Predictions de Me Michel Nostradamus pour le siecle de l'an 1600

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 『&bold(){ラングドックのヴァンサン・オカーヌによりその年の初めに国王アンリ4世に献上された、1600年からの世紀に向けたミシェル・ノストラダムス師の予言}』(Predictions de M&sup(){e} Michel Nostradamus Pour le siecle de l'an 1600 Pntees au Roy Henri 4&sup(){e} au commencement de l'Annee par Vincent Aucane de Languedoc.)は、フランス国立図書館に現存する予言書の手稿である。  17世紀初頭に書かれた手稿と考えられており、ここに収められた54篇の六行詩は、それから間もなくノストラダムス『予言集』に収録されるようになった[[六行詩集>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]58篇の、より初期の特色を保持する手稿と見なされている。 *所蔵先  フランス国立図書館に所蔵されている 『主に16世紀末から17世紀初頭のフランス史に関する断片集成』(Recueil de pièces concernant l'histoire de France, principalement à la fin du XVI&sup(){e} siècle et au commencement du XVII&sup(){e} .)の第76葉から第78葉の3葉(=6ページ)分がこの文書に該当している。この文書集は17世紀ごろの雑多な手稿の寄せ集めなので、前後に収録されている文書などは、この予言書と直接の関連を持たない。  蔵書番号(cote)を FF 4744 としている関連書籍もあるが、フランス国立図書館の公式サイトでは [[Département des manuscrits, Français 4744>>http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b9060327n]](直訳だと「手稿部門、フランス語4744」) とされている。 *題名  題名を手稿の通りに区切ると以下のようになる。 Predictions de M&sup(){e} Michel Nostradamus Pour le siecle de l'an 1600 Pntees au Roy Henri 4&sup(){e} au commencement de l'Annee par Vincent Aucane de Languedoc.  Pntees が Presentees の略だという点に異論はない。  アンリ4世については、上記の転記はGallicaで公開されているものを元に、[[ジャック・アルブロン]]((以下、アルブロンの情報のうちで断りの無いものは、Halbronn [2002] pp.157-160に拠る。))、[[パトリス・ギナール]]((以下、ギナールの情報のうちで断りの無いものは、CURAの Les sizains apocryphes d'un pseudo-Nostradamus (ca1603) による。))の転記も参照したが、[[ダニエル・ルソ]] ((以下、本項でのルソの情報は、Ruzo [1982] pp.299-311に拠る。))、[[ロベール・ブナズラ]]((以下、本項でのブナズラの情報は、Benazra [1990] pp.163-164 および[[Bibliographie 3>>http://ramkat.free.fr/centur17.html]]に拠る。))は Henri 4° としている。確かにルソの著書のフォトコピーは4の右肩の文字が潰れていたが、フランス語で「第四」を意味する略記は e を右肩に載せるのが普通だし、Gallicaのフォトコピーでは鮮明に e が見えるので、4°とする転記に正当性はない。  著者名についても異読があるが、それについては次の節で扱う。 *著者  手稿が読み取りづらいため、著者名に読み方に揺れがある。ルソはヴァンサン・オカーヌ(Vincent Aucane)としていたが、フランス国立図書館の書誌データではヴァンサン・オケール(Vincent Aucaire)となっている。ブナズラは著書ではオカーヌとしていたが、その後、インターネット上で公表している書誌では両論併記している。ギナールも両論併記である。 #ref(aucaire.png) 【画像】手稿の署名部分((画像の出典:Gallica))。Aucaire か Aucane か。  そのように名前すら確定していない人物であるから、どのような素性であったかも、もちろん明らかになっていない。  ルソは、六行詩54篇を収めたこの手稿と、58篇の印刷版とで2人の詩人が関わっているとして、テオフィル・ド・ヴィオー(Théophile de Viau, 1590年 - 1626年)とジャン・メレ(Jean Mairet, 1604年 - 1686年)の2人を挙げ、前者が手稿を書き、後者が引き継いだとしている。  フランス南西部クレラック(Clairac)出身のバロック詩人テオフィル・ド・ヴィオーは、1619年にラングドックに18か月滞在していたときに、モンモランシー公の庇護を受けていた。ルソは、ヴィオーがそれ以降にシャンティイ城の図書室でノストラダムス作品に接し、刊行も献上も想定せずに六行詩を試作したのではないかとしている。  フランス古典劇の草創期の劇作家ジャン・メレは、1620年代にモンモランシー公の庇護を受け、1626年以降、作品を公刊することとなった。ルソは、メレが詩人と予言者の関係に触れた一節などを引用しつつ、メレの予言への関心を紹介している。  メレはともかく、ヴィオーは恋愛詩をまとめ、1622年に刊行した作品集の猥褻性と反宗教性を理由に処罰された人物であり、ノストラダムス予言との接点は、あくまでもシャンティイ城に滞在していたことがあったというだけなので、希薄と言わざるをえない。 (そもそもシャンティイ城は、アンリ4世に予言が献上されたとされる場所であり、執筆された場所とは主張されていない)  そして何より、ルソの仮説が成立するためには、1605年版が偽版であることはもちろん、1611年の刊行とされるピエール・シュヴィヨ版も、実際の刊行が1620年代後半以降でなければならない。  ルソはそれを1630年ごろの刊行と見なしていたので、彼の中では整合していた。もっとも、モンモランシー公に庇護されていた2人の文人を著者とするのであれば、モンモランシー公の名前が削り落とされた1611年版が初出というのは、いかにも不自然なことである。ルソが1628年ごろのデュ・リュオー版もあわせて1630年ごろの刊行と見なしていたのは、デュ・リュオー版にはモンモランシー公の名が明記されている事情と無関係ではないだろう。  しかし、シュヴィヨ版を1611年から1616年ごろの刊行と見なすギナールは、ヴィオーは1600年の時点で10歳にすぎないとして、否定的に捉えている。ギナールは、オカーヌの正体について、ノストラダムスを下手に模倣したプロヴァンス出身者ではないかという程度にしか絞り込んでいない。  さて、1520年代の編者不明の予言書『[[ミラビリス・リベル]]』に、[[メトディウスの予言書>偽メトディウス]]が「ベメコブスの予言書」として再録されていたように、何の意味があるのかよく分からない名前の改変事例は他にもあるので、「ヴァンサン・オカーヌ」はヴァンサン・セーヴの手稿を筆写した何者かが、何らかの意図で名前を若干アレンジした可能性などもあるのかもしれない。  なお、オカーヌであれ、オケールであれ、そういう単語はフランス語に存在しない(DALFには Aucaire は載っているが、語義不明とされている)。  ただ、プロヴァンス人の姓には Aucano というものがあり、そのフランス語化が Aucane らしい((LTDF))。また、Aucaire は南仏の言葉で、「雁を見張る人」(celui, celle qui garde les oies)の意味だという((LTDF))。ゆえに、いずれが正解でも、南仏の人名としてありえないわけではなさそうだ。  あるいは、Aucane が Arcane (神秘、錬金術の秘法)の誤記なのだとすれば、(中期フランス語では形容詞としても使われたので)「神秘のヴァンサン」と理解できなくもない。その場合は、公表を想定しない習作でヴァンサン・セーヴ自身が戯れに名乗った、暫定的な筆名のようなものだったのかもしれない。   *作成年  手稿には「1600年に献上された」とある。しかし、[[六行詩6番]]が、1602年に起こったビロン公の裏切り事件を踏まえて書かれた事後予言であることはほぼ明白であるため、ブナズラ、ギナールはいずれも1602年以降の作成であろうと推測している。  またギナールは、[[六行詩46番]]に描かれた星位が17世紀に見られるのは1614年5月5日のみとし、その詩がアンリ4世の暗殺に該当するにも関わらず、(暗殺が1610年だった史実と比べて)4年外れていることから、それ以前に作成されていると見なした。  