ノストラダムス関連年表

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 このノストラダムス関連年表では、彼の生涯やノストラダムス現象に関わりのある主な出来事についてまとめた。 *ノストラダムスの存命中の関連年表 - 1503年12月14日(木曜日) - 誕生。 - 1518年頃? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる - 1520年 - 学業を中断したと推測されている。 - 1521年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(- 1529年) - 1529年10月23日 - モンペリエ大学医学部に入学。数年以内におそらく除籍。 - 1531年 - アジャンで[[アンリエット・ダンコス]]と最初の結婚。 - 1530年代後半? - 最初の妻と子どもをペスト(?)で失う。以降放浪したとされる。 - 1545年前後? - 手稿『[[オルス・アポロ]]』を執筆。 - 1546年 - エクス=アン=プロヴァンスでペストの治療に当たる。 - 1547年 – [[サロン・ド・クロー>サロン=ド=プロヴァンス]]に転居し、11月11日に[[アンヌ・ポンサルド]]と再婚。以降、終生この町で暮らす。 - 1549年頃 - 1550年向けの[[暦書]]類を刊行する。以降、1551年向けを除き、1567年向けまで毎年刊行される。この一連の刊行物の中で初めて「ノストラダムス」の名を用いたとされる。 - 1551年頃 - 長女[[マドレーヌ・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1553年11月 - 翌年向けの暦書類について粗雑な版を組んだ業者[[ベルトー師]]とトラブルになる。 - 1553年12月18日 - 長男[[セザール・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1554年 - 『[[受難の主日にあたる3月10日土曜日の7時から8時の間に、フランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景>Ein Erschrecklich und Wunderbarlich zeychen]]』が[[ニュルンベルク]]で出版される。 - 1555年 - 『[[化粧品とジャム論]]』の初版を刊行する。 - 1555年5月4日 – [[『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1555年リヨン)]]を刊行する。 - 1555年8月 - 国王[[アンリ2世]]と王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]に謁見。 - 1556年頃 - 次男[[シャルル・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1556年 - [[アントワーヌ・クイヤール]]が『ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』を刊行する。これは『予言集』のパロディであり、最初の風刺文書である。 - 1557年 - 『[[ガレノスの釈義]]』初版を刊行する(翌年には再版される) - 1557年 - 『化粧品とジャム論』がアントウェルペンでも再版される。 - 1557年9月6日 - [[『予言集』の増補版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1557年)]]を刊行する。 - 1557年11月3日 - 三男[[アンドレ・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1557年11月3日 - 『予言集』増補版の粗雑なコピーが刊行される。 - 1557年頃 - 『[[ミシェル・ノストラダムス師により作成されたフランスの占筮と雑記>Pronostico e Tacoyno Francese, Fatto per Maestro Michel Nostradamus]]』が刊行される。イタリア語訳された暦であり、ノストラダムスの著書の中で現存最古のイタリア語版である。 - 1557年 - 『ノストラダムスに対するエルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が刊行される。この頃からノストラダムスを非難する文書が複数刊行される。 - 1558年 - 『予言集』の完全版が出されたという説もある。少なくとも、「[[アンリ2世への手紙]]」の奥付は1558年6月27日になっている。 - 1558年 - 『エルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が再版される(タイトルが「モンストラダムスに対する」になる)。同じ年に[[ジャン・ド・ラ・ダグニエール]]、[[ローラン・ヴィデル]]らも中傷文書を刊行した。 - 1559年 - [[英訳版の暦書>An Almanacke for the yeare of oure Lorde God, 1559.]]などが刊行される。初の英訳版。 - 1559年 - 『[[健康のために有益な一論文>An excellent tretise...]]』がロンドンで刊行される。ノストラダムスの著作におけるこの文献の位置づけについては、真贋も含めて確定しているとはいいがたい。 - 1559年7月10日 - アンリ2世が没する。ノストラダムスはこれを予言していたとされるが、彼の生前に喧伝されていた詩([[百詩篇第3巻55番]])は、現在結び付けられている詩([[百詩篇第1巻35番]])とは別の詩である。 - 1559年12月15日 - 次女[[アンヌ・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1560年 - [[ピエール・ド・ロンサール]]が『ギヨーム・デ・ゾーテルへのエレジー』においてノストラダムスの名を詩に織り込む。 - 1560年 - [[ウィリアム・フルク]]が 『反占筮』 を刊行した。ノストラダムス批判を含む英語圏で刊行された文書。 - 1561年 - 夏ごろ、ジャン・ド・シュヴィニー(のちの[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]])を秘書として雇う。 - 1561年 – 三女[[ディアーヌ・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1561年 - 『[[ペストと悪疫からおこる全ての熱病に対する治療法を含む極めて有益な治癒策>Le Remede tres utile contre la peste et toutes fievres pestilentielles]]』がパリで刊行されたという。現存しないため、内容の推定には諸説ある。 - 1561年頃 - パリで[[『予言集』の海賊版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1561年)]]が刊行される。この版を刊行した業者[[バルブ・ルニョー]]は、前後する時期に、暦書の偽版2種類と海賊版と思しき版1種類も刊行している。 - 1563年頃 - この頃から「[[ミシェル・ド・ノストラダムス>ノストラダムス2世]]」と名乗る偽者が著作を発表し始める - 1564年10月17日 - フランス全土を巡幸していた国王[[シャルル9世]]と母后カトリーヌ・ド・メディシスがサロンを訪れ、ノストラダムスと会見。ノストラダムスは[[アルル]]で、「常任侍医兼顧問」の称号を受けたとされる。 - 1566年 - 『[[王太后への書簡]]』を刊行する。 - 1566年 - [[オランダ語訳版の暦書>ALMANACH : Ende Pronosticatie vanden Iare M.D.LXVI.]]が刊行される。初の、そして唯一のオランダ語訳された暦書だが、偽版である。 - 1566年6月17日 - 公証人を呼んで[[遺言書>ノストラダムスの遺言書 全訳と訳注]]を口述(6月30日に[[遺言補足書>ノストラダムスの遺言補足書 原文と全訳]]口述作成)。 - 1566年7月1日 - 秘書シュヴィニー(シャヴィニー)がノストラダムスの就寝前に最期の言葉を交わしたとされる。 - 1566年7月2日未明 - 長男セザールによってノストラダムスの死が確認される。 *没後の関連年表 - 1568年 - [[現存最古の『予言集』完全版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1568年)]]が刊行される。 - 1570年頃 - この頃から偽者[[アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス>アントワーヌ・クレスパン]]が著作を発表し始める。 - 1572年 - ドイツ語訳版の『化粧品とジャム論』が刊行される。この版は1573年と1589年にも再版された。 - 1589年 - シャヴィニーが手稿『[[ミシェル・ド・ノートルダム師の散文体の予兆集成>Recueil des Presages Prosaiques de M. Michel de Nostredame]]』を作成。公刊されることはなかったが、これにより、暦書類の内容がかなりの程度保存された。 - 1590年 - [[アントウェルペンで『予言集』が出版される>ミシェル・ノストラダムス師の驚異の大予言 (1590年)]]。