五島勉のノストラダムス研究歴

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 &bold(){[[五島勉]]のノストラダムス研究歴}に関する主張をまとめておく。五島の経歴の中でも、著書やインタビューごとに特に食い違いが大きいのがこの点である。まともに「研究」をしているのであれば(あるいは「研究」といった大仰なものでなくとも興味を持って「調査」をしてきたのなら)、普通その思い出話がそれほど大きくズレることは考え難いが、その考え難いことが五島の場合には起きている。  以下、(筆)とあるのは五島自身が書いたもの、(談)というのはインタビューや対談での五島自身の発言を指す。  太字は当「大事典」による強調。 *五島自身のコメントと寸評 &bold(){『ノストラダムスの大予言』初版、1973年11月25日 (筆)} -&color(green){あなたはノストラダムスの名を知っておられるだろうか。〔略〕私も、実はなんにも知らなかった。が、&bold(){1962年の秋に}私はたまたま、彼が書き残した予言詩の原文(フランス語)の一節を読む機会にめぐまれた。〔略〕私が夢中でノストラダムスに取りくみだしたのは、このあとである。}((同書pp.3-4)) &bold(){『ノストラダムスの大予言』28版、1973年12月24日 (筆)} -&color(green){私が彼に打ちこみだしたのも、女性宇宙飛行士の出現とケネディ暗殺を予知したと思われる彼の不気味な詩〔略〕を知ったためだった。}((同書p.3))  以上は、『[[ノストラダムスの大予言]]』の「まえがき」(上)と「重版のためのまえがき」(下)である。  「まえがき」で略した部分に掲げられているのは「女が船に乗って空を飛ぶ」とか「ドルスの大王が殺される」という[[セオフィラスの異本]]であり、女性宇宙飛行士出現やケネディ暗殺という形での的中を知って衝撃を受けた、というようなことが書かれている。  だから、大幅に圧縮されたとはいえ、「重版のためのまえがき」ともほぼ変わらない。ただし、「重版のためのまえがき」には、1962年という時期の限定も、それ以前に何も知らなかったという話もない。  だが、[[セオフィラスの異本]]はそもそも&color(red){五島(ないし彼に近い人物)の偽作}であろうと考えられる。つまり、この来歴は単に読者の恐怖を煽るための演出の色合いが強い。 &bold(){『週刊文春』1974年3月18日号(談)} -&color(green){これは大変なことだと思ったのは、&bold(){十年ぐらい前}ですね。でも、これはただの詩であって、ノストラダムスがこわいとか、そのショックがこわいというんじゃなくて、いまの汚染とか、交通戦争のこの世の中がこわいわけです。だから、ノストラダムスの大予言はそういうことを考え直すきっかけにはなると思うんです。}  これはイーデス・ハンソンとの対談の中で「ノストラダムスの大予言がすごいなあってのは、いつごろ気がつきましたか」という問いに対して回答したものである。  いちおう、『大予言』初版のまえがきと時期そのものは合っている。 &bold(){『文藝春秋』1974年4月号(筆)} -&color(green){私は&bold(){学生時代(昭和27年)}、寝ころんで文庫本を読んでいて、この文句}〔引用者註:ゲーテの『ファウスト』の中のノストラダムスへの言及〕&color(green){にぶつかった。いま思えば、これがノストラダムスとの&bold(){最初の出会い}だった。私はなんとなくハッとして起きあがり、どうせ学校へは出ない不まじめ学生だったから、図書館へかよって資料をさがすことにした。〔略〕学校を出、週刊誌の特集書きを業とするようになってからも、ひまさえあれば資料や解説書をあさった。/国内で借りられるものは借り、ないものは洋書屋にたのみ、たまたまフランスに留学した後輩からは、『諸世紀』の最も古い復元版の全コピーを送ってもらった。}((当該号p.350))  ゲーテの『ファウスト』では、&color(red){ノストラダムスは一言名前が出てくる程度}である。  五島が本の主題であるファウストそのものよりも、そんなわずかな言及しかされていない人物に強い興味が出て調べまくったというのは、ずいぶんと珍しい話に思える。  昭和27年(1952年)は、1953年3月卒業の五島にとって最終学年にあたるが、&color(red){最終学年には基地もののルポを作成するための取材に忙しかったはず}であり([[五島勉]]参照)、ノストラダムスを調べまくるような余裕も関心もなかったと思われる。  また、1962年まで何も知らず、その時に「たまたま」知ったという&color(red){『大予言』初版(73年11月)の経緯説明から半年もたたずに、それと矛盾してしまっている}。  なお、『[[諸世紀]]』の最も古い復元版云々は虚偽である。後述する南山宏の証言と矛盾する。 &bold(){『問題小説』1974年5月号(談)} -&color(green){作家の黒沼健さんの書かれたものや、東大の渡辺一夫先生の文章などで興味を持った。日本では大々的に紹介されたことはなく、私は&bold(){20年前から大学の図書館で}調べだした}((該当号p.190))  上記は「いつごろから、ノストラダムスを?」という質問に対する回答である。  「20年前」というのは『大予言』刊行時点からなら1953年、インタビューを受けた時点からなら1954年になる。前述の通り、1953年3月に卒業しているので、疑問もなくはないが、(五島に限らず)この種の「○年前」は厳密なものではないことも珍しくないので、大学時代から、くらいの概算値として答えたのかもしれない。  [[渡辺一夫]]の「[[ある占星師の話]]」は1947年、[[黒沼健]]の「[[七十世紀の大予言]]」は1952年にそれぞれ雑誌掲載されているから、その計算は合う。  ただし、&color(red){一言出てくるだけの『ファウスト』がきっかけだったという『文藝春秋』での書きぶりとは矛盾する}。  黒沼の名前は『大予言』にも登場するので((『大予言』p.151))、五島はもともと知っていたはずである。だから、『文藝春秋』では意図的にカットしたとしか思えないが、本当に重要なきっかけならカットすることはあり得ない。  それはつまり、黒沼の書き物は、五島にとってそこまで重要なきっかけではなかったと考える方が自然である。  他方、渡辺のことをいつ知ったのかははっきりしない。渡辺は『週刊現代』1974年2月7日号の『大予言』批判記事でコメントを求められている。  しかし、そこで渡辺は世の風潮に苦笑しているだけで、五島の手法を批判しているわけではないので、そうした記事を見て知った可能性もあるのではないだろうか。 &bold(){『新刊展望』1974年9月号(筆)} -&color(green){&bold(){10年間}ノスと取り組んできた私の考えでは〔略〕}((該当号p.10))  イーデス・ハンソンとの対談とは一致するが、『問題小説』の「20年前から」とは矛盾する。 &bold(){『週刊大衆』1974年8月22日} -&color(green){&bold(){学生時代から}、わけもなく、ただ妙に心ひかれていた『ノストラダムス』を読み返しているうち現代の絶望的な状況に、はからずもマッチする予言だ、と気がついてガク然としたという。/商売気を抜きにして、彼はこれを世に問うことを考えついたのだ。}((『週刊大衆』当該号p.37))  これは五島自身の発言でなく、五島のインタビューを交えた記事のライターが書いた部分なので、本人がライターに言ったことそのままのニュアンスではないかもしれない。  ただ、仮にこのようなことを発言していたのだとすれば、&color(red){1962年にケネディ暗殺などで衝撃を受けたのがきっかけという話と矛盾する}。  汚染や交通戦争が怖いから、といったイーデス・ハンソンとの対談の方に近いと言えるかもしれない。  この時期は大予言ブームで、五島への批判も強かったはずなので、警告者としての正当化に重点を置こうとしていたのだろうか。 &bold(){『男性自身』1980年3月20日号} -&color(green){ノストラダムスの名は、ゲーテの“ファウスト”の中にも出てきますし、&bold(){高校の頃から}、中世フランスには変な奴がいると、頭のすみにずっとあったんですよ。それが&bold(){30代の前半}だったけど、友人から『諸世紀』の原書を抜粋したもので、これは英訳付きでしたけど、そのコピーを見せてもらったわけです}((『男性自身』当該号p.24))  高校の頃から、という証言の中ではかなり早い部類に属する。ただし、高校の頃にどうやって知ったかの言及はない。  ちなみに、1929年生まれの五島が30年代前半というと1959年から1964年ころとなる。これなら研究歴は「10年」(以上)となるが、その「『諸世紀』の抜粋」とやらが何なのかは、五島の本からは読み取れない。 &bold(){『ムー』1981年5月号(筆)} -&color(green){ノストラダムスの予言詩集『諸世紀』の第9巻65に、つぎのような詩がある。