nazi も Nasi も同じ音になる)、また粉挽き人 (meusniers) と呼ぶのはありふれたドイツ人名ミュラー (Müller) やロマン語で下級士官 (sergent) を意味する mesnier との掛詞にするためとした((Ionescu [1976] pp.502-503, Ionescu [1987] pp.302-303))。  この解釈は[[竹本忠雄]](2011年)が踏襲した((竹本 [2011] pp.645-646))。  なお、イオネスクや竹本は[[アナトール・ル・ペルチエ]]編纂の『[[ミシェル・ド・ノートルダムの神託集>>Les Oracles de Michel de Nostredame, 1867]]』(1867年)を底本にしているはずだが、1行目の limes を livres に書き換えた上で焚書と解釈したことには何の説明もなされていない(彼らの解釈では limes という単語は一度も出ていない)。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は、驢馬引き人たちがシャツを燃やされた後に別の服を着ざるを得なくなる一方、[[サトゥルヌス主義者]]を表現されている別の職業集団のうち、身を守っている人々以外が粉挽き人たちに燃やされる、と釈義した。ゆえにブランダムールはこの詩を社会階級の低い人々によって引き起こされる衝突を描写したものと理解した((Brind'Amour [1993] p.279))。  [[ロジェ・プレヴォ]]は驢馬引き人たちをユダヤ人とした。[[クリニトゥス]]が『栄えある学識について』でそう呼んでいたらしい。そこでこの詩は、ユダヤ人たちが拷問 (limes を「苦痛」の意味で理解した) の後で燃やされるとした。また、サトゥルヌス主義者は異端派のことで、「粉挽き人」とは、異端審問に関わったドミニコ会修道士の白いローブを指す言葉でもあったという。ゆえにプレヴォは後半について、改宗した人々以外は異端審問で火刑に処されることを描写しているとした (4行目 couverts を converts と読んでいる)((Prévost [1999] pp.156-157))。  [[ピーター・ラメジャラー]]はサトゥルヌス主義者をユダヤ人とした上で、ノストラダムス自身に語りつがれたキリスト教改宗前の先祖たちの話なのではないかとした((Lemesurier [2003b], Le,mesurier [2010]))。  いずれも相応に説得的といえるが、どの名詞を何の隠喩と捉えるかで見え方が随分と違ってくるということだろう。結局のところ、[[ジャン=ポール・クレベール]]が指摘するように「特に曖昧なこの四行詩は様々な解釈を惹起する」((Clébert [2003]))といえる。 ---- &bold(){コメントらん} 以下のコメント欄は[[コメントの著作権および削除基準>著作権について]]を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 - 第二次大戦後、ナチスの党員が逃亡で別の職業に就かざるを得なかったこと事を予言。シンドラーなどによって庇護されたユダヤ人以外がホロコーストに遭遇したこと。 粉屋とはゲシュタポ局長のハインリッヒ・ミューラーなどヴァンゼー会議に出席した全員を指している。 -- とある信奉者 (2016-09-25 15:43:29) #comment
[[百詩篇第6巻]]>17番 *原文 Apres&sup(){1} les limes&sup(){2} bruslez les&sup(){3} asiniers&sup(){4}, Contrainctz seront changer&sup(){5} habitz&sup(){6} diuers: Les Saturnins&sup(){7} bruslez par les meusniers&sup(){8}, Hors la pluspart&sup(){9} qui ne sera&sup(){10} couuers&sup(){11}. **異文 (1) Apres : A pres 1611A (2) limes : livres 1672 &italic(){HCR} (3) les : le 1600 1610 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 1716 (4) asiniers : rasiniers 1600 1610 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1650Le 1653 1668 1716, rafiniers 1665, Asiniers 1672, raffiniers 1840 (5) changer : changez 1653 1665 (6) habitz : d’habits 1605 1649Xa 1672 1772Ri (7) Saturnins : Saturnis 1588-89, Saturins 1650Le, saturnins 1653 1665 1840 (8) meusniers : musniers 1557B 1589PV 1590SJ 1649Ca 1650Le 1668A 1716, meufniers 1628, Musniers 1668P (9) pluspart : plus part 1627 1650Ri &italic(){HCR} (10) sera : seront 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 (11) couuers : conuers 1590SJ 1653 1665 1672 1716, musniers 1649Ca &italic(){HCR} (注記)HCR は[[ヘンリー・C・ロバーツ]]による異文。 **校訂  [[ピエール・ブランダムール]]、[[ブリューノ・プテ=ジラール]]は特に何も校訂しなかった。  [[ピーター・ラメジャラー]]は2003年の時点では1行目 limes を livres に、asiniers を assignés と校訂したが、2010年には原文どおりの訳を第一義とし、校訂したものはカッコ書きで併記した。livres については[[ジャン=ポール・クレベール]]も(ラメジャラーとは独立に)提案している。  [[ロジェ・プレヴォ]]は4行目 couvers を converts と校訂した。これはラメジャラー、[[リチャード・シーバース]]も支持している(シーバースはプテ=ジラールの校訂をほぼそのまま受け入れているのだが、この詩に関しては couvers を convers と独自に校訂している)。 *日本語訳 シャツを燃やされた後に驢馬引き人たちは 別々の服装に変えることを強いられるだろう。 [[サトゥルヌス主義者]]たちは粉挽き人たちに燃やされる、 覆われるであろう大部分を除いては。 **訳について  1行目 lime は『予言集』ではここにしか出ていない。現代語では「やすり」「蓑貝」「猪の牙」「ライムの実」の意味((『ロベール仏和大辞典』ほか))。DMF には「やすり」の意味のほか、(恐らくそこから転じて)「磨き上げられて完璧な性質」という語義が挙げられている((DMF p.384))。DEF でも「やすり」が第一義で、「蝸牛」(limaçon) も挙げられている。DALF でも「やすりをかけること」、(恐らくそこから転じて)「苦痛」(peine, tourment) の意味が挙げられているが、それとは異なる隠語のようなものとして「シャツ」(chemise)が挙げられている((DALF, T.04, pp.786-787))(フランス語の chemise は日本語の「シュミーズ」の由来だが、女性用下着に限定されない)。  [[ピエール・ブランダムール]]は chemise と釈義しており、実際、2行目以降とも整合するのでそれを採用した。  なお、フランス詩の訳語に、「シャツ」という英語が通俗的に転訛した語を使うことは、極力避けたかったのだが、下着、中衣、上衣のいずれの意味にもなりうる丁度良い日本語が「シャツ」以外に思い当たらない。  一応、「襯衣」(しんい)という熟語があり、これは「シャツ」とも読む((『デジタル大辞泉』『広辞苑』))。ただ、「襯」の本来的な語義は「はだぎ」であり((『漢語林』))、分かりづらくした上で意味が限定的に伝わる恐れがあるのでは本末転倒なため、これを使うことは避けた。  ブランダムールは1行目 asiniers を asniers と同一視していた((Brind'Amour [1993] p.279))。この点、ブランダムールは何も説明をつけていないが、asnier (ânier)の語源はラテン語の asinarius なので((『ロベール仏和大辞典』))、その綴りが混ざっていると考えれば、そう不自然なものでもないだろう。  実際、DALF にはasnier の学者形 (forme savante) として asinier が載っている((DALF, T.08, p.203))。  4行目はとりあえずブランダムールの読みに従った。[[ロジェ・プレヴォ]]、[[ピーター・ラメジャラー]]らの読みに従えば -改宗させられた大部分を除いては となる。ただ、どちらの読みを採用するにせよ、ne が虚辞である(心理的な否定を示すだけで文意そのものは肯定文)という点はほぼ一致している(ラメジャラーのみは2003年には虚辞と見ていたが、2010年には否定文で訳している)。  