フランス以外で刊行された初めての版(対訳等はなし)だが、手がけた業者の実在が確認されていないため、本当にアントウェルペンで刊行されたという裏付けはない。 - 1594年 - シャヴィニーが『フランスのヤヌスの第一の顔』を出版する。これは、ノストラダムス予言の最初の解釈本に当たる。また、冒頭の伝記は最初の伝記といえるが、誤りが少なくない。 - 1605年 - [[1605年版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1605年)]]が刊行される。「予兆集」「六行詩集」が初めて組み込まれた版。 - 1614年 - 長男セザールが『[[プロヴァンスの歴史と年代記]]』を出版する。父ノストラダムスにも言及しており伝記的証言として重要だが、明らかな粉飾も含む。 - 1649年頃 - フロンドの乱の影響で、ジュール・マザランを貶めるための偽の詩篇を加えた[[偽「1568年リヨン版」『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1649年頃の偽版)]]が刊行される。この時期は、ノストラダムスを主題とする[[マザリナード]]も多く刊行された。 - 1656年 - 匿名の解釈書『[[ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]』が刊行された。[[フロランヴィルの領主]]とのエピソードなど、のちに多くの論者によって引き写されることになる伝説などが収録されている。 - 1672年 - [[テオフィル・ド・ガランシエール]]による[[英訳と解釈が収録された『予言集』>The True Prophecies or Prognostications of Michael Nostradamus]]が出版される。『予言集』のなかで現存最古の翻訳された版。 -1724年 - 匿名の論文 「[[ミシェル・ノストラダムスの人物と著作に関する批判的書簡>Lettre Critique sur la personne & sur les Ecrits de Michel Nostradamus]]」が公表される。予言詩を歴史的文脈において検討した先駆的な例。 - 1789年 - フランス革命が始まる。それから15年ほどの間に10種以上の『予言集』の版と夥しい数の関連パンフレットが刊行された。なお、『予言集』の中には10篇ほどの詩を[[ナポレオンなどと関連付けた偽の詩>フランス革命期の偽の百詩篇]]に[[差し替えた版>ミシェル・ノストラダムスの予言集 (ノストラダムス出版社)]]もあった。 - 1791年 - ノストラダムスの墓が荒らされる。その後、遺体はサロン市の[[サン=ローラン教会]]の聖処女礼拝堂に安置し直された。 - 1813年7月 - 新たな墓所に墓銘碑が飾られる。現存する墓銘碑はこの時のものである。 - 1859年 - サン=レミに現存する「[[ノストラダムスの泉]]」が作られる。 - 1923年 - [[カミーユ・フラマリオン]]の『[[此世は如何にして終わるか]]』が刊行された。日本での最初のノストラダムスの紹介とされている。 - 1939年 - 第二次世界大戦。ナチスは自陣営に都合のよい解釈を載せたパンフレットを各国語に訳して配布した。また、フランス占領時に、いくつかの解釈書を発禁処分にしたという((Laroche [2003] p.99 & p.105, ドレヴィヨン・ラグランジュ [2004] p.88))。このほか、特にアメリカでは、ノストラダムス関連書の刊行点数が増えた。 - 1966年12月 - パリのオークションに[[『1562年向けの暦書』の異本の手稿>Les Praedictions de l'almanach de l'an 1562, 1563 et 1564]]が現れる(暦書類で存在が知られている唯一の手稿)。現在の所有者は未詳である。 - 1967年 - [[フランス国立図書館]]で手稿『[[オルス・アポロ]]』が発見される。 - 1973年11月 - [[五島勉]]の『[[ノストラダムスの大予言]]』が刊行される。刊行から3か月余りで公称100万部を突破するベストセラーとなり、日本における[[最初のノストラダムスブーム>1970年代までの日本のノストラダムス現象]]が起きる。 - 1980年 - フランスで[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]が『[[歴史家にして予言者ノストラダムス>Nostradamus, Historien et Prophète]]』を刊行する。フランスでベストセラーになり、他国語版も相次いで出版された(ほとんど話題にならなかったものの、日本語版も存在した)。 - 1982年 - [[ウィーン]]のオーストリア国立図書館で『予言集』初版が発見される。