ノストラダムス

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 &bold(){ノストラダムス}、本名&bold(){ミシェル・ド・ノートルダム}(Michel de Nostredame alias Nostradamus, 1503年12月14日 - 1566年7月2日) は、ルネサンス期フランスの人文主義者で、少なくとも薬剤師・料理研究家、詩人、占星術師としての著作を発表し、自らは愛星家 ([[Astrophile]])と名乗った。また、晩年には国王[[シャルル9世]]の常任侍医と顧問に任命された。  &big(){日本では1999年の人類滅亡を予言した人物として知られているが、そもそもその根拠となった[[恐怖の大王]]が[[登場する詩篇>詩百篇第10巻72番]]は、本物かどうかすら、実証的には十分に評価が定まっているとは言いがたい。ノストラダムスの予言がその詩篇に収斂していくかのような認識は、それ自体が通俗的なトンデモ解釈の山によって生み出された妄想である。}  1980年代以降、ルネサンス期の一人の人文主義者としてノストラダムスを多角的に捉えようとする学術的成果が、主として欧米においていくつも挙げられており、彼の作品への文学的再評価なども目下着実に行われつつある。  この記事では、ノストラダムス自身の生涯について、概略的な情報を提供する。  なお、日本語文献では 「ミシェル・&bold(){ド}・ノストラダムス」と表記されることもある。  たしかに同時代の文献でも、特認の文面、公証人による[[ノストラダムスの遺言書・遺言補足書]]、弟[[ジャン・ド・ノートルダム]]の著書などに散見されるので、誤りとまでは言い切れないかもしれない。  しかし、&color(red){本人の著書の題名などでは一度も使われていない}以上、適切なものとはいえないだろう。  また、Nostradamus は現代フランス語では「ノストラダミュス」/nɔstradamys/ と発音されるが((『ロワイヤル仏和中辞典』第2版))、当時の韻文の書かれ方などを元に、「ノストラダミュ」と読まれていた可能性も指摘されている((高田 [2000] p.288))。  以上から、当「大事典」では正確な読みを確定させがたいフランス語読みよりも、慣例的な読みとも合致するラテン語読みの「ノストラダムス」を使用する。 #ref(Nostradamus.jpg) 【画像】[[息子セザールによる肖像画>ノストラダムスの肖像画 (メジャヌ所蔵、1614年頃)]](1614年頃)(([[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nostradamus_by_Cesar.jpg]])) *出生  ノストラダムスは1503年12月14日木曜日に、[[プロヴァンス州サン=レミ>サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の公証人[[ジョーム・ド・ノートルダム]]とその妻[[レニエール・ド・サン=レミ]]の長男として生まれた。  第一子か第二子かについては議論がある。  出生記録や洗礼記録は確認されていないが、個人的な手紙で12月12日を誕生日の2日前と語っていることなどから、間接的に裏付けられている((Brind’Amour [1993] p.21))。  ただし、[[パトリス・ギナール]]は12月21日とする新説を唱えている。この点について詳しくは記事「[[ノストラダムスの誕生日]]」を参照のこと。  なお、ノストラダムスの秘書だったことがある[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]が主張しだした正午ごろに生まれたとする説は、裏づけとなる資料が確認されていない。  また、出生に関する直接的な記録がない以上、[[アーサー・クロケット]]などが主張する 「ノストラダムスの誕生時にサン=レミ上空に見知らぬ光が現れた」などということは、実証的には全く支持できないし、神秘性を強調しようとした創作と見るのが自然だろう。 *教育・学歴  [[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は、ノストラダムスが幼い頃には母方の曾祖父 ([[ジャン・ド・サン=レミ]]) が「天体の科学」についての手ほどきをしたと述べていた。  現代ではさらに医学、数学、各種外国語、はてはカバラなどまで教育したといわれることがあるが、[[ジャン・ド・サン=レミ]]は1504年頃、つまりノストラダムスが1歳になるかならないかという時点で没していた可能性が高いため((cf. Leroy [1960] p.101))、彼が教育を施したとは考えられない。  また、父方の祖父[[ピエール・ド・ノートルダム]]ないし母方の祖父[[ルネ・ド・サン=レミ]]が教育係になったといわれることもあるが、どちらもノストラダムスが生まれる前に亡くなっており、彼らが教育を施した可能性はジャン・ド・サン=レミ以上にありえない。  ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、自由七科を学んだようである。この点は実証的な伝記研究でも確実視されているものの((ラメジャラー[1998a] pp.36-37, Wilson [2003] p.21 etc.))