既存の訳についてコメントしておく。  [[大乗訳>ノストラダムス大予言原典・諸世紀]]について。  1行目 「本が焼けて そのうちロバが」((大乗 [1975] p.179。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳。「本」は底本に基づく訳としては誤りではないし、上述のラメジャラーのように、あえてこの読みを採る者もいる。しかし、驢馬引き人と驢馬(asne / âne) を同一視するのは妥当とはいえない。これは元になった[[ヘンリー・C・ロバーツ]]の英訳で安易に asses とされていたのを転訳したものだろう。  2行目「いく度もかれらの着物を着替えることを強制し」も不適切。動詞の活用形から「かれら」を補ったこと自体は妥当だが、それが1行目の驢馬引き人と同一であることが伝わらない。また、受動態になっているものを能動態で訳すのも不適切(ロバーツ訳ではきちんと受動態になっている)。  4行目「一部分は発見されないだろう」は、いろいろな意味で不適切。まず、底本ではロバーツが上の異文欄にあるように、4行目の最後の単語を明らかな誤植でしかない1649Ca の異文に差し替えるという意味不明なことをやっており、「粉挽き人(ではない)であろう大部分を除いては」としか訳せない状態になっていた。ところが、ロバーツは[[テオフィル・ド・ガランシエール]]の英訳をそのまま引っ張っているので、チグハグなことになっている。  さらに、そのロバーツの英訳には確かに discovered とあるが、原文は couverts (覆われた)であって、descouverts (découverts, 発見された)ではない。さらに、pluspart (plupart) は「大部分」の意味であって(ロバーツも the greater part と英訳している)、「一部分」ではニュアンスがまったく違ってしまう。  [[山根訳>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]について。  1行目 「罪の償いが焼かれて ラバ追いどもが」((山根 [1988] p. 215。以下、この詩の引用は同じページから。))は誤訳を含む。まず、ロバとラバ (mulet) は別である。「罪の償い」は[[エリカ・チータム]]が lime を懺悔(penitence) の意味としていたことによる。当「大事典」では古語辞典などでの裏づけを確認できていないが、この語義はもともと[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[エドガー・レオニ]]が古フランス語からとして紹介しており、[[ロジェ・プレヴォ]]も採用しているので、おそらくそういう意味を持つ語はあったのだろう。  ただ、それを採用する場合には、(プレヴォらのように) -懺悔の後で驢馬引き人たちが焼かれ というように訳すべきだろう。  4行目「覆われることのない より大いなる部分は別に」は、ne を虚辞と見ない訳し方としてはおおむね正しいが、「より大いなる部分」は英訳の the greater part を直訳したものだろうが、 plupart の訳としてはぎこちない印象を受ける。 *信奉者側の見解  [[テオフィル・ド・ガランシエール]](1672年)は、前半と後半で対にしつつ、いずれも無学な者たちによる学識者に対する迫害を予言したもののようだとした((Garencieres [1672]))。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、[[ジャック・ド・ジャン]]、[[バルタザール・ギノー]]、[[D.D.]]、[[テオドール・ブーイ]]、[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]、[[チャールズ・ウォード]]、[[シャルル・ニクロー]]、[[マックス・ド・フォンブリュヌ]]、[[アンドレ・ラモン]]、[[ロルフ・ボズウェル]]、[[ジェイムズ・レイヴァー]]の著書には載っていない。  全訳本の類でも、[[エリカ・チータム]](1973年)は若干の語註を除けば、文字通り一言もコメントをつけていなかった。  後の決定版(1989年)でも「解釈不能」とだけ書かれている((cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]))。  ただし、その[[日本語版>ノストラダムス全予言 (二見書房)]]では、南太平洋などでのキリスト教宣教師による先住民文化の破壊とする(日本語版スタッフによる)解釈が付けられている((チータム [1988]))。  [[セルジュ・ユタン]](1978年)も一言もコメントしておらず、[[ボードワン・ボンセルジャン]]の補訂(2002年)でも一言もないままだった((Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]))。  他方、[[ヘンリー・C・ロバーツ]](1947年)は上記のガランシエールの解釈を踏襲しつつ、ナチスによる迫害や焚書によって成就したと位置づけた((Roberts (1947)[1949/1982/1994]))。  [[ヴライク・イオネスク]](1976年)もナチスの迫害や焚書としたが、ロバーツよりも細かい解釈を展開し、サトゥルヌス主義者はユダヤ人を指し、そこから除かれる大部分が「覆われていない」とは、財産を捨て着の身着のままで逃げおおせた人々を指すとした。また、ナチスを驢馬引き人と呼ぶのは、その語幹の asin の[[アナグラム]]でNASI を導くため (フランス語では母音に挟まれた s は [z] で発音するので、Nazi も Nasi も同じ音になる)、また粉挽き人 (meusniers) と呼ぶのはありふれたドイツ人名ミュラー (Müller) やロマン語で下級士官 (sergent) を意味する mesnier との掛詞にするためとした((Ionescu [1976] pp.502-503, Ionescu [1987] pp.302-303))。  この解釈は[[竹本忠雄]](2011年)が踏襲した((竹本 [2011] pp.645-646))。  なお、イオネスクや竹本は[[アナトール・ル・ペルチエ]]編纂の『[[ミシェル・ド・ノートルダムの神託集>>Les Oracles de Michel de Nostredame, 1867]]』(1867年)を底本にしているはずだが、その1行目は limes となっている。彼らはその原文自体を livres に書き換えた上で、焚書と解釈しているのだが、この点の改変には何の説明もない(彼らの解釈では limes という単語は一度も出ていない)。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は、驢馬引き人たちがシャツを燃やされた後に別の服を着ざるを得なくなる一方、[[サトゥルヌス主義者]]を表現されている別の職業集団のうち、身を守っている人々以外が粉挽き人たちに燃やされる、と釈義した。  ゆえにブランダムールはこの詩を社会階級の低い人々によって引き起こされる衝突を描写したものと理解した((Brind'Amour [1993] p.279))。  [[ロジェ・プレヴォ]]は驢馬引き人たちをユダヤ人とした。[[クリニトゥス]]が『栄えある学識について』でそう呼んでいたらしい。  そこでこの詩は、ユダヤ人たちが拷問 (limes を「苦痛」の意味で理解した) の後で燃やされるとした。  また、サトゥルヌス主義者は異端派のことで、「粉挽き人」とは、異端審問に関わったドミニコ会修道士の白いローブを指す言葉でもあったという。  ゆえにプレヴォは後半について、改宗した人々以外は異端審問で火刑に処されることを描写しているとした (4行目 couverts を converts と読んでいる)((Prévost [1999] pp.156-157))。  [[ピーター・ラメジャラー]]はサトゥルヌス主義者をユダヤ人とした上で、ノストラダムス自身に語りつがれたキリスト教改宗前の先祖たちの話なのではないかとした((Lemesurier [2003b], Le,mesurier [2010]))。  いずれも相応に説得的といえるが、どの名詞を何の隠喩と捉えるかで見え方が随分と違ってくるということだろう。  結局のところ、[[ジャン=ポール・クレベール]]が指摘するように「特に曖昧なこの四行詩は様々な解釈を惹起する」((Clébert [2003]))といえる。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 ---- &bold(){コメントらん} 以下に投稿されたコメントは&u(){書き込んだ方々の個人的見解であり}、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません。  なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 - 第二次大戦後、ナチスの党員が逃亡で別の職業に就かざるを得なかったこと事を予言。シンドラーなどによって庇護されたユダヤ人以外がホロコーストに遭遇したこと。 粉屋とはゲシュタポ局長のハインリッヒ・ミューラーなどヴァンゼー会議に出席した全員を指している。 -- とある信奉者 (2016-09-25 15:43:29)

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