〔略〕この変てこな詩を、私は&bold(){15年ほど前にはじめて}読み、なんのことかさっぱりわからなかった。だからすぐ興味も消え、忘れたままになっていた。/が、その数年後、1969年7月、アメリカがアポロ宇宙船を打ち上げ、3人の宇宙飛行士がはじめて月面に降り立った。そのシーンはNASAからテレビ中継され、私もなんとなくそれを眺めた。/瞬間、電流のように、忘れていた右の詩が頭によみがえった。私はアッと叫んで立ち上がり、ショックで顔からスーッと血がひくのを感じたのだった。}((『ムー』当該号p.48))  [[9巻65番>詩百篇第9巻65番]]とアポロ11号へのかなり初期の言及。「15年ほど前」は1966年、「その数年後」が1969年7月というのは計算は合うが、&color(red){1962年にセオフィラスの異本を見ていたという『大予言』初版の設定と矛盾する}。  そもそも1966年に見て忘れていて、1969年に衝撃とともに思い出した、というストーリーでは、1973年の『大予言』刊行までの間に&color(red){「10年」とか「20年」研究していたという設定が消し飛ぶ}ことになる。 &bold(){『コミック・ノストラダムス』創刊号(1983年6月号)(筆)} -&color(green){私がノストラダムスの大予言と出会ったのは、まだ&bold(){若いルポライターの卵}だったころです。そのころはまだ、大予言の難解な全文は読みきれず、そこにどんな深い謎がかくされているかもわかりませんでした。}((『コミック・ノストラダムス』創刊号、p.103))  ルポライターの卵、という表現があいまいである。五島は大学時代から雑誌に寄稿していたと主張しているからである。  ただ、普通は旧制高校時代を指しているとは読めないだろう。この点で、&color(red){高校生の時から、という主張とは矛盾する}。  また、あたかも全文を確認していたが理解しきれなかったと言わんばかりだが、&color(red){高校や大学時代には名前を聞いただけ、とする他の証言とは矛盾する}ので、大学時代と理解するのも難しいように思われる。 &bold(){『1999年 高橋克彦対談集』1990年6月20日(談)} -&color(green){興味持ったのですか。ほんとに興味持ったのは、割合最近なんです。}〔略〕&color(green){聞いたのだけは昔です。&bold(){一番最初に聞いたのは、旧制高校のとき}なんです。}〔略〕&color(green){そこで私はフランス語やってましてね。確かその時聞いたんじゃないか、と。実は記憶があいまいで、どこの先生から聞いた話か、よく憶えてないんです。}〔略〕&color(green){その、ノストラダムスの名前を教えてくれた先生が、どれくらい彼のことを知っていたのかは、わかりませんが。}〔略〕&color(green){いろんな週刊誌がでて、それでトップ屋をずいぶん長いことやってたんです。その間に時々、「ノストラダムスって何だったんだろう」っていうのが、ピリピリ来るんです。そして、古本屋なんかを捜し歩いていると、断片的に原文や、原文の解説文なんかが入るんですよ。}〔略〕&color(green){…と、これが第9巻の65番でして。これ、最初の部分は、「月の片隅に到達する(だろう)」というんですけどね。そのときは意味が、まるっきり解らなかった。何しろこっちは、トップ屋で女性誌のネタばかり追っているときで、社会情勢なんてまるで疎くて、よく分かっていない。}〔略〕&color(green){その時も、いつものように忙しくて…。何をやっていたのか――それこそデビ夫人の記事でも書いていたのかな――それで&bold(){徹夜をして、朝、コーヒーでも飲もうかと、下に降りて行った}んです。そうしたら、テレビの前でみんなが騒いでるんです。「大変だ、このネタを今週入れなきゃまずい」って。それで、「どうした?」ってテレビのぞいたんですよ。そうしたら――。月の片隅に人間が立っていたんですよ。}〔略〕&color(green){私がノストラダムスを始めたのには、いろいろ動機がありますけれど、&bold(){これが一番大きい}ですね。}((『1999年 高橋克彦対談集』pp.71-78)) &bold(){『サンデー毎日』1990年7月8日号(談)} -&color(green){そもそもノストラダムスとの出会いは&bold(){旧制高校のとき}です。仏語の先生に教えてもらいました。以来、彼のことをコツコツ調べ始めたわけです。/大学を卒業し週刊誌記者になってからも、仕事の合間に神田の古本屋を歩き回りました。日本に原本はないので英訳本や資料を収集しました。}((『サンデー毎日』当該号より引用)) &bold(){『週刊宝石』1991年4月11日(談)} -&color(green){&bold(){学生時代から}、ノストラダムスの名前だけは知っていたんですね。大学を卒業して上京してから神田の古本屋で、外人が編集したノストラダムスの『諸世紀』を見つけました。そのとき、たまたま目に入ったのが、『月の片隅に到達するだろう』という詩だった。今ならこれはアポロのことだとすぐ分かるわけですが、当時の私にはわからなかったんです。その後、週刊誌のライターをやって暮らしていたんですが徹夜で原稿を書き終えて、&bold(){どこかでテレビを観てたら}、人類が月面に到達した場面が映っていた。これは大変だ、何かやらなきゃいけないって、そのときに思ったんです。ノストラダムスについて書こうと思ったいちばん大きな動機ですね。}((『週刊宝石』当該号p.95)) &bold(){『週刊読売』1991年5月26日号(談)} -&color(green){私、旧制高校の一番最後なんですが、そのときにフランス語のクラスにいましてね。}〔略〕&color(green){名前だけはそのとき聞いたんですが、もちろん何もわかんないし、先生もあんまりご存じなかった。それでも、東京に出てきてから、ときどきふっと何かの拍子に…。}〔略〕&color(green){思い出したというよりも、神田なんか歩いているとき、一行か二行「ノストラダムス」と書いてある本がたまたまありまして。それまでの間に、多少は研究者がいたんですが、まあそれで、少しずつ資料を集め始めたんです。}〔略〕&color(green){さっきのお月さんの詩なんて見たの、ずいぶん前ですからね。確か、アポロが月に着いたのは、昭和44年ですが、そのとき、女性週刊誌のライターやってまして、&bold(){編集部の仕事場で徹夜か何かして下に下りて行ったら}、サロンのテレビ見ながら、みんなが騒いでるんです。ひそかにショックでしたよ。}((『週刊読売』当該号pp.131,133)) &bold(){『SPA!』1994年2月23日号(談)} -&color(green){僕が初めてノストラダムスに出合ったのは旧制高校時代のフランス語の授業。以来、その名前がずっと引っかかっていて、東京でルポライターの仕事を始めた頃から少しずつ関係資料を集めていたんですね。その中に人類が「月の片隅に到達するだろう……」(9巻65番)という予言詩があった。何をバカなと気にもとめていなかったんだけど、アポロ計画で飛行士が月面に立つシーンをテレビで見たときには、心臓が止まりそうだった。以来、取り憑かれてしまってね。}((『SPA!』当該号p.22)) &bold(){『週刊読売』1994年8月14日号(談)} -&color(green){昭和44年、雑誌社でライターをしていた時です。アポロ11号の月面着陸のテレビ中継を見て、仲間が騒いでいた。『月の片隅に到達するだろう』という彼の詩が、脳裏をさっとよぎり、これは大変なことかもしれない、と震えが来ました。それからです、本気で彼の研究に取り組んだのは。ちょっと運命的なものを感じましたね}((『週刊読売』当該号p.141)) &bold(){『月刊オーパス』1994年10月号(談)} -&color(green){興味というか、その時}〔引用者註:「大学時代の授業」〕&color(green){はほんとに「ワン・オブ・ゼム」で、名前だけは聞いた記憶がある程度ですね。東京に来て古本屋なんかを歩いている間にアメリカで出されているものとか、黒沼健っていう人の書いた世界の珍談、奇談を集めた本のなかにノストラダムスに関する記述があったんです。当時日本ではノストラダムスに関して書かれたものは黒沼さんのものぐらいだったんですね。}〔略〕&color(green){ノストラダムスはいろんなものを書いてまして、4行詩だけでも千点ぐらいのものがあるんです。そのなかの何十点かの比較的まとまった原文を手に入れる機会がありまして。それはたまたま神田の古本屋にあったんですが、表紙も取れちゃったようなもので、アメリカの研究者が何冊か分冊で出していたものの1冊の、そのまた半分くらいのものだったんです。読んでみたらその中の9巻の65番っていう詩の中に「月の片隅に到達するだろう」っていう一節があったんです。