、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしない。  在学中には学友たちの前で素晴らしい天体知識を披露して「小さな占星術師」(le petit astrologue) と呼ばれるようになったという話も有名だが、1789年の著者不明の創作的な伝記 『[[ノストラダムスの生涯と遺言>La vie et le testament de Michel Nostradamus]]』で登場する話であり([[『ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言』の伝記]]第2節b参照)、信頼性に欠ける。  このアヴィニョン大学在学が事実だとしても、1520年にペストの影響でアヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が停止されたことから((Leroy[1993] p.57 etc.))、ノストラダムスもこのころに大学を出ざるをえなかったと考えられている。  ノストラダムスは1521年から1529年まで各地を遍歴し、1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。これを再入学と位置付ける見解もシャヴィニー以来根強く存在するが、入学宣誓書などの記録から事実上否定されている。  博士号を取得できたかどうかは不明であり、当時の学生出納簿ではノストラダムスの名は抹消されているため((cf. Wilson[2003]p.22, Marcel Gouron, ''Matricule de l'université de médecine de Montpellier (1503 - 1599)'', Droz, 1957, p.58.))、おそらく除籍されたのだろう((cf. Bracops [2000] p. 151))。  除籍の場合、もちろん博士号は取れていなかったことになる。  博士号取得後に1年間、モンペリエ大学で授業を担当したという伝説もあるが、これは17世紀の匿名の解釈書『[[ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]』で初登場したものであり([[1656年の伝記]]第8章第2節参照)、真実であるとは考えられない。 *結婚から放浪へ  1530年代初頭に人文学者[[ジュール・セザール・スカリジェール]](ユリウス・カエサル・スカリゲル) の招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した((Nostradamus[1555]p.218-219))。  1531年にはその町の[[アンリエット・ダンコス]]と結婚したようである((竹下[1998]pp.70-71))。結婚は1532年の可能性もある。  最初の妻を[[アドリエット・ド・ルーブジャック]]とする文献もあるが、スカリジェの妻の名と混同された誤伝にすぎない。  アンリエットとの間には子供が生まれたらしいが、性別や人数ははっきりしない (シャヴィニーは男児と女児が1人ずつと述べているが、裏付ける資料はない)。  しかし、まもなく妻と子供は病気によって亡くなったらしい。  ペストの可能性が指摘されるが、シャヴィニーの伝記でさえもその死因は書かれていないので、断定できる状況にない。ノストラダムスが各地の治療に忙殺されている間に、自宅に残された妻子がペストにかかって治療を受けられなかったなどと語られることもあるが、すべて後世の脚色である。  また、スカリジェとの仲が悪くなった上に、1538年春には[[トゥールーズ]]の異端審問官から「聖人を冒涜した」という咎で召喚を受けたようである((Lhez[1961] p.135, Brind'Amour [1993] p.118))。  プロテスタント系の医師[[フィリベール・サラザン]]が召喚された際に、交流のあったノストラダムスも巻き添えにあったという説もあるが((Pierre Gayrard, ''Un dragon provençal'', Actes Sud, 2001, p.180 ; 類似の見解として Boulanger [1943]pp.54-55, LeVert [1979] p.5))、いずれにせよ、ノストラダムスはこの召喚には応じずに旅に出た。  このころの話としては、ロレーヌ地方の[[フロランヴィルの領主]]の居城に逗留し、白豚と黒豚に関する見事な予言を披露したとされるが、これもまた『[[ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]』 で登場したものであり、非常に疑わしい。  ほかに[[オリヴァリウスの予言]]や[[オルヴァルの予言]]とも結び付けられたりもするが、それもまた根拠のない話であり、それらの予言はほぼ間違いなく19世紀の偽作である。 *ペスト治療医  長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年に[[マルセイユ]]の医師ルイ・セールに師事したとされる((Leroy [1993] p.66, Wilson [2003] p.62))。  