ギナールはあまり詳しく説明していないが、もしもそれ以降の作成ならば、時期や描写についての修正を入れたはずだから、ということなのだろう。46番はかなり曖昧な詩篇なので、この推論について論評しづらいのだが、「汝の不幸が最大に」という表現は確かに、大した事件が起こっていない1614年よりも、アンリ4世が暗殺された1610年の方が似つかわしいとは言えるかもしれない。  なお、ギナールは手稿の成立年について、さらに踏み込んで1603年ごろと位置づけているが、それについての具体的根拠の提示はされていない。  ブナズラはこの手稿に比べて印刷版で増える4篇のうち3篇が1605年以前の年を明示しているため、58篇の登場は1605年のことだったと推測しており、この立場に立てば、手稿は1602年から1605年の間に位置づけることができる。  以上、ギナールのように1603年とまで絞りきれるかはともかく、1602年から1605年に位置づけることは、そう突飛な話ではないだろう。 *現行の六行詩集との対応関係  手稿の六行詩は56番まで(26番と33番が欠番なので、詩篇の数は54篇)しかなく、17世紀初頭以降の『予言集』の多くの版に収録された58篇に比べて不足がある。その対照表を作ると、以下の通りである。時期や年に関する表現もあわせてまとめた(「→」があるのは、手稿から刊本で変更があったもの)。 |オカーヌ|セーヴ|時期・期間の表示| |01|[[01>六行詩1番]]|新たな世紀| |02|[[02>六行詩2番]]|| |03|[[03>六行詩3番]]|三年 → 五年| |04|[[04>六行詩4番]]|| |05|[[06>六行詩6番]]|| |06|[[05>六行詩5番]]|| |07|[[07>六行詩7番]]|| |08|[[08>六行詩8番]]|| |09|[[09>六行詩9番]]|| |10|[[10>六行詩10番]]|| ||[[11>六行詩11番]]|六百と四| ||[[12>六行詩12番]]|六百と五| |11|[[13>六行詩13番]]|六百五ないし九 → 六百と六ないし九| ||[[14>六行詩14番]]|六百と五| |12|[[15>六行詩15番]]|六百と五の十月、六百と六の六月| |13|[[16>六行詩16番]]|| |14|[[17>六行詩17番]]|| |15|[[18>六行詩18番]]|六百と五| |16|[[19>六行詩19番]]|六百と五、六百と六と七…十七の年まで| |17|[[20>六行詩20番]]|| |18|[[21>六行詩21番]]|六百と七の年| |19|[[22>六行詩22番]]|| |20|[[23>六行詩23番]]|六百と七そして十| |21|[[24>六行詩24番]]|六百八と二十| |22|[[25>六行詩25番]]|六百六ないし六百九 → 六百と六、六百と九| |23|[[26>六行詩26番]]|もしも六百と六の年に…六百と十まで| ||[[27>六行詩27番]]|第三の時代| |24|[[28>六行詩28番]]|千六百と十の年から十四へ → 千六百と九ないし十四の年 | |25|[[29>六行詩29番]]|六百と八| |27|[[30>六行詩30番]]|ほとんど日をおかずに → ほとんど時期をおかずに | |28|[[31>六行詩31番]]|| |29|[[32>六行詩32番]]|| |30|[[33>六行詩33番]]|もう間もなく| |31|[[34>六行詩34番]]|| |32|[[35>六行詩35番]]|| |34|[[36>六行詩36番]]|| |35|[[37>六行詩37番]]|| |36|[[38>六行詩38番]]|六百と十五ないし十九| |37|[[39>六行詩39番]]|| |38|[[40>六行詩40番]]|| |39|[[41>六行詩41番]]|| |40|[[42>六行詩42番]]|六百十年間| |41|[[43>六行詩43番]]|| |42|[[44>六行詩44番]]|六百と十、十五の年| |43|[[45>六行詩45番]]|| |44|[[46>六行詩46番]]|白羊宮で火星、土星、月が合| |45|[[47>六行詩47番]]|三年の間| |46|[[48>六行詩48番]]|| |47|[[49>六行詩49番]]|| |48|[[50>六行詩50番]]|少し前か後| |49|[[51>六行詩51番]]|| |50|[[52>六行詩52番]]|火星が白羊宮に| |51|[[53>六行詩53番]]|六百七十まで| |52|[[54>六行詩54番]]|六百と他に (?) → 六百と十五、二十| |53|[[55>六行詩55番]]|少し後 → 少し前ないし後| |54|[[56>六行詩56番]]|| |55|[[57>六行詩57番]]|その後間もなく| |56|[[58>六行詩58番]]|間もなく| ---- #comment