で、その時は面白いなと思っただけだったんですが、その後で『女性自身』の仕事場で、&bold(){徹夜明けでコーヒーを飲んでいたら}、テレビニュースでアポロの月着陸をやっていたんです。それで決定的なショックを受けましてね。}((『月刊オーパス』当該号p.14)) &bold(){『ミステリーゾーンの20人』ひろたみを、飛鳥新社、1996年2月18日(一部談)} -&color(green){彼が初めてノストラダムスの名前に触れたのは、現東北大学の前身の一つである旧制高校時代においてのことだった。二人いたフランス語教師の一人の口から「中世時代にノストラダムスというすごい詩人がいてね」と教えられたことから、その存在を知る。/しかしそのときは大した関心は抱かなかったし、それっきり忘れていた。/昭和28年、学校を卒えた五島は上京し、『週刊新潮』や『女性自身』の専属ライターとして活躍するのだが、30年代後半から、なぜかしらノストラダムスという名前を頻繁に耳にしはじめる。/「ノストラダムスの予言によれば地球は大変なことになる、なんてことをいって騒いでいた人がいたのですが、最初は何のことやらさっぱり分かりませんでしたね。予言というものに特別の興味はありませんでしたし、ノストラダムスにも関心はなかった。しかし昔聞いた名前でもあることから何となく気になって調べてみたところ、大変な予言者であることが分かってきたのです」}〔略〕&color(green){それが昭和30年代の終わりから40年初めにかけてのことである。/ところが44年7月20日、&bold(){『女性自身』の仕事を終えて階下に降りてテレビを見た}五島は飛び上がる。アポロ11号が月面着陸に成功したシーンが映っていたからだ。/「アームストロング船長が月面をとびはねている姿を見て、まず頭に浮かんだのがノストラダムスの『諸世紀』第9巻65番の『月の片隅に到達するだろう』云々という詩篇です。衝撃でしたね。ともかく驚きましたね。いや、そのことでノストラダムスの予言は当たるということを確信したのです」}((pp.251-252))  ひろたみをの文章は、地の文はひろたが再構成したものである。  1990年代に出ていたコメントのほとんどは似たり寄ったりで、アポロ11号の月面着陸が本格研究のきっかけだったとされている。それでも「徹夜(明け)」と「徹夜か何か」、「コーヒーでも飲もうと下に降りたら」と「コーヒーを飲んでいたら」、「どこか」と「仕事場の1階」など、細かい設定にさまざまな違いがあり、&color(red){本格研究のきっかけになる衝撃を受けた出来事だったというのに、どうしてこうもディティールに違いが出るのか}という強い疑問がわく。  また、[[志水一夫]]はアポロ11号のエピソードについて、 -&color(purple){非道く不自然な部分がある。アポロ11号の月着陸(1969)は成功以前から何度も予告されていたし、人工衛星の成功以来、人類の月面飛行はしばしば話題になっていたのだから、ぼけっとTVを見ていて突然そのことに気がつくというのは、いかにも妙なのである}((『トンデモノストラダムス解剖学』p.60)) と指摘していた。  志水の言うことはもっともである。ただ、予想のつくことでも実際に目の当たりにして衝撃を受けることはありうる。  ではそういう可能性があるかといえば、そうも思えない。  五島の書き方自体に揺れがあるが、おおむね徹夜明けの朝方に、コーヒーを飲んでいるか、飲もうとしているときに映像を見た、ということになる。  たしかに、アポロ11号の月面着陸は日本時間7月21日午前5時17分だった。  しかし、宇宙飛行士の月面歩行は、&color(red){それから6時間半余り後の日本時間午前11時56分}のことだったのである((懸秀彦[[あれから46年 アポロ11号月面着陸の思い出>>https://news.yahoo.co.jp/byline/hidehikoagata/20150711-00047425/]]))。  ぎりぎり午前中という意味では朝と言えなくもないが、五島の書きぶりは午前5時の方と混同しているのではないかと思われる。  また、最初の言及である『ムー』の記事では、歩いていたのを「3人」としているが、宇宙飛行士3人のうち1人は司令船に残っていたので月面歩行したのは&color(red){2人}である。どうでもいいことのようだが、強い衝撃を受けたと主張する映像について、なぜこんな基本的な事柄を覚え間違えているのだろうか。  いずれにせよ、これらが事実だとすれば、『大予言』刊行までに&color(red){10年とか20年研究していたというストーリーは完全に打ち砕かれる}ことになる。 &bold(){『ノストラダムス~21世紀へのメッセージ』同文書院、1999年6月6日(談)} -&color(green){私とノストラダムスの&bold(){最初の出会いは、週刊誌のルポライター時代}です。神田の古本屋で購入した本の中に、たまたま彼について触れられた記述があったんです。}〔略〕&color(green){以来、ちょっとした知的好奇心から彼についての文献を集め始めていたんですが、}〔略〕&color(green){詩の裏側には、恐ろしい真相が隠されていることがわかってきた。}〔略〕&color(green){そしてある日、出版社が記者のために借りていた仕事場が大騒ぎになっていて、何ごとかと思うとアポロ11号の月面着陸のニュースがTVで流れていた。その瞬間、体から粟立つものを感じました。『諸世紀』の第9巻65番の詩に「月の片隅に到達するだろう」と書かれていたのが、思い出されたんです。/当時、国内ではノストラダムスの予言に関して切実な問題意識を持って書かれた書物は見当たらなかった。それで「じゃあ自分でやってみよう」と思って本格的に研究を始めたんです。とは言っても最初の頃は何もわかりませんから、フランス文学者の澁澤龍彦さんがノストラダムスについて相当突っ込んだエッセイを書かれているのを読んで、面識もないのに「ノストラダムスをやりたいのでご指導頂きたい」旨の手紙を出したこともあります。}〔略〕&color(green){残念ながら直接お会いする機会はありませんでしたが、&bold(){手紙でのやりとりで色々と教えて貰った}んです。}((同書pp.31-33))  上の引用では略したが、神田で購入した古本は「中世ヨーロッパの雑学本」であったという。  ライター時代に初めて出会ったということは、これまでさんざん繰り返してきた&color(red){高校時代に知ったとか、大学時代に知ったという話が否定}されることになる。  しかし、それ以上にとんでもない部分は、澁澤龍彦(1987年没)から手紙で助言を受けていたという話だろう。  五島は黒沼健や渡辺一夫に言及することはあっても、澁澤に言及することはほとんどなかった。確認できる範囲では、澁澤の生前には自分の来歴に澁澤を絡めることがなかったというのに、&color(red){彼の死後になって教えを受けていた、という話を唐突に出している}ことになる。これを無条件に信用できる者が、果たしてどれだけいるのだろうか。 &bold(){『朝日新聞』2013年12月14日(一部談)} -&color(green){週刊誌を中心に書いていたころ、創業まもない祥伝社の編集者から本の執筆を依頼された。提案した企画の一つが「ノストラダムスの大予言」だった。}〔略〕&color(green){とはいえ、五島さんも&bold(){聞きかじった程度の知識しかなかった}。古本屋などで、海外で出版されたノストラダムスの予言の英訳本やノストラダムスに触れた雑誌を集め、&bold(){2カ月で}本を書ききった。}〔略〕&color(green){「&bold(){ペラペラっと書いた本}なので、まさか、あんなに反響があるとは思いませんでしたが、私も99年に世界が破滅しないと言える自信はありませんでした」}((朝日新聞夕刊be土曜1面))  地の文は朝日新聞記者が書いている。  今までこのページで紹介してきた様々なコメントを読んだうえでこれを読むと、呆れかえるのではないだろうか。  なんと、ノストラダムスの企画が持ち上がった時点で「聞きかじった程度の知識しか」なく、慌てて資料を集めて「ペラペラっと」「2カ月で」書いた、というのだから。  あまりにも身も蓋もないコメントだが、当「大事典」としては、案外これが真実に一番近いのではないかと考える。  ただし、厄介なことに、これでさえも真実を語りきっていない部分がある。次の証言を見てみよう。 &bold(){『昭和40年男』2016年6月号(談)} -&color(green){名前だけは学生時代から知っていましたが、当時、国内には断片的な情報しかなかった。黒沼健氏や澁澤龍彦氏がちょっと紹介している程度でしたね。ある洋書で初めてノストラダムスの予言詩に触れたんですが、それも断片的で不完全なものだった。ちゃんとまとまったものを読みたいと思っていたんです}〔略〕&color(green){南山宏さんが全文の英訳を持ってるという。見せてほしいと頼みに行ったら、そのまま貸してくれたんです。それで初めて全体像を知りました。}((該当号pp.46-47、人名についている脚注番号は割愛。))  