現在では翌年にマルセイユの3人の囚人の診察をした記録も発見されている((ブーシュ=デュ=ローヌ県立古文書館の展覧会のカタログ (Archives. Trésors et richesses des Archives des Bouches-du-Rhône, Marseilles, 1996) に、この記録の写真が載っているという (Laroche [1999], p.95)。))。  1546年に[[エクス=アン=プロヴァンス]]でペストが大流行した時には、ペスト治療の医師または薬剤師として市当局から雇われた。1546年6月付の契約書は現存しており、市の会計簿にも同様の記録が残っている。  しかし、そこで行われた治療は芳香性の丸薬などを処方するもので、伝統的なペスト治療の手法と大きく異なるものではない。通俗的には、&color(red){ノストラダムスが未来の消毒法や治療法を先取りしていたかのように述べる文献も多いが、それらのほとんどは根拠がない}((Nostradamus [1555] pp.48-54, ラメジャラー [1998] pp.93-98, ランディ [1999] pp.116-122, 伊藤和行 [2000] pp.245-250, 山本 [2000] pp.83-84))。 *再婚  その後、ノストラダムスは[[プロヴァンス州サロン・ド・クロー>サロン=ド=プロヴァンス]]に落ち着き、1547年11月11日に未亡人[[アンヌ・ポンサルド]]と再婚した。  ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もなく行われたイタリア旅行であり、処方箋などからは[[ヴェネツィア]]、[[ジェノヴァ]]、[[サヴォーナ]]などを回ったらしいことが窺える(( Leroy [1993] p.70, Wilson [2003] pp.69-70))。  ただし、将来[[シクストゥス5世]]となる若者の前でひざまずいて教皇になると予言したエピソードは、ほぼまちがいなく創作だろう。  1553年には町の名士として[[公共の泉の碑文]]を起草している。    また、1550年代後半には[[クラポンヌ運河]]の建設に出資したりするようになる((Leroy [1993] pp.78-79))。 *アンリ2世との関係  こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した[[暦書]]の刊行を始めた。  最初に刊行されたのは1550年向けの暦ないし占筮で、1549年頃に出された。暦書は毎年のように刊行され、『[[予言集>ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』の執筆につながった。  1555年5月に初版が出された『予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なものではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされる((C. de Nostredame [1614] p.776, Parker [1923] p.101, Leoni [1982] p.26, Bracop [2000] p.152))。  ただし、そのわずか2ヶ月ほど後に、国王[[アンリ2世]]と王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]から招待を受けたのは、『予言集』の反響ゆえではなく、時期的に言っても『暦書』の予言が原因だった ((Brind'Amour[1993] p.24))。  翌月に王宮で行われた謁見では成功をおさめ、褒美を賜ったとされるが、会見内容は不明である。アンリ2世の不吉な未来を直言したとも言われるが、全く根拠はない。  当「大事典」としては、暦書に掲載された[[アンリ2世への献呈文>アンリ2世への手紙 (1557年)]]の内容から考えて、むしろ言われているほどうまく行かなかったのではないかとも考えている。  褒美を賜った以上、不興を買うまでには至らなかったにせよ、その褒美にしても金額は十分ではなかったとも言われており、アンリ2世の覚えがめでたくなったとは考えづらい((ASIOS・菊池・山津『[[検証 予言はどこまで当たるのか]]』も参照。))。  カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたようである。  ヴェネツィア大使[[ジョヴァンニ・ミキエル]]の報告書にもその予言は見られるが、原文に即する限りでは、的中したとみなすのは難しい。  なお、[[恐怖の大王]]は目に見えない存在だとカトリーヌに述べたという、いわゆる[[ブロワ城の問答]]も史実ならばこの時期に当たるが、&color(red){時期設定などの内容があまりにも支離滅裂なため、創作と見るのが自然だろう。}  1559年には、アンリ2世はモンゴムリ伯[[ガブリエル・ド・ロルジュ]]との馬上槍試合で致命傷を負い、10日後に没した。  通俗的な説では、当時これが[[詩百篇第1巻35番]]の情景通りだったとして大反響を巻き起こしたことになっているが、そのような記録は全くない。ノストラダムス自身が[[文人ヴォゼルにあてた献辞>ヴォゼルによる百詩篇第3巻55番の解釈]]の中で、[[別の詩>百詩篇第3巻55番]]によって的中させたことをそれとなくほのめかしている程度である。 *フランソワ2世、シャルル9世との関係  アンリ2世の次に王となった長男[[フランソワ2世]]は病弱で、1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。  