初版本は1931年6月17日のオークションで現れたのを最後に所在不明となっていた。 - 1983年 - [[アルビ]]市立図書館でも『予言集』初版が発見される。 - 1983年 - フランスで[[ノストラダムス協会]]が創設される。 - 1991年 - 日本では湾岸戦争にあわせ、ノストラダムス関連書が急増し、その年のベストセラーランキングに登場するものも出た。 - 1992年 - サロン市に[[ノストラダムス記念館]]が開設される(設立当初は私設だったが、1997年からは公立博物館となっている)。 - 1996年 - オランダのユトレヒト大学図書館で1557年9月6日版の『予言集』が確認される(2014年現在で現存はこの一例のみである)。 - 1999年 - 日本ではノストラダムス関連書が急増し、関連商品なども(単なるジョークも含め)多く発売された。ただし、1999年を境に日本のノストラダムス関連書はほぼゼロと言ってよい水準に落ち込む(2001年を除く)。これは、アメリカ、フランス、ドイツなどと比べて落差が最も顕著である。 - 2001年 - アメリカ同時多発テロ事件。アメリカ、フランス、日本などでこれに便乗した解釈本が何冊も出された。また、インターネット上で[[ノストラダムスの詩と称する偽物>アメリカ同時多発テロに関する偽の詩]]が出回った。 - 2003年 - ノストラダムスの生誕500周年。サロン=ド=プロヴァンスでは記念の展覧会が開催された。これに合わせて、サロン市の市長が序文を寄せる形でカタログが出版された。 -2010年 - パリのオークションに、1931年以来行方不明となっていた初版本とともに、[[ニコラ・ビュフェ未亡人版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (ニコラ・ビュフェ未亡人)]]が出品される。ビュフェ未亡人の版は、従来まったく存在を知られていなかっただけでなく、想定もされていなかった。 -[[2012年]] - マヤ暦にかこつけた終末論の期限とされていた年であり、この年までは、それに便乗した[[日本のコンビニ本のたぐい>ノストラダムス関連のコンビニ本の一覧]]でも、ノストラダムスに言及するものが多くあった。また、余談だが、当「大事典」の管理者にとっての初の著書 『[[検証 予言はどこまで当たるのか]]』(共著) が刊行された。 ---- #comment
 このノストラダムス関連年表では、彼の生涯や[[ノストラダムス現象]]に関わりのある主な出来事についてまとめた。  信奉者側がどのような事件を的中させたと主張しているかについては[[的中例として有名な予言]]を参照のこと。 *ノストラダムスの存命中の関連年表 - 1503年12月14日(木曜日) - 誕生。 - 1518年頃? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる - 1520年 - 学業を中断したと推測されている。 - 1521年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(- 1529年) - 1529年10月23日 - モンペリエ大学医学部に入学。数年以内におそらく除籍。 - 1531年 - アジャンで[[アンリエット・ダンコス]]と最初の結婚。 - 1530年代後半? - 最初の妻と子どもをペスト(?)で失う。以降放浪したとされる。 - 1545年前後? - 手稿『[[オルス・アポロ]]』を執筆。 - 1546年 - エクス=アン=プロヴァンスでペストの治療に当たる。 - 1547年 – [[サロン・ド・クロー>サロン=ド=プロヴァンス]]に転居し、11月11日に[[アンヌ・ポンサルド]]と再婚。以降、終生この町で暮らす。 - 1549年頃 - 1550年向けの[[暦書]]類を刊行する。以降、1551年向けを除き、1567年向けまで毎年刊行される。この一連の刊行物の中で初めて「ノストラダムス」の名を用いたとされる。 - 1551年頃 - 長女[[マドレーヌ・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1553年11月 - 翌年向けの暦書類について粗雑な版を組んだ業者[[ベルトー師]]とトラブルになる。 - 1553年12月18日 - 長男[[セザール・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1554年 - 『[[受難の主日にあたる3月10日土曜日の7時から8時の間に、フランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景>Ein Erschrecklich und Wunderbarlich zeychen]]』が[[ニュルンベルク]]で出版される。 - 1555年 - 『[[化粧品とジャム論]]』の初版を刊行する。 - 1555年5月4日 – [[『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1555年リヨン)]]を刊行する。 - 1555年8月 - 国王[[アンリ2世]]と王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]に謁見。 - 1556年頃 - 次男[[シャルル・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1556年 - [[アントワーヌ・クイヤール]]が『ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』を刊行する。これは『予言集』のパロディであり、最初の風刺文書である。 - 1557年 - 『[[ガレノスの釈義]]』初版を刊行する(翌年には再版される) - 1557年 - 『化粧品とジャム論』がアントウェルペンでも再版される。 - 1557年9月6日 - [[『予言集』の増補版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1557年)]]を刊行する。 - 1557年11月3日 - 三男[[アンドレ・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1557年11月3日 - 『予言集』増補版の粗雑なコピーが刊行される。 - 1557年頃 - 『[[ミシェル・ノストラダムス師により作成されたフランスの占筮と雑記>Pronostico e Tacoyno Francese, Fatto per Maestro Michel Nostradamus]]』が刊行される。イタリア語訳された暦であり、ノストラダムスの著書の中で現存最古のイタリア語版である。 - 1557年 - 『ノストラダムスに対するエルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が刊行される。この頃からノストラダムスを非難する文書が複数刊行される。 - 1558年 - 『予言集』の完全版が出されたという説もある。少なくとも、「[[アンリ2世への手紙]]」の奥付は1558年6月27日になっている。 - 1558年 - 『エルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が再版される(タイトルが「モンストラダムスに対する」になる)。同じ年に[[ジャン・ド・ラ・ダグニエール]]、[[ローラン・ヴィデル]]らも中傷文書を刊行した。 - 1559年 - [[英訳版の暦書>An Almanacke for the yeare of oure Lorde God, 1559.]]などが刊行される。初の英訳版。 - 1559年 - 『[[健康のために有益な一論文>An excellent tretise...]]』がロンドンで刊行される。ノストラダムスの著作におけるこの文献の位置づけについては、真贋も含めて確定しているとはいいがたい。 - 1559年7月10日 - アンリ2世が没する。ノストラダムスはこれを予言していたとされるが、彼の生前に喧伝されていた詩([[百詩篇第3巻55番]])は、現在結び付けられている詩([[百詩篇第1巻35番]])とは別の詩である。 - 1559年12月15日 - 次女[[アンヌ・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1560年 - [[ピエール・ド・ロンサール]]が『ギヨーム・デ・ゾーテルへのエレジー』においてノストラダムスの名を詩に織り込む。 - 1560年 - [[ウィリアム・フルク]]が 『反占筮』 を刊行した。ノストラダムス批判を含む英語圏で刊行された文書。 - 1561年 - 夏ごろ、ジャン・ド・シュヴィニー(のちの[[ジャン=エメ・ド・シャヴィニー]])を秘書として雇う。 - 1561年 – 三女[[ディアーヌ・ド・ノートルダム]]誕生。 - 1561年 - 『[[ペストと悪疫からおこる全ての熱病に対する治療法を含む極めて有益な治癒策>Le Remede tres utile contre la peste et toutes fievres pestilentielles]]』がパリで刊行されたという。現存しないため、内容の推定には諸説ある。 - 1561年頃 - パリで[[『予言集』の海賊版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1561年)]]が刊行される。この版を刊行した業者[[バルブ・ルニョー]]は、前後する時期に、暦書の偽版2種類と海賊版と思しき版1種類も刊行している。 - 1563年頃 - この頃から「[[ミシェル・ド・ノストラダムス>ノストラダムス2世]]」と名乗る偽者が著作を発表し始める - 1564年10月17日 - フランス全土を巡幸していた国王[[シャルル9世]]と母后カトリーヌ・ド・メディシスがサロンを訪れ、ノストラダムスと会見。ノストラダムスは[[アルル]]で、「常任侍医兼顧問」の称号を受けたとされる。 - 1566年 - 『[[王太后への書簡]]』を刊行する。 - 1566年 - [[オランダ語訳版の暦書>ALMANACH : Ende Pronosticatie vanden Iare M.D.LXVI.]]が刊行される。初の、そして唯一のオランダ語訳された暦書だが、偽版である。 - 1566年6月17日 - 公証人を呼んで[[遺言書>ノストラダムスの遺言書 全訳と訳注]]を口述(6月30日に[[遺言補足書>ノストラダムスの遺言補足書 原文と全訳]]口述作成)。 - 1566年7月1日 - 秘書シュヴィニー(シャヴィニー)がノストラダムスの就寝前に最期の言葉を交わしたとされる。 - 1566年7月2日未明 - 長男セザールによってノストラダムスの死が確認される。 *没後の関連年表 - 1568年 - [[現存最古の『予言集』完全版>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1568年)]]が刊行される。 - 1570年頃 - この頃から偽者[[アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス>アントワーヌ・クレスパン]]が著作を発表し始める。 - 1572年 - ドイツ語訳版の『化粧品とジャム論』が刊行される。この版は1573年と1589年にも再版された。 - 1589年 - シャヴィニーが手稿『[[ミシェル・ド・ノートルダム師の散文体の予兆集成>Recueil des Presages Prosaiques de M. Michel de Nostredame]]』を作成。公刊されることはなかったが、これにより、暦書類の内容がかなりの程度保存された。 - 1590年 - [[アントウェルペンで『予言集』が出版される>ミシェル・ノストラダムス師の驚異の大予言 (1590年)]]。フランス以外で刊行された初めての版(対訳等はなし)だが、手がけた業者の実在が確認されていないため、本当にアントウェルペンで刊行されたという裏付けはない。 - 1594年 - シャヴィニーが『フランスのヤヌスの第一の顔』を出版する。これは、ノストラダムス予言の最初の解釈本に当たる。また、冒頭の伝記は最初の伝記といえるが、誤りが少なくない。 - 1605年 - [[1605年版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1605年)]]が刊行される。「予兆集」「六行詩集」が初めて組み込まれた版。 - 1614年 - 長男セザールが『[[プロヴァンスの歴史と年代記]]』を出版する。父ノストラダムスにも言及しており伝記的証言として重要だが、明らかな粉飾も含む。 - 1649年頃 - フロンドの乱の影響で、ジュール・マザランを貶めるための偽の詩篇を加えた[[偽「1568年リヨン版」『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1649年頃の偽版)]]が刊行される。この時期は、ノストラダムスを主題とする[[マザリナード]]も多く刊行された。 - 1656年 - 匿名の解釈書『[[ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明>Eclaircissement des veritables Quatrains de Maistre Michel Nostradamus]]』が刊行された。[[フロランヴィルの領主]]とのエピソードなど、のちに多くの論者によって引き写されることになる伝説などが収録されている。 - 1672年 - [[テオフィル・ド・ガランシエール]]による[[英訳と解釈が収録された『予言集』>The True Prophecies or Prognostications of Michael Nostradamus]]が出版される。『予言集』のなかで現存最古の翻訳された版。 -1724年 - 匿名の論文 「[[ミシェル・ノストラダムスの人物と著作に関する批判的書簡>Lettre Critique sur la personne & sur les Ecrits de Michel Nostradamus]]」が公表される。予言詩を歴史的文脈において検討した先駆的な例。 - 1789年 - フランス革命が始まる。それから15年ほどの間に10種以上の『予言集』の版と夥しい数の関連パンフレットが刊行された。なお、『予言集』の中には10篇ほどの詩を[[ナポレオンなどと関連付けた偽の詩>フランス革命期の偽の百詩篇]]に[[差し替えた版>ミシェル・ノストラダムスの予言集 (ノストラダムス出版社)]]もあった。 - 1791年 - ノストラダムスの墓が荒らされる。その後、遺体はサロン市の[[サン=ローラン教会]]の聖処女礼拝堂に安置し直された。 - 1813年7月 - 新たな墓所に墓銘碑が飾られる。現存する墓銘碑はこの時のものである。 - 1859年 - サン=レミに現存する「[[ノストラダムスの泉]]」が作られる。 - 1923年 - [[カミーユ・フラマリオン]]の『[[此世は如何にして終わるか]]』が刊行された。日本での最初のノストラダムスの紹介とされている。 - 1939年 - 第二次世界大戦。ナチスは自陣営に都合のよい解釈を載せたパンフレットを各国語に訳して配布した。また、フランス占領時に、いくつかの解釈書を発禁処分にしたという((Laroche [2003] p.99 & p.105, ドレヴィヨン・ラグランジュ [2004] p.88))。このほか、特にアメリカでは、ノストラダムス関連書の刊行点数が増えた。 - 1966年12月 - パリのオークションに[[『1562年向けの暦書』の異本の手稿>Les Praedictions de l'almanach de l'an 1562, 1563 et 1564]]が現れる(暦書類で存在が知られている唯一の手稿)。現在の所有者は未詳である。 - 1967年 - [[フランス国立図書館]]で手稿『[[オルス・アポロ]]』が発見される。 - 1973年11月 - [[五島勉]]の『[[ノストラダムスの大予言]]』が刊行される。刊行から3か月余りで公称100万部を突破するベストセラーとなり、日本における[[最初のノストラダムスブーム>1970年代までの日本のノストラダムス現象]]が起きる。 - 1980年 - フランスで[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]が『[[歴史家にして予言者ノストラダムス>Nostradamus, Historien et Prophète]]』を刊行する。フランスでベストセラーになり、他国語版も相次いで出版された(ほとんど話題にならなかったものの、日本語版も存在した)。 - 1982年 - [[ウィーン]]のオーストリア国立図書館で『予言集』初版が発見される。初版本は1931年6月17日のオークションで現れたのを最後に所在不明となっていた。 - 1983年 - [[アルビ]]市立図書館でも『予言集』初版が発見される。 - 1983年 - フランスで[[ノストラダムス協会]]が創設される。 - 1991年 - 日本では湾岸戦争にあわせ、ノストラダムス関連書が急増し、その年のベストセラーランキングに登場するものも出た。 - 1992年 - サロン市に[[ノストラダムス記念館]]が開設される(設立当初は私設だったが、1997年からは公立博物館となっている)。 - 1996年 - オランダのユトレヒト大学図書館で1557年9月6日版の『予言集』が確認される(2014年現在で現存はこの一例のみである)。 - 1999年 - 日本ではノストラダムス関連書が急増し、関連商品なども(単なるジョークも含め)多く発売された。ただし、1999年を境に日本のノストラダムス関連書はほぼゼロと言ってよい水準に落ち込む(2001年を除く)。これは、アメリカ、フランス、ドイツなどと比べて落差が最も顕著である。 - 2001年 - アメリカ同時多発テロ事件。アメリカ、フランス、日本などでこれに便乗した解釈本が何冊も出された。また、インターネット上で[[ノストラダムスの詩と称する偽物>アメリカ同時多発テロに関する偽の詩]]が出回った。 - 2003年 - ノストラダムスの生誕500周年。サロン=ド=プロヴァンスでは記念の展覧会が開催された。これに合わせて、サロン市の市長が序文を寄せる形でカタログが出版された。 -2010年 - パリのオークションに、1931年以来行方不明となっていた初版本とともに、[[ニコラ・ビュフェ未亡人版『予言集』>ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (ニコラ・ビュフェ未亡人)]]が出品される。ビュフェ未亡人の版は、従来まったく存在を知られていなかっただけでなく、想定もされていなかった。 -[[2012年]] - マヤ暦にかこつけた終末論の期限とされていた年であり、この年までは、それに便乗した[[日本のコンビニ本のたぐい>ノストラダムス関連のコンビニ本の一覧]]でも、ノストラダムスに言及するものが多くあった。また、余談だが、当「大事典」の管理者にとっての初の著書 『[[検証 予言はどこまで当たるのか]]』(共著) が刊行された。 ---- #comment

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