 『&bold(){ラングドックのヴァンサン・オカーヌによりその年の初めに国王アンリ4世に献上された、1600年からの世紀に向けたミシェル・ノストラダムス師の予言}』(Predictions de M&sup(){e} Michel Nostradamus Pour le siecle de l'an 1600 Pntees au Roy Henri 4&sup(){e} au commencement de l'Annee par Vincent Aucane de Languedoc.)は、フランス国立図書館に現存する予言書の手稿である。  17世紀初頭に書かれた手稿と考えられており、ここに収められた54篇の六行詩は、それから間もなくノストラダムス『予言集』に収録されるようになった[[六行詩集>この世紀のいずれかの年のための驚くべき予言]]58篇の、より初期の特色を保持する手稿と見なされている。 *所蔵先  フランス国立図書館に所蔵されている 『主に16世紀末から17世紀初頭のフランス史に関する断片集成』(Recueil de pièces concernant l'histoire de France, principalement à la fin du XVI&sup(){e} siècle et au commencement du XVII&sup(){e} .)の第76葉から第78葉の3葉(=6ページ)分がこの文書に該当している。この文書集は17世紀ごろの雑多な手稿の寄せ集めなので、前後に収録されている文書などは、この予言書と直接の関連を持たない。  蔵書番号(cote)を FF 4744 としている関連書籍もあるが、フランス国立図書館の公式サイトでは [[Département des manuscrits, Français 4744>>http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b9060327n]](直訳だと「手稿部門、フランス語4744」) とされている。 *題名  題名を手稿の通りに区切ると以下のようになる。 Predictions de M&sup(){e} Michel Nostradamus Pour le siecle de l'an 1600 Pntees au Roy Henri 4&sup(){e} au commencement de l'Annee par Vincent Aucane de Languedoc.  Pntees が Presentees の略だという点に異論はない。  アンリ4世については、上記の転記はGallicaで公開されているものを元に、[[ジャック・アルブロン]]((以下、アルブロンの情報のうちで断りの無いものは、Halbronn [2002] pp.157-160に拠る。))、[[パトリス・ギナール]]((以下、ギナールの情報のうちで断りの無いものは、CURAの Les sizains apocryphes d'un pseudo-Nostradamus (ca1603) による。))の転記も参照したが、[[ダニエル・ルソ]] ((以下、本項でのルソの情報は、Ruzo [1982] pp.299-311に拠る。))、[[ロベール・ブナズラ]]((以下、本項でのブナズラの情報は、Benazra [1990] pp.163-164 および[[Bibliographie 3>>http://ramkat.free.fr/centur17.html]]に拠る。))は Henri 4° としている。確かにルソの著書のフォトコピーは4の右肩の文字が潰れていたが、フランス語で「第四」を意味する略記は e を右肩に載せるのが普通だし、Gallicaのフォトコピーでは鮮明に e が見えるので、4°とする転記に正当性はない。  著者名についても異読があるが、それについては次の節で扱う。 *著者  手稿が読み取りづらいため、著者名の読み方に揺れがある。ルソはヴァンサン・オカーヌ(Vincent Aucane)としていたが、フランス国立図書館の書誌データではヴァンサン・オケール(Vincent Aucaire)となっている。ブナズラは著書ではオカーヌとしていたが、その後、インターネット上で公表している書誌では両論併記している。ギナールも両論併記である。 #ref(aucaire.png) 【画像】手稿の署名部分((画像の出典:Gallica))。Aucaire か Aucane か。  そのように名前すら確定していない人物であるから、どのような素性であったかも、もちろん明らかになっていない。  