ヴェネツィア大使[[ミケーレ・スリャーノ]]やトスカナ大使[[ニッコロ・トルナブオーニ]]らの外交書簡が伝えているのでそれは史実だったはずだが(( Leoni [1982] pp.30-31, Brind'Amour [1993] pp.39-40 etc.))、彼らが引用している予言はノストラダムスの作品にはない。  どうも噂される中で、ディティールに関する尾ひれがつきまくったのではないかと思われる。  ノストラダムスは数多くの相談を受ける立場にあり、現存する往復書簡は、大実業家[[ハンス・ローゼンベルガー]]、その仲介役をつとめた法学者[[ロレンツ・トゥッベ]]などとのやり取りを伝えている。  1564年には、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王[[シャルル9世]]一行の訪問を受けた。  フランス各地をまわる大巡幸の途上にあった国王一行は、わざわざノストラダムスに会うためだけにサロンに立ち寄り、アンペリ城で会見をした。  随行していた少年アンリ・ド・ナヴァル (のちの国王[[アンリ4世]]) の裸を見て、国王になることを予言したとされるエピソードもこのときのことである。その話も鮮やかではあるが、細部には色々と疑問がある((cf. 『[[検証 予言はどこまで当たるのか]]』))。  さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後[[アルル]]に逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医」および「顧問」の称号を下賜したようである。  この正確な時期は確定できていないが、息子[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]の証言通りアルルでのことだったのなら、公式日程の記録からいって1564年11月16日から12月17日の間だったことになる((cf. E. Graham & W. Mc Allister Johnson, &italic(){The royal tour of France by Charles IX and Catherine de Medici}, University of Toronto Press, 1979, p.97))。  なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではなく、彼が国王から何らかの称号を賜ったのはこれが唯一であった。  アンリ2世の宮廷で仕えていたなどといった通俗的な説は、史実としては全く支持できない。 *最期  その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようである。  そして1566年6月には公証人[[ジョゼフ・ロシュ]]を呼んで[[遺言書・遺言補足書>ノストラダムスの遺言書・遺言補足書]]を作成した。  7月1日夜には秘書シャヴィニーに「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされるが((Chavigny[1594] p.4))、シャヴィニー自身の証言以外には何ら裏付けがない。  また、[[1567年11月向けの予兆詩>予兆詩第152番]]で寝台と長椅子の間で死ぬことを予言しており、予言通りに死んでいたなどと言われることもあるが、こうした解釈は19世紀の[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]らが具体的根拠を挙げない形で主張しだしたものにすぎず、まず間違いなく創作だろう。  ノストラダムスは地元サロンのフランシスコ会修道院付属聖堂に葬られたが、後に移葬された。  五島勉はこの附属聖堂に関し、[[聖フランソワの闇の掟]]という伝説を紹介したが、ほぼ間違いなく創作である。  現在は同市内のサン=ローラン教会(サン=ローラン参事会聖堂)に[[ノストラダムスの墓]]がある。 *遺産  ノストラダムスは遺言書などの規定に従うならば、現金・債権・宝飾品などの形でかなりの財産を持っていたらしい。  しかし、それを受け継いだ者たちが (特に形見となる品々について) どのように扱ったのかはよく分からない。ノストラダムスの所持品だったとされるもので現在まで伝わっているのは、ごく一部の蔵書とわずかな手紙類のみである。  自宅の地下室や墓の壁を壊したら新予言が見付かっただのという、センセーショナルな「遺産」が取りざたされたことは&color(red){17世紀以降何度もあるが、いずれも偽作}と見るべきだろう。  特に日本で有名な[[クロケットの四行詩]]は&color(red){ひとつ残らず偽作と見て間違いない}。 *関連項目 -[[ノストラダムス研究史]] -[[ノストラダムス現象]] -[[ノストラダムス関連年表]] *外部リンク -[[ノストラダムス>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9]](Wikipedia日本語版の記事) --主執筆者は当「大事典」管理者でもあるsumaruで、この記事は「秀逸な記事」に選出されている。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