そう、南山宏の存在である。  五島のノストラダムス研究歴を第三者の証言によって再構成することはほぼ不可能だが、たった一人の例外が南山である。以下、南山の証言を見てみよう。 **南山宏の証言 &bold(){『問題小説』1974年5月号} -&color(brown){&bold(){2年前}に、彼がノストラダムスの研究書を借りに来た。で、ヘンリー・ロバーツとスチュアート。ロブの2冊を貸したが、ナシのツブテ。本は返してもらったけど、どう使ったかのアイサツはなしだ。そのくせ『大予言』の中に、ちゃっかり複写したカットを入れたりしている。&bold(){10年、20年前から研究してるというのはマユツバ}だな。終末論が賑やかに論じられるようになった時流に便乗しただけのことかもしれない。とにかく物書きの仁義に反した、不愉快な人だと思っている。}((『問題小説』当該号p.192))  これは、「名前を伏せる約束の、或る雑誌編集長」のコメントとして紹介されているが、[[志水一夫]]が本人に確かめている。もっとも、志水によると、 -&color(purple){実は先日、南山氏と電話にてお話ししていた際に、談たまたまこの件に至ったところ、実際の心情としては佐木氏の引用の方に近いものがあるとのことであった。ただ佐木氏からはもちろん、『問題小説』誌の関係者からも、そのような取材を受けた覚えもあのような答えをした記憶もないとのことで、どこから話が伝わったのだろうかと不思議がっておられた。}((『トンデモノストラダムス解剖学』p.47)) とのことである。  実際の心情が近い、といっているのは、レイモンド・レナードの小説の訳者あとがきに南山が書いた、以下の文章との比較である。 &bold(){『ノストラダムスの遺産』レイモンド・レナード、祥伝社、訳者あとがき(1985年)} -&color(brown){20年ほど前、まだ私が駆け出しのころ、自著の中でノストラダムスについて書いたことがある。ノストラダムスを日本の読者に紹介した比較的初期の一人だったわけだが、その&bold(){数年後}、一人のルポライターが訪ねて来て、『諸世紀』の原典を貸して欲しいと頼まれた。当時はなかなか入手困難な資料だったが、私はその熱心さにほだされて、快くお貸しした。その人が現在、ノストラダムス研究の第一人者として押しも押されもせぬ五島勉氏だったのだ。もっとも、お断りしておくが、私の方がだいぶ年下である。}((同書pp.233-234))  ずいぶん穏便なこの書き方よりも、不快感が強い方のコメントの方が、当時の心情に近いと言っているのである。もっとも、南山自身、かなり強い不快感を明示していたことがあった。以下のコメントがそうである。 &bold(){『大崩壊』ブルース・ペニントン、講談社、巻末解説(1980年)} -&color(brown){ノストラダムスというと、私たちがすぐ思い出すのは、数年前Gというルポ・ライターが書いた空前のベストセラーのことである。}〔略〕&color(brown){私事で恐縮だが、このGが同書を書くにあたって、ノストラダムスの予言詩『諸世紀』全篇とその英訳を含む資料を提供させられたのが、余人ならぬこの私だったこと。私が以前ノストラダムスについて、二、三雑文を書いていたので、資料を持っていると見当をつけてきたらしく、丁重な物腰で借りていったが、&bold(){1年後に本が出た}時には、あとがきに一片の謝辞もなく、礼状1本寄こすでもなく、それどころか本1冊の寄贈もついになかった。物書き仲間でこんな礼儀知らずの人を、私はほかに知らない。}((『大崩壊』p.92))  ずいぶんとトーンが違うが、レナードの小説を出した祥伝社は『大予言』の版元でもあり一ツ橋グループ、『大崩壊』を出した講談社は音羽グループ、といった出版社の関係もあるのかもしれない。  さて、これに対し、五島は[[飛鳥昭雄]]との対談でこう釈明している。 &bold(){『[[予言・預言対談 飛鳥昭雄×五島勉]]』(2012年)} -&color(green){ああ、南山さんが怒っていたというのは、ちょっと違うんです。/実は、彼から本を借りていたのですが、そのころちょうど本がヒットして忙しくなっていたこともあって、私が借りたまま漫然と返さないでいたことがあったんです。それで、あとからちゃんといきさつを手紙に書いて、お詫びとお礼をいって返したんですが、向こうにしてみれば、彼の資料を利用して私がヒットを出したように思われたのかもしれません。}((同書p.17))  この釈明は南山の証言と矛盾する。南山は本を返してもらったが、挨拶も礼状もなかった、と言っている。五島が言うように、本と一緒に直接礼を言ったのなら、礼状がないなどと文句を言うはずがないし、本と一緒に礼状を送ったのだとしても、本だけ届いて礼状だけ届かなかったという事態は考えづらい。  さて、この南山の一連の証言では、五島は1974年(『問題小説』)から見て「2年前」に借りに来て、「1年後」に『大予言』が出たことになっている。つまり、この証言が正しければ、&color(red){五島が借りたのは1972年}だったことになる。  [[山本弘]]が南山に直接この件を尋ねた時には、「執筆の少し前」((『RikatTan』 2017年10月号、p.45))に借りに来たという話だったらしく少し曖昧だが、「1年前」と矛盾するものではない。南山の証言は&color(red){1974年の『問題小説』の時からほぼ食い違いがなく一貫している分、五島の証言に比べて信頼できる}のではないかと思われる。 *結論  以上を踏まえて、大まかにまとめてみよう。  2016年の五島のコメント(=南山から借りた資料で初めて「全体像」を知った)が正しいなら、五島がノストラダムス予言の「全体像」を初めて知ったのは、1972年以降だったことになる。  2013年の朝日新聞にあった記事をこれで補完すると、1973年の『大予言』刊行までの1年程度以内に最初の企画が持ち上がり、それを踏まえて材料を集め始めて南山からも資料を借り、2か月で書き上げたということになる(イーデス・ハンソンとの対談記事では「1か月で書き上げた」という話が出ているので、実際の執筆期間は2か月もかかっていないかもしれない)。  最初に耳にしたのが旧制高校の授業という話は、本当とも嘘とも断言しがたい。ノストラダムスは1930年代から40年代に、世界大戦関連で欧米での注目度が上がっていたので、仏語仏文学を専攻していた教師なら、そういう話を知っていてもおかしくないからである。  反面、『大予言』ブーム当初に大学時代の話を持ち出すことはあっても、高校時代の話を出していなかった事実は、この話の真実性を疑わせる。  仮に高校や大学からという話が真実だったとしても、それから途切れることなく折に触れて調べ続けていたという話は真実とは思えない。  それが事実なら、執筆の1年以内に[[ヘンリー・C・ロバーツ]]と[[スチュワート・ロッブ]]を借りる必要などなかったからである。当然、古い原本のコピーを持っていただのと言った話も事実ではないだろう。  なお、『週刊宝石』1993年5月27日号には「中世フランス語で書かれたノストラダムスの初版復刻本」として3冊の表紙の写真が載っているが、 -[[エリカ・チータム]]の[[The Prophecies of Nostradamus>The Prophecies of Nostradamus (Cheetham, 1973)]](1973)、 -[[セルジュ・ユタン]]の[[Les Prophéties de Nostradamus>Les Prophéties de Nostradamus (Hutin)]]1972年ハードカバー版(1973年と1974年にも再版されているので、正確な版は不明)、 -[[ノストラダムス協会]]の1555年版の復刻版(1984) の3冊であって、1972年以前に独自に資料を集めていたようには見えない(ユタンと1555年復刻版は、ひろたみを『ミステリーゾーンの20人』にも写真がある)。  ある時期以降の五島のお気に入りだったアポロ11号ネタの疑問点は、すでに上で述べたとおりである。なぜ、そんな疑問があり、かつ語るたびに細部が食い違う話をしつこく繰り返したのかはよく分からない。  ひとつの可能性としては、『ノストラダムスの大予言』初巻まえがきでは、偽作に過ぎない[[セオフィラスの異本]]を研究のきっかけと位置付けていたので、これをごまかすために、似たような話で上書きしたかったのではないだろうか。  高木彬光の批判本が早ばやと出ていたことだし、似たような批判本が登場する可能性に備えて、あからさまな問題点を解消しておきたいと思うことは不自然ではないからだ。  「女が船に乗って空を飛ぶ」(=1963年のソ連・テレシコワの宇宙飛行)とアポロ11号(米国、1969年)は時期も国籍も全く異なるが、そのリアルタイムの記憶が薄れれば、読者は似たような話として誤認してくれる、と期待したのではないだろうか。実際、『[[ノストラダムスの大予言スペシャル・日本編]]』(1987年)では、この2つの予言をひとまとめに扱っている箇所がある。 ---- 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 &bold(){[[五島勉]]のノストラダムス研究歴}に関する主張をまとめておく。五島の経歴の中でも、著書やインタビューごとに特に食い違いが大きいのがこの点である。まともに「研究」をしているのであれば(あるいは「研究」といった大仰なものでなくとも興味を持って「調査」をしてきたのなら)、普通その思い出話がそれほど大きくズレることは考え難いが、その考え難いことが五島の場合には起きている。  以下、(筆)とあるのは五島自身が書いたもの、(談)というのはインタビューや対談での五島自身の発言を指す。  太字は当「大事典」による強調。 *五島自身のコメントと寸評 &bold(){『ノストラダムスの大予言』初版、1973年11月25日 (筆)} -&color(green){あなたはノストラダムスの名を知っておられるだろうか。〔略〕私も、実はなんにも知らなかった。が、&bold(){1962年の秋に}私はたまたま、彼が書き残した予言詩の原文(フランス語)の一節を読む機会にめぐまれた。〔略〕私が夢中でノストラダムスに取りくみだしたのは、このあとである。}((同書pp.3-4)) &bold(){『ノストラダムスの大予言』28版、1973年12月24日 (筆)} -&color(green){私が彼に打ちこみだしたのも、女性宇宙飛行士の出現とケネディ暗殺を予知したと思われる彼の不気味な詩〔略〕を知ったためだった。}((同書p.3))  以上は、『[[ノストラダムスの大予言]]』の「まえがき」(上)と「重版のためのまえがき」(下)である。  「まえがき」で略した部分に掲げられているのは「女が船に乗って空を飛ぶ」とか「ドルスの大王が殺される」という[[セオフィラスの異本]]であり、女性宇宙飛行士出現やケネディ暗殺という形での的中を知って衝撃を受けた、というようなことが書かれている。  だから、大幅に圧縮されたとはいえ、「重版のためのまえがき」ともほぼ変わらない。ただし、「重版のためのまえがき」には、1962年という時期の限定も、それ以前に何も知らなかったという話もない。  だが、[[セオフィラスの異本]]はそもそも&color(red){五島(ないし彼に近い人物)の偽作}であろうと考えられる。つまり、この来歴は単に読者の恐怖を煽るための演出の色合いが強い。 &bold(){『週刊文春』1974年3月18日号(談)} -&color(green){これは大変なことだと思ったのは、&bold(){十年ぐらい前}ですね。でも、これはただの詩であって、ノストラダムスがこわいとか、そのショックがこわいというんじゃなくて、いまの汚染とか、交通戦争のこの世の中がこわいわけです。だから、ノストラダムスの大予言はそういうことを考え直すきっかけにはなると思うんです。}  これはイーデス・ハンソンとの対談の中で「ノストラダムスの大予言がすごいなあってのは、いつごろ気がつきましたか」という問いに対して回答したものである。  いちおう、『大予言』初版のまえがきと時期そのものは合っている。 &bold(){『文藝春秋』1974年4月号(筆)} -&color(green){私は&bold(){学生時代(昭和27年)}、寝ころんで文庫本を読んでいて、この文句}〔引用者註:ゲーテの『ファウスト』の中のノストラダムスへの言及〕&color(green){にぶつかった。いま思えば、これがノストラダムスとの&bold(){最初の出会い}だった。私はなんとなくハッとして起きあがり、どうせ学校へは出ない不まじめ学生だったから、図書館へかよって資料をさがすことにした。〔略〕学校を出、週刊誌の特集書きを業とするようになってからも、ひまさえあれば資料や解説書をあさった。/国内で借りられるものは借り、ないものは洋書屋にたのみ、たまたまフランスに留学した後輩からは、『諸世紀』の最も古い復元版の全コピーを送ってもらった。}((当該号p.350))  ゲーテの『ファウスト』では、&color(red){ノストラダムスは一言名前が出てくる程度}である。  五島が本の主題であるファウストそのものよりも、そんなわずかな言及しかされていない人物に強い興味が出て調べまくったというのは、ずいぶんと珍しい話に思える。  昭和27年(1952年)は、1953年3月卒業の五島にとって最終学年にあたるが、&color(red){最終学年には基地もののルポを作成するための取材に忙しかったはず}であり([[五島勉]]参照)、ノストラダムスを調べまくるような余裕も関心もなかったと思われる。  また、1962年まで何も知らず、その時に「たまたま」知ったという&color(red){『大予言』初版(73年11月)の経緯説明から半年もたたずに、それと矛盾してしまっている}。  なお、『[[諸世紀]]』の最も古い復元版云々は虚偽である。後述する南山宏の証言と矛盾する。 &bold(){『問題小説』1974年5月号(談)} -&color(green){作家の黒沼健さんの書かれたものや、東大の渡辺一夫先生の文章などで興味を持った。日本では大々的に紹介されたことはなく、私は&bold(){20年前から大学の図書館で}調べだした}((該当号p.190))  上記は「いつごろから、ノストラダムスを?」という質問に対する回答である。  「20年前」というのは『大予言』刊行時点からなら1953年、インタビューを受けた時点からなら1954年になる。前述の通り、1953年3月に卒業しているので、疑問もなくはないが、(五島に限らず)この種の「○年前」は厳密なものではないことも珍しくないので、大学時代から、くらいの概算値として答えたのかもしれない。  [[渡辺一夫]]の「[[ある占星師の話]]」は1947年、[[黒沼健]]の「[[七十世紀の大予言]]」は1952年にそれぞれ雑誌掲載されているから、その計算は合う。  ただし、&color(red){一言出てくるだけの『ファウスト』がきっかけだったという『文藝春秋』での書きぶりとは矛盾する}。  黒沼の名前は『大予言』にも登場するので((『大予言』p.151))、五島はもともと知っていたはずである。だから、『文藝春秋』では意図的にカットしたとしか思えないが、本当に重要なきっかけならカットすることはあり得ない。  それはつまり、黒沼の書き物は、五島にとってそこまで重要なきっかけではなかったと考える方が自然である。  他方、渡辺のことをいつ知ったのかははっきりしない。渡辺は『週刊現代』1974年2月7日号の『大予言』批判記事でコメントを求められている。  しかし、そこで渡辺は世の風潮に苦笑しているだけで、五島の手法を批判しているわけではないので、そうした記事を見て知った可能性もあるのではないだろうか。 &bold(){『新刊展望』1974年9月号(筆)} -&color(green){&bold(){10年間}ノスと取り組んできた私の考えでは〔略〕}((該当号p.10))  イーデス・ハンソンとの対談とは一致するが、『問題小説』の「20年前から」とは矛盾する。 &bold(){『週刊大衆』1974年8月22日} -&color(green){&bold(){学生時代から}、わけもなく、ただ妙に心ひかれていた『ノストラダムス』を読み返しているうち現代の絶望的な状況に、はからずもマッチする予言だ、と気がついてガク然としたという。/商売気を抜きにして、彼はこれを世に問うことを考えついたのだ。}((『週刊大衆』当該号p.37))  これは五島自身の発言でなく、五島のインタビューを交えた記事のライターが書いた部分なので、本人がライターに言ったことそのままのニュアンスではないかもしれない。  ただ、仮にこのようなことを発言していたのだとすれば、&color(red){1962年にケネディ暗殺などで衝撃を受けたのがきっかけという話と矛盾する}。  汚染や交通戦争が怖いから、といったイーデス・ハンソンとの対談の方に近いと言えるかもしれない。  この時期は大予言ブームで、五島への批判も強かったはずなので、警告者としての正当化に重点を置こうとしていたのだろうか。 &bold(){『男性自身』1980年3月20日号} -&color(green){ノストラダムスの名は、ゲーテの“ファウスト”の中にも出てきますし、&bold(){高校の頃から}、中世フランスには変な奴がいると、頭のすみにずっとあったんですよ。それが&bold(){30代の前半}だったけど、友人から『諸世紀』の原書を抜粋したもので、これは英訳付きでしたけど、そのコピーを見せてもらったわけです}((『男性自身』当該号p.24))  高校の頃から、という証言の中ではかなり早い部類に属する。ただし、高校の頃にどうやって知ったかの言及はない。  ちなみに、1929年生まれの五島が30年代前半というと1959年から1964年ころとなる。これなら研究歴は「10年」(以上)となるが、その「『諸世紀』の抜粋」とやらが何なのかは、五島の本からは読み取れない。 &bold(){『ムー』1981年5月号(筆)} -&color(green){ノストラダムスの予言詩集『諸世紀』の第9巻65に、つぎのような詩がある。