ルソは、六行詩54篇を収めたこの手稿と、58篇の印刷版とで2人の詩人が関わっているとして、テオフィル・ド・ヴィオー(Théophile de Viau, 1590年 - 1626年)とジャン・メレ(Jean Mairet, 1604年 - 1686年)の2人を挙げ、前者が手稿を書き、後者が引き継いだとしている。  フランス南西部クレラック(Clairac)出身のバロック詩人テオフィル・ド・ヴィオーは、1619年にラングドックに18か月滞在していたときに、モンモランシー公の庇護を受けていた。ルソは、ヴィオーがそれ以降にシャンティイ城の図書室でノストラダムス作品に接し、刊行も献上も想定せずに六行詩を試作したのではないかとしている。  フランス古典劇の草創期の劇作家ジャン・メレは、1620年代にモンモランシー公の庇護を受け、1626年以降、作品を公刊することとなった。ルソは、メレが詩人と予言者の関係に触れた一節などを引用しつつ、メレの予言への関心を紹介している。  メレはともかく、ヴィオーは恋愛詩をまとめ、1622年に刊行した作品集の猥褻性と反宗教性を理由に処罰された人物であり、ノストラダムス予言との接点は、あくまでもシャンティイ城に滞在していたことがあったというだけなので、希薄と言わざるをえない。 (そもそもシャンティイ城は、アンリ4世に予言が献上されたとされる場所であり、執筆された場所とは主張されていない)  そして何より、ルソの仮説が成立するためには、1605年版が偽版であることはもちろん、1611年の刊行とされるピエール・シュヴィヨ版も、実際の刊行が1620年代後半以降でなければならない。  ルソはそれを1630年ごろの刊行と見なしていたので、彼の中では整合していた。もっとも、モンモランシー公に庇護されていた2人の文人を著者とするのであれば、モンモランシー公の名前が削り落とされた1611年版が初出というのは、いかにも不自然なことである。ルソが1628年ごろのデュ・リュオー版もあわせて1630年ごろの刊行と見なしていたのは、デュ・リュオー版にはモンモランシー公の名が明記されている事情と無関係ではないだろう。  しかし、シュヴィヨ版を1611年から1616年ごろの刊行と見なすギナールは、ヴィオーは1600年の時点で10歳にすぎないとして、否定的に捉えている。ギナールは、オカーヌの正体について、ノストラダムスを下手に模倣したプロヴァンス出身者ではないかという程度にしか絞り込んでいない。  さて、1520年代の編者不明の予言書『[[ミラビリス・リベル]]』に、[[メトディウスの予言書>偽メトディウス]]が「ベメコブスの予言書」として再録されていたように、何の意味があるのかよく分からない名前の改変事例は他にもあるので、「ヴァンサン・オカーヌ」はヴァンサン・セーヴの手稿を筆写した何者かが、何らかの意図で名前を若干アレンジした可能性などもあるのかもしれない。  なお、オカーヌであれ、オケールであれ、そういう単語はフランス語に存在しない(DALFには Aucaire は載っているが、語義不明とされている)。  ただ、プロヴァンス人の姓には Aucano というものがあり、そのフランス語化が Aucane らしい((LTDF))。また、Aucaire は南仏の言葉で、「雁を見張る人」(celui, celle qui garde les oies)の意味だという((LTDF))。ゆえに、いずれが正解でも、南仏の人名としてありえないわけではなさそうだ。  あるいは、Aucane が Arcane (神秘、錬金術の秘法)の誤記なのだとすれば、(中期フランス語では形容詞としても使われたので)「神秘のヴァンサン」と理解できなくもない。その場合は、公表を想定しない習作でヴァンサン・セーヴ自身が戯れに名乗った、暫定的な筆名のようなものだったのかもしれない。   *作成年  手稿には「1600年に献上された」とある。しかし、[[六行詩6番]]が、1602年に起こったビロン公の裏切り事件を踏まえて書かれた事後予言であることはほぼ明白であるため、ブナズラ、ギナールはいずれも1602年以降の作成であろうと推測している。  またギナールは、[[六行詩46番]]に描かれた星位が17世紀に見られるのは1614年5月5日のみとし、その詩がアンリ4世の暗殺に該当するにも関わらず、(暗殺が1610年だった史実と比べて)4年外れていることから、それ以前に作成されていると見なした。  ギナールはあまり詳しく説明していないが、もしもそれ以降の作成ならば、時期や描写についての修正を入れたはずだから、ということなのだろう。