 &bold(){ノストラダムス}、本名&bold(){ミシェル・ド・ノートルダム}(Michel de Nostredame alias Nostradamus, 1503年12月14日 - 1566年7月2日) は、ルネサンス期フランスの人文主義者で、少なくとも薬剤師・料理研究家、詩人、翻訳者、占星術師としての著作を発表し、自らは愛星家 ([[Astrophile]])と名乗った。また、晩年には国王[[シャルル9世]]の常任侍医と顧問に任命された。  &big(){日本では1999年の人類滅亡を予言した人物として知られているが、そもそもその根拠となった[[恐怖の大王]]が[[登場する詩篇>詩百篇第10巻72番]]は、本物かどうかすら、実証的には十分に評価が定まっているとは言いがたい。ノストラダムスの予言がその詩篇に収斂していくかのような認識は、それ自体が通俗的なトンデモ解釈の山によって生み出された妄想である。}  1980年代以降、ルネサンス期の一人の人文主義者としてノストラダムスを多角的に捉えようとする学術的成果が、主として欧米においていくつも挙げられており、彼の作品への文学的再評価なども目下着実に行われつつある。  この記事では、ノストラダムス自身の生涯について、概略的な情報を提供する。  なお、日本語文献では 「ミシェル・&bold(){ド}・ノストラダムス」と表記されることもある。  たしかに同時代の文献でも、特認の文面、公証人による[[ノストラダムスの遺言書・遺言補足書]]、弟[[ジャン・ド・ノートルダム]]の著書などに散見されるので、誤りとまでは言い切れないかもしれない。  しかし、&color(red){本人の著書の題名などでは一度も使われていない}以上、適切なものとはいえないだろう。  また、Nostradamus は現代フランス語では「ノストラダミュス」/nɔstradamys/ と発音されるが((『ロワイヤル仏和中辞典』第2版))、当時の韻文の書かれ方などを元に、「ノストラダミュ」と読まれていた可能性も指摘されている((高田 [2000] p.288))。  以上から、当「大事典」では正確な読みを確定させがたいフランス語読みよりも、慣例的な読みとも合致するラテン語読みの「ノストラダムス」を使用する。 #ref(Nostradamus.jpg) 【画像】[[息子セザールによる肖像画>ノストラダムスの肖像画 (メジャヌ所蔵、1614年頃)]](1614年頃)(([[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nostradamus_by_Cesar.jpg]])) *出生  ノストラダムスは1503年12月14日木曜日に、[[プロヴァンス州サン=レミ>サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の公証人[[ジョーム・ド・ノートルダム]]とその妻[[レニエール・ド・サン=レミ]]の長男として生まれた。  第一子か第二子かについては議論がある。  出生記録や洗礼記録は確認されていないが、個人的な手紙で12月12日を誕生日の2日前と語っていることなどから、間接的に裏付けられている((Brind’Amour [1993] p.21))。  ただし、[[パトリス・ギナール]]は12月21日とする新説を唱えている。この点について詳しくは記事「[[ノストラダムスの誕生日]]」を参照のこと。  なお、ノストラダムスの秘書だったことがある[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]が主張しだした正午ごろに生まれたとする説は、裏づけとなる資料が確認されていない。  また、出生に関する直接的な記録がない以上、[[アーサー・クロケット]]などが主張する 「ノストラダムスの誕生時にサン=レミ上空に見知らぬ光が現れた」などということは、実証的には全く支持できないし、神秘性を強調しようとした創作と見るのが自然だろう。 *教育・学歴  [[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]]は、ノストラダムスが幼い頃には母方の曾祖父 ([[ジャン・ド・サン=レミ]]) が「天体の科学」についての手ほどきをしたと述べていた。  現代ではさらに医学、数学、各種外国語、はてはカバラなどまで教育したといわれることがあるが、[[ジャン・ド・サン=レミ]]は1504年頃、つまりノストラダムスが1歳になるかならないかという時点で没していた可能性が高いため((cf. Leroy [1960] p.101))、彼が教育を施したとは考えられない。  また、父方の祖父[[ピエール・ド・ノートルダム]]ないし母方の祖父[[ルネ・ド・サン=レミ]]が教育係になったといわれることもあるが、どちらもノストラダムスが生まれる前に亡くなっており、彼らが教育を施した可能性はジャン・ド・サン=レミ以上にありえない。  ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、自由七科を学んだようである。この点は実証的な伝記研究でも確実視されているものの((ラメジャラー[1998a] pp.36-37, Wilson [2003] p.21 etc.))、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしない。  