〔略〕この変てこな詩を、私は&bold(){15年ほど前にはじめて}読み、なんのことかさっぱりわからなかった。だからすぐ興味も消え、忘れたままになっていた。/が、その数年後、1969年7月、アメリカがアポロ宇宙船を打ち上げ、3人の宇宙飛行士がはじめて月面に降り立った。そのシーンはNASAからテレビ中継され、私もなんとなくそれを眺めた。/瞬間、電流のように、忘れていた右の詩が頭によみがえった。私はアッと叫んで立ち上がり、ショックで顔からスーッと血がひくのを感じたのだった。}((『ムー』当該号p.48))  [[9巻65番>詩百篇第9巻65番]]とアポロ11号へのかなり初期の言及。「15年ほど前」は1966年、「その数年後」が1969年7月というのは計算は合うが、&color(red){1962年にセオフィラスの異本を見ていたという『大予言』初版の設定と矛盾する}。  そもそも1966年に見て忘れていて、1969年に衝撃とともに思い出した、というストーリーでは、1973年の『大予言』刊行までの間に&color(red){「10年」とか「20年」研究していたという設定が消し飛ぶ}ことになる。 &bold(){『コミック・ノストラダムス』創刊号(1983年6月号)(筆)} -&color(green){私がノストラダムスの大予言と出会ったのは、まだ&bold(){若いルポライターの卵}だったころです。そのころはまだ、大予言の難解な全文は読みきれず、そこにどんな深い謎がかくされているかもわかりませんでした。}((『コミック・ノストラダムス』創刊号、p.103))  ルポライターの卵、という表現があいまいである。五島は大学時代から雑誌に寄稿していたと主張しているからである。  ただ、普通は旧制高校時代を指しているとは読めないだろう。この点で、&color(red){高校生の時から、という主張とは矛盾する}。  また、あたかも全文を確認していたが理解しきれなかったと言わんばかりだが、&color(red){高校や大学時代には名前を聞いただけ、とする他の証言とは矛盾する}ので、大学時代と理解するのも難しいように思われる。 &bold(){『1999年 高橋克彦対談集』1990年6月20日(談)} -&color(green){興味持ったのですか。ほんとに興味持ったのは、割合最近なんです。}〔略〕&color(green){聞いたのだけは昔です。&bold(){一番最初に聞いたのは、旧制高校のとき}なんです。}〔略〕&color(green){そこで私はフランス語やってましてね。確かその時聞いたんじゃないか、と。実は記憶があいまいで、どこの先生から聞いた話か、よく憶えてないんです。}〔略〕&color(green){その、ノストラダムスの名前を教えてくれた先生が、どれくらい彼のことを知っていたのかは、わかりませんが。}〔略〕&color(green){いろんな週刊誌がでて、それでトップ屋をずいぶん長いことやってたんです。その間に時々、「ノストラダムスって何だったんだろう」っていうのが、ピリピリ来るんです。そして、古本屋なんかを捜し歩いていると、断片的に原文や、原文の解説文なんかが入るんですよ。}〔略〕&color(green){…と、これが第9巻の65番でして。これ、最初の部分は、「月の片隅に到達する(だろう)」というんですけどね。そのときは意味が、まるっきり解らなかった。何しろこっちは、トップ屋で女性誌のネタばかり追っているときで、社会情勢なんてまるで疎くて、よく分かっていない。}〔略〕&color(green){その時も、いつものように忙しくて…。何をやっていたのか――それこそデビ夫人の記事でも書いていたのかな――それで&bold(){徹夜をして、朝、コーヒーでも飲もうかと、下に降りて行った}んです。そうしたら、テレビの前でみんなが騒いでるんです。「大変だ、このネタを今週入れなきゃまずい」って。それで、「どうした?」ってテレビのぞいたんですよ。そうしたら――。月の片隅に人間が立っていたんですよ。}〔略〕&color(green){私がノストラダムスを始めたのには、いろいろ動機がありますけれど、&bold(){これが一番大きい}ですね。}((『1999年 高橋克彦対談集』pp.71-78)) &bold(){『サンデー毎日』1990年7月8日号(談)} -&color(green){そもそもノストラダムスとの出会いは&bold(){旧制高校のとき}です。仏語の先生に教えてもらいました。以来、彼のことをコツコツ調べ始めたわけです。/大学を卒業し週刊誌記者になってからも、仕事の合間に神田の古本屋を歩き回りました。日本に原本はないので英訳本や資料を収集しました。}((『サンデー毎日』当該号より引用)) &bold(){『週刊宝石』1991年4月11日(談)} -&color(green){&bold(){学生時代から}、ノストラダムスの名前だけは知っていたんですね。大学を卒業して上京してから神田の古本屋で、外人が編集したノストラダムスの『諸世紀』を見つけました。そのとき、たまたま目に入ったのが、『月の片隅に到達するだろう』という詩だった。今ならこれはアポロのことだとすぐ分かるわけですが、当時の私にはわからなかったんです。その後、週刊誌のライターをやって暮らしていたんですが徹夜で原稿を書き終えて、&bold(){どこかでテレビを観てたら}、人類が月面に到達した場面が映っていた。これは大変だ、何かやらなきゃいけないって、そのときに思ったんです。ノストラダムスについて書こうと思ったいちばん大きな動機ですね。}((『週刊宝石』当該号p.95)) &bold(){『週刊読売』1991年5月26日号(談)} -&color(green){私、旧制高校の一番最後なんですが、そのときにフランス語のクラスにいましてね。}〔略〕&color(green){名前だけはそのとき聞いたんですが、もちろん何もわかんないし、先生もあんまりご存じなかった。それでも、東京に出てきてから、ときどきふっと何かの拍子に…。}〔略〕&color(green){思い出したというよりも、神田なんか歩いているとき、一行か二行「ノストラダムス」と書いてある本がたまたまありまして。それまでの間に、多少は研究者がいたんですが、まあそれで、少しずつ資料を集め始めたんです。}〔略〕&color(green){さっきのお月さんの詩なんて見たの、ずいぶん前ですからね。確か、アポロが月に着いたのは、昭和44年ですが、そのとき、女性週刊誌のライターやってまして、&bold(){編集部の仕事場で徹夜か何かして下に下りて行ったら}、サロンのテレビ見ながら、みんなが騒いでるんです。ひそかにショックでしたよ。}((『週刊読売』当該号pp.131,133)) &bold(){『SPA!』1994年2月23日号(談)} -&color(green){僕が初めてノストラダムスに出合ったのは旧制高校時代のフランス語の授業。以来、その名前がずっと引っかかっていて、東京でルポライターの仕事を始めた頃から少しずつ関係資料を集めていたんですね。その中に人類が「月の片隅に到達するだろう……」(9巻65番)という予言詩があった。何をバカなと気にもとめていなかったんだけど、アポロ計画で飛行士が月面に立つシーンをテレビで見たときには、心臓が止まりそうだった。以来、取り憑かれてしまってね。}((『SPA!』当該号p.22)) &bold(){『週刊読売』1994年8月14日号(談)} -&color(green){昭和44年、雑誌社でライターをしていた時です。アポロ11号の月面着陸のテレビ中継を見て、仲間が騒いでいた。『月の片隅に到達するだろう』という彼の詩が、脳裏をさっとよぎり、これは大変なことかもしれない、と震えが来ました。それからです、本気で彼の研究に取り組んだのは。ちょっと運命的なものを感じましたね}((『週刊読売』当該号p.141)) &bold(){『月刊オーパス』1994年10月号(談)} -&color(green){興味というか、その時}〔引用者註:「大学時代の授業」〕&color(green){はほんとに「ワン・オブ・ゼム」で、名前だけは聞いた記憶がある程度ですね。東京に来て古本屋なんかを歩いている間にアメリカで出されているものとか、黒沼健っていう人の書いた世界の珍談、奇談を集めた本のなかにノストラダムスに関する記述があったんです。当時日本ではノストラダムスに関して書かれたものは黒沼さんのものぐらいだったんですね。}〔略〕&color(green){ノストラダムスはいろんなものを書いてまして、4行詩だけでも千点ぐらいのものがあるんです。そのなかの何十点かの比較的まとまった原文を手に入れる機会がありまして。それはたまたま神田の古本屋にあったんですが、表紙も取れちゃったようなもので、アメリカの研究者が何冊か分冊で出していたものの1冊の、そのまた半分くらいのものだったんです。読んでみたらその中の9巻の65番っていう詩の中に「月の片隅に到達するだろう」っていう一節があったんです。で、その時は面白いなと思っただけだったんですが、その後で『女性自身』の仕事場で、&bold(){徹夜明けでコーヒーを飲んでいたら}、テレビニュースでアポロの月着陸をやっていたんです。