46番はかなり曖昧な詩篇なので、この推論について論評しづらいのだが、「汝の不幸が最大に」という表現は確かに、大した事件が起こっていない1614年よりも、アンリ4世が暗殺された1610年の方が似つかわしいとは言えるかもしれない。  なお、ギナールは手稿の成立年について、さらに踏み込んで1603年ごろと位置づけているが、それについての具体的根拠の提示はされていない。  ブナズラはこの手稿に比べて印刷版で増える4篇のうち3篇が1605年以前の年を明示しているため、58篇の登場は1605年のことだったと推測しており、この立場に立てば、手稿は1602年から1605年の間に位置づけることができる。  以上、ギナールのように1603年とまで絞りきれるかはともかく、1602年から1605年に位置づけることは、そう突飛な話ではないだろう。 *現行の六行詩集との対応関係  手稿の六行詩は56番まで(26番と33番が欠番なので、詩篇の数は54篇)しかなく、17世紀初頭以降の『予言集』の多くの版に収録された58篇に比べて不足がある。その対照表を作ると、以下の通りである。時期や年に関する表現もあわせてまとめた(「→」があるのは、手稿から刊本で変更があったもの)。 |オカーヌ|セーヴ|時期・期間の表示| |01|[[01>六行詩1番]]|新たな世紀| |02|[[02>六行詩2番]]|| |03|[[03>六行詩3番]]|三年 → 五年| |04|[[04>六行詩4番]]|| |05|[[06>六行詩6番]]|| |06|[[05>六行詩5番]]|| |07|[[07>六行詩7番]]|| |08|[[08>六行詩8番]]|| |09|[[09>六行詩9番]]|| |10|[[10>六行詩10番]]|| ||[[11>六行詩11番]]|六百と四| ||[[12>六行詩12番]]|六百と五| |11|[[13>六行詩13番]]|六百五ないし九 → 六百と六ないし九| ||[[14>六行詩14番]]|六百と五| |12|[[15>六行詩15番]]|六百と五の十月、六百と六の六月| |13|[[16>六行詩16番]]|| |14|[[17>六行詩17番]]|| |15|[[18>六行詩18番]]|六百と五| |16|[[19>六行詩19番]]|六百と五、六百と六と七…十七の年まで| |17|[[20>六行詩20番]]|| |18|[[21>六行詩21番]]|六百と七の年| |19|[[22>六行詩22番]]|| |20|[[23>六行詩23番]]|六百と七そして十| |21|[[24>六行詩24番]]|六百八と二十| |22|[[25>六行詩25番]]|六百六ないし六百九 → 六百と六、六百と九| |23|[[26>六行詩26番]]|もしも六百と六の年に…六百と十まで| ||[[27>六行詩27番]]|第三の時代| |24|[[28>六行詩28番]]|千六百と十の年から十四へ → 千六百と九ないし十四の年 | |25|[[29>六行詩29番]]|六百と八| |27|[[30>六行詩30番]]|ほとんど日をおかずに → ほとんど時期をおかずに | |28|[[31>六行詩31番]]|| |29|[[32>六行詩32番]]|| |30|[[33>六行詩33番]]|もう間もなく| |31|[[34>六行詩34番]]|| |32|[[35>六行詩35番]]|| |34|[[36>六行詩36番]]|| |35|[[37>六行詩37番]]|| |36|[[38>六行詩38番]]|六百と十五ないし十九| |37|[[39>六行詩39番]]|| |38|[[40>六行詩40番]]|| |39|[[41>六行詩41番]]|| |40|[[42>六行詩42番]]|六百十年間| |41|[[43>六行詩43番]]|| |42|[[44>六行詩44番]]|六百と十、十五の年| |43|[[45>六行詩45番]]|| |44|[[46>六行詩46番]]|白羊宮で火星、土星、月が合| |45|[[47>六行詩47番]]|三年の間| |46|[[48>六行詩48番]]|| |47|[[49>六行詩49番]]|| |48|[[50>六行詩50番]]|少し前か後| |49|[[51>六行詩51番]]|| |50|[[52>六行詩52番]]|火星が白羊宮に| |51|[[53>六行詩53番]]|六百七十まで| |52|[[54>六行詩54番]]|六百と他に (?) → 六百と十五、二十| |53|[[55>六行詩55番]]|少し後 → 少し前ないし後| |54|[[56>六行詩56番]]|| |55|[[57>六行詩57番]]|その後間もなく| |56|[[58>六行詩58番]]|間もなく| ---- #comment

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