在学中には学友たちの前で素晴らしい天体知識を披露して「小さな占星術師」(le petit astrologue) と呼ばれるようになったという話も有名だが、1789年の著者不明の創作的な伝記 『[[ノストラダムスの生涯と遺言>La vie et le testament de Michel Nostradamus]]』で登場する話であり([[『ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言』の伝記]]第2節b参照)、信頼性に欠ける。  このアヴィニョン大学在学が事実だとしても、1520年にペストの影響でアヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が停止されたことから((Leroy[1993] p.57 etc.))、ノストラダムスもこのころに大学を出ざるをえなかったと考えられている。  ノストラダムスは1521年から1529年まで各地を遍歴し、1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。これを再入学と位置付ける見解もシャヴィニー以来根強く存在するが、入学宣誓書などの記録から事実上否定されている。  博士号を取得できたかどうかは不明であり、当時の学生出納簿ではノストラダムスの名は抹消されているため((cf. Wilson[2003]p.22, Marcel Gouron, ''Matricule de l'université de médecine de Montpellier (1503 - 1599)'', Droz, 1957, p.58.))、おそらく除籍されたのだろう((cf. Bracops [2000] p. 151))。  除籍の場合、もちろん博士号は取れていなかったことになる。  博士号取得後に1年間、モンペリエ大学で授業を担当したという伝説もあるが、これは17世紀の匿名の解釈書『[[ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]』で初登場したものであり([[1656年の伝記]]第8章第2節参照)、真実であるとは考えられない。 *結婚から放浪へ  1530年代初頭に人文学者[[ジュール・セザール・スカリジェール]](ユリウス・カエサル・スカリゲル) の招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した((Nostradamus[1555]p.218-219))。  1531年にはその町の[[アンリエット・ダンコス]]と結婚したようである((竹下[1998]pp.70-71))。結婚は1532年の可能性もある。  最初の妻を[[アドリエット・ド・ルーブジャック]]とする文献もあるが、スカリジェの妻の名と混同された誤伝にすぎない。  アンリエットとの間には子供が生まれたらしいが、性別や人数ははっきりしない (シャヴィニーは男児と女児が1人ずつと述べているが、裏付ける資料はない)。  しかし、まもなく妻と子供は病気によって亡くなったらしい。  ペストの可能性が指摘されるが、シャヴィニーの伝記でさえもその死因は書かれていないので、断定できる状況にない。ノストラダムスが各地の治療に忙殺されている間に、自宅に残された妻子がペストにかかって治療を受けられなかったなどと語られることもあるが、すべて後世の脚色である。  また、スカリジェとの仲が悪くなった上に、1538年春には[[トゥールーズ]]の異端審問官から「聖人を冒涜した」という咎で召喚を受けたようである((Lhez[1961] p.135, Brind'Amour [1993] p.118))。  プロテスタント系の医師[[フィリベール・サラザン]]が召喚された際に、交流のあったノストラダムスも巻き添えにあったという説もあるが((Pierre Gayrard, ''Un dragon provençal'', Actes Sud, 2001, p.180 ; 類似の見解として Boulanger [1943]pp.54-55, LeVert [1979] p.5))、いずれにせよ、ノストラダムスはこの召喚には応じずに旅に出た。  このころの話としては、ロレーヌ地方の[[フロランヴィルの領主]]の居城に逗留し、白豚と黒豚に関する見事な予言を披露したとされるが、これもまた『[[ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]』 で登場したものであり、非常に疑わしい。  ほかに[[オリヴァリウスの予言]]や[[オルヴァルの予言]]とも結び付けられたりもするが、それもまた根拠のない話であり、それらの予言はほぼ間違いなく19世紀の偽作である。 *ペスト治療医  長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年に[[マルセイユ]]の医師ルイ・セールに師事したとされる((Leroy [1993] p.66, Wilson [2003] p.62))。  現在では翌年にマルセイユの3人の囚人の診察をした記録も発見されている((ブーシュ=デュ=ローヌ県立古文書館の展覧会のカタログ (Archives. Trésors et richesses des Archives des Bouches-du-Rhône, Marseilles, 1996) に、この記録の写真が載っているという (Laroche [1999], p.95)。))