それで決定的なショックを受けましてね。}((『月刊オーパス』当該号p.14)) &bold(){『ミステリーゾーンの20人』ひろたみを、飛鳥新社、1996年2月18日(一部談)} -&color(green){彼が初めてノストラダムスの名前に触れたのは、現東北大学の前身の一つである旧制高校時代においてのことだった。二人いたフランス語教師の一人の口から「中世時代にノストラダムスというすごい詩人がいてね」と教えられたことから、その存在を知る。/しかしそのときは大した関心は抱かなかったし、それっきり忘れていた。/昭和28年、学校を卒えた五島は上京し、『週刊新潮』や『女性自身』の専属ライターとして活躍するのだが、30年代後半から、なぜかしらノストラダムスという名前を頻繁に耳にしはじめる。/「ノストラダムスの予言によれば地球は大変なことになる、なんてことをいって騒いでいた人がいたのですが、最初は何のことやらさっぱり分かりませんでしたね。予言というものに特別の興味はありませんでしたし、ノストラダムスにも関心はなかった。しかし昔聞いた名前でもあることから何となく気になって調べてみたところ、大変な予言者であることが分かってきたのです」}〔略〕&color(green){それが昭和30年代の終わりから40年初めにかけてのことである。/ところが44年7月20日、&bold(){『女性自身』の仕事を終えて階下に降りてテレビを見た}五島は飛び上がる。アポロ11号が月面着陸に成功したシーンが映っていたからだ。/「アームストロング船長が月面をとびはねている姿を見て、まず頭に浮かんだのがノストラダムスの『諸世紀』第9巻65番の『月の片隅に到達するだろう』云々という詩篇です。衝撃でしたね。ともかく驚きましたね。いや、そのことでノストラダムスの予言は当たるということを確信したのです」}((pp.251-252))  ひろたみをの文章は、地の文はひろたが再構成したものである。  1990年代に出ていたコメントのほとんどは似たり寄ったりで、アポロ11号の月面着陸が本格研究のきっかけだったとされている。それでも「徹夜(明け)」と「徹夜か何か」、「コーヒーでも飲もうと下に降りたら」と「コーヒーを飲んでいたら」、「どこか」と「仕事場の1階」など、細かい設定にさまざまな違いがあり、&color(red){本格研究のきっかけになる衝撃を受けた出来事だったというのに、どうしてこうもディティールに違いが出るのか}という強い疑問がわく。  また、[[志水一夫]]はアポロ11号のエピソードについて、 -&color(purple){非道く不自然な部分がある。アポロ11号の月着陸(1969)は成功以前から何度も予告されていたし、人工衛星の成功以来、人類の月面飛行はしばしば話題になっていたのだから、ぼけっとTVを見ていて突然そのことに気がつくというのは、いかにも妙なのである}((『トンデモノストラダムス解剖学』p.60)) と指摘していた。  志水の言うことはもっともである。ただ、予想のつくことでも実際に目の当たりにして衝撃を受けることはありうる。  ではそういう可能性があるかといえば、そうも思えない。  五島の書き方自体に揺れがあるが、おおむね徹夜明けの朝方に、コーヒーを飲んでいるか、飲もうとしているときに映像を見た、ということになる。  たしかに、アポロ11号の月面着陸は日本時間7月21日午前5時17分だった。  しかし、宇宙飛行士の月面歩行は、&color(red){それから6時間半余り後の日本時間午前11時56分}のことだったのである((懸秀彦[[あれから46年 アポロ11号月面着陸の思い出>>https://news.yahoo.co.jp/byline/hidehikoagata/20150711-00047425/]]))。  ぎりぎり午前中という意味では朝と言えなくもないが、五島の書きぶりは午前5時の方と混同しているのではないかと思われる。  また、最初の言及である『ムー』の記事では、歩いていたのを「3人」としているが、宇宙飛行士3人のうち1人は司令船に残っていたので月面歩行したのは&color(red){2人}である。どうでもいいことのようだが、強い衝撃を受けたと主張する映像について、なぜこんな基本的な事柄を覚え間違えているのだろうか。  いずれにせよ、これらが事実だとすれば、『大予言』刊行までに&color(red){10年とか20年研究していたというストーリーは完全に打ち砕かれる}ことになる。 &bold(){『ノストラダムス~21世紀へのメッセージ』同文書院、1999年6月6日(談)} -&color(green){私とノストラダムスの&bold(){最初の出会いは、週刊誌のルポライター時代}です。神田の古本屋で購入した本の中に、たまたま彼について触れられた記述があったんです。}〔略〕&color(green){以来、ちょっとした知的好奇心から彼についての文献を集め始めていたんですが、}〔略〕&color(green){詩の裏側には、恐ろしい真相が隠されていることがわかってきた。}〔略〕&color(green){そしてある日、出版社が記者のために借りていた仕事場が大騒ぎになっていて、何ごとかと思うとアポロ11号の月面着陸のニュースがTVで流れていた。その瞬間、体から粟立つものを感じました。『諸世紀』の第9巻65番の詩に「月の片隅に到達するだろう」と書かれていたのが、思い出されたんです。/当時、国内ではノストラダムスの予言に関して切実な問題意識を持って書かれた書物は見当たらなかった。それで「じゃあ自分でやってみよう」と思って本格的に研究を始めたんです。とは言っても最初の頃は何もわかりませんから、フランス文学者の澁澤龍彦さんがノストラダムスについて相当突っ込んだエッセイを書かれているのを読んで、面識もないのに「ノストラダムスをやりたいのでご指導頂きたい」旨の手紙を出したこともあります。}〔略〕&color(green){残念ながら直接お会いする機会はありませんでしたが、&bold(){手紙でのやりとりで色々と教えて貰った}んです。}((同書pp.31-33))  上の引用では略したが、神田で購入した古本は「中世ヨーロッパの雑学本」であったという。  ライター時代に初めて出会ったということは、これまでさんざん繰り返してきた&color(red){高校時代に知ったとか、大学時代に知ったという話が否定}されることになる。  しかし、それ以上にとんでもない部分は、澁澤龍彦(1987年没)から手紙で助言を受けていたという話だろう。  五島は黒沼健や渡辺一夫に言及することはあっても、澁澤に言及することはほとんどなかった。確認できる範囲では、澁澤の生前には自分の来歴に澁澤を絡めることがなかったというのに、&color(red){彼の死後になって教えを受けていた、という話を唐突に出している}ことになる。これを無条件に信用できる者が、果たしてどれだけいるのだろうか。 &bold(){『朝日新聞』2013年12月14日(一部談)} -&color(green){週刊誌を中心に書いていたころ、創業まもない祥伝社の編集者から本の執筆を依頼された。提案した企画の一つが「ノストラダムスの大予言」だった。}〔略〕&color(green){とはいえ、五島さんも&bold(){聞きかじった程度の知識しかなかった}。古本屋などで、海外で出版されたノストラダムスの予言の英訳本やノストラダムスに触れた雑誌を集め、&bold(){2カ月で}本を書ききった。}〔略〕&color(green){「&bold(){ペラペラっと書いた本}なので、まさか、あんなに反響があるとは思いませんでしたが、私も99年に世界が破滅しないと言える自信はありませんでした」}((朝日新聞夕刊be土曜1面))  地の文は朝日新聞記者が書いている。  今までこのページで紹介してきた様々なコメントを読んだうえでこれを読むと、呆れかえるのではないだろうか。  なんと、ノストラダムスの企画が持ち上がった時点で「聞きかじった程度の知識しか」なく、慌てて資料を集めて「ペラペラっと」「2カ月で」書いた、というのだから。  あまりにも身も蓋もないコメントだが、当「大事典」としては、案外これが真実に一番近いのではないかと考える。  ただし、厄介なことに、これでさえも真実を語りきっていない部分がある。次の証言を見てみよう。 &bold(){『昭和40年男』2016年6月号(談)} -&color(green){名前だけは学生時代から知っていましたが、当時、国内には断片的な情報しかなかった。黒沼健氏や澁澤龍彦氏がちょっと紹介している程度でしたね。ある洋書で初めてノストラダムスの予言詩に触れたんですが、それも断片的で不完全なものだった。ちゃんとまとまったものを読みたいと思っていたんです}〔略〕&color(green){南山宏さんが全文の英訳を持ってるという。見せてほしいと頼みに行ったら、そのまま貸してくれたんです。それで初めて全体像を知りました。}((該当号pp.46-47、人名についている脚注番号は割愛。))  そう、南山宏の存在である。  五島のノストラダムス研究歴を第三者の証言によって再構成することはほぼ不可能だが、たった一人の例外が南山である。以下、南山の証言を見てみよう。 **南山宏の証言 &bold(){『問題小説』1974年5月号} -&color(brown){&bold(){2年前}に、彼がノストラダムスの研究書を借りに来た。で、ヘンリー・ロバーツとスチュアート・ロブの2冊を貸したが、ナシのツブテ。本は返してもらったけど、どう使ったかのアイサツはなしだ。そのくせ『大予言』の中に、ちゃっかり複写したカットを入れたりしている。&bold(){10年、20年前から研究してるというのはマユツバ}だな。終末論が賑やかに論じられるようになった時流に便乗しただけのことかもしれない。とにかく物書きの仁義に反した、不愉快な人だと思っている。}((『問題小説』当該号p.192))  これは、「名前を伏せる約束の、或る雑誌編集長」のコメントとして紹介されているが、[[志水一夫]]が本人に確かめている。もっとも、志水によると、 -&color(purple){実は先日、南山氏と電話にてお話ししていた際に、談たまたまこの件に至ったところ、実際の心情としては佐木氏の引用の方に近いものがあるとのことであった。ただ佐木氏からはもちろん、『問題小説』誌の関係者からも、そのような取材を受けた覚えもあのような答えをした記憶もないとのことで、どこから話が伝わったのだろうかと不思議がっておられた。}((『トンデモノストラダムス解剖学』p.47)) とのことである。  実際の心情が近い、といっているのは、レイモンド・レナードの小説の訳者あとがきに南山が書いた、以下の文章との比較である。 &bold(){『ノストラダムスの遺産』レイモンド・レナード、祥伝社、訳者あとがき(1985年)} -&color(brown){20年ほど前、まだ私が駆け出しのころ、自著の中でノストラダムスについて書いたことがある。ノストラダムスを日本の読者に紹介した比較的初期の一人だったわけだが、その&bold(){数年後}、一人のルポライターが訪ねて来て、『諸世紀』の原典を貸して欲しいと頼まれた。当時はなかなか入手困難な資料だったが、私はその熱心さにほだされて、快くお貸しした。その人が現在、ノストラダムス研究の第一人者として押しも押されもせぬ五島勉氏だったのだ。もっとも、お断りしておくが、私の方がだいぶ年下である。}((同書pp.233-234))  ずいぶん穏便なこの書き方よりも、不快感が強い方のコメントの方が、当時の心情に近いと言っているのである。もっとも、南山自身、かなり強い不快感を明示していたことがあった。以下のコメントがそうである。 &bold(){『大崩壊』ブルース・ペニントン、講談社、巻末解説(1980年)} -&color(brown){ノストラダムスというと、私たちがすぐ思い出すのは、数年前Gというルポ・ライターが書いた空前のベストセラーのことである。}〔略〕&color(brown){私事で恐縮だが、このGが同書を書くにあたって、ノストラダムスの予言詩『諸世紀』全篇とその英訳を含む資料を提供させられたのが、余人ならぬこの私だったこと。私が以前ノストラダムスについて、二、三雑文を書いていたので、資料を持っていると見当をつけてきたらしく、丁重な物腰で借りていったが、&bold(){1年後に本が出た}時には、あとがきに一片の謝辞もなく、礼状1本寄こすでもなく、それどころか本1冊の寄贈もついになかった。物書き仲間でこんな礼儀知らずの人を、私はほかに知らない。}((『大崩壊』p.92))  ずいぶんとトーンが違うが、レナードの小説を出した祥伝社は『大予言』の版元でもあり一ツ橋グループ、『大崩壊』を出した講談社は音羽グループ、といった出版社の関係もあるのかもしれない。  さて、これに対し、五島は[[飛鳥昭雄]]との対談でこう釈明している。 &bold(){『[[予言・預言対談 飛鳥昭雄×五島勉]]』(2012年)} -&color(green){ああ、南山さんが怒っていたというのは、ちょっと違うんです。/実は、彼から本を借りていたのですが、そのころちょうど本がヒットして忙しくなっていたこともあって、私が借りたまま漫然と返さないでいたことがあったんです。それで、あとからちゃんといきさつを手紙に書いて、お詫びとお礼をいって返したんですが、向こうにしてみれば、彼の資料を利用して私がヒットを出したように思われたのかもしれません。}((同書p.17))  この釈明は南山の証言と矛盾する。南山は本を返してもらったが、挨拶も礼状もなかった、と言っている。五島が言うように、本と一緒に直接礼を言ったのなら、礼状がないなどと文句を言うはずがないし、本と一緒に礼状を送ったのだとしても、本だけ届いて礼状だけ届かなかったという事態は考えづらい。  さて、この南山の一連の証言では、五島は1974年(『問題小説』)から見て「2年前」に借りに来て、「1年後」に『大予言』が出たことになっている。つまり、この証言が正しければ、&color(red){五島が借りたのは1972年}だったことになる。  [[山本弘]]が南山に直接この件を尋ねた時には、「執筆の少し前」((『RikatTan』 2017年10月号、p.45))に借りに来たという話だったらしく少し曖昧だが、「1年前」と矛盾するものではない。南山の証言は&color(red){1974年の『問題小説』の時からほぼ食い違いがなく一貫している分、五島の証言に比べて信頼できる}のではないかと思われる。 *結論  以上を踏まえて、大まかにまとめてみよう。  2016年の五島のコメント(=南山から借りた資料で初めて「全体像」を知った)が正しいなら、五島がノストラダムス予言の「全体像」を初めて知ったのは、1972年以降だったことになる。  2013年の朝日新聞にあった記事をこれで補完すると、1973年の『大予言』刊行までの1年程度以内に最初の企画が持ち上がり、それを踏まえて材料を集め始めて南山からも資料を借り、2か月で書き上げたということになる(イーデス・ハンソンとの対談記事では「1か月で書き上げた」という話が出ているので、実際の執筆期間は2か月もかかっていないかもしれない)。  最初に耳にしたのが旧制高校の授業という話は、本当とも嘘とも断言しがたい。ノストラダムスは1930年代から40年代に、世界大戦関連で欧米での注目度が上がっていたので、仏語仏文学を専攻していた教師なら、そういう話を知っていてもおかしくないからである。  反面、『大予言』ブーム当初に大学時代の話を持ち出すことはあっても、高校時代の話を出していなかった事実は、この話の真実性を疑わせる。  仮に高校や大学からという話が真実だったとしても、それから途切れることなく折に触れて調べ続けていたという話は真実とは思えない。  それが事実なら、執筆の1年以内に[[ヘンリー・C・ロバーツ]]と[[スチュワート・ロッブ]]を借りる必要などなかったからである。当然、古い原本のコピーを持っていただのと言った話も事実ではないだろう。  なお、『週刊宝石』1993年5月27日号には「中世フランス語で書かれたノストラダムスの初版復刻本」として3冊の表紙の写真が載っているが、 -[[エリカ・チータム]]の[[The Prophecies of Nostradamus>The Prophecies of Nostradamus (Cheetham, 1973)]](1973)、 -[[セルジュ・ユタン]]の[[Les Prophéties de Nostradamus>Les Prophéties de Nostradamus (Hutin)]]1972年ハードカバー版(1973年と1974年にも再版されているので、正確な版は不明)、 -[[ノストラダムス協会]]の1555年版の復刻版(1984) の3冊であって、1972年以前に独自に資料を集めていたようには見えない(ユタンと1555年復刻版は、ひろたみを『ミステリーゾーンの20人』にも写真がある)。  ある時期以降の五島のお気に入りだったアポロ11号ネタの疑問点は、すでに上で述べたとおりである。なぜ、そんな疑問があり、かつ語るたびに細部が食い違う話をしつこく繰り返したのかはよく分からない。  ひとつの可能性としては、『ノストラダムスの大予言』初巻まえがきでは、偽作に過ぎない[[セオフィラスの異本]]を研究のきっかけと位置付けていたので、これをごまかすために、似たような話で上書きしたかったのではないだろうか。  高木彬光の批判本が早ばやと出ていたことだし、似たような批判本が登場する可能性に備えて、あからさまな問題点を解消しておきたいと思うことは不自然ではないからだ。  「女が船に乗って空を飛ぶ」(=1963年のソ連・テレシコワの宇宙飛行)とアポロ11号(米国、1969年)は時期も国籍も全く異なるが、そのリアルタイムの記憶が薄れれば、読者は似たような話として誤認してくれる、と期待したのではないだろうか。実際、『[[ノストラダムスの大予言スペシャル・日本編]]』(1987年)では、この2つの予言をひとまとめに扱っている箇所がある。 ---- 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