。  1546年に[[エクス=アン=プロヴァンス]]でペストが大流行した時には、ペスト治療の医師または薬剤師として市当局から雇われた。1546年6月付の契約書は現存しており、市の会計簿にも同様の記録が残っている。  しかし、そこで行われた治療は芳香性の丸薬などを処方するもので、伝統的なペスト治療の手法と大きく異なるものではない。通俗的には、&color(red){ノストラダムスが未来の消毒法や治療法を先取りしていたかのように述べる文献も多いが、それらのほとんどは根拠がない}((Nostradamus [1555] pp.48-54, ラメジャラー [1998] pp.93-98, ランディ [1999] pp.116-122, 伊藤和行 [2000] pp.245-250, 山本 [2000] pp.83-84))。 *再婚  その後、ノストラダムスは[[プロヴァンス州サロン・ド・クロー>サロン=ド=プロヴァンス]]に落ち着き、1547年11月11日に未亡人[[アンヌ・ポンサルド]]と再婚した。  ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もなく行われたイタリア旅行であり、処方箋などからは[[ヴェネツィア]]、[[ジェノヴァ]]、[[サヴォーナ]]などを回ったらしいことが窺える(( Leroy [1993] p.70, Wilson [2003] pp.69-70))。  ただし、将来[[シクストゥス5世]]となる若者の前でひざまずいて教皇になると予言したエピソードは、ほぼまちがいなく創作だろう。  1553年には町の名士として[[公共の泉の碑文]]を起草している。    また、1550年代後半には[[クラポンヌ運河]]の建設に出資したりするようになる((Leroy [1993] pp.78-79))。 *アンリ2世との関係  こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した[[暦書]]の刊行を始めた。  最初に刊行されたのは1550年向けの暦ないし占筮で、1549年頃に出された。暦書は毎年のように刊行され、『[[予言集>ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』の執筆につながった。  1555年5月に初版が出された『予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なものではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされる((C. de Nostredame [1614] p.776, Parker [1923] p.101, Leoni [1982] p.26, Bracop [2000] p.152))。  ただし、そのわずか2ヶ月ほど後に、国王[[アンリ2世]]と王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]から招待を受けたのは、『予言集』の反響ゆえではなく、時期的に言っても『暦書』の予言が原因だった ((Brind'Amour[1993] p.24))。  翌月に王宮で行われた謁見では成功をおさめ、褒美を賜ったとされるが、会見内容は不明である。アンリ2世の不吉な未来を直言したとも言われるが、全く根拠はない。  当「大事典」としては、暦書に掲載された[[アンリ2世への献呈文>アンリ2世への手紙 (1557年)]]の内容から考えて、むしろ言われているほどうまく行かなかったのではないかとも考えている。  褒美を賜った以上、不興を買うまでには至らなかったにせよ、その褒美にしても金額は十分ではなかったとも言われており、アンリ2世の覚えがめでたくなったとは考えづらい((ASIOS・菊池・山津『[[検証 予言はどこまで当たるのか]]』も参照。))。  カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたようである。  ヴェネツィア大使[[ジョヴァンニ・ミキエル]]の報告書にもその予言は見られるが、原文に即する限りでは、的中したとみなすのは難しい。  なお、[[恐怖の大王]]は目に見えない存在だとカトリーヌに述べたという、いわゆる[[ブロワ城の問答]]も史実ならばこの時期に当たるが、&color(red){時期設定などの内容があまりにも支離滅裂なため、創作と見るのが自然だろう。}  1559年には、アンリ2世はモンゴムリ伯[[ガブリエル・ド・ロルジュ]]との馬上槍試合で致命傷を負い、10日後に没した。  通俗的な説では、当時これが[[詩百篇第1巻35番]]の情景通りだったとして大反響を巻き起こしたことになっているが、そのような記録は全くない。ノストラダムス自身が[[文人ヴォゼルにあてた献辞>ヴォゼルによる百詩篇第3巻55番の解釈]]の中で、[[別の詩>百詩篇第3巻55番]]によって的中させたことをそれとなくほのめかしている程度である。 *フランソワ2世、シャルル9世との関係  アンリ2世の次に王となった長男[[フランソワ2世]]は病弱で、1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。  ヴェネツィア大使[[ミケーレ・スリャーノ]]やトスカナ大使[[ニッコロ・トルナブオーニ]]らの外交書簡が伝えているのでそれは史実だったはずだが(( Leoni [1982] pp.30-31, Brind'Amour [1993] pp.39-40 etc.))、彼らが引用している予言はノストラダムスの作品にはない。  どうも噂される中で、ディティールに関する尾ひれがつきまくったのではないかと思われる。  ノストラダムスは数多くの相談を受ける立場にあり、現存する往復書簡は、大実業家[[ハンス・ローゼンベルガー]]、その仲介役をつとめた法学者[[ロレンツ・トゥッベ]]などとのやり取りを伝えている。  1564年には、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王[[シャルル9世]]一行の訪問を受けた。  フランス各地をまわる大巡幸の途上にあった国王一行は、わざわざノストラダムスに会うためだけにサロンに立ち寄り、アンペリ城で会見をした。  随行していた少年アンリ・ド・ナヴァル (のちの国王[[アンリ4世]]) の裸を見て、国王になることを予言したとされるエピソードもこのときのことである。その話も鮮やかではあるが、細部には色々と疑問がある((cf. 『[[検証 予言はどこまで当たるのか]]』))。  さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後[[アルル]]に逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医」および「顧問」の称号を下賜したようである。  この正確な時期は確定できていないが、息子[[セザール>セザール・ド・ノートルダム]]の証言通りアルルでのことだったのなら、公式日程の記録からいって1564年11月16日から12月17日の間だったことになる((cf. E. Graham & W. Mc Allister Johnson, &italic(){The royal tour of France by Charles IX and Catherine de Medici}, University of Toronto Press, 1979, p.97))。  なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではなく、彼が国王から何らかの称号を賜ったのはこれが唯一であった。  アンリ2世の宮廷で仕えていたなどといった通俗的な説は、史実としては全く支持できない。 *最期  その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようである。  そして1566年6月には公証人[[ジョゼフ・ロシュ]]を呼んで[[遺言書・遺言補足書>ノストラダムスの遺言書・遺言補足書]]を作成した。  7月1日夜には秘書シャヴィニーに「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされるが((Chavigny[1594] p.4))、シャヴィニー自身の証言以外には何ら裏付けがない。  また、[[1567年11月向けの予兆詩>予兆詩第152番]]で寝台と長椅子の間で死ぬことを予言しており、予言通りに死んでいたなどと言われることもあるが、こうした解釈は19世紀の[[フランシス・ジロー]]、[[ウジェーヌ・バレスト]]、[[アナトール・ル・ペルチエ]]らが具体的根拠を挙げない形で主張しだしたものにすぎず、まず間違いなく創作だろう。  ノストラダムスは地元サロンのフランシスコ会修道院付属聖堂に葬られたが、後に移葬された。  五島勉はこの附属聖堂に関し、[[聖フランソワの闇の掟]]という伝説を紹介したが、ほぼ間違いなく創作である。  現在は同市内のサン=ローラン教会(サン=ローラン参事会聖堂)に[[ノストラダムスの墓]]がある。 *遺産  ノストラダムスは遺言書などの規定に従うならば、現金・債権・宝飾品などの形でかなりの財産を持っていたらしい。  しかし、それを受け継いだ者たちが (特に形見となる品々について) どのように扱ったのかはよく分からない。ノストラダムスの所持品だったとされるもので現在まで伝わっているのは、ごく一部の蔵書とわずかな手紙類のみである。  自宅の地下室や墓の壁を壊したら新予言が見付かっただのという、センセーショナルな「遺産」が取りざたされたことは&color(red){17世紀以降何度もあるが、いずれも偽作}と見るべきだろう。  特に日本で有名な[[クロケットの四行詩]]は&color(red){ひとつ残らず偽作と見て間違いない}。 *関連項目 -[[ノストラダムス研究史]] -[[ノストラダムス現象]] -[[ノストラダムス関連年表]] *外部リンク -[[ノストラダムス>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9]](Wikipedia日本語版の記事) --主執筆者は当「大事典」管理者でもあるsumaruで、この記事は「秀